2016年09月25日,第三回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年09月25日,予定どおり第三回 LGBT 特別ミサが行われました.その恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった関谷義樹神父様 SDB に感謝します.

関谷神父様の説教は,直接に LGBT に関するものではありませんでした.しかし,そこには,LGBTIQ+ の人々の存在を無視しようとする聖職者と一般信徒,ならびに,さまざまな理由で他者へこころを開くことが困難な LGBTIQ+ の人々,双方への明確なメッセージが込められています: 神の愛へこころを開きましょう.そうすれば,おのづと隣人へこころを開くこともできるようになります.

以下は,関谷神父様の説教の要約です:

御ミサは,記念です.主イェス・キリストが,わたしたちを愛するがゆえに,わたしたちを死と無と罪から贖い出すために,御自身をいけにえとして捧げてくださったことへ感謝を以て思いをはせる記念です.

「金持ちとラザロの譬え」(ルカ福音書 16,19-31)は,贅沢を戒める単純な教訓ではありません.

死後,アブラハムの隣に運ばれたラザロと,冥府で苦しむ金持ちとの間は,大きな裂口で隔てられています.この隔絶は,しかし,彼らが生きているうちから既にありました.金持ちはラザロに目もくれず,ラザロの方も金持ちに何も言いませんでした.既に彼らは目に見えない壁で互いに隔てられていたかのようでした.

確かに,ラザロが何も言わなくても,神は彼を憐れんで,天の御国へ彼を迎え入れてくださいます.しかし,もし仮にラザロが思い切って金持ちに施しを求めていたなら,金持ちもラザロに気づき,彼の求めに応じたかもしれません.そして,その行為のおかげで冥府に行かずに済んだかもしれません.もし仮にラザロが生前にそう考えることができていたなら,彼は,隣人愛のゆえに,金持ちにむかって「食べものをください,あなたの救済のために」と言うことができたかもしれません.(この部分は関谷神父様がそのままの形でおっしゃったことではありませんが,神父様のお話にもとづいて小笠原が補足しました).

わたしたちは,自身の内に,あるいは,気の合う仲間どうしの内に,閉じこもってしまいがちです.その方が気楽だと感ずるからです.確かに,他者へ近づき,手を差し伸べても,ときには拒否され,ときには攻撃さえされるかもしれません.しかし,隣人愛は,壁を越えて橋を架けることに存します.

最大の架け橋は,神が御自身と人間との間に架けてくださった橋です.

愛は,身を低めることを可能にします.神は,わたしたちが神を識らなくても,わたしたちを愛してくださり,身を低め,人間との距離をどんどん小さくし,ついには御自身が人間となりました.イェス・キリストです.

神がそうしてくださったのは,人間たちを憐れんだからです.

神は人間を創造してくださいましたが,人間たちは神に背きました.神から目をそらせてしまいました.しかし神は,だからといって,「では勝手にしていなさい,わたしはもう知らない」とは言いませんでした.神は,人間たちを慈しみ,憐れんでくださいました.

隣人愛の実行にも,憐れみがかかわっています.「金持ちとラザロ」の譬えと同様にルカ福音書だけに伝えられているイェスの譬えのひとつが「良きサマリア人」の譬えです.

強盗に襲われて半死の状態で横たわる人を無視して,祭司とレビ人は通り過ぎました.しかし,当時イスラエルの民から差別され,社会の辺縁へ追いやられていたサマリア人のひとりは,その男のところに来て,その男を見て,憐れみを覚え,そして彼に近づき,救いの手を差し伸べます.

この「憐れみを覚える」という動詞は,ギリシャ語で splanchnizein です.spleen は脾臓,splanchna は内臓,はらわたです.はらわたが締めつけられるように,胸が締めつけられるように,腹の底から,心の底から感ぜられる憐れみの気持ち.この splanchnizein という動詞は,聖書のほかの箇所では,神が人間を憐れむときにだけ用いられています.

しかし,隣人愛も,神が人間を愛し,憐れんでくださるのと同じように,他者を愛し,憐れむことです.そして,それによって,他者との間に橋を架け,互いに愛し合うことです.

隣人愛にもとづいて,わたしたちも,互いに対して自身を開き,手を差し伸べ合いましょう.


御ミサの後は,分かち合いの集いが開かれました.

関谷義樹神父様は,ドン・ボスコ社発行の月間『カトリック生活』の編集長を務めています.その雑誌で LGBT をテーマとして取り上げるとすれば,どのような記事が望まれるか,と御質問したところ,LGBT を擁護する立場からの記事が欲しい,という御意見が述べられました.

カトリック教会が伝統的に同性愛行為を断罪してきたせいで,同性愛者たちはいまだに強い有罪感にさいなまれており,カトリック教会から拒絶されていると感じています.カトリック教会はそのことに責任を感じ,和解の態度を示すべきです.

LGBTIQ+ の人々を擁護する LGBT 神学の議論が,日本のカトリック教会のなかでも望まれます.

ルカ小笠原晋也

2016年09月27日