日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言

日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言

2019年02月21-24日,Vatican で,世界各国の司教協議会の長を招集して,カトリック教会における青少年に対する性的虐待の問題と未成年者の保護の問題に関する会議が開かれます(通称 Vatican sex abuse summit : ヴァチカン性的虐待サミット).

それに対する皮肉のごとくに,今までも homosexuality に関する著作を多数発表している社会学者 Frédéric Martel 氏が,Vatican に内在的な homosexuality に関する研究書 Sodoma — Enquête au coeur du Vatican[ソドム — ヴァチカンのただなかにおける調査](英訳表題 : In the Closet of the Vatican : Power, Homosexuality, Hypocrisy[ヴァチカンの隠し所:権力,ホモセクシュアリティ,偽善]を,その会議の初日に合わせて出版します.The Guardian 紙は「Vatican の司祭の 5 人に 4 人は gay だ」との見だしのもとに,その本を紹介しています.

そして,日本でも,カトリック聖職者による性的虐待の被害者が,初めて,みづから名のり出ました:竹中勝美さんです(1956年生れ — わたし[ルカ小笠原晋也]と同い年です).彼の証言が,文藝春秋2019年03月号に発表されました.以前に彼が洗礼名「エドワード」名義で発表した書簡回想の方が,記事よりも,彼の痛々しい経験をなまなましく伝えています.

それによると,竹中勝美さんは,初等教育期間を東京サレジオ学園で過ごしました.1955年から 6 年間,学園の小中学校の校長を務めた Thomas Manhard 神父 SDB (1915-1986) から,竹中さんは,9-10歳ころ,頻繁に性的虐待を受けました.その後遺症は,長年にわたって彼を苦しめ続けました.

わたしは東京学芸大学附属小金井小学校中学校に通っていたので,そのすぐ近くにあるサレジオ学園の名前はなじみのものでした.そのなかで子どもたちに対する虐待が頻繁に行われていたのかと思うと,今さらながら,強いショックを感じます.ともあれ,竹中さんの勇気をたたえるとともに,彼の証言が日本におけるカトリック教会の改革に貢献してくれることを願いたいと思います.

今までも繰り返し強調してきたように,カトリック聖職者による青少年に対する性的虐待の原因は,加害者の homosexuality に存するのではありません.そうではなく,カトリック教義が homosexuality を厳しく断罪していることこそが問題です.

カトリック聖職者には castitas[貞節,貞潔]の義務が課せられています.その義務を果たし得るためには,単に性欲を「我慢」すればよいのではなく,しかして,欲望の昇華 (sublimation) が達成されていなければなりません.欲望の昇華に至るためには,自身の sexuality に関する自覚と内省の多大な努力が必要です.

ところが,教義が homosexuality を断罪しているせいで,gay である神学生の場合,排斥と否認のメカニズムが働き,自身の sexuality に対する自覚的な取り組みをすることが困難になってしまいます.すると,どうなるか?「わたしは,女性に接しても性欲をまったく感じないから,性的な問題を克服することができている」とカン違いしてしまいます.そして,司祭に叙階され,たまたま,身近に子どもたちがいる環境で働くことになると,どうなるか?排斥されたものの回帰の症状として,抑えがたい性的衝動が襲ってきます.子どもに手を出してはいけないとわかっていながらも,その行動を抑制することはどうしてもできません.そして,適当な合理化のもとに,性的行動を強迫的に反復することになります.

では,神学生から gay を除外すればよいのか?それは,技術的に不可能です.まさに教義による homosexuality 断罪のせいで,gay である神学生は自身が gay であることを自覚し得なくなっているからです.そのような場合でも有効な「homosexuality 探知機」として機能し得る心理テストのようなものは,ありません.勿論,直接の面接によっても,確信的に察知することはできません.

Vatican は,考え方を根本的に方向転換する必要があります.教義における homosexuality に対する断罪を即座に廃するべきです.homosexual である人々が教会のなかで抑圧されているように感じざるを得ない雰囲気を変えるべきです.

聖職者が gay であっても,それはまったくかまわないことです — castitas の義務が守られているならば,つまり,性的欲望の昇華が達成されているならば.

そして,それは,heterosexual の聖職者の場合にも,当然,当てはまります.司祭による女性に対する性的暴力の事件も,昔から,かつ,最近も,大きな問題になっています.

人間存在は,本来的に性的なものです.神が人間をそう創造したからです.性的な欲望の問題については,それにフタをして,そこから目をそらしていたのでは,解決は得られません.欲望の昇華にこそ主題的に取り組むべきときがきたのだ — わたしは,精神分析家として,そう思います.

ルカ小笠原晋也

2019年02月20日