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酒井陽介神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2020年01月26日

酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日

今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です :「ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ」.

この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました.

前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました.

もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と?

「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です.

それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました.

そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです.

イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.

神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.

実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.

そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.

考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.

ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.

わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.

では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?

神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.

わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.

その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.

イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.

ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.

もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.

この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.

この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.

その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.

今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.

12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.

確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.

わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.

その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.

イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.

主は皆さんとともに.

2020年02月01日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)

第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a)
第二朗読:第2テサロニケ書簡 (3,07-12)
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿* が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.

2019年12月04日

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.

2019年12月04日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年)

第一朗読:出エジプト 17,08-13
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え)

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12).

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします.

祈っていて,ふたつのことに気づきました.

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです.

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません.

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません.

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います.

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです.

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです.

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います.


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居 や カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :

 

2019年10月22日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)

第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.

2019年09月12日

小宇佐敬二神父様の説教,2019年02月24日,LGBTQ+ みんなのミサ

2019年02月24日の LGBTQ+ みんなのミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

小宇佐敬二神父様は,2017年08月以来,御病気の療養中ですが,比較的体調の良いころあいを見はからって,久しぶりに LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださいました.神父様に改めて感謝します.

小宇佐神父様の熱意のこもった説教をお聴きください.音声ファイルは こちら から download することができます.

書き起こしテクストはブログでお読みください

2019年03月01日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

王たるキリスト の祝日

「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ 18.33b-37)

“King” と聞いて,皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。マーティン・ルーサー・キング牧師を思いうかべる人から「バーガー・キング」を思いうかべる人まで,いろいろかもしれません。わたしは,短距離走者の Ben Johnson や、ボクシングの井上尚弥、あるいは矢沢永吉をイメージしてしまいます。とはいっても,私の中で King of Rock 'n' Roll 忌野清志郎は別格です。

或るパパ様は「王」を「他のどんな者よりも秀でていて」、すべてのもの、とくに人のこころを見とおして語りかけて、またその語りかけがこころの真実にまでたっする力をもっていることで「人のこころを統べる者」だと言われたようです (cf. Annum Sacrum, Leo XIII, 1899, n.7). もちろんパパ様が言われる王はイエス・キリストただ一人のはずですが、人のこころに語りかけ、その言葉によって人の意志を何か大切なものに向けさせるのが王なら、それは部分的にはミュージシャンたちの役目でもある気がします。また少なくとも福音のなかのピラトには、権力と恐怖による「支配」は理解できても、この意味での「王」には思いいたれなかったようです。

もうすこし政治的な意味で現代で「王」とは誰でしょうか。EU が求心力を失いかけている状態では、どんな人物であるかを別にすれば、合衆国大統領と中国共産党総書記は現代の「この世の王」たちであるように見えます。この二つの国の統治制度は,日本のそれよりも、聖書が語る「国」の理論に近いように見える部分があります。どちらの国でもトップが変わると、それに合わせてたくさんの職員か制度が変わり、社会とそこに住んでいる人たちの生活も一変するからです。「統治者 / 王 (basileus)」が変わればその「統治 / 国 (basileia)」が変わるのは当然です。「統治」はその統治にあらわされた「統治者」の姿でもあります。

ともかく,わたしたちの「王」、わたしたちのこころと社会を統べる「王」が大統領でも、総書記でも内閣総理大臣でもなく、人のこころの痛みと願い、苦痛とよろこびを知り、そのすべてを自分の身に負いながら、人を癒し、なぐさめ、弟子たちを導いた方であるのはありがたいことです。

ところで,この祭日の制定を思うとき、わたしはそれをただありがたい祝いだと片づけることができません。教皇がこの祭日を宣言したのは、第一次世界大戦後、急ぎ設立された国際連盟が早々に無力化され、各国がふたたび自国の権益拡大にむけてわれ先に駆けだしたころです。王はただ一人、すべての存在を愛し、支える王だけであることを,教皇は何としてでも訴えたかったことでしょう (cf. Quas primas, Pius XI, 1925).

しかし,それ以上に,わたしにとっては「王たるキリスト」という言葉は、それにつづく期間にたくさんの人の口から叫ばれた "Viva Christo Rey !" という声と結ばれています。わたしの所属する修道会はスペインに一つの起源をもち、またそのためたくさんの会員が中米、南米などで働いています。たくさんのスペイン人の神父様がたにとってスペイン内戦 (1936-39) の記憶はあまりに苛烈なものです。たくさんの司祭は夜、連行されて,平原のなかの谷の底で射殺されました(或る神父さんは,その数は 6,000人くらいだろうと話していました)。そしてその何十倍の人たちが、戦場で、あるいは対立側の人間と見なされることでただ、逮捕され殺されてゆきました。そのなかで教会の人間はこの言葉 "Viva Christo Rey !" を叫んで銃殺されてゆきました。

もちろんこの内戦はフランコ派と共和派の戦いであり、またその後ろにいた独伊連合とソビエト・社会主義派の戦いであって,その一方に肩入れすることもできませんが、そこで射殺されようとするとき、"Viva Christo Rey !" — たとえば「王はキリスト(ただ一人)!」あるいは「キリストよ、永遠に!」とでも訳したらいいのでしょうか — と叫んだ人たちのこころには、その対立をこえて,愛によるキリストの統治、キリストの国への希求があったに違いないと思いたい気持ちを抑えられません。

「わたしの国はこの世には属していない」とイエスは言います。わたしたちにとっても同じだと思います。私たちの祖国は神の国一つ、私たちの法はイエスの言葉、私たちの王はキリストただ一人、それがいちばんしあわせな生き方だと思います。

2018年12月08日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。

2018年12月08日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年09月30日

2018年09月30日(年間第26主日,B 年)の LGBTQ+ みんなのミサにおける鈴木伸国神父様の説教

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は...」(マルコ 9.38-43, 45, 47-48)

福音書の言葉のなかで今日の箇所ほど、罪に対して苛烈な言葉が向けられる箇所はありません。手を「切り捨ててしまいなさい」、足も「切り捨ててしまいなさい」、目は「えぐり出してしまいなさい」。それだけを聞いて、自分の業の深さを思えば、福音の言葉とはいえ罪への恐れよりも、ただその光景の恐ろしさに心を囚えられてしまいそうです。怖がりな私なら、宗教説話にあるような地獄での折檻の情景さえ連想してしまいます。

しかもこのマルコの箇所では、マタイと違い具体的にどんな罪を避ければいいかを一々説明さえしてくれません。怒りと暴言(マタイ 5.21- )はどうなんでしょう。情欲や姦淫 (5.27-, 31- ), 嘘や復讐 (33-, 38- ) はどうなんでしょうか。それは放っておいてもいいというんでしょうか。そんなことはないでしょうが、マルコは罪から遠ざかるために、もっと大事なことを言っているような気がします。

今日の箇所のなかでマルコが避けるべきこととして指摘するのはただ一つ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」こと。それだけです。決して怒りや嘘、情欲やセクシャリティなどがそれだけで罪として指摘されてはいません。

私たちがただ罪に目を留めようとすれば、その目に罪は益々大きなものになり、その恐れは私たちの心を押しつぶしてしまいます。あるいは罪を隠して、自分を罪のない者のように見せ、また自分でもそう思い込もうとするかもしれません。

そうならないようにマルコはとても簡単な道を示してくれます。それが「これらの小さい者たち」に目を留め、自分の目で見つめることです。ただ一般的に弱者のことを思えというのではなありません。マルコもマタイ (18.6) も「これらの」小さな者たちと、具体的に示唆しています。彼らを傷つけてはいけない、躓かせてはいけない、彼らを保護し、養え。そして「一杯の水」を差し出せる機会があればよろこんでしなさい、そうマルコは勧めているようです。

マルコはこれに少しだけ加えて、嫉妬と妬みからは遠ざかるように勧めていいるように思いますが(「やめさせてはならない」マルコ 9.39)、それに続くイエスの言葉は穏やかなもので、少しユーモラスでさえあります。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。そう読んで見ると、マルコの言葉は「罪を恐れよ」というより、「罪を恐れるあまり、心が暗くなり怖じけることをこそ恐れよ」といういう呼び掛けのようにも聞こえます。

それを思うにつけ、今年 8 月から 9 月にかけて報告された、教会のあまりにたくさんの不祥事は、聞くのにさえあまりに酷でした *。

二つ気を付けるべきだと感じます。一つはマルコが勧めるように、罪を避けようとしてただ罪にだけ目を留めるなら、人は情欲に捕らわれれば盲目になってしまうことがあるということです。目の前にいる子どもたちが「これらの小さい者たち」であることも分からなくなってしまいます。もう一つは、人間のセクシュアリティをただ抑圧するだけではいけないということです。人がただ暴力でこれほどの罪を犯すことはないように思います。知恵も良心も豊かにもちえたはずの、たくさんの人々がそれでもこんなことをしてしまうと思えば、性の力というのはやはり大きなものなのだとも思います。人と人を心身ともに結び合わせる賜物であるはずの、人間のセクシュアリティが本当にその役目を果たしてくれるためには、それをとても大事に、そして丁寧に見つめ、相応しく養ってあげることがどうしても必要なのだろうということです。

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* : 8月31日、ペンシルベニアの裁判所は 300 名以上の神父が 1000 人以上の子供の虐待に関わったと報告しました。9月12日、ドイツの新聞社は国内で 1946 年から 2014 年までの虐待の被害者は 3,700 人に及ぶと報じました。18日、ブルックリン教区は 4 人の被害者の方々との和解に約 30 億円を支払うことになったとの報道がありました。21日にはケララ(インド)の司教がシスターへの数年にわたる性的暴行の疑いで逮捕されました。そして教会内のことではありませんが、今アメリカの最高裁判事候補の過去の性的暴行が告発されています。

2018年10月17日

鈴木伸国神父様の説教,2017年09月24日,LGBT 特別ミサにて

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様 SJ の説教

二つのものの間に揺れる心

パウロは,第二朗読では二つのことの間で揺れ動いています。生きようか死のうかと悩んでいます。

〔わたしは〕二つのことの間で板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと... だが他方では、肉にとどまる方が...(フィリピ書簡 1,23)

わたしたちが生きてゆくことは,悩みを生きてゆくことでもあります。周囲の力に押し流されながら、それでもわずかに効く舵にしがみついて、いのちを自分のもとにとりもどそうともがいているようなものです。でも,ここでパウロは「諦めようか、でも苦しいけど生きようか」と苦しみと苦しみを天秤にかけているのではありません。また,「死んでしまおうか、それとも可能性を信じてみようか」と、苦しみと、希望のなかの恐れを比べているのでもありません。彼は、不思議なことですが、「今すぐにキリストに会おうか、それとも今ここにいる人たちのために何かできることがあるだろうか」と思案しています。彼は,二つの自分の願いや望みのあいだに立って、自分がどちらに召されているかを感じ取ろうとしています。彼は、神とともにある者に「万事が益となるように共に働く」(ローマ 8,28)ことを経験しているようです。

公平な賃金?

さて,今日の福音も不思議な物語です(「ぶどう園の労働者」マタイ20,1-16)。

このぶどう農園は収穫期なのでしょう、農園の主人は働き手を探しています。とても忙しいのでしょう、もう夜明けには出かけ,手配をし、働き手を農園に送り出します。仕事も続いている朝九時ころ、この主人は、作業監督のあいまの休憩でしょうか、広場のあたりを通りかかります。すると,何人かの男たちが見るからに手持ち無沙汰なようすでたむろしているのを見かけます。ご主人は声をかけます。「わたしの農園に行きなさい、払うから。」

このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。

ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。

でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。

わたしたちの思い

しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。

神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。

主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。

そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。

では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。

でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。

そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると... 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。

2018年03月26日

共同祈願,2017年09月24日,LGBT 特別ミサ

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,先日,無事に退院し,現在,ペトロの家で療養生活をおくっています.あわれみ深い主よ,日本で初めて LGBTQ カトリックの司牧に取り組んだあなたのしもべ,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,あなたの愛で彼を癒してください.

全世界の性的少数者のために祈りましょう.今年の前半カナダで行われた調査によると,カナダの全人口のなかで LGBTQ が占める割合は 13 % でした.全人類の約1割は LGBTQ である,と言って良いと思います.にもかかわらず,日本において,わたしたちの人権は十分な法的保護を受けておらず,また,性的指向や性同一性を理由とする差別やいじめや迫害は世界の至るところで続いています.正義の神である主よ,あらゆる LGBTQ が安心できるよう,慈しみ深いあなたのふところへ皆を受け入れてください.何らかの差別を被る少数者すべてのためにカトリック教会があなたの愛を実践し,社会正義の実現に貢献することができるよう,全教役者と全信者を導いてください.

Australia では現在,同性婚法制化の可否を問う国民投票が行われており,結果は11月15日に発表されます.世界中の同性カップルのために祈りましょう.愛の神である主よ,如何なる分け隔ても無く,あらゆる者にあなたの限り無い愛を注いでくださることに,感謝します.愛し合うカップルすべてを慈しみ深く祝福してください.いつの日かカトリック教会が同性婚を認めるよう,あなたのしもべたちを導いてください.

日本の LGBTQ 政治家たちのために祈りましょう.transgender であることを公にしている保坂いづみさんが,先日,根室市の市議選で当選しました.わたしたちも,心からの祝福を保坂さんに送りましょう.小さき者すべてを御心にとめてくださる主よ,今年7月に誕生した LGBT 自治体議員連盟のメンバーたちを祝福してください.性的少数者であることを公にしている政治家たちが日本社会の差別的な構造を変えて行くことができるよう,慈しみ深く見守ってください.

長谷川博史さんと HIV 感染者すべてのために祈りましょう.東京新聞は,昨日,長谷川博史さんの人生と活動を紹介する記事を掲載しました.長谷川博史さんは,勇敢にも,日本でいちはやく HIV 感染者の当事者団体 JaNP+ を組織し,今も懸命に啓発活動を続けています.あわれみ深い主よ,HIV 感染者すべてにあなたの愛の恵みを注いでください.同胞のために惜しみなく奉仕する長谷川博史さんを,あなたのカトリック教会のしもべたちと同様に祝福し,あなたのふところへ受け入れてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2018年03月26日

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

聖書のことばには,たとえその一節についてではあってもたくさんの解釈や説教が歴史のなかで積み重ねられていて,そこに何か新しいことが見つけられることはなかなか難しいはずです.でも不思議なことにわたしには読むたびごとに違った趣を示してくれるもので,いつも新しい発見や着想を与えてくれます.

カナンの女(マタイ 15,21-18)

今日の個所はイエスが異邦の地に旅をしたときの話しです.ティルスとシドンはガリラヤ湖からは 40 - 50 km ほどの地中海岸沿いの港町で,現在のレバノンにあたる地域にありました.そこである女性がイエスに自分の娘の病を癒してくれるように願い,断られながらも根気強く願いつづけ,最後には聞き入れられたというお話しです.新共同訳には「カナンの女の信仰」という小見出しが付けられています.

この箇所をよむとき,信じれば「桑の木」や「山」も動くという物語(マタイ17,19f ; ルカ17,6)のように,信じることの不思議さを感じることがありますし,「裁判官とやもめ」(ルカ 18,1-8)のように根気強く願い,また祈りつづけることの意味を考えさせられることもあります.自分のことではなく,自分の娘を思う母の強さと愛情にこころが留まることもあります.でも今日はわたしにはまったく別の情景が浮かびました.

わたしに特別な印象を与えてくれたのは「主よ,ごもっともです.しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というカナンの女性の言葉です.たいへん失敬な言い方になるかもしれませんが,この句がわたしには,少し,いえ,かなり慣れなれしそうな話し方で,たとえばこんな響きをもって聞こえてきました:

もちろんです.もちろんですとも,イエス様.本来ならあなたが異邦人に親しくしてくださるなんてことはないはずです.でもイエス様,さっきテーブルのうえのパンを,お足元の子犬たちに分けてあげていらっしゃるとき,イエス様,とってもおやさしいお顔でしたわ.ほんとに,遠くから拝見しただけもちょっと涙ぐんじゃうくらいの,おやさしい微笑みでらっしゃいました.ねぇイエス様,神様のお恵みはあなたのなかであふれるほどです.ねぇ,イエス様.

そうですねぇ.少し違いますけれど,ミュージカル映画 Sister Act[邦題:天使にラブソングを](1992) のなかの Deloris (Whoopi Goldberg) か,歌謡グループ Perfume の歌「ねぇ」のような印象でしょうか.自分でも何だか分かりませんが,わたしのなかにそんな情景がひろがり,わたしは一遍にこのカナンの女性のファンになりました.(聖句にもとづく観想的な祈りというのは不思議なもので,それがどんな意味なのかは分からないままにまずイメージが与えられます.)

信頼

わたしが新しさを感じたのは多分,(丁度「聖書と典礼」の冊子の扉絵のように)へりくだって腰をまげて,あるいはひざまずいてイエスに恵みを請い願う女性という,わたしが持っていたそれまでのイメージが,イエスととても親しい人たちと同じ立場にある人と変わらない親しさで,あるいは自分の友人が困っている自分を助けないなどとはちっとも思わずに,何の疑いもなくイエスに向かって助けを求める手を差しだすような,そんな一人の女性のイメージへと転換したからだと思います.

心象としてその展開を描いてみれば以下のようなものです.この女性は自分を遠ざけようとしているイエスにむかって,自分が彼にとって大切な存在である,あるいはなりうることを疑わずに,逆に近づいて行きました.近づいて,そして少しも恐れたり,不安に飲まれることなく,イエスの前にとどまり,イエスに無関係なものではないだけではなく,ごく短い対話を通じてでも,親しく言葉と愛情を交わし合える存在であることを示しました.そしてイエスの眼差しのなかで彼女はもはや異邦人としてではなく,自分にとってかけがえのない友人たちの一人に実際に変貌します.そのとき「イスラエルの失われた子ら」であるか否かという区別と障壁がイエスの中で消え,それにせき止められていた恵みは,イエスの承認の言葉とともに,この女性のうえに,そしてその娘へと流れだしてゆく.

新共同訳でイエスの承認の言葉は「あなたの信仰 (πίστις, pistis) はりっぱだ」と訳されていますが,わたしはここでは「あなたの信頼はりっぱだ」と理解したいと思います.「あなたはわたしを信頼し,わたしがあなたを友として受け入れることを疑うことなくわたしに近づき,わたしのこころの情景を変えてくれた.あなたの信頼があなたをわたしの友とし,わたしをあなたの友としてくれた」.そんな印象でしょうか.

たぶんこのようなわたしの心象の背景にあるのは,1960 - 1970年代にかけての学生運動やフェミニズム運動に自分を賭してきた人たちの姿だと思います.彼らはそれまで個人のなかに押し込められてきた悩みや苦悩を,公共的な場に提示し,それを願いとしてではなく,自明,あたりまえのこととして実践しました.でもそれを「運動」などと,とりたてて言わなくてもいいのかもしれません.誰かの苦しみはたいていはある事象を苦しみとして感じさせる社会構造と表裏のものであるはずのもので,自分の中だけから作られた悲しみなどというものはどこにも無いはずだからです.たしかに “the private is political (or public)”(個人的なことは政治的なこと)だからです.

それにしてもこの女性は「つよい」と思います.自分の娘と自分の苦しみを,隠されるべき負の負い目としてではなく,友人でもないが友人になってくれるだろう人のもとに,引け目や恥の意識をのりこえて差し出しているからです.このときこの女性は,多くの解釈のように,腰を曲げて,自分が悪いものででもあるかのように,懇願することもできたでしょう.しかしそれでは,人と人を分かつ区別と障壁は,別種のものに変えられることはあっても取り払われてしまうことはなかったでしょう.

人のこころの機微

もう一つこの女性の姿でわたしをひきつけるものがあります.このカナンの女性のかしこさです.かしこさと言っても,頭がいいとか博識だというのではありません.彼女は人の心のどこのボタンをどの順番で押せばいいのかを心得ているように感じたからです.

そもそもイエスの態度はなかなかのものです.彼の最初の反応は「何もお答えにならなかった」,つまりまったくの無視です.つぎに弟子たちから急かされたときの反応は ‒ 自分は「失われた羊のところにしか遣わされていない」‒ 拒否です.しかも出自の違いを盾にした拒絶です.そして詰寄ってくる女性に ‒ 今の文脈なら明らかに相応しくない incorrect な言い方になりますが ‒「犬」という言葉をかけます.自分の母親に向かって「そこの女性」と呼びかける人だとしても,あんまりだと感じます.

ではカナンの女性の側はどうだったでしょうか.彼女は初めは「叫んで」いました.そして弟子たちがイエスに取り次いでいるのを遠くから覗い,今度は叫ぶことなく,しかし「ひれ伏して」イエスに懇願します.この女性はしたたかに人の機微を伺って願うものへと近づいてゆきます.そしてイエスから侮蔑的な言葉とともに最終的な拒絶を投げかけられたときには ‒ これは飛び切りなのですが ‒,その侮蔑のことばをそっくり受け取って,主人と食卓,パンと犬からなる,同じ情景のなかに,まったく別の,逆の含意をもった物語りをつくり,しかも相手がきっと受け取るだろう文脈を添えて返しています(「ごもっともです.しかし,小犬も...」).彼女は,願うものを得るために,機智を見せるだけでなく,人の心もうけとっています.苦労を知っている人の知恵のようにも思えますし,(意識的な技巧ではないかもしれませんが結果からすれば)外交官なみのたしなみのようにも思えますが,わたしには神を信じる人の巧まざる愛情と知恵の現れのように感じられました.

その結果,イエスはあっさりと考えを変えます.ほぼ180度です.「あなたは正しい.ぼくが間違っている.それがはっきりと分かる.ああ,婦人よ,あなたの信頼は神に嘉(よみ)されている.恵みはあなたのものだ」と言っているような気がします.自分の側にある壁をのりこえて,また裏切られることもあらかじめ受け入れながら,人を信頼すること,人が笑顔を交わし合えることを信じられること.たしかにこの女性が自分を神に愛されるものにしたのだと思います.

いったいわたしのこんなイメージがお説教に相応しいのかどうか分かりませんが,少なくとも私はこの女性のファンになりましたし,皆さんも少しファンになっていただけたとしたら,それで十分な気がいたします.

2017年08月25日

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

小宇佐敬二神父様と鈴木伸国神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,御病気のため暫く療養に専念なさることになりました.あわれみ深い主よ,あなたのしもべ,わたしたちの牧者,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,彼を癒してください.そして,寛大な主よ,彼に代わる牧者として鈴木伸国神父をわたしたちに与えてくださったことを感謝します.あなたの愛の恵みを特別に注ぎ,鈴木神父を祝福してください.

LGBTQ inclusion に積極的に取り組む教役者たちのために祈りましょう.アメリカの Newark の司教 Joseph Tobin 枢機卿に続いて,世界のあちらこちらでカトリック教会が LGBTQ の人々を歓迎し,包容する姿勢を公にあらわしています.Scotland の Glasgow の Paul Morton 神父は Facebook でこう告知しました:「わたしたちの教会は,性的少数者を歓迎します.神の愛から排除されている人は,ひとりもいません.神の家には誰もが歓迎されます」.また,Brazil の Cruz 司教は,説教でこう説きました:「性的少数者であることは,個人の選択によるのでも精神疾患によるのでもないのだから,神の賜以外のものではあり得ません.人種差別と同じく,sexuality による差別は克服されねばなりません」.日本でも,晴佐久昌英神父様は,キリスト教徒の心に根深く残る原理主義的な傾向を批判し,神の愛の全包容性と救済の普遍性を説いています.そして,彼が主任司祭を務める教会は LGBTQ の人々をいつでも歓迎する,と断言しています.慈しみ深い主よ,あなたの愛をあまねく実現するよう努めるあなたのしもべたちを祝福してください.あなたの福音を世界中に宣べ伝えようとする彼らの声に耳を塞ぐ者たちの心を優しく開いてください.

ブラジルの LGBTQ 人権活動家 Toni Reis と彼の家族のために祈りましょう.Toni Reis と彼の夫 David Harrad の同性婚カップルは,あきらめずに求め続けた結果,養子三人を迎えることができ,さらに,子どもたちに洗礼を授けてもらうこともできました.そして,子どもたちの洗礼について Papa Francesco の祝福の言葉を伝える手紙を Vatican から受け取りました.命を与えてくださる主よ,あなたは,実の親により育てられずにいた子どもたちに同性婚カップルを親として与え,あなたの愛の聖霊で彼らに新たな命を与えました.Toni と David と彼らの子どもたちを改めて祝福してください.世界中の同性カップルとその子どもたちにも,あなたの愛の恵みを与え,皆を祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年08月25日

小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 ‒ 奇跡 ‒ による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ ‒ からし種の譬えとパン種の譬え ‒ が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか ‒ そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 ‒ 悪を行う者や不法を行う者 ‒ を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた ‒ そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く ‒ そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている ‒ そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ ‒ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる ‒ それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ ‒ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する ‒ その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている ‒ そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

2017年07月28日

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年7月17日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち ‒ 特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.6月30日にドイツで,7月12日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月28日

小宇佐敬二神父様の説教,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,3章13-19節で十二使徒が選ばれ,6章7-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,6章17-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」‒ 何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と ‒ それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない ‒ そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書10章01-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く ‒ その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる ‒「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書6章01-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 ‒ そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる ‒ その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」‒ ,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか ‒ それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる ‒ それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 ‒ 救いの神秘 ‒ でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 ‒ さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す ‒ もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し ‒ それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける ‒ それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で mysterion, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる ‒ その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.

2017年07月02日

共同祈願,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

LGBT Pride Month のために祈りましょう.今から48年前,1969年6月に起きた Stonewall 事件を記念するために,今月は LGBT Pride Month として祝われています.日本でも先月,Tokyo Rainbow Pride が祝われました.主よ,差別と自己否定に苦しむわたしたちが社会に対して抗議し,自身に誇りを取り戻すために祭を祝うとき,慈しみ深くわたしたちを祝福してください.わたしたち皆を,神の愛し子として,憐れみ深く,あなたの懐に受け容れてください.

主の恵みに感謝して,祈りましょう.復活節が終わった後,今月は,多くの記念日が祝われました ‒ 聖霊降臨,三位一体,キリストの聖体,イェスの御心,そして,昨日は洗礼者ヨハネの誕生.さらに,四日後には,聖ペトロと聖パウロの記念日も祝われます.主よ,それらをとおして与えられるあなたの恵みに感謝します.そして,主よ,お願いします:誰をも排除せず,すべての者を包容するあなたの愛を,聖霊の恵みとして,わたしたち皆のうえに注いでください.

同性パートナーシップのために祈りましょう.今月一日,札幌市で,政令指定都市としては全国で初めて,同性パートナーシップを公に証明する制度が開始されました.そのような制度がより多くの地方自治体に広がって行くことが,日本における同性婚の法制化に繋がって行くかもしれない,とわたしたちは期待しています.異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うとき,それは,まぎれもなく,神の愛の恵みのしるしです.無限の愛の源である主よ,世界中の同性カップルの絆を,あなたの愛で祝福してください.そして,わたしたちのカトリック教会を,全包容的なあなたの愛に従うよう,導いてください.

日本においても世界においても LGBT-phobia の犠牲になった人々のために祈りましょう.今月12日は,Florida 州 Orlando の gay club Pulse で49人の命が奪われた事件の一周忌でした.チェチェン共和国では LGBT に対する迫害が続いています.一橋大学アウティング事件の裁判も続いています.憐れみ深い主よ,LGBT-phobia の犠牲者すべての涙をあなたの優しい御手でぬぐい,あなたのみもとで皆に永遠の安らぎを与えてください.少数者を嫌悪し,排除しようとする者たちの頑なな心を,あなたの愛へ開かせてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月02日

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

今日,12月18日は,待降節第四主日です.

今日のミサの中心点は,「この子をイエスと名づけなさい,エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです.

クリスマスの季節にわたしたちがお祝いのカードに見るマリア,ヨセフ,幼子イエスの聖家族の姿は,なじみ深いものです.でも,聖家族と呼ばれるこの家族から学び得るこれらのことがら ‒ 命の誕生,母性,父性,名づけ ‒ の深い意味を,わたしたちは十分に把握しているでしょうか?

わたしたちは,当り前のように教会用語を使って,「マリアは処女,ヨセフは名づけ親,イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれませんが,処女性とは何か,名づけ親とは何か,聖霊とは何か,と訊かれたら,何と答えましょうか?

実は,こう言うことができます:

1) ある意味で,どの親も,名づけ親であり,養父母のような面を持っている;

2) そして,どの親についても,親になって初めて,母親の処女性は深い意味を帯びてくる;

3) さらに,生まれてくる子どもは,どの子も,聖霊によって生まれる;

4) また,first name を与えられ,その名前で呼ばれるどの人間も,かけがえのない尊厳を持っており,「人間である」とか「何々人である」とか「何々の特徴を持っている」とか言うより先に,「誰々という個人だ」と言わなければならない.どの人間も,排除されたり差別されたりされるべきではない.

ヨハネパウロ 2 世が述べたように,「イェスの御降誕において,あらゆる人間の誕生の全的な意味もが啓示される」(『命の福音』1).

では,その意味を深めるために,マタイとルカの両福音書を合わせて読みましょう.マタイ 1,20-21 からはヨセフへのお告げを,ルカ 1,31 からはマリアへのお告げを,聴きましょう

ルカ福音書 1,31 では,お告げの物語が述べられています.マリアは目が覚めていたでしょうか,うたたねしながら夢を見たのでしょうか?夢だとしても,それは,真実を見つめさせる夢です.近いうちに結婚することになるマリアには,それに対する望みもあり,不安もあるかもしれません.マリアに,安心させる御使いが現われます.御使いは言います:「マリアよ,恐れることはない.あなたは,命をめぐまれる.あなたは,身ごもって,男の子を生む.その子をイエス(人を解放する方)と名づけなさい」.

マタイ福音書 1,20-21 では,ヨセフへのお告げが物語られています.夢ですが,彼を目覚めさせる夢です.ヨセフは近いうちにマリアを妻として迎える予定ですが,それに対する望みも不安もあります.御使いは彼を安心させます:「恐れずに,マリアをあなたの妻として迎え入れなさい.彼女の胎内に生じたものは,神の聖なる息吹によるものだ.彼女は,息子を生む.その子をイエスと名づけなさい.その子こそ,民を罪から救うであろうから」.

このようにルカとマタイを合わせて読むと気がつくのですが,マリアにもヨセフにも,ふたつのことが告げられます:ひとつは,あなたたちは子どもを授かる;もうひとつは,生まれる子どもは聖霊によって生まれる.

そして,マリアにもヨセフにも,子どもに名前をつける役割と使命が与えられます.

イエスという名前を選んだのは,神様です.その名は,御使いを通して伝えられます.そして,名前をつけるのは,父親と母親の役割と使命だ,と言われています.(当時は,父親が名前をつけるのが普通でした).

父親も母親も,新しい命である子どもを恵まれたら,まず名前をつけるでしょう.名前をつけるということは,つまり,その命を受け入れて育てることを約束する,ということです.

その意味で,どの父親も母親も,名づけ親であり,養父母だ,と言えるでしょう.

また,どの新しい命も,聖霊の息吹を受けて生まれます.どの子どもも,聖霊によって母親がみごもった結果,聖霊によって生まれる,と言えます.

その意味で,どの親も神とともに協働創造者である,と言えます.

生まれてくる子どもは,親から生まれると同時に,聖霊によって生まれるのです.

その子どもに,親は,名前を付ける.すなわち,その存在を受け入れる.そして,これからもそのように育て続けることを約束します.その子に,社会に,神に,約束します.

子どもがどんな状況のなかで生まれたにしても,どんな事情で親がその子に名前をつけ,その子を受け入れたにしても,そう言えます.親が正式な夫婦でも,そうでない同棲カップルや LGBT のカップルでも,子どもが体外受精や代理出産などで生まれた場合であっても,同じことが言えます.

名づけの重要さについて,もうひとつの観点から考えることができます.世に生まれてくるあらゆる被造物は,その誕生の状況が如何なるものであれ,侵すことのできない人間存在の尊厳を持っており,いかなる差別の対象にもなり得ない.

差別するということは,尊厳をないがしろにすることです.個人の名前のかわりに,レッテルを貼ることです.たとえば,あなたはスペイン人だから,こういうことはわからないでしょう;あなたは独身だから,この問題について語る資格はありません;あなたは LGBT だから,しかじかの権利はありません... そのように,レッテルを貼られ,差別されます.

しかし,その人は,単にスペイン人でしょうか? 単に独身者でしょうか? 単に LGBT でしょうか? いいえ,その人は,しかじかという固有名を持つ人です.その固有名で呼ばれるべき人です.次いで,その人はスペインで生まれ,独身であり,LGBT であり,さらにほかの多くの属性を有しています.

そのような属性以前に,人は,固有名と,固有の尊厳とを持っています.

今日の福音によって,わたしたちは支えられ,励まされます.親に感謝しましょう.どの人間にも,等しくかけがえのない尊厳がそなわっていることを自覚しましょう.そして生まれてくるすべての子どものために祈りましょう.

わたしたちは皆,聖霊によって親から生まれてきました.クリスマスの夜には,親に感謝,神に感謝,命の為に感謝して,グロリアを唱えましょう:天のいとたかきところに神に栄光!

わたしたちは,あらゆる妊娠において命を大切にし,誰も排除されない,誰も差別されない世の中を作って行きたいものです.地上に平和があるように,平和を作るように,努めたいものです.

2016年12月27日

2016年10月23日,第4回 LGBT 特別ミサにおける晴佐久昌英神父様の説教

2016年10月23日,第4回 LGBT 特別ミサが,晴佐久昌英神父様の司式により行われました.この恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,わたしたちに福音を力強く宣言してくださった晴佐久神父様に感謝します.以下に,神父様が説教で語ってくださった言葉をお伝えします.

(前日,10月22日は,晴佐久神父様の59歳の誕生日でした).

(...)[わたしが]小学校1年になったときには,神父が我が家にやってきて,「もう1年生になったんだから侍者をやってもらう.ラテン語を覚えてください」.そうして,[神父が]我が家に通ってきては,[わたしは]ラテン語をたたき込まれた.「« dominus vobiscum » と言ったら,« et cum spiritu tuo » と答えるんですよ」.そう教わって,小学校1年生,ただただラテン語を覚えた.

あれはほとんど虐待というか洗脳というか... しかし,それは何と甘美な洗脳であり,何と聖なる虐待だったか.わたしは,そのおかげでカトリックの信仰をたたき込まれ,やがて神父にもなり,ミサに仕えて一生をささげたいと,そう願って今日も生きております.(...)

わたし,昨日59歳になりました.(拍手)ありがとうございます.

59年.おやじが,ぼくが神学校に入る前の年,50歳で死んだとき,自分も50歳まで生きられるだろうかと思った.

「神様,もし生きることができるとしたら,後は,父さんができなかった分まで代わりにぼくが働く」と,そう神様に約束した.おやじにもそう言った.もう死ぬ数週間前,「ぼくは来年神学校に入るから,父さんも頑張って」.

おやじはぼろぼろ泣いて,うれし涙かと思ったら,悔しいって泣いた.もうそれはわたし,すぐにわかった.息子が神父になった姿を自分はもう見ることができない,その悔しさですね.もう彼は死ぬことを知っておりました.

だから,わたしは言った.「自分が神父になったら父さんのおかげだ,父さんの分まで頑張る,約束する」と,そう申し上げた.その約束は決して揺るがすことはできない.(...)

わたしは,もう小さなころから注意欠陥障害を抱えておりましたし,おちついていることができない.いつも思ったことを好きなようにやってしまう.自制心がない.うろちょろうろちょろ遊び歩いていて,いつも叱られていた.(...)

わたしは,[或る教会付属の]聖ペトロ幼稚園の出身です.(...) 父はわたしにペトロという霊名をつけた.

教室にいない子供で,いつも先生に心配をかけておりましたが,わたしは幼稚園,楽園のように覚えております,楽しかった.先生たちが忍耐し,みんなが受け入れてくれて,それでわたしは自尊心を失うことなく,こんなふうにおっちょこちょいで失敗ばかりで,どうしようもない自分だということを知りながらも,「それでもいいんだ」という自分の信仰の原点は,そこで学びました.

みんな,わたしを受け入れてくれた.教会の人たち,特に両親.ミサの途中もおちつかないで,それでも精いっぱいじっとして,しんとした気持ちでお祈りしておりましたけれども.

悪餓鬼というんですか – 急に思い出しました – 友達と,いただいた御聖体を口の中でどれだけ溶かさずに持っていられるか,そういう競争をした.口でいただいたでしょう,舌の先に載せられたのを口の中で浮かしたままずーっと保って,ミサが終わった後,聖堂の外でせーのでみんなでべーっと出して,誰のが一番丸く残っているか.これも叱られたね,何をやっているんだ,と.

でも,楽しいこと,おもしろいこと,いっぱいあった教会.悪餓鬼でしたし,おっちょこちょいでしたし,でも,みんな受け入れてくれた.

わたしにとって教会は,どんな自分でも受け入れてもらえるという天国でありました.両親がそのような両親でしたし,教会がそのような教会でしたし.

神父になって,もう 30 年になるんですね.わたしはひたすら,「どんなあなたでも大丈夫だ,神様はあなたを愛している,神様はあなたに何も求めていない,あなたがいるだけでうれしいんだ,なぜなら神はあなたを望んで生んだからだ」と,そう福音を語り続けてまいりました.どこに行っても福音を語ってきた.

今週だって講演会,四つあったんですよ.火曜日,四谷,水曜日,竹橋,福岡市,金曜日だ.昨日土曜日は鎌倉.それぞれ切り口は違えど,どこに行ってもわたしは福音を語り続けてきた.

あなたを望んで生んだのは神だ,あなたの原点は神の内にある,あなたがどういうあなたであろうとも,何をしていようともいなくとも,あなたがどこにいようとも,いつになっても,あなたの原点は神の内にある.何も恐れることはない,あなた自身が神の喜びであり,神の親心の内に永遠なる命をいただいていて,やがてほんとうのあなたとして神の内に生まれていくんだ.ただただその神様にのみ信頼して,「こんなわたしを愛してくれている神様,ほんとうにありがとうございます,すべてをあなたに委ねます」と,そう祈って生きていく.何とすばらしい人生.

わたしはその福音をどこに行っても語り続けてまいりましたが,その原点は[子供時代の教会に]あります.カトリック教会.誰をも受け入れて,みんなが,「わたしがここにいることはすばらしい」と言える,そんなキリストの教会が,確かにありました.わたしはそこで育てられました.

父に約束したとおり,父がやりたかったこと,「我が家が教会だ」と言い続けて,みんなを集め続けて,みんなに純粋に大盤振る舞いをし続けた父.ただただもてなし続けて50歳で死んでいった父の後を継ぐのはわたしだと,そんな思いで今も教会のことをしております.

昨日,鎌倉でやった講演会は,精神障碍者のグループの講演会で,福音を語りました.

ひとりの方が,そのことがすごくうれしかったらしく,お昼のお弁当の後でわたしのところに来て,「自分は統合失調で長く苦しんできたけれども,その苦しみはほんとうに大変でしたけれども,今日この話が聞けて良かった」,そう言ってくれた.わたしは福音を語って良かったなとすごくうれしく思いました.その後でまた講話をして,午後帰る前のときに,彼は立って,みんなに証しをしました.「自分はほんとうに長い間苦しんできたけれども,病気になったおかげで信仰に出会い,洗礼を受けることができた,病気になったおかげでこの会にも加わり,今日もこの福音を聞くことができた,病気になったおかげで晴佐久神父さんに出会って,今日はほんとうに自分がどれほど幸せかということを感じた,わたしは病気になってほんとうに良かったと思います」と,そうおっしゃった.

わたしは,そのような言葉を聞けただけで,昨日ちょうど誕生日でありましたが,最高のプレゼントをもらった気持ちになりました.

永遠なる神様が,全能の神様が,すべての我が子を天地創造の始めから,どうしてもいてほしいと望んで生み,愛して育てて,今日もここに集め,こうしてわたしたちをひとつにしてくださっていること,この事実を前に,もう語る言葉もないとわたしは感動いたします.

59年前の10月22日,わたしもこの世にオギャーと生まれてまいりました.それはわたしの原点です.それは,神の望みによるという原点です.

神の望みにわたしは,何ひとつ付け加えることも,差し引くこともしたくない.このわたしが神の喜びであるという,その確信を持って,これからも福音を語り続けてまいりましょう.

目を天に上げようともせず,胸を打ちながら祈ったひとりの徴税人,その心はどれほど平和か.「神様がこのわたしを愛している,この罪人を赦してくださっている,神様がこのわたしをつくり,神様が今ここに,このわたしを生かしてくださっている.天の父よ,あなたにすべてを委ねます,どうかこの弱いわたしをあわれんでください,あなたのあわれみの中でわたしは生きてまいります」.そう祈る徴税人の心は平和です,恐れがない.信頼と希望.聖なるミサです.

わたしたちひとりひとり,自分の胸に手を当てて,「主よ,あわれみたまえ」と祈ります.でも,そのとき,神様はほんとうに喜ばれる.

「義とされて家に帰ったのはこの人だ」とイェス様はおっしゃいました.義とされる,神様の思いにかなって,神様の喜びとなり,「ああ,ほんとうにこの子を生んで良かった」と神様が思う瞬間.

「天の父よ,こんなわたしをあわれんでください,わたしはあなたの子供です,あなたにすべてを委ねます」と,そう祈るとき,神様は喜ばれる.

聖なるミサにおいてわたしたちが最も為すべきことは,今ここで神がこのわたしを喜びとしてくださっていると信じて,安らぐことです.

皆さんもいろいろな思いを抱えておられるでしょうが,病気になって良かった,障害を抱えて良かった,罪人で良かった,こんなわたしで良かった,あんな失敗をして良かった,みんなから責められてほんとうに良かった – なぜなら,あなたのみもとで「主よ,あわれみたまえ」と祈れるから.「天の父よ,このわたしを – 感謝します」と,そう祈ります.


2016年10月29日

2016年09月25日,第三回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年09月25日,予定どおり第三回 LGBT 特別ミサが行われました.その恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった関谷義樹神父様 SDB に感謝します.

関谷神父様の説教は,直接に LGBT に関するものではありませんでした.しかし,そこには,LGBTIQ+ の人々の存在を無視しようとする聖職者と一般信徒,ならびに,さまざまな理由で他者へこころを開くことが困難な LGBTIQ+ の人々,双方への明確なメッセージが込められています: 神の愛へこころを開きましょう.そうすれば,おのづと隣人へこころを開くこともできるようになります.

以下は,関谷神父様の説教の要約です:

御ミサは,記念です.主イェス・キリストが,わたしたちを愛するがゆえに,わたしたちを死と無と罪から贖い出すために,御自身をいけにえとして捧げてくださったことへ感謝を以て思いをはせる記念です.

「金持ちとラザロの譬え」(ルカ福音書 16,19-31)は,贅沢を戒める単純な教訓ではありません.

死後,アブラハムの隣に運ばれたラザロと,冥府で苦しむ金持ちとの間は,大きな裂口で隔てられています.この隔絶は,しかし,彼らが生きているうちから既にありました.金持ちはラザロに目もくれず,ラザロの方も金持ちに何も言いませんでした.既に彼らは目に見えない壁で互いに隔てられていたかのようでした.

確かに,ラザロが何も言わなくても,神は彼を憐れんで,天の御国へ彼を迎え入れてくださいます.しかし,もし仮にラザロが思い切って金持ちに施しを求めていたなら,金持ちもラザロに気づき,彼の求めに応じたかもしれません.そして,その行為のおかげで冥府に行かずに済んだかもしれません.もし仮にラザロが生前にそう考えることができていたなら,彼は,隣人愛のゆえに,金持ちにむかって「食べものをください,あなたの救済のために」と言うことができたかもしれません.(この部分は関谷神父様がそのままの形でおっしゃったことではありませんが,神父様のお話にもとづいて小笠原が補足しました).

わたしたちは,自身の内に,あるいは,気の合う仲間どうしの内に,閉じこもってしまいがちです.その方が気楽だと感ずるからです.確かに,他者へ近づき,手を差し伸べても,ときには拒否され,ときには攻撃さえされるかもしれません.しかし,隣人愛は,壁を越えて橋を架けることに存します.

最大の架け橋は,神が御自身と人間との間に架けてくださった橋です.

愛は,身を低めることを可能にします.神は,わたしたちが神を識らなくても,わたしたちを愛してくださり,身を低め,人間との距離をどんどん小さくし,ついには御自身が人間となりました.イェス・キリストです.

神がそうしてくださったのは,人間たちを憐れんだからです.

神は人間を創造してくださいましたが,人間たちは神に背きました.神から目をそらせてしまいました.しかし神は,だからといって,「では勝手にしていなさい,わたしはもう知らない」とは言いませんでした.神は,人間たちを慈しみ,憐れんでくださいました.

隣人愛の実行にも,憐れみがかかわっています.「金持ちとラザロ」の譬えと同様にルカ福音書だけに伝えられているイェスの譬えのひとつが「良きサマリア人」の譬えです.

強盗に襲われて半死の状態で横たわる人を無視して,祭司とレビ人は通り過ぎました.しかし,当時イスラエルの民から差別され,社会の辺縁へ追いやられていたサマリア人のひとりは,その男のところに来て,その男を見て,憐れみを覚え,そして彼に近づき,救いの手を差し伸べます.

この「憐れみを覚える」という動詞は,ギリシャ語で splanchnizein です.spleen は脾臓,splanchna は内臓,はらわたです.はらわたが締めつけられるように,胸が締めつけられるように,腹の底から,心の底から感ぜられる憐れみの気持ち.この splanchnizein という動詞は,聖書のほかの箇所では,神が人間を憐れむときにだけ用いられています.

しかし,隣人愛も,神が人間を愛し,憐れんでくださるのと同じように,他者を愛し,憐れむことです.そして,それによって,他者との間に橋を架け,互いに愛し合うことです.

隣人愛にもとづいて,わたしたちも,互いに対して自身を開き,手を差し伸べ合いましょう.


御ミサの後は,分かち合いの集いが開かれました.

関谷義樹神父様は,ドン・ボスコ社発行の月間『カトリック生活』の編集長を務めています.その雑誌で LGBT をテーマとして取り上げるとすれば,どのような記事が望まれるか,と御質問したところ,LGBT を擁護する立場からの記事が欲しい,という御意見が述べられました.

カトリック教会が伝統的に同性愛行為を断罪してきたせいで,同性愛者たちはいまだに強い有罪感にさいなまれており,カトリック教会から拒絶されていると感じています.カトリック教会はそのことに責任を感じ,和解の態度を示すべきです.

LGBTIQ+ の人々を擁護する LGBT 神学の議論が,日本のカトリック教会のなかでも望まれます.

ルカ小笠原晋也

2016年09月27日

2016年08月28日,第二回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年08月28日,第二回 LGBT 特別ミサが行われました.

その恵みをわたしたちに与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった小宇佐敬二神父様に感謝します.

当日の第二朗読で述べられているように,わたしたちは「新たな契約の仲介者イェス」に近づきます (He 12,24). あるいは,むしろ,イェス様は常にわたしたちの近くにいらしてくださいます.わたしたち差別された者を神の愛に包容してくださるために.

第一朗読では,全包容的な神の愛について,こう宣言されています:「そも,主の力は偉大であり,謙虚な者らによって讃えられる」(Si 3,20).

「へりくだる者,謙虚な者」と訳され得る tapeinos は,形容詞としては「低い」であり,人について用いられるときは「力や地位や評価の低い者」です.つまり,まずは,社会的に差別された者のことであり,そして次いで,彼ら・彼女らと同じように身を低める者のことです.

また,部分的に伝えられている「シラ書」のヘブライ語原文のフランス語訳は Car grande est la miséricorde de Dieu, aux humbles il dévoile son secret [そも,神の慈しみは大きく,神は謙虚な者らに御自身の秘密を啓かす]です.

とすると,こう読むことができます:主の慈しみは大きく,主は,差別された者らへ神の愛を打ち明け,差別された者らによって讃えられる.

それを受けて,福音朗読では,イェスはこう断言します:「そも,誰しも,身を高める者は低められ,かつ,身を低める者は高められるだろう」(Lc 14,11).

つまり,差別する者は低められ,差別された者は高められる.なぜなら,差別する者は神の愛に気づかず,而して,差別された者にこそ神の愛は打ち明けられるからです.

さらに,イェスはこう勧めます:「而して,宴を催すなら,貧しい人々,手や足の不自由な人々,目の見えない人々を招きなさい.されば,あなたは幸いとなろう」 (Lc 14,13-14).

差別された人々を神の愛の宴に招きなさい,そうすれば祝福されるだろう.

つまり,イェス様は予め LGBT 特別ミサを祝福してくださっています.

御ミサの後の分かち合いの集いでは,小宇佐神父様は,教会の教えにも時代や文化に制約されたところがあるので,すべてを鵜呑みにするのではなく,むしろ,教会が差別する側に立つことがないよう,何事にも制約されない普遍的な神のメッセージを読み取ることが大切だ,と語ってくださいました.また,参加者のなかには,積極的に御自身の信仰の歩みについて語ってくださる方もいらっしゃいました.有意義な分かち合いをすることができたと思います.

2016年08月30日

LGBT 特別ミサが日本のカトリック教会の歴史上初めて行われました

2016年07月17日,予定どおり,日本のカトリック教会の歴史上初めての LGBT 特別ミサが行われました.

主に感謝します.そして,司式してくださった神父様,お御堂を使用させてくださった施設の方々,ミサでさまざまな奉仕をしてくださった方々に感謝します.

個人情報の保護のため,当日,写真撮影は一切行いませんでした.したがって,ここに提示できる記念写真のようなものもありません.

共同祈願で,わたしはこのように祈りました:

「神の愛にこころを閉ざす律法中心主義のせいで,キリスト教は,その全歴史において,LGBT を断罪し,sexual minority の人々を差別してきました.しかし,先月,教皇 Francesco は,そのような過ちについてキリスト教徒は赦しを請わねばならない,とお認めになりました.隣人愛を本当に実践しようとする司牧者をわたしたちに使わしてくださった主に感謝します.神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容します.カトリック教会が差別と偽善をすべて退け,まことに神の愛の家となりますように.」

教皇 Francesco の包容精神がカトリック教会のすみずみにまで行きわたるよう,祈りましょう.

今までにも幾度か強調してきましたが,LGBT カトリック・ジャパンが望んでいるのは,閉じられた「仲良しグループ」を作ることではなく,而して,LGBT の人々がカトリック教会共同体に何の気がねもなく参加し得るようになることです.

そのためには,教皇 Francesco が「同性愛者差別の長い歴史について,カトリック教会は謝罪せねばならない」とおっしゃったことを踏まえて,LGBT の人々のための司牧の態勢を早急に整えてくださるよう,日本カトリック司教協議会に要請して行きたいと思います.その際,司教協議会の社会司教委員会のなかに,部落差別人権委員会,子供と女性の権利擁護のためのデスク,HIV/AIDS デスクなどに加えて,LGBT 司牧委員会を設置することを提案したいと考えています.

LGBT 司牧の問題について相談するために今までにお目にかかった神父様たち – うち,幾人かのお名前を挙げるなら,幸田和生司教様,小宇佐敬二神父様,Juan Masiá 神父様,片柳弘史神父様,晴佐久昌英神父様 – は皆,教皇 Francesco の包容の精神を共有してくださっています.LGBT を断罪する声が日本のカトリック教会から一掃されるのも,遠い先のことではないでしょう.

しかしながら,当分の間,LGBT の人々が気がねなく御ミサに与れる機会を提供するために,LGBT の人々だけのための特別ミサを今後も原則的に毎月一回,継続して行きたいと思っています.

司教様たちに伝えたいお気持ちや御意見,御要望などを,LGBT カトリック・ジャパンへお寄せください.

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容します.イェス様におすがりしましょう !

2016年07月25日

虹色のキリストへの祈り

Lesbian author Kittredge Cherry and gay theologian Patrick S. Cheng wrote the Rainbow Christ Prayer based on the seven models of the queer Christ from Cheng’s book “From Sin to Amazing Grace : Discovering the Queer Christ.”

We thank to Kitt for having proposed us to translate it into Japanese. We enjoyed much our works. We thank also to Patrick for having answered to our questions regarding translations. We thank of course to both of them for having made this wonderful prayer for LGBT+ people. And we thank to our friend Yoshiki Nakamura for having given us some useful suggestions that helped us to ameliorate our work.

Rainbow Christ Prayer
虹色のキリストへの祈り

1. Rainbow Christ, you embody all the colors of the world. Rainbows serve as bridges between different realms: Heaven and Earth, east and west, queer and non-queer. Inspire us to remember the values expressed in the rainbow flag of the lesbian, gay, bisexual, transgender, and queer community.

1. 虹色の主キリストよ,あなたは世のすべての色を表しています.虹は架け橋,天と地,東と西,差別される者とする者との架け橋です.わたしたち LGBTQ コミュニティの旗の虹色が何を意味しているかを,想い起こさせてください.

2. Red is for life, the root of spirit. Living and Self-Loving Christ, you are our Root. Free us from shame, and grant us the grace of healthy pride so we can follow our own inner light. With the red stripe in the rainbow, we give thanks that God created us just the way we are.

2. 赤は命,精気の源.永遠の命に生きておられ,御自身を愛しておられる主キリストよ,あなたはわたしたちの源です.自己否定感からわたしたちを解放し,わたしたちが自身の内なる光に導かれることができるよう,健全な誇りを持つ恵みをお与えください.虹の赤のもとに,わたしたちを今あるように創造してくださったことを神に感謝します.

3. Orange is for sexuality, the fire of spirit. Erotic Christ, you are our Fire, the Word made flesh. Free us from exploitation, and grant us the grace of mutual relationships. With the orange stripe in the rainbow, kindle a fire of passion in us.

3. オレンジはセクシュアリティ,精気の炎.エロスの主キリスト,受肉なさった御ことばよ,あなたはわたしたちの炎です.相手を利用するだけの利己心からわたしたちを解放し,互いを思い合える恵みをお与えください.虹のオレンジのもとに,わたしたちのなかに情熱の炎をともしてください.

4. Yellow is for self-esteem, the core of spirit. Out Christ, you are our Core. Free us from closets of secrecy, and give us the guts and grace to come out. With the yellow stripe in the rainbow, build our confidence.

4. 黄色は自尊心,精気の核.何も隠さない主キリストよ,あなたはわたしたちの核です.こころを閉ざすことからわたしたちを解放してください.クロゼットから出る勇気と恵みをお与えください.虹の黄色のもとに,わたしたちに自信を持たせてください.

5. Green is for love, the heart of spirit. Transgressive Outlaw Christ, you are our Heart, breaking rules out of love. In a world obsessed with purity, you touch the sick and eat with outcasts. Free us from conformity, and grant us the grace of deviance. With the green stripe in the rainbow, fill our hearts with untamed compassion for all beings.

5. 緑は愛,精気の心.律法を超越した主キリストよ,愛によって律法を打ち壊すあなたは,わたしたちの心です.浄さに執着するこの世において,あなたは,不浄と見なされた病人たちに触れ,差別された者たちと食事をともになさいます.因襲からわたしたちを解放し,律法に縛られずにいる恵みをお与えください.虹の緑のもとに,わたしたちの心を,律法にとらわれずにあらゆる存在を思いやる気持ちで満たしてください.

6. Blue is for self-expression, the voice of spirit. Liberator Christ, you are our Voice, speaking out against all forms of oppression. Free us from apathy, and grant us the grace of activism. With the blue stripe in the rainbow, motivate us to call for justice.

6. 青は自己表現,精気の声.解放者である主キリストよ,あなたはわたしたちの声,あらゆる形の抑圧に対して抗議してくださいます.無力感からわたしたちを解放し,社会で行動できる恵みをお与えください.虹の青のもとに,正義を求めることができるよう,わたしたちを勇気づけてください.

7. Violet is for vision, the wisdom of spirit. Interconnected Christ, you are our Wisdom, creating and sustaining the universe. Free us from isolation, and grant us the grace of interdependence. With the violet stripe in the rainbow, connect us with others and with the whole creation.

7. 紫は真理を見る力,精気の知恵.つながり合ってくださる主キリストよ,万物を創造し,維持するあなたは,わたしたちの知恵です.わたしたちを孤立から解放してください.互いに支え合う恵みをお与えください.虹の紫のもとに,わたしたちと他の人々とをつなげてください.わたしたちを全被造界とつなげてください.

8. Rainbow colors come together to make one light, the crown of universal consciousness. Hybrid and All-Encompassing Christ, you are our Crown, both human and divine. Free us from rigid categories, and grant us the grace of interwoven identities. With the rainbow, lead us beyond black-and-white thinking to experience the whole spectrum of life.

8. 虹の六色は合わさり,ひとつの光を成し,万物の創造主の王冠となります.すべてを混ぜ合わせ,すべてを包み込む主キリストよ,人間にして神であるあなたは,わたしたちの王冠です.凝り固まったカテゴリーからわたしたちを解放し,ひとりひとりが多様である恵みをお与えください.虹のもとに,黒か白かを決めつける思考を超えて,多彩な命のすべての色を経験できるよう,導いてください.

9. Rainbow Christ, you light up the world. You make rainbows as a promise to support all life on Earth. In the rainbow space we can see all the hidden connections between sexualities, genders, and races. Like the rainbow, may we embody all the colors of the world ! Amen.

9. 虹色の主キリストよ,あなたは,万物を照らし,虹を,地球の全生命を支える約束の徴になさいます.虹色の空間のなかで,さまざまなセクシュアリティ,ジェンダー,人種の間の隠されたつながりが見えてきます.虹のように,わたしたちが世のすべての色を表すことができますように! アーメン.

2016年06月06日

Tokyo Rainbow Pride 2016 に参加して

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Tokyo Rainbow Pride 2016 に参加して

5月8日に催された Tokyo Rainbow Pride 2016 に,LGBT カトリック・ジャパンとして参加してきました.我々のこの活動は昨年夏に始めたばかりなので,今回が初参加です.

ブースでの伝道活動と物品販売に協力してくださった方々に感謝します.主催者と参加者すべての方々にも感謝します.皆さん,お疲れさまでした !

或る30歳前後の方が感想をこう述べていました:「わたしが学生のころは,LGBT であることは絶対,人に知られてはならない,と思っていた.そのせいで,いつも暗い気分でいた.ところが,この10年間で日本でも LGBT を取り巻く環境は何と変わったことか ! こんなふうに,隠しだてすることなく,おおぜいで集まって,お祭りを楽しむことができるようになるなんて,以前は考えられなかった.とてもうれしい」.

神に創られたものとして,あらゆる人間は等しく神に愛されています.あらゆる人間が等しく存在の尊厳を有しているのは,そのことに基づいています.神の愛は,誰をも排除しません.すべての人間を包容します.(以下は,blog 記事をお読みください.)

2016年05月09日

Evan Wolfson 弁護士との出会い

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Evan Wolfson 弁護士との出会い

USA における同性婚運動においてリーダーの役を果たしてきた弁護士 Evan Wolfson 氏がこのたび来日しました.

わたし(ルカ小笠原晋也)は,2月20日に EMA 日本 (EMA は Equal Marriage Alliance の略)という NPO が主催するパーティーで彼の短い講演を聴き,彼の2004年の著書 Why Marriage Matters – America, Equality, and Gay People's Right to Marry [なぜ結婚が重要か – アメリカ,平等,そして同性愛の人々の結婚する権利]にサインしてもらい,彼と若干の対話をしてきました.

USA における同性婚運動は,1970年に或る同性カップルが婚姻証明書発行拒否を不服として提訴したことに始まります.その訴訟は敗訴に終わり,むしろ全米で同性婚の禁止を明記する立法が広がりました.欧州において,1979年にオランダで同性カップルに限定的な権利が初めて認められ,次いで1989年にデンマークで同性どうしの civil union の法制化が初めて成立し,次第にほかの国々へも広まっていったのとは,対照的でした... (以下は,blog 記事をお読みください.)

2016年02月25日

映画 The Case against 8 を観て

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映画 The Case against 8 を観て

映画 The Case against 8 が,「ジェンダー・マリアージュ」という邦題のもとに公開上映されました.USA で同性婚が最終的に合法化されるに至る過程の一部を成す California 州での裁判闘争のドキュメンタリーです.

ひとくちで言うなら,今の日本ではおよそあり得ない社会正義実現の喜びと満足を与えてくれるすばらしい作品です.フィクションではなく,ドキュメンタリーであるだけに,なおさらです.

それにしても,ひどい邦題です.英語で社会学的な意味における「性別」を意義する語 gender のカタカナ書きと,フランス語で「結婚」を意義する mariage のカタカナ書きとの単なる並置 ! まったく無意味です.この邦題を考えた映画配給会社関係者は言葉に関する感性を全く欠いている,としか思えません.

どうしてもカタカナ表題にしたいなら,せめて「アゲインスト・エイト」とでもすれば良かったでしょう.どうせ日本で劇場公開される映画のタイトルは大部分,そのままでは意味不明なのですから.

ともあれ,原題の the case against 8 という表現を理解するには,若干の予備知識が必要です... (以下は,blog 記事をお読みください.)

2016年02月09日

寺田留架さんの「虹ジャム」に参加して

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(右が寺田留架さん,左がルカ小笠原晋也.留架さんは本名です.わたしの「ルカ」は洗礼名です.)

寺田留架さん主宰「約束の虹ミニストリー」の勉強会「虹ジャム」に参加してきました

2015年11月17日の晩,寺田留架さんが主宰する「約束の虹ミニストリー」の勉強会「虹ジャム」に参加しました.

寺田留架さんは2015年3月に東京聖書学院を卒業した「牧師のタマゴ」です.

彼は,Jeffrey S. Siker 編の論文集 Homosexuality in the Church : Both Sides of the Debate (1994) の概要を紹介してくれました.同書は,USA のプロテスタント教会における LGBT 問題に関する議論の総説です.LGBT は罪であるか否か,LGBT の人々をプロテスタント教会へ受け容れるか否かについて,賛成論と反対論の双方が収録されています.

カトリック信徒としてのわたしの意見は,フランチェスコ教皇が2015年11月5日朝の説教でおっしゃったことに尽くされています:キリスト者は包容する.裁きも排除もしない.

LGBT の人々が気兼ね無く御ミサや礼拝に参加することができるよう,寺田留架さんと共に今後も活動して行きましょう.

2015年11月18日

百人隊長の少年愛について

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百人隊長の少年愛について

我々の友人 Stephen Lovatt 氏は,彼の著作 Faithful to the Truth : How to be an orthodox gay Catholic において,福音書のなかの少年愛について興味深い指摘をしている.

彼が注目したのは,マタイ福音書 8,5-13 に物語られているイェスの奇跡である.その一節は,手元にあるフランチェスコ会訳においても共同訳においてもほぼ同様に訳されているので,フランチェスコ会訳から引用すると:

(...) 百人隊長が近づいてきて,イェスに懇願した.「主よ,わたしの僕が中風でひどく苦しみ,家で寝込んでいます」.イェスが「わたしが行って,癒してあげよう」と仰せになると,百人隊長は答えて言った.「主よ,わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます (...)」.(...) イェスは百人隊長に仰せになった.「帰りなさい.あなたが信じたとおりになるように」.すると,ちょうどそのとき僕は癒された.

邦訳を読むだけでは,この一節が有する意義は把握し得ない.ギリシャ語原文を提示すると... (以下は,blog 記事をお読みください)

2015年09月04日

聖書のなかの「宦官」について

聖書のなかの「宦官」について

宦官は,古代,中国だけでなく,中近東諸国の宮廷でも登用されていました.旧約聖書の三大預言書のひとつ,イザヤ書の一節 (56,3-5) に,宦官への言及が見出されます.

預言者イザヤは,神の言葉をこう伝えています:「宦官でも,神の律法を守り,神の喜ぶことをするならば,神の家のなかに居場所が確保される」(56,3-5).

実は,同じ旧約聖書の申命記には,去勢された者は神の民の集まりには入れないと記されています.ですから,イザヤ書に述べられていることは精神的進歩です.

「宦官」はギリシャ語で eunouchos です.その語は,宮中に仕える狭義の宦官だけでなく,去勢された者全般を指します.

eunouchos の派生語 eunouchismos は「去勢」です.

マタイ福音書の一節 (19,12) で,イェスは唐突に「宦官」について語ります:「実際,宦官として母胎から生まれた者があり,人々により宦官にされた者がある.また,天の御国のゆえにみづから宦官になった者がいる」.

続けてイェスは「理解できる者は理解せよ」と言っていますから,この宦官についての彼の発言をどう解釈すべきか,じっくり考えてみなければなりません.

邦訳聖書(共同訳,フランチェスコ会訳)では「宦官」が「結婚できない者」と訳されているので,さらに理解困難です.フランチェスコ会訳では一応,「結婚できない者」はギリシャ語原文では「宦官」と訳される語である,と注釈が付けられてはいますが.

しかし,「宦官」を「去勢された者」と読みかえればどうでしょうか?「生まれつき去勢されている者があり,人々により去勢された者がある.また,天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる.」

実際,天の御国のために自己去勢した者がいます.たとえば,教父のひとりである Origenes (185-253). 彼は偉大な神学者ですが,しかし,神からいただいた身体をみづから損傷したがゆえに,聖人には列せられていません.

去勢は,しかし,身体的なものに限定されません.「去勢」と関連する聖書の語は「割礼」です.ユダヤ教徒は,旧約聖書の律法にもとづき,男児に割礼を施します.しかし,既に旧約聖書において,重要なのは肉に施される割礼ではなく,「心の割礼」である,と述べられています.

聖パウロはローマ書簡 2,25-29 で「割礼を受けていても,律法に違反するなら未割礼者と同じだ」と論じつつ,最後にこう言います:決定的なのは「霊気 (pneuma, spiritus) において心に施される割礼であり,律法の字面において肉に施される割礼ではない.」

かくして我々は,castration spirituelle[霊気における去勢]という表現を作り出しても良いかもしれません.それはまさに精神分析においてかかわる去勢です.

あなたは,自有 [ Ereignis ] のために霊気的去勢を敢行する勇気を持ち得ますか?

ともあれ,先ほど引用したマタイ福音書の一節 (19,12) のイェスの言葉:「天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる」を,我々はむしろこう読むべきかもしれません:「天の御国に入るためには,我々は自身を去勢せねばならない」.

男性性器の包皮を切り取る割礼だけでは不十分です.しかも割礼は,律法に規定されたことを慣習的に実行するだけのことであれば,「肉の割礼」にすぎません.

それに対して我々は,包皮を切り取るだけで済ますのではなく,通常の意味での男性性を象徴する phallus そのものを切り取らねばなりません.

勿論,かかわっているのは,物理的な去勢ではなく,霊気的な去勢です.聖なる霊気,Sanctus Spiritus, 聖霊の作用によって,霊気的な去勢を授かることがかかわっています.

なぜ我々は霊気的な去勢を授からねばならないのか?なぜかというと,それは,霊気的な去勢こそ,乙女マリアのように神の意志に従順であることを我々に可能にするからです.

LGBT に対する差別意識と,女性に対する差別意識は,ともに同じものに根ざしています.それは,俗に男尊女卑と呼ばれている心性です.つまり,男性性を象徴する phallus を金の仔牛のように偶像崇拝することです.

そのような phallus 偶像崇拝こそ,霊気的な去勢によって除去されるべきものです.そして,それは,天の御国に入るための必要条件です.

2015年08月25日