台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

アジアで最も LGBT friendly な国のひとつと言われている台湾で,同性婚法制化法案が議論され,世論は賛否半々に二分されています.

Tsai Ingwen(蔡英文)総統は,同性婚法制化に賛成する若い世代の支持を受けて2016年 1 月に選出され,5月に就任しましたが,保守派の反発を恐れて,この問題に関する態度を明確にしていません.

台湾で同性婚法制化が急に政治課題となったきっかけは,或る自殺でした.国立台湾大学のフランス文学教授 Jacques Picoux は,約40年間連れ添った同性パートナー Tseng Chingchao が癌で亡くなる際に,医療に関する意志決定にも死後の遺産相続にも関与することができず,今年10月,自殺しました.この痛ましい事件が,同性婚法制化の動きを急加速させることになりました.しかし,それに対する反発も引き起こすことになりました.

台湾でキリスト教徒の数は総人口の約 4.5 % であり,カトリックとプロテスタントが半々です.キリスト教は,少数派ではありながら,クリスチャンである政治家や知識人の存在のため,社会的影響力を持っていると言われています.

台湾のカトリック司教たちは同性婚法制化に反対の意見を表明していますが,若いカトリック信徒のなかには賛成する人々が多いようです.

わたしたちも,亡くなった Tseng Chingchao と Jacques Picoux のために祈りましょう.また,台湾の人々が神の愛のもとに対立を乗り越え,少数者の権利を尊重する全包容的な社会を築いて行けるよう祈りましょう.

ところで,同性婚法制化をめぐる社会対立の激化のなかで,我々の友人 Frank Wangさんは,12月04日付の Taipei Times にすばらしい意見記事を発表しています.是非日本の皆さんにも読んでほしいと思い,邦訳しました.翻訳を快く承諾してくれた Frank Wang さんに感謝します.

なお,Taipei Times は表題を "Catholics must accept gay marriage"[カトリック信者たちは同性婚を容認せねばならない]としていますが,これは執筆者の意図どおりではありません.Frank Wang さんが付けた原題は "In Love We Have No Fear"[愛において我々は何も恐れない]です.

Taipei Times, 2016年12月04日付記事

愛において我々は何も恐れない

執筆者 : Frank Wang(王增勇,国立政治大学ソーシャルワーク研究所副教授)

同性婚は,カトリック教会内で賛否が両極端に分かれる問題である.わたしは,この論戦に巻き込まれたカトリック教会の一世俗信徒として,「怒りのせいで愛を忘れたカトリック信者」にはなるまいと努めている.

神は,我々を皆,愛しており,誰をも遠ざけようと思ってはおられない.各人の人生は,ちょうど聖書のようである:我々は皆,神から霊気を受けている.

それは,「我々は,聖書を武器にして,真理と理性を独占しており,我々だけが人々すべてに対して審判をくだすことができる」という意味ではない.もし心が愛に満ちていないなら,言葉は虚ろに響くだけだ.したがって,重要なのは,神の命令:「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」に従って,同性婚問題を再検討することである.

神は,わたしを同性愛者として創造なさった.しかしそれは,神がわたしを他の人々より愛していないという意味ではない.それどころか,わたしが同性愛者であるということは,わたしに与えられた最大の祝福である.

わたしは,カトリック信仰のせいで同性愛者である自分を嫌悪する,ということにはならなかった;むしろ,神の無条件な愛によって,わたしは,あるがままの自分を受け入れる勇気を与えられた.

わたしも最初は自分を受け入れることができなかった.同性愛者であるせいで,大切に思っているものすべてを失ってしまうことになるのではないかと恐れていたからだ.しかし,神の愛は,恐れることはない,とわたしに教えてくださった.

同性婚問題を論ずるとき,カトリック信者は,「愛するとき,怖いものは何も無い」という根本的な論点に準拠すべきである.

多数のカトリック信者が同性婚に反対する潜在的な理由は,内在的な不安感である.社会秩序が失われてしまうのではないか,子どもたちに悪影響があるのではないか,今まで慣れ親しんできた世界がなくなってしまうのではないか,という恐れである.

しかし,信仰は我々にこう教えている:他者の苦しみに目をつぶることはできない,なぜなら,十字架上でイェスはたいへん苦しまれたから.今日,同性愛者たちが苦しんでいるのを見るとき,我々は,イェスの苦しみを思い出すべきである.少数者たちが犠牲にされるのは,「彼らは我々とは違う」という思いが不安にさせるからだ.この不安感が自身の内にあることを認めることによってのみ,我々は,神の愛を実践することができる.

教皇フランシスコは既に,同性愛者たちに対するカトリック教会の従来のふるまいについて謝罪した.

同性愛についてわたし自身が以前に感じていた不安を,ここで分かち合いたい.わたしは常々こう懸念していた:もしわたしが同性愛者なら,両親はとても悲しむだろう,特にわたしは一人息子だから.

また,こうも懸念していた:友人たちはわたしから離れて行くだろう,わたしが「不道徳」で「ふしだら」なことをしているという理由で.わたしは,そうしたいと思っても,隣人を助ける仕事に身が入らなかった.同性愛者から助けてもらいたいと思うような人は誰もいないだろうから.

そのような自己否定をしている間,わたしは,異性愛の関係を持とうと試みた.しかし,自分自身に誠実ではなかったので,当時のガールフレンドに与えることができた感動もニセモノにすぎなかった.彼女に近しくあろうとしても,わたしは躊躇してしまい,彼女にわたしのすべてを与えることができなかった.ふたりの関係は,わたしたち双方を傷つけて終わった.今に至るまでなおも,わたしはそのことを恥ずかしく感じている.

わたしは,神によって同性愛を「直して」もらおうとした.しかし,祈りにおいて,わたしは,神がわたしを受け入れてくださり,愛してくださっていると感ずることができた.ついに,わたしは,不安のうちに生き続けることをやめた.自身と他者を欺く生活は二度としない,と誓った.

もし仮に「神は異性愛夫婦の愛にしか祝福を与えない」と信じていたなら,わたしは多分,もう既に異性と結婚していただろう.しかし,わたしも妻も,性的な欲望を満たすことができず,きっと後悔と自責の念を抱き,その苦痛の重荷を相手に背負わせることで終わっていただろう.そのような不幸な結婚生活のなかで育つ子どもが,どうして健康なおとなになり得るだろうか?

教皇は最近,人々に警告した:「敵意の伝染病」に毒されることのないように,そして,憎悪をあおるレッテル貼りをしないように,と.同性婚に関する論争によって,多くのカトリック信者がやるせない気持ちになっている.分裂によって不安が撒き散らされ,対立が生み出されたからだ.互いに愛し合うかわりに,キリスト教徒たちは,憎しみにより分裂してしまっている.

わたしは,カトリックの兄弟姉妹たちに言いたい:あなたたちが今感じている不安を,わたしもかつて感じていた.しかし,同性婚を許容することによって,あなたたちは,次世代がより良く互いに愛し合うのを学ぶことを可能にするだろう.同性婚を認めても,次世代が同性愛の世代になるわけではない.

同性愛者たちは,異性愛者の世界のなかで,自分は人間だと感ずる資格が認められるだろうという希望を持つことができない:それが,同性愛者の感ずる最大の苦痛である.どうか,わたしたちが神の愛へ立ち戻れるようにしてほしい.どうか,神を手本にして,学んでほしい,誰をも遠ざけず,他者に希望を与え,同性愛者に愛を与えることを.そして,同性愛者に知らせてほしい,彼ら・彼女らの愛も神に祝福されている,ということを.

2016年12月20日