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Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 教理省による〈同性カップルに対する祝福の〉禁止を 批判する:自然法にもとづく教会の教えは もはや受容され得ず,逆に,カトリック教義の信頼性をますます失わせるだけだ

Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 教理省による〈同性カップルに対する祝福の〉禁止を 批判する:自然法にもとづく教会の教えは もはや受容され得ず,逆に,カトリック教義の信頼性をますます失わせるだけだ

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2021年04月06日

教皇フランチェスコの 神の母 マリアへの 祈り

Papa Francesco は,2020年03月11日(偶然にも 東日本大震災 9 周年の日),ローマの Santuario della Madonna del Divino Amore で 信徒の参列なしに Angelo De Donatis 枢機卿の司式により行われたミサのために,ヴィデオメッセージを送りました.そして,そのなかで,次のように 神の母 おとめ マリア に祈りました:

Vorrei volgermi a tutti gli ammalati che sono col virus, che soffrono la malattia e a tanti che soffrono incertezze sulle proprie malattie. Ringrazio di cuore personaggi ospedalieri, i medici, infermiere, infermieri e volontari che in questo momento tanto difficile sono accanto le persone che soffrono.

O Maria, tu risplendi sempre nel nostro cammino come segno di salvezza e di speranza. Noi ci affidiamo a te, Salute dei malati, che presso la croce sei stata associata al dolore di Gesù, mantenendo ferma la tua fede. Tu, Salvezza del popolo romano, sai di che cosa abbiamo bisogno e siamo certi che provvederai perché, come a Cana di Galilea, possa tornare la gioia e la festa dopo questo momento di prova. Aiutaci, Madre del Divino Amore, a conformarci al volere del Padre e a fare ciò che ci dirà Gesù, che ha preso su di sé le nostre sofferenze e si è caricato dei nostri dolori per condurci, attraverso la croce, alla gioia della risurrezione. Amen.

Sotto la Tua protezione cerchiamo rifugio, Santa Madre di Dio. Non disprezzare le suppliche di noi che siamo nella prova, e liberaci da ogni pericolo, o Vergine gloriosa e benedetta.

わたしは,COVID-19 に罹患し,苦しむ患者さん皆と 自身の病気に関する不確実さに苦しむ人々すべてとに 心を向けたいと思います.このとても困難なときに 苦しむ人々に寄り添う 医療従事者たち — 医師たち,看護師たち,ヴォランティアたち — に,わたしは 心から感謝します.

おお マリアよ,

あなたは,救いと希望の徴として,常に わたしたちの道を照らすために 輝いています.あなたは,十字架のもとで,イェスとともに苦しみつつ,信仰を確かに持ち続けました.病人たちの救いであるあなたに,わたしたちは わたしたち自身を ゆだねます.

ローマの民の救いであるマリアよ,あなたは,わたしたちが何を必要としているかを 御存じです.そして,ガリラヤのカナにおけるように,試練の後に 喜びと宴が戻ってくるように,あなたが わたしたちの必要としているものを提供してくださると,わたしたちは確信しています.

主 イェスは,わたしたちの苦しみを御自身に引き受け,わたしたちの痛みを背負ってくださいました — 十字架をとおして 復活の喜びへ わたしたちを導くために.

神の愛の母よ,わたしたちが 御父の意志にかなうことができるよう,わたしたちを助けてください.わたしたちが 主がわたしたちに言ったことを為し得るよう,わたしたちを助けてください.アーメン.

聖なる神の母よ,あなたの庇護のもとに,わたしたちは よりどころを求めます.栄光を受け,祝福された おとめよ,試練のさなかにある人々の願いを 聞き入れてください.あらゆる危険から わたしたちを助け出してください.


そこで Papa Francesco は 聖母マリアを「ローマの民の救い」(salvezza del popolo romano) と呼んでいますが,わたしたちは,その「ローマの民」は,現在のローマ市の住民のことだけでなく,神の民すべてのことである,と解してよいでしょう.

2020年09月29日

共同祈願,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年02月23日 : Querido Japón

2020年02月23日の LGBTQ+ みんなのミサにおける共同祈願 : Querido Japón

今月(2020年02月)12日に,Papa Francesco の新たな使徒的勧告 Querida Amazonia[愛しきアマゾニア]が発表されました.歴史的にキリスト教国であった国々の人々とはまったく異なる歴史と言語を有する人々に神の愛の福音を伝えるために,パパ様は,「アマゾン的な顔を持つ教会」を欲しています.はたして「日本的な顔を持つ教会」は?ともあれ,パパ様は,Querida Amazonia を,神の母 おとめマリアに向けた祈りで締めくくっています.その祈りを,わたしたちは,「アマゾニア」を「日本」に置き換えて,ともに祈りましょう:


生きるものすべての母よ,
存在するものすべての主であるイェスは,
あなたの胎のなかで,人となりました.
主は,復活して,その光によって,あなたを変え,
あなたを,被造物すべての女王にしました.
それゆえ,わたしたちは,あなたに お願いします:
マリアよ,わたしたちの脈打つ心のなかで,女王として 君臨してください.

森と河と,そこにうごめくすべてのものの美しさ,そこに咲くすべての花の美しさのなかで,
マリアよ,被造物すべての母として,現れてください.
被造物すべてを,その輝きにおいて,やさしく育んでください.

そこに生きるわたしたちすべてのうえに 神の愛を広げてくださるよう,
マリアよ,イェスに願ってください.
わたしたちが,被造物を賛美し,それらを育むことができますように.

わたしたちの心のなかに,あなたの子 イェスを生んでください,
日本においても,日本人のなかにも,日本の文化のなかにも,
主の御ことばの光によって,主の愛のなぐさめによって,
御子イェスが輝きますように.

その輝きが,御聖体ひとつひとつにおいても,現れ出でますように,
御父の栄光のために.

母なるマリアよ,あわれなわたしたちを見てください,
わたしたちの家は,さもしい利害のために,破壊されつつあります.
祝福された 命豊かな日本の土地は,
なんと苦しみ,なんと惨めな思いをし,
なんと見棄てられ,なんという暴力を被っていることか!

権力を握る者たちの心に触れてください.
もはや手遅れだと感ぜられても,
あなたは,わたしたちに呼びかけています,
生きているものを救うように と.

心を剣で貫かれた 母なるマリアよ,
虐待を受けた子どもたちのなかで,傷つけられた自然のなかで,苦しむ 母なるマリアよ,
日本でも,女王として君臨してください,
あなたの子 イェスとともに.
自分こそ万物の支配者である と勘違いする者が 二度と現れないように,
母なるマリアよ,御子イェスとともに,日本でも 女王として 君臨してください.

生きるものすべての母よ,わたしたちは,わたしたち自身を あなたに委ねます.
この闇の時代に,わたしたちを見棄てないでください.

Amen

2020年09月29日

鈴木伸国神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年02月23日

鈴木伸国神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年02月23日

イエスの話しは,大抵、日常の情景を想像すればピンとくるものが多いのですが,わたしは これまでの人生の中で「右の頬を打たれたら,左の頬をも出す」ような人を まだ見たことがありません.そもそも,下着を取ろうとする人を見たこともないし,上着を取ろうとする人を見たこともありません.「誰かが 1 ミリオン行くように強いるなら,いっしょに 2 ミリオン行きなさい」— これもピンと来ません.それに比べれば,「右の頬を打たれたら,左の頬をも出しなさい」は,まだわかりやすいのですが、聞いたことさえありません.

それと比べれば「あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない」は分かるような気がします.昔の日本の村社会なら「情けは人のためならず」とも言いますし,そのころは 皆が各人の生活事情を知っていましたから,頼まれたら嫌とは言いいにくかったでしょう.

でも,今の世の中では「困っているので 助けてください」と言っている人が本当に困っているのかどうか,わからないような気がします.これをあげたら,わたしが損をする.これを許したら — たとえばこの債権を帳消しにしたら,わたしは債権を失うことになる.借りと貸し,面子と面子 — そういう世界になってるような気がします.

さて,今日の福音のなかで,わたしが(いい意味での)チャレンジを感じたのは「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉です.

チャレンジになる。それは,わたしにとって「呼びかけを感じる」ということです。

「完全になりなさい」、「天の父のような寛大さをもちなさい」.もし この言葉を まっすぐに受けいれることのできる人がいれば,受けいれてほしいと思います.その人は,もう説教を聴く必要もないでしょう.自分を迫害する者のために祈り,自分の敵を愛することができる — そのように完全な人は,教会に来る必要すらないかもしれません.

でも「完全さ」への呼かけには 注意が必要だと感じます。私にとって このチャレンジの助けになってくれたのは,「父は,悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という言葉でした.この言葉を読むとき,「自分を迫害した人,自分が憎んでいる人にも,心から優しくしなければいけない」という諭しとして受け取るときもあります。でも,今回 感じたのは、「少しぐらいの憎しみや、妬みなんかには負けないくらいに あたたか輝くようなお父さん」のようなイメージでした。

わたしは最近,子どもの保育をしている人たちや,お年寄りの介護をする人たちとの付き合いが多いのですが、子供が急に叩いてきたり,急に「先生なんか死んじゃえ!」というくらい厳しい言葉が飛び交うこともあるようです。おじいちゃんやおばあちゃんでも,たいへんです,急に しかりつけたり、命令したり、殴ってきたり... そんなとき,カッとなる人もいます.それは それで いいんです.でも,カッとならない人もいます.急に殴られたときにとっさに、自分のことより,叱ったり殴ったりしてきた相手の方に心が向いて、「どうしたんですか?」と問い返す人がいます。第一声で,「何か痛かったんですか?」と聞き返せる人たちもいます。

何かがあったとき,自分の受けた痛みに — そして,痛みをとおして 心に与えられた傷に — 心が向いてしまえば,人に優しくすることは はじめからできないでしょう.人のこころは傷には敏感です。恐れのあるところには 愛の生まれる場がありません。

もちろん,決して手放すことのできない憎しみや怒りを抱えている人もいます.毎晩毎晩,子どものころにされたことを悪夢に見る,朝起きるたびに怒りがこみ上げてくる。そんな人もいます。そんな人に,「その憎しみを手放して、その人を愛せ」と命ずるとしたら、それは「こころを殺してしまいなさい」というのに近いかもしれません。そして,それを 神さまは「命じ」はしないと思います。

でも,よく考えて欲しいのは,パチンと叩かれたときに,「どうしたの?」と声をかけることのできる自分,「何すんのよ!」と応える自分と,どちらでも選べるとしたら,「まず 人に憎しみを向ける人なりたい」と(もし本当に幸せになりたいと願えるとすれば)思う人は いるでしょうか。

そんなことを考えると,「悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」という神の姿は いいものだなあ,と感じたわけです.

「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」.

この「完全な」(τέλειος) という語を、自分の感情を支配できるほどの「完全さ」、あるいは人間的な弱さを超越した「強さ」と理解すると,この呼びかけは,わたしには、できっこないこと命じる叱責にしか聞こえてきません。かえって,これを,たとえば「とても幸せな」とか「とても満ち足りた」と理解すれば、痛みや妬み、さみしさや苛立ちに揺さぶられることなく、人を気づかえる自分に満足し、周りの人を愛することを自分の喜びとし受け入れているような、とても大きな愛をもった、ちょっと憧れてしまいそうな お父さん、あるいは お母さんの姿が 思い浮かびます。ですから,先の言葉は、そんな風に とても大きなほほえみを浮かべてながら話しかけてくれる お父さん、お母さんからの語りかけのように感じるのです。たとえば,「天の父が満ち足りているように,あなたがたも,もしできるなら,満ち足りた者になりなさい」と.

右の頬を叩かれたとき,喜んで自分の左の頬を出しながら,「どうしたの?」ときいてあげられる人になれればいいなあ,と思いました.

2020年02月27日

わたしは ゲイである息子を誇りに思います

わたしは ゲイである息子を誇りに思います

LGBTQ である子どもを親が受け入れることができるよう 手助けする母

The Korean Herald の記事 の翻訳)

Hong Jung-seun は,彼女の息子 Jiho (38) が,12 年前に,ゲイであることを彼女に打ち明けたとき,彼女の世界が停止したかのように感じた.

熱心なカトリック信者である彼女は,何度も神にたずねた :「なぜ わたしと わたしの家族は このような個人的な危機に直面しているのですか?」,「わたしは,人生のなかで,どんな悪いことをしたのでしょう?」彼女は,息子が「正常」な生活を送れるよう,彼の性的指向を変えてください,と神に頼んだ.

結局,変わったのは彼女の方だった.

「わたしは,神に仕えるために,一身を捧げてきました.なのに,なぜ わたしの息子が?それは,わたしが何か悪いことをしたことに対する罰なのだ,とわたしは考えました.わたしは,神を憎みました」と,Hong は,The Korea Herald とのインタヴューの際に,言った.

息子のカミングアウトの後,しばらくの間,彼女は,食事することができなかった.精神的なショックと,認めたくないという気持ちと,罪意識のために,何日間も眠れなかった.気分は,めまぐるしく変わった.

LGBTQ の人々が,しばしば,否定され,差別され,憎悪の対象となる韓国社会において,息子の性的指向は,彼の人生にとって,および,彼女の人生にとって,何を意味するのか,という問いが,彼女の頭にこびりついた.

ひとりで長い時間を祈りに費やしたあと,彼女は悟った:神は,彼女を罰しているのではなく,愛と受容の徳を彼女に教えているのだ.

「わたしの人生の目標は,息子を良い大学に入れ,彼に良い仕事を見つけさせ,彼が良い家族を持てるようにすることでした.しかし,わたしは,わたしが彼にこうあって欲しいと思うような彼ではなく,今あるがままの彼を見て,受け入れることを,学びました」と 彼女は言う.「わたしには,命あるものを変えることはできないが,それを抱きしめることはできる,ということを,神はわたしに教えてくれました」.

「息子のカミングアウトがなかったなら,わたしは,偏見を打ち破ることなしに,社会的に差別されている人々に心から共感することができないままに,生きて,死んでいたでしょう」と 彼女は言った.「わたしの視界は広がり,わたしの世界は豊かになりました.わたしは,感謝することの意味を学びました」.

今,Hong は,LGBTQ である子どもを持つ親たちのグループを,主宰している.グループは,月に一度,三時間の会合を持っている.それは,同様の悩みを持つほかの親たちを支える彼女のやりかたである.

韓国において,homosexuality は非合法ではないが,LGBTQ の人々に対する差別は社会のなかに広く残っている.韓国の LGBTQ の人々の多くは,社会的断罪を恐れて,クローゼットに閉じこもったままである.

2019年に発表された OECD[経済協力開発機構]の レポート によると,韓国は,LGBTQ 包容度に関しては,調査対象であるメンバー国[35ヶ国]のなかで,下から 4 番目である[日本は 下から 11 番目].OECD 全体の平均が 10 点中 5.1 であるのに対して,韓国は 2.8 点である[日本のポイントは ほぼ平均値].

LGBTQ ティーンズは,さらに弱い立場に置かれているように思われる.

韓国の人権委員会が 2014 年にした調査によると,LGBTQ ティーンズの 54 % が学校におけるいじめや差別を経験しており,19.4 % が自殺未遂を経験している.

Hong のグループ会合に参加している親たちの大多数は,カムアウトしたばかりのティーン年齢の子どもを持っている.そのような子どもたちは,生死の境界線上を歩んでおり,助けを求めているのだ,と Hong は言った.

「わたしの息子が神経過敏になっていた時期がありました.そのとき,わたしは,高校入試のための勉強のストレスのせいだろう,と思っていました.息子がひとりで恐怖と孤独に耐えねばならなかったのだと思うと,申しわけない気持ちになります」と 彼女は言った.

彼女は,息子のために,LGBTQ の人々が繁栄することができ,あるがままで幸せになれる世界を,望んでいる.

「最も緊急には,差別を禁止する法律が必要です.LGBTQ である子どもを持つ親たちは,毎日,子どもたちの安全のことを心配しています.わたしは,ただ,わたしの息子が この韓国社会で ほかの人々と同様に安全に生きて行くことができることを,欲しているだけです.特権を求めているわけではありません」と彼女は言った.

LGBTQ の人々が人権を主張し,自分らしい外見を表現することに対して露骨に反対しているプロテスタントのグループに関して,彼女は,宗教は橋を架けるものであって,壁を造るものであってはならない,と付け加えた.

それでも,Hong には,ポジティヴな変化 — ゆっくりしたものではあるが — の徴候が見える.

Hong が主宰するグループは,2020年01月,韓国のカトリック人権委員会から Lee Don-myung 賞 — 韓国の民主化に貢献した人権擁護弁護士を記念して創設された賞 — を授かった.

韓国のプライド・パレードも,年々 規模が大きくなってきており,ソウルの中心部で行われた 2019 年のパレードには,LGBTQ の人々とサポーターたち,計八万人が参加した.

「もはや,息子のことは心配の種ではありません.彼は,幸福の源であり,感謝の理由であり,より豊かに,より多彩になる世界への架け橋です.ですから,彼がわたしの人生のなかに現れてきてくれたこと,そして,彼が今の彼であることに,わたしは日々 感謝しています」と彼女は言った.

「わが息子よ,わたしのために より大きな世界を開いてくれて,ありがとう」と彼女は言った.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2020年02月19日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2020年01月26日

酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日

今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です :「ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ」.

この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました.

前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました.

もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と?

「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です.

それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました.

そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです.

イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.

神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.

実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.

そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.

考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.

ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.

わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.

では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?

神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.

わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.

その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.

イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.

ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.

もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.

この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.

この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.

その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.

今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.

12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.

確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.

わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.

その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.

イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.

主は皆さんとともに.

2020年02月01日

James Martin 神父の説教と講話

James Martin 神父様 SJ (1960- ) は,USA のイェズス会が発行している週刊誌 America の特約編集者であり,教皇庁の Dicastero per la comunicazione[コミュニケーション担当部門]のコンサルタントです.彼は,LGBTQ+ カトリック信者たちの司牧活動に 積極的に取り組んでおり,教会と LGBTQ+ 信者たちの間に双方公的な交流を促すために,Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の⼈々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に⼊れるように](the first edition 2017, revised and augmented edition 2018) を著してしています.

Father James Martin のミサ説教や講話の動画を いくつか紹介しましょう:

1. Spiritual Insights for LGBT Catholics[LGBT カトリック信者のためのスピリチュアルな気づき]: 2018年03月に Building a Bridge の増補改訂版が出版された機会に発表された講話です(動画邦訳).

2. 2019年06月30日に World Pride NYC 2019 のパレードが行われる前日,6月29日の晩,LGBTQ Catholic community のために,Church of St Francis of Assisi において Fr James Martin の司式により行われたミサでの彼の説教(動画邦訳).

3. Father James Martin answers five common questions about LGBT Catholic ministry[LGBTQ カトリック信者への司牧活動に関してしばしば問われる五つの質問に James Martin 神父が答える]: LGBTQ+ カトリック信者たちのための司牧活動に関して しばしば問われる五つの問いに,Fr James Martin が答えます(動画邦訳).

2020年02月01日

Reinhard Marx 枢機卿:同性カップルは カトリック教会で祝福を受けることができる

München und Freising 大司教,ドイツのカトリック司教協議会の会長,Reinhard Marx 枢機卿 は,2019年12月22日付 (Internet edition) の Stern 誌の インタヴュー のなかで,同性カップルはカトリック教会のなかで祝福を受けることができる,と述べました.

記事本文は,ブログで御覧ください

2020年01月02日

ドイツのカトリック司教協議会は homosexuality を heterosexuality と同様に「性的素質の正常な形態」のひとつ と 認めた

ドイツのカトリック司教協議会は homosexuality を heterosexuality と同様に「性的素質の正常な形態」のひとつ と 認めた

ドイツ司教協議会は,2019年12月05日付で発表した 声明 のなかで,「人間の性的指向は,思春期に明確に現れてくる際,heteroseuxal な方向性 または homosexual な方向性を取る.両者は,ともに,性的素質の 正常な 形態であって,如何なる社会的影響によっても変えることはできず,また,[無理やり]変えられてはならない.homosexual な性向を有する人を 如何なる形においてであれ 差別することは,決して許されない」と述べました.

homosexuality の精神病理性を否定することは,精神医学の領域においては既に1970年代から始まっており,また,性的指向を変えようとする conversion therapy のたぐいの無効性と有害性も,既に1990年代には常識になっていました.カトリック教会が 遅まきながらも 医学的な常識を考慮に入れつつあるのは,喜ばしいことです.

2019年12月23日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)

第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a)
第二朗読:第2テサロニケ書簡 (3,07-12)
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿* が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.

2019年12月04日

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.

2019年12月04日

「キリスト教 性教育 研究会」について — Twitter account @glory_of_church で,執拗に LGBTQ+ に対する嫌がらせを行い,また,Papa Francesco を異端呼ばわりし続けているのは,誰か?

「キリスト教 性教育 研究会」について — Twitter account @glory_of_church で,執拗に LGBTQ+ に対する嫌がらせを行い,また,Papa Francesco を異端呼ばわりし続けているのは,誰か?

本文は ブログ記事 でお読みください.

2019年11月20日

Richard Rohr 神父のブログから — 聖書の homophobic な箇所をどう読むかの示唆

Richard Rohr 神父のブログから — 聖書の homophobic な箇所をどう読むかの示唆

LGBTQ+ 人権擁護のために積極的に活動している Richard Rohr 神父 OFM が,彼のブログ のなかで,1999 年に出版された論文集 Homosexuality and Christian Faith のなかに神学者 Walter Wink 牧師が書いた Homosexuality and the Bible の一節を紹介しています.James Martin 神父 SJ が SNS でその記事を紹介していたので,目にとまりました.以下に,邦訳を提示します.

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より深い意義

わたし [ Fr Richard Rohr ] の友人,故 Walter Wink — メソジスト牧師,聖書学者,神学者,非暴力活動家 — は,gender および sexuality との宗教の格闘を,歴史的な展望のなかへ位置づけることによって,いかに Jesus が被抑圧者と抑圧者をともに解放しているかを学ぶ機会を,改めて提供してくれている.

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[以下,Walter Wink の Homosexuality and the Bible からの一節]

ともあれ,聖書は,同性どうしの性的行為に言及するとき,それを明らかに断罪している.わたしは,そのことを率直に認める.問題は,まさに,聖書の判断は正しいのか否か,ということである.たとえば,聖書は,奴隷制を容認しており,それを不当なものと攻撃してはいない.では,今日,我々は,奴隷制は聖書によって正当化されている,と論ずる気になるだろうか?150 年以上前,奴隷制の当否について盛んに議論されていたとき,聖書は,明らかに,奴隷制支持論者の側に与しているように思われていた.奴隷制廃止論者たちは,聖書にもとづいて反奴隷制論を正当化するのに苦労していた.ところが,今日,米国南部のクリスチャンたちに「聖書は奴隷制を容認しているか?」と問えば,答えは,ほぼすべて,「否」で一致するだろう.同様に,今から 50 年後に現時点をふりかえって見れば,人々は,神の聖なる息吹が我々の社会のなかで sexuality に関して為した新たなわざに対して,キリスト教会がかくも鈍感であり,かくも抵抗的であったことを,いぶかしく思うことだろう.

奴隷制に関してそのように記念碑的な変化をもたらしたものは,次のことである:すなわち,キリスト教会は,ついには,聖書の律法的な性格を超えて,より深い意義 — それは,イスラエルによって,出エジプトの経験と預言者たちの経験にもとづいて述べられており,そして,Jesus が自身を娼婦,徴税人,病者,障碍者,貧者,社会から見棄てられた者たちと同一化していることにおいて崇高に具象化されている — へ到達するよう,促された,ということ.すなわち,神は,無力な者たちの側に位置しており,抑圧されている者たちを解放し,苦しむ者たちとともに苦しみ,すべてのものの和解のためにうめき声をあげているのだ.それゆえ,Jesus は,先天的な障碍や生物学的な条件や経済的な挫折のせいで〈人間社会や宗教によって〉「罪人」と見なされた者たちのところに立ち寄って,「あなたの罪は赦された」,「あなたたちは無条件に愛されている」と宣言した.そのような崇高なあわれみの光のもとでは,我々の gay に関する立場がいかなるものであれ,「愛せ」,「無視するな」,「苦しみを分かち合え」という福音の命令は,見まごうかたなく明瞭である.そして,勘違いしないでおこう — LGBTQ+ であることを祝福する世俗的な文化にもかかわらず,彼れらのなかにはなおも深い苦悩があり,しかも,それは,最もしばしば,彼れら自身の家族やキリスト教会によって惹き起こされている.

同様に,女性たちは,聖書のなかに性差別と家父長主義 — それらのせいで,かくも多くの女性たちが,キリスト教会から疎外されている — が蔓延していることを認めるよう,我々に催促している.その出口は,聖書のなかの性差別を否認することではなく,しかして,聖書さえをも Jesus における啓示の光のもとで裁き得る解釈学を発展させることである.Jesus が我々に与えてくれたものは,あらゆる形態における支配に対する批判 — 聖書そのものへも向けられ得る批判 — である.そのように,聖書は,聖書自身を正す原理を包含している.我々は,聖書を偶像崇拝することから,解放される.聖書は,神のことばの証しとしてのその本来の座へ位置づけ直される.そして,神のことばは,書物ではなく,ひとりの人[三位一体を構成する三つの位格のひとつ]である.

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[Richard Rohr 神父による補足]

我々は,奴隷制,死刑,体罰,重婚,ある種の子育て方法,相続制度,有利子融資,商業一般などに関して,聖書が編纂された当時は,一見,容認され得たと見える多くの問題について,正義と公平の方向へ進んできた.我々が LGBTQ+ の人々を拒絶し,彼れらを我々の教会へ全的に包容することを拒み,法によって平等に保護される権利を彼らに否むことによって,彼れらが被ってきた苦しみを,我々クリスチャンは,終わらせ,癒す作業の最前線に立つべきだ,と わたしは思っている.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年11月01日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年)

第一朗読:出エジプト 17,08-13
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え)

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12).

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします.

祈っていて,ふたつのことに気づきました.

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです.

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません.

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません.

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います.

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです.

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです.

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います.


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居 や カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :


2019年10月22日

「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」に対して

「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」に対して

2019年09月11日付の キリスト新聞 で,日本のキリスト教界のなかでも あからさまな反 LGBTQ の動きが 多かれ少なかれ組織的に 始まったことが,報ぜられた.そのことに関して,わたしは「帝国の逆襲 —『キリスト教 性教育 研究会』について」と題したブログ記事を書き,その一部は 09月21日付のキリスト新聞の「読者の広場」欄で紹介された.そして,わたしの見解に対して,10月11日付の同紙の「読者の広場」欄で,新潟市の 日本基督教団 東中通教会 の信徒,村上 毅 氏の意見が「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」の表題のもとに紹介されている:

9月11日付の紙面で,井川昭弘氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演したキリスト教性教育研究会の記事を,なるほどと思って読みました.ところが,9月21日付の本欄に,井川氏と同じカトリック信徒の小笠原晋也氏から,当該講演は「形而上学的偶像崇拝」との投稿が詳細に掲載されていました.内容は,井川氏の講演内容に真っ向から対立するもので,この問題の深刻さを改めて感じさせられました.

わたしの所属する教会はカルヴァンによって創始された改革長老派系列の教会で,人間は神により男と女の両性に創られたことを基調と考えています.LGBTQ+ の活動内容がどのようなものか,よく理解しておりませんが,必要に応じて学びたいと願っています.

小笠原氏の投稿において,ニヒリズムを克服するのは ルカ福音書 15:11-32 で書かれてある「慈しみ深い 愛の神」であると述べられていますが,この放蕩息子の寓話の前提は,神の前の悔い改めである,ということを認識したいと思います.


村上毅氏は御自分がカルヴァン派であるとおっしゃっているので,Karl Barth を引き合いに出すことをお許しいただこう — 勿論,それは,「LGBTQ+ とキリスト教」に関する議論においては,単なる tu quoque の偽論にしかならないが.

日本のキリスト教界のなかでどれほど一般的に知られているか,わたしは知らないが,Barth は,秘書の Charlotte von Kirschbaum と,1926 年から死去するまでの 40 年以上にわたり,「不義」の関係を続けた.しかも,1929 年以降は,妻と子どもたちもともに暮らす自宅に,Charlotte を同居させた.彼らの関係は,Karl の妻 Nelly Barth (1893-1976) に非常に大きな苦痛を与え続けた.以上の事実は,Barth と Charlotte との間に交わされた書簡 Karl Barth - Charlotte von Kirschbaum Briefwechsel (TVZ, 2008) によって,もはや「うわさ」の域を超えて,実証されている.

旧約聖書の律法のなかで,十戒は「不義を犯すなかれ」と規定しているが,当時,「不義」は,男が既婚女性と性交することであり,相手が未婚女性の場合は,「不義」には当たらない.しかし,申命記に記されている律法に従うなら,Barth は,Charlotte の父親に「罰金」を払い,彼女と結婚しなければならない (Dt 22,28-29). いかにも,古代のユダヤ社会においては,男は複数の妻を持つことができた.しかし,当然ながら,現代の西欧社会においては,重婚は禁止されている.となると,Charlotte は,彼女の父親の家の前で,その町の男たちによって,石打の刑に処されねばならない (Dt 22,20-21). が,そのような私刑も,当然ながら,現代の西欧社会においては禁止されている.

さあ,信仰のなかで律法遵守を何よりも大切と考える保守的なキリスト教徒の皆さん,あなたたちは,Barth と Charlotte を前にして,彼らをどう裁くのだろう?あなたたちは,好んで homosexuality と transgender being とを断罪する限りにおいて,20世紀の最も偉大な神学者とその秘書との「不義」を裁くことを免れることはできない.

話を本題に戻そう.村上 毅 氏は,放蕩息子の譬えにおいて,父が慈しみ深く息子を赦すのは,息子が自身の罪を悔い改めたからだ,と主張している.おっしゃりたいのは,こういうことだろう:同性どうしの性行為は,聖書に記されている律法によって,罪深いものであり,当事者が自身の罪を悔い,行いを改めて,初めて,その罪は赦される.つまり,村上 毅 氏は,同性どうしの性行為が罪深いものである,ということを,無反省に信じ込んでいる.それは,わたしが「形而上学的偶像崇拝」と呼ぶものの典型的な症状のひとつである.

保守的なキリスト教徒たちが「gay[男を性愛の対象とする男]どうしの性行為は,禁止されている」と考える おもな根拠は,レヴィ記に記された規定に存する:

女と寝るように男と寝てはならない.それは,忌まわしいことである (Lv 18,22).

ある男が,女と寝るように男と寝るならば,彼らふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼らは処刑される.彼らの血は,彼ら自身にふりかかる (Lv 20,13).

一見すると,それらの条文は,確かに,gay どうしの性行為を断罪しているように見える.しかし,「女と寝るように」という表現に注目するなら,このことを読み取ることができるだろう:おまえは,女と寝る heterosexual の男である;にもかかわらず,おまえが男と性的な関係を持つなら,それは忌まわしいことである.

つまり,それらの条文の言葉は,heterosexual の男に向けられているのであり,gay に向けられているわけではない.そもそも,旧約聖書のことばの宛先は,もっぱら,古代ユダヤ社会の支配的構成員である heterosexual の男たちであって,そこには,女性も LGBTQ+ も含まれてはいなかった.また,そもそも,SOGI に関して heterosexual でない者や cisgender でない者の存在は,古代ユダヤ社会のなかでは想定されていなかった.勿論,そのことを歴史資料にもとづいて実証的に証明することは困難であろうが,我々は,旧約聖書に描かれた古代ユダヤ社会が家父長制的であることにもとづいて,そう推定することができるだろう.

したがって,聖書にもとづいて,同性どうしの性行為を断罪することはできない — 聖書にもとづいて Karl Barth と Charlotte von Kirschbaum との関係を断罪することができないのと同様に.

ところで,放蕩息子の譬え話 (Lc 15,11-32) は,「罪 と 悔悛 と 赦し」をテーマにしているのだろうか?律法の遵守にこだわり,違反に対する神による処罰を 何よりも恐れる キリスト教徒は,そう読むだろう.しかし,そこに物語られている 慈しみ深い父 は,実際には何と言っているか?

この〈わたしの〉息子は,死んでいたが,命へ返ってきた [ οὗτος ὁ υἱός μου νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησεν ] (15,24) ;

この〈おまえの〉弟は,死んでいたが,命へ返ってきた [ ὁ ἀδελφός σου οὗτος νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησε ] (15,32).

つまり,この譬え話の本当のテーマは,罪の赦しではなく,しかして,死から永遠の命への復活である.

愛にあふれる神は,既に,無償で,我々に 永遠の命 を与えてくださっている.塵から創られた我々が今,生きているのは,神が 御自分の息吹によって 神の命である永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからである.我々は,今,現に,永遠の命を生きている.我々は,そのことに気づき,神の愛の恵みに感謝すればよいだけである.

それが Jesus Christ の福音の本質だ,と わたしは 思っている.

ルカ小笠原晋也

2019年10月22日

帝国の逆襲 —「キリスト教 性教育 研究会」について

帝国の逆襲 —「キリスト教 性教育 研究会」について

2019年09月11日付の キリスト新聞 に「性教育研究会で井川昭弘氏が警鐘,『多様性』言説の『イデオロギー化』」という見出しの記事が掲載されています.それによると,先月15日,福音派の牧師,水谷潔 氏が主宰する「キリスト教 性教育 研究会」の会合が都内で開かれ,八戸学院大学 準教授,カトリック塩町教会 信徒,井川昭弘 氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演を行い,ほかに,日本ホーリネス教団の牧師,上中光枝 氏,もっぱら児童と若者を対象とする国際的な宣教組織 OneHope日本支部長,宇賀飛翔 氏,福音派クリスチャンで psychologist である James Dobson 氏が創立した原理主義的クリスチャン組織 Focus on the Family の日本における関連団体 Family Forum Japan の前代表,宣教師,Timothy Cole 氏が発表を行いました.

記事は,井川昭弘氏の講演の趣旨を,次のように紹介しています:

今,「多様化」を唱道する言説を動機づけているのは,価値の相対化,過度の個人尊重,普遍的な「主義」や「大義」の否定の動向である.sexual orientation[性的指向]や gender identity[性同一性]は個人が自由に選択し得るものであるとする主張は,まちがっている.自己決定権があるとしても,それは,「客観的な道徳規範」である「自然法」(lex naturalis) に従わねばならない.男女の性別は生物学的な事実であり,gender role[男女それぞれの社会的な役割]の相違は,歴史的,人間学的に一定の合理性を持つ事実である.個人に対する配慮に満ちた対応や支援は必要だが,イデオロギーや政治運動と化した動きに対しては,賢明な対応が必要である.現在,日本のカトリック教会のなかでは,わたし(井川昭弘氏)のような立場は少数派であるが,わたしの主張は,本来のカトリック教会の考えである.

いやはや,井川昭弘氏の主張は,わたし(ルカ小笠原晋也)が「形而上学的偶像崇拝」と名づけて批判しているカトリック保守派の主張そのものです — 形而上学的偶像崇拝とは,ルカ福音書 15:11-32 で描かれているような愛にあふれる慈しみ深い父である神ではなく,Pascal が言うところの「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) を崇拝することに存します.保守派が崇拝する形而上学的偶像は,より具体的に指摘するなら,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) です.それらは,我々に対して,神の愛を完全に覆い隠していまい,かつ,悪しき clericalism[聖職者中心主義]を条件づけています.

井川昭弘氏は「イデオロギー」という表現を使っていますが,彼の形而上学的偶像崇拝こそ,ひとつのイデオロギーです.そして,社会のなかで差別の対象となってきた人々が人間存在の尊厳の尊重を求めて立ち上がるとき,それは,人権擁護運動として,必然的に政治的にならざるを得ません.にもかかわらず,LGBTQ+ の「政治運動」はいけないと主張するなら,それは,差別を擁護することにしかなりません.

八戸学院大学のホームページに掲載されている 井川昭弘氏の経歴 によると,彼は,九州大学法学部で修士号を取得しており,上智大学大学院の博士課程で哲学を専攻しています.専門分野は「カトリック社会倫理学,キリスト教哲学」であり,研究テーマは「現代のカトリック社会倫理学,自然法論」と記されています.

彼の経歴を見ていると,ある人物の姿が思い浮かんできます —「姿」と言っても,実際に見たことがあるわけではありませんが.カトリック関係のテーマで Twitter をしている方々なら,見かけたことがあるでしょう :「教会の栄光」@glory_of_church の名称のもとに,homophobic な言説と,Papa Francesco を「異端」呼ばわりする言説を垂れ流しているあの Twitter account です.

勿論,その人物の正体が井川昭弘氏である,と断定し得る証拠はありません.しかし,記事によると,井川昭弘氏は「カトリック教会のなかでは,わたしのような立場は少数派であるが,わたしの考えこそ,本来のカトリックの考え方である」と言っています.この言葉は,LGBTQ+ に関するものというより,Papa Francesco に関するもの,と解釈され得ます.「Papa Francesco は異端だ」という主張は,日本でも世界でも少数派であり,一部の超保守派に限られていますが,それはまさに @glory_of_church の中心的な主張です.

現時点では,せいぜい,井川昭弘氏の profile は @glory_of_church の人物像にとてもよく合致している,と指摘することしかできません.しかし,日本に,あの程度にカトリック神学と教会法に精通しており,かつ,あのように LGBTQ+ と Papa Francesco に対する憎悪に満ちた発言を執拗に続けることのできる人物は,多くはないはずです.日本のカトリック神学界の内情に詳しい方の御意見をお聞かせいただければ幸いです.また,ほかの「容疑者」の名前が思い浮かんでくる方は,是非,お教えください.@glory_of_church の憎悪発言に傷つけられた LGBTQ+ は,少なくありません.あれをこのまま放置するわけには行きません.

他方,「キリスト教 性教育 研究会」を主宰する 水谷潔 氏の homosexuality に関する主張は,彼のホームページ に記されています.要するに,homosexual である人々は教会に受け入れるが,同性どうしの性行為は断罪する — つまり,「わたしがあなたたちを受容するとしても,それは,あなたたちが性行為を慎む限りにおいてのみであり,全面的に受け入れるわけではない」— ということです.カトリック司祭になろうとしているわけでもない homosexual の人々に対して,はなはだ非人間的な態度です.水谷潔氏の場合,それを聖書と善意の名においてしていますから,ますます処置無しです.

ともあれ,きな臭さに敏感な少数のジャーナリストたちの仕事によって「日本会議」の正体が暴かれてきたのと同様に,この「キリスト新聞」の記事は,日本において LGBTQ+ に対して逆襲してこようとしている胡散臭い「帝国」の正体の一端を垣間見せてくれています.その意味において,この記事は,一見,単なる事実報道の体裁しかとっていませんが,貴重なものです.「キリスト新聞」に感謝したいと思います.

ところで,水谷潔氏の意見は,基本的に,『カトリック教会のカテキズム』が homosexuality に関して述べていることと一致しています.カトリック教会は,その教義が包含する形而上学的偶像崇拝を速やかに一掃する必要があります.Papa Francesco が試みているのは,まさにそのことです.そして,それがゆえに,彼に対する保守派の反発も熾烈を極めています.反フランチェスコ派の筆頭は,周知のように,前教理省長官,Gerhart Müller 枢機卿です.彼は,2017年,Papa Francesco によって,教理省長官の職から事実上,解任されています.

19世紀以来,我々はニヒリズムの時代を生きています.ニヒリズムに対する有効な対抗手段として,名誉教皇 Benedictus XVI は『カトリック教会のカテキズム』のなかにスコラ的な「自然法」を持ち込みました.一見すると,自然法は,ニヒリスティックな価値崩壊に対抗し得る唯一の確固たる支柱であるように見えます.しかし,違います.そのような形而上学的偶像崇拝は,能動的なニヒリズムの一型にすぎません.

ニヒリズムの克服を可能にするのは,神の愛だけです.Papa Francesco が試みているのは,カトリック教会を,自然法によってではなく,神の愛によって基礎づけることです.わたしたちも,Papa Francesco の試みに協力しましょう.

May the Force be with you !
神の愛がいつも皆さんとともにありますように!

ルカ小笠原晋也

2019年09月12日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)

第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.

2019年09月12日

Father Bryan Massingale の講演 : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要問題は,性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である

Father Bryan Massingale の講演 : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要課題は,性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である

ルカ小笠原晋也

今年(2019年)は,さまざまな歴史的できごとが50周年を記念しています.LGBTQ+ community にかかわるものとしては,1969年06月28日に始まった Stonewall 反乱が筆頭に挙げられます.そして,LGBTQ+ カトリック信者たちにとって意義深いこととしては,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 Dignity の創立が挙げられます.

Dignity は,Stonewall 反乱に触発されて,かつ,1965年12月に司牧憲章 Gaudium et spes の発表を以て閉会した第二 Vatican 公会議の精神 — 現代社会に開かれた教会の精神 — において,Patrick Nidorf 神父(1932年生,聖アウグスチノ修道会司祭,1973年に聖職から離れ,心理療法家となった)の指導のもとに,Los Angeles 大司教区内で創立されました.現在,その活動は,DignityUSA および Dignity Canada の名称のもとに,全米とカナダに広がっています.

その DignityUSA が主催して,今年の06月30日から07月04日まで,Chicago で,Global Network of Rainbow Catholics の大会が行われました.その最終日に,「LGBT+ の正義のわざを行うための神学的任務」の表題のもとに,三人の神学者が参加するパネル・ディスカッションが行われました.そこで,関係者にとっては大変な驚きがありました.その驚きをもたらしたのは,三人うちのひとり,Bryan Massingale 神父です.

Bryan Massingale 神父は,STD (Sacrae Theologiae Doctor) の学位(教皇庁立大学の神学博士の学位)を有する道徳神学の専門家で,現在,NYC にあるイェズス会系の大学 Fordham University の神学教授です(つまり,神学者として高名であり,かつ,高く評価されている人です).その人が,何と,彼のスピーチの冒頭で,gay であることを come out したのです!彼は,こう話し始めました:「わたしは,この対話に,黒人であり,gay である司祭かつ神学者としてやってきました」.その場がどれほどの驚きと感激に湧いたか,詳しく伝えられてはいませんが,想像に難くありません.

ともあれ,Bryan Massingale 教授は,「LGBTI 司牧任務のために偶像崇拝に立ち向かうこと」(The Challenge of Idolatry for LGBTI Ministry) という表題のもとに講演を行いました.

彼が「偶像崇拝」という語を用いたことに,わたしは注目します.わたしも,カトリック教会にとって最大の課題は,偶像崇拝を克服することだ,と考えるからです.では,今,カトリック教会のなかで崇拝されている「金の仔牛」は何なのか?それは,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) である,とわたしは思います.両者を合わせて,カトリック教会における「形而上学的偶像崇拝」(metaphysical idolatry) と呼びたいと思います.Blaise Pascal (1623-1662) は,カトリック教会で崇拝されている形而上学的偶像を「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼びました... が,話が長くなりますから,今は立ち入らないでおきましょう.Bryan Massingale 教授の話を聞きましょう.

彼は指摘します : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要問題は,性倫理 (sexual ethics) の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.

彼は,1982年,神学生時代に初めて参加した Ignatian retreat における経験について,こう語っています:

祈りのために与えられた聖書の箇所のひとつは,創世記の最初の創造の物語だった.わたしは,祈りのなかで,自身を,神が 6 日間で万物を創造する過程を眺める観察者として思い描いた.わたしは,神が創造したものを見た.それは,すばらしかった.ただし,わたしは気がついた:創造が完了したとき,そこにはひとりの黒人もいなかった.ひとりの gay もいなかった.神の似姿に作られた者たちすべてを見たとき,わたしのような者[黒人である者,gay である者]は,ひとりもいなかった.そのことは,わたしに深い動揺を与えた.わたしの精神は苦痛を覚えた.わたしは打ちのめされた.長年にわたって「人間は皆,神の似姿に創造された」と教えられてきたのに,わたしは,わたしのなかの深いところで,そのことを信じてはいなかったのだ.わたしの祈りは,わたしが「神の似姿」として黒人も gay も思い浮かべることができない,ということを暴いてしまったのだから.

わたしは,そのことを retreat director に告げた.彼女は,賢明にも,聖書のほかの箇所をわたしに与えた.神の愛について語られている箇所だった.しかし,わたしは,祈ることができなかった.わたしは,神の愛について何も聞きたくなかった.わたしは怒っていた.わたしは,神がわたしを黒人に創造したこと,gay に創造したことに,怒っていた.

ある晩,わたしは,夜中に目がさめて,怒りと悲しみを覚えて,枕を叩きながら,神に向かって幾度もこう言った :「なぜあなたは,わたしにこのようなことをしたのですか?あなたにそのようなことを頼んだおぼえはありません.いったい,あなたはどのような神なのですか?なぜあなたは,わたしを,このようにひどい痛みと傷と拒絶を被らねばならないように,創造したのですか?」わたしは,叫び,わめき,泣いた.怒りと悲しみに,からだが震えた.

そのように叫び,悲しみ,わめいた後,わたしの傷と怒りと不安と苦痛がすべて尽きた後,初めて,神は,わたしの魂の裂け目をとおって入って来た.神のことばが聞こえた :「わたしの目に,おまえは価値あるものだ.わたしは,おまえを愛している」(Isaiah 43,04). わたしは,また泣いた.喜びに泣き叫んだ.言葉にならない喜びだった.それから,わたしは,創世記 2 章で語られている創造の物語 — 神が土から人間を創造する物語 — を祈った.わたしは,自身を,神により創造される源初の人間として見た.そして,神がわたしに命を — 神の命を — 吹き込んでくれるのを,感じた.わたしは,やっと,本当に,神による創造の一部になることができた.

以上のようななまなましい証しに続いて,Bryan Massingale 神父は論じます:我々が立ち向かう問題は,カトリック教会の性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.我々は,神について,誤ったイメージを与えられてきた.それは,白人であり,heterosexual である神のイメージである.それは,差別と不正義を正当化するために人間が作り上げた偶像にすぎない.しかし,我々は,そのような偶像を,神として崇拝させられてきた.その偶像神は,いけにえを要求する神であり,命を奪う神である.その神の名において,人々は,喜々として,黒人に対しても,LGBTQ+ に対しても,暴力をふるっている.そのような偶像崇拝に,我々は立ち向かう.

では,我々はどうすればよいのか?と Bryan Massingale 教授は問います.彼は,三つの示唆を我々に与えます.第一に,一部のカトリック信者がつく「うそ」を拒絶すること.LGBTQ+ の生は,神の目に価値ある生であり,我々は皆,Jesus Christus によって等しく贖われており,神によって根本的に愛されている — なぜなら,我々は皆,神の似姿に創造されているのだから.

第二に,我々は,教会のなかに勇気の文化を育てる必要がある.Bryan Massingale 教授は,聖 Thomas Aquinas を引用します :「勇気は,あらゆる徳の前提条件である」.我々は,新しい教会を作る必要がある — 服従が第一の徳である教会ではなく,勇気が第一の徳である教会を.偶像崇拝につなぎとめられた教会のなかで真理を言うためには,我々には勇気が必要である.

第三に,希望の感覚を育てよう.希望と楽観主義とは異なる.アメリカ流の楽観主義では:善は常に悪に勝つ;善人は,常に悪者に勝つ —「遅かれ早かれ」ではなく,必ず「早々と」;悪に対する勝利は,低コストである;楽観主義は,あらゆる困難はうまくかたづく,と思い込んでいる.

それに対して,希望は,こう信ずる:善は悪に対して勝利する — 究極的には,つまり,常に勝利するわけではない;そして,勝利のためには,しばしば,たいへんな代償が必要となる;戦いの過程において,多くの者が高い代価を払うことになる.

常に勝利するわけではないが,常に敗北するわけでもない — それが,クリスチャンの希望である.クリスチャンの希望は,復活にもとづいている.Jesus は,最後の瞬間に救い出されたのではない.彼は死んだ.死から出発して神がもたらし得るもの,それが復活である.復活を信ずることが,より義なる世界とより聖なる教会のために働く我々 — 我々の仕事は,遅々としてはかどらず,満足のゆく成果を生まず,危険でさえある — を支えてくれる.復活を信ずることが,我々に希望を与えてくれる.

以上が,Bryan Massingale 神父の講演の要約です.彼は,差別と排除と迫害を正当化する神を偶像と喝破しました.そのような偶像崇拝を条件づけているのが,カトリック教義が包含する形而上学的諸要素です.そのことについては,別途論ずることにしましょう.

司祭の coming out のニュースとしては,ドイツの Paderborn 大司教区Bernd Mönkebüscher 神父が,今年02月に gay であることを公にし,Unverschämt katholisch sein[はずかしげもなくカトリックであること]という本を出版しました.

偶像崇拝の問題について,ひとことだけ付け加えておくと,最近,あるカトリック司祭が神道と神社参拝に関して「宗教か文化か」と論じている記事を見かけました.まったく論点がずれていると思います.問題は,偶像崇拝か否か,そして,その偶像崇拝が何らかの強制や苦悩を条件づけているか否か,です.日本において,神道と,神道のみならず,仏教は,祖霊崇拝と不可分です.そして,祖霊崇拝は,家父長主義と不可分です.そして,家父長主義は,全体主義を生み,また,女性差別 および LGBTQ+ 差別を条件づけています.祖霊崇拝を包含する限りにおいて,神道と仏教は,単なる「日本文化」の要素ではなく,有害このうえない偶像崇拝である,とはっきり批判しておきたいと思います.

2019年09月08日

阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019年06月30日

阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019年6月30日

教皇フランシスコが説く三つのよろこび : gaudium, laetitia, exsultatio


皆さん,今日は集まってくださり,ありがとうございます.先ほど,御ミサもいっしょに捧げました.

今日は,今のカトリック教会の動きを紹介したいと思います.

皆さんにお配りした資料[A4 の紙一枚]は,四つに折ると,ひとつの小冊子になります.まずこう折り,つぎにこう折ってください.「よろこびのひびき」と「聖性,聖なる生きかた」と書いてあるページが最初のページ,フランシスコ教皇のイラストが描いてあるページが最後のページです.四つに折った全体を開くと,裏面が「わたし(キリスト)のよろこびがあなたがたのうちにあるように!」と書いたページになります.

子どもたちに配ると,何も言わなくても,すぐに作ってくれるのですが,おとなに配ると,作り方がわからなくて,迷っている人が多い.おとなの方が感覚が鈍くなっているのかなと思います.修道者とか教区司祭に配ると,もっともたもたします.年齢を重ねたり,上の立場に立つにしたがって,単純なこともできなくなる,ということがわかります.

これは,もともと,ほかの講話のときに配った資料です.一枚の裏表で見ることができ,小さくたたんで持ち歩くことができ,紙の節約にもなります.あとは,塗り絵として,自分で色を塗って楽しむこともできます.

この資料は,キリスト教徒の立場で教皇フランシスコの気持ちを理解して生きるためのひとつのヒントになっています.

今年の11月にフランシスコ教皇が来日するといううニュースが流れていますが,まだ教皇庁から正式な発表は出ていないので,もう少し待つ必要があります.しかし,一応,準備委員会は立ち上がって,話し合いが始まっています.歴史上,教皇の訪日は38年ぶりになります.教皇フランシスコは266代目ですが,38年前は,264代目のヨハネパウロ II 世が日本に来ました.38年間という長い隔たりがありますが,教皇はもう一度,日本に来てくださるわけです.あとだいたい5ヶ月くらいです.

教皇フランシスコが何を思っているのかを理解すると,11月の行事の意味がもっとよくわかるだろうと思います.

わたしは,教皇フランシスコの行事に行くつもりはありません.彼が司式するおおがかりなミサに出るつもりもありません.というのは,キリストの方がだいじだからです.キリストを中心に考えます.

キリストを証しして生きるのが教皇です.彼は,キリストのメッセージを伝えるために日本に来ます.だいじなのは,キリストを理解して生きているひとりの指導者が日本に来る,ということです.キリストが主役です.キリストのメッセージを日本の社会全体に広く示す責任を感じて,彼は来ます.教皇フランシスコの来日の目的は,キリストを知らせること,キリストを人々に実感させることです.キリストを知って,学んで,受け継いで生きる — それを伝えるのが,教皇フランシスコの目的です.

わたしたちキリスト者も,彼を迎えるときに,彼の気持ちを理解して迎える必要があります.教皇フランシスコを主役にして騒ぎを盛り立てるだけでは,意味がありません.教皇は,82歳を超えた後期高齢者でありながら,体力の衰えをものともせず,日本に来てくれます.キリストを示したいがために日本に来るひとりの老人がいる — そのことの重大さの方が,意味があります.

キリストを中心にすること,教皇フランシスコが伝え,示そうとしているキリストを信じ,キリストに感謝すること — そのこと方が,教皇を特別な人として迎え,彼を主役にしてお祭り騒ぎをするよりは,もっとだいじである,と思っています.

さて,今日配ったプリントの,教皇フランシスコのイラストが書いてあるページを見てください.

彼が教皇になって,6 年たちます.この 6 年間,彼が言っていることは,三つのラテン語のキーワードに要約されます : gaudium, laetitia, exsultatio.

gaudium は,2013年の使徒的勧告 Evangelii Gaudium[福音の喜び],laetitia は,2016年の使徒的勧告 Amoris Laetitia[愛の喜び],exsultatio は,2018年の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate[喜びなさい,おおいに喜びなさい]で用いられています.

いずれも,日本語では「よろこび」と訳されますが,教皇フランシスコのこころのなかでは,三つの「よろこび」は区別されています.

gaudium は,個人レベルのこころの安らぎ,安心感,おだやかさです.生きていてよかったという感覚です.キリストと出会った人が,「わたしは,受け入れてもらえた;わたしは存在してもいいんだ」と感ずる;「わたしが生きている」ということを全部,受けとめてもらえる,と感ずる — その感覚が gaudium です.

キリストと出会う人は皆,おちつきを取り戻す;そして,自分は意味のある存在であり,生きていてよいのだということを実感する — それは,福音書を読むと,よく出てくるメッセージです.病気を抱えている人や,差別を受けている人が,キリストから声をかけてもらい,肩に手を置いてもらい,励ましを受ける — そのような場面が,福音書のなかによくでてきます.そのときの安心感が,gaudium です.

キリストは,みづから近づいてきて,声をかけてくれ,肩に触れて,励ましてくれる.キリストは,ひとりひとりの名を呼んで,理解してくれ,そばにいてくれる.そのような善さを,キリストは持っています.そういうキリストと出会った人が感ずるのが,gaudium です.生きていて本当によかったという感覚です.

教皇フランシスコも,gaudium はキリスト者の生き方の土台になっている,と述べています.

ひとりひとりがキリストと出会って,gaudium を実感します.わたしたちは今,約二千年前に生きていたナザレのイェスという人に直接会うことはできませんが,聖書のメッセージを読んだり,こころのなかで思いをめぐらせたりすることで,キリストを感じ取ります.聖体拝領のときに,パンとなってわたしのなかに入ってきてくださるキリストを実感します.ミサは,聖書朗読と聖体拝領によってキリストと出会うひとときです.そのときの安心感を gaudium というラテン語は言います.キリストとかかわるよろこびは,キリスト者にしか味わえないよろこびです.

ふたつめのよろびは,laetitia です.それは,人間関係における相手とのキャッチボールのようなやりとりのよろこび,かかわりやコミュニケーションの楽しさやうれしさ,友情のよろこび,愛のよろこびなど,複数の人間がいっしょに生きるときにこころに感ずるうれしさのことです.gaudium — 安心感,自分が認められているという感覚 — を持っている人が,他者と出会い,かかわるときに感ずるこころの動きです.人間関係のよろこびです.

キリストと出会ったわたしたちひとりひとりが,今度は,出かけていって,ほかの人に会い,いっしょによろこびあい,気持ちをやりとりする;自分のよい思いを相手にわたし,相手からも感謝の気持ちを受け取る;そのように,気持ちをキャッチボールのようにやりとりし,つながりあう — 教皇フランシスコは,わたしたちにそうするよう勧めています.

三つめの喜びは,exsultatio です.人間関係が明るく整って,コミュニケーションが深まって行くと,生きている空間全体が意味を持ってきて,輝き始めます.本当に自分を理解してくれる友だちを見つけたときに,わたしたちは,こころが明るくなっていくのを感じます.人生に意味が出てきます.生きている空間全体が特別に思えてきます.親しい人といっしょに過ごしているとき,自然環境全体が非常に輝いて見えることがあります.

そのように,生活空間そのものの輝きと明るさのなかで,人間どうしの深いつながりにもとづいて,存在が意味を帯びてゆく状況 — それが,exsultatio です.それは,あらゆる生きものの調和の状態,全宇宙の明るい響き合いの状態です.この最終的なよろこびは,生活環境そのものが祝福されてよいものと感じられる状態のことです.

教皇フランシスコは,そういうメッセージを,環境問題に関する2015年の回勅 Laudato si’ のなかで述べています.

教皇は,12世紀の聖人,アシジのフランチェスコの歩みをまねようとしています.それで,教皇としての名も,その聖人にのっとって,フランシスコとしています.

12世紀の聖フランチェスコは,何をしたか?自然の緑あふれる土地を歩きながら,ロバや,馬や,あらゆる生きものを優しくなでながら,感謝しつつ旅をする生活です.彼にとっては,すべての生きものが神の前で尊い命です.彼は,歌を歌いながら,旅をします.歌と祈りと自然環境の生きものが一体化した状態での旅です.生きものを認めて,すべてを作った神に感謝する生活を,彼はおくっていました.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人をまねようとしています.あらゆる生きものといっしょに神を賛美すると,生きていることがそのままで祈りになり,その祈りは天に昇って行きます.そのような壮大な感覚があります.それが exsultatio です.

それは,宇宙万物の響き合いとかかわり合いのよろこびとうれしさであり,生きものがいきいきとスキップして,よろこんで踊っている状態です.

赤ちゃんや幼な子は,うれしいことがあると,ジャンプして踊りながら,手をパチパチ叩いて,躍動して,踊ります.赤ちゃんや幼な子が持っているすなおな態度,踊りながら,からだでよろこびを表現する姿 — それも,exsultatio につながってゆきます.

世のなかの生きものも,すなおに感情を表して,からだで表現して,踊ることがあります.ネコもイヌも,うれしいことがあると,シッポをふります.

からだでよろこびをすなおに表現すると,その震えは空気に伝わって,皆が幸せになります.

人間も,幼な子のような気持ちでよろこび踊りながら,すべての善さを受け入れて,感謝して,ほめたたえて,踊る — それが理想です.ところが,成長するにしたがって — ものの見方を整えて,頭だけで判断して行こうとするおとなの状態になるにしたがって — からだが動かなくなります.頭だけで判断して固まってしまい,よろこびをすなおにからだで表現することができなくなります.

世界中の司教や司祭たちのなかには,硬直した状態で厳しい顔をしている人が多い,と思います — わたしもそのひとりですが.緊張して,かしこまって,からだが固まって,動かない.人をすぐに助けない.動きのない直立状態で終わってしまう — そのような人が教会のリーダーになっている場合があります.それは,本来的な exsultatio からはほど遠い姿です.

誰でも,幼な子のようにならなければ,神の働きのなかに入れない — そう,イェス・キリストはよく説明しています.すなおにこころの思いをからだで表現して,踊りながら,まわりの人を楽しませるような,思い切った態度をとらないと,神の働きから遠ざかってしまいます.幼な子の持ってる喜びの表現 — 踊りながら,素直に感謝して過ごすという態度 — から学ぶ必要があります.

以上のように,教皇フランシスコは,よろこびを,三つのイメージ — gaudium, laetitia, exsultatio — で説明しています.

日本語ではすべて「喜び」と訳されますので,三つの意味あいの違いが薄まってしまいます.しかし,よいところもあります.すべて「喜び」と訳されることによって,三つは統一されます.「喜び」という言葉のなかに三つのレベルの意味が含まれ,一体化しています.「喜び」のひとことで全体を表しています.個人レベルのうれしさも,二人以上の人が出会って,気持ちをやりとりするときのよろこびも,宇宙的な〈生きものが踊りながらたたずんで過ごす〉態度も,全部,切り離せません.それらは連続していて,ひとつのこととして生じてくる.その全体を,からだで味わって生きる感覚が,「喜び」の一語にはあります.

たとえば,この祭壇の前に花が飾ってあります.その美しさがあります.そして,それを丁寧に活けて準備してくださった方々のまごころが込められています.人がもっている善い志と,花の美しさとが,そこに表現されています.この場で静かにたたずんで,こころをおだやかに保っている人がおり,個人個人のよろこびがあり,人を楽しませようと花を準備してくださった方のまごころがあり,花そのものの美しさがあります.それらがすべて調和しているのが,この聖堂の空間です.こういう場でいっしょに集まって祈ることは,教皇フランシスコが教えている三つのよろこびの意味を同時に味わうことになります.この祈りの場にたたずむだけでも,三つのよろこびを味わうことができます.

以上,gaudium, laetitia, exsultatio という三つのよろこびの動きを紹介しました.

単純に,よいことを認めあって生きることが,一番,キリスト者としての道になるのではないかと思います.

皆さん方も,ひとりひとり,よいものを持っています.各人,考え方や性格があります.さまざまな立場の人が集まっていることに,意味があります.

皆さんは,それぞれ,自分の生活の環境で穏やかに生きて行こうとし,真剣に歩んでいる.そして,キリストを知ることになって,キリストに興味を持って,キリストとこころの会話をしながら生きている.皆さん,個人レベルのよろこび (gaudium) を持っていると思います.

そういう人々が,このように月に一回集まるとき,同じ気持で生きている人がいるということを発見して,人間どうしのつながりができて,それが laetitia に発展します.

さらに,ここに飾られてある花の美しさ,ほかの生きものの美しさにも気がついて,それを味わうことができます.12世紀の聖人,アシジのフランチェスコがだいじにした感覚 (exsultatio) を,今も生きることができます.

日本には,あらゆる生きもののつながりをだいじにしながら,旅をして,景色を眺めながら,喜ぶ感覚があります.12世紀のアシジのフランチェスコの態度は,日本人が千年以上保ってきた喜び — 自然環境のなかで自然と一体化して生きる喜び — と,共通性があります.

第二次世界大戦中の日本で,アシジのフランチェスコの伝記が翻訳され,彼に関する解説書がたくさん出回ったことがありました.自然環境のなかで感謝し,生きものの命の響き合い楽しむフランチェスコの exsultatio を,日本人は,敏感に感じ取って,彼を尊敬して,勉強し始めた時期あったのです.

今から70年ほど前の日本で,洗礼を受けた人々のうち,特に知識人は,フランチェスコという洗礼名をつけてもらう人が多かった時期がありました.ものごとを分析して,切り離すのとは逆に,いっしょにつなげて楽しむという態度に興味を示す人々が知識人のなかに増えた時期がありました.競争して,人を蹴落として,自分だけ生き残ろうとすることの愚かさへの反省から,協力して,生きものといっしょに楽しむというフランチェスコのイメージが,憧れとして受け入れられていたのです.そのような生き方の象徴として,アシジのフランチェスコが尊敬されていたのです.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人のイメージを,自分の立場として表明しています.教皇は,若いころ,日本に宣教師として渡り,日本の生活のなかで人々と出会いたいという夢を持っていましたが,肺結核を患って,片方の肺を摘出したこともあり,健康があまりすぐれなかったので,日本に宣教に来ることができませんでした.彼は,一回,挫折しているわけです.

若いころに来日の夢を持ちながら,実現できなくて挫折したこの人物が,日本にやってきます.教皇フランシスコにとっては,尊敬する日本の文化や考え方のなかに入り込んで,人々と出会いたい,かかわりたい,という夢を,80歳を過ぎてから,ようやくかなえることになるわけです.彼は,かつて一度だけ訪日していますが,そのときはまだ教皇ではありませんでした.

教会組織全体は,二千年も続いているので,ガタがきて,おかしくなってるところも,歪んでいるところもあります.そのなかで,もう一度やり直して,しっかり人を受け入れて,理解しようとするリーダーがここにいます.教皇フランシスコという人物の歩みも,わたしたちにとって励ましになります.

2019年07月02日

阿部仲麻呂神父様 SDB の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年06月30日

阿部仲麻呂神父様 SDB の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年06月30日

第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62


今日[の福音朗読箇所]は,イェス・キリストが,決意して,イェルサレムの都に向かう場面です.

イェルサレムに行くということは,十字架につけられるということです.

イェスさまは,三年間,必死に,出会う人々を助けながら,旅をしました.その総まとめとして,神のわざを実現するために,都のイェルサレムに入ろうとします.

ところが,サマリアの人々は,「純粋な」ユダヤ人ではなく,いろいろな民族の人々が結婚して生まれた子どもの子孫ですので,民族のさまざまな状況を抱え込んで生きています.サマリアの人々は真剣に生きているのに,ユダヤの血だけを持つ人々から差別されていました.彼れらは,生活の状況や仕事の都合で,さまざまな民族の協力関係のなかで生まれた子どもたちの子孫ですが,「サマリア人」と呼ばれて,差別を受けていたわけです.

そのように差別を受けて苦しんでいる人たちからすると,イェスさまがユダヤ人だけしかいないイェルサレムの都に入るということは,裏切り行為に見えたわけです.強い立場に立つ人々のもとに出向くイェス・キリストを見たときに,サマリアの人たちは反対します.それまではイェス・キリストを歓迎していた人々ですが,しかし,あのイェルサレムにだけは行ってほしくないという気持ちを持ってました.

ところが,イェスさまは,それでも,まっすぐイェルサレムに入ろうとします.でも,反発にあいますので,別の村に入って,そこに泊まってから,イェルサレム入りを準備する — そういう動きになっています.

このように,今日の福音朗読の箇所では,一方には,神の思いを生きようとするイェス・キリスト — まっすぐに進む彼の姿 — があり,他方には,彼を迎える人たち — 彼れらは,自分たちの都合で考えてしまい,自分たちの状況しか見ない — がいて,両者は対立している,ということが描かれています.

人間が抱える問題,それは,自分を基準にして見てしまうので,他の人を理解しないという狭さです.ユダヤの人々がそうでした — 自民族だけを守ろうとして,他民族を理解しない.多くの民族の人たちの間の新しい結婚生活を祝福しないユダヤの狭い考え方の指導者をはじめ,イェルサレムの市民たちの差別意識があったわけです.

イェス・キリストは,そういう差別の中心地に向かって入って行こうとします.差別感情を全部消し去って,神の思いだけを受け入れて生きる新しい流れを作ろうとして,戦っていたのが,イェスさまです.

でも,三年間,イェスさまといっしょに関わりながらも,サマリアの人たちは,イェスさまの最後の決意を理解できませんでした.やっぱり,サマリアの人たちからすれば,何十年にもわたってユダヤ人から厳しく見くだされてきた思い出があり,それを忘れることができなかったわけです.イェスさまもユダヤ人の一員として生まれていますから,三年間はサマリアの人たちと仲良くなりましたけれど,またイェルサレムに行ってしまうということで,サマリアの人たちからすれば,「あのイェスさまでさえもユダヤ人のひとりにすぎなかったのか」と失望の気持ちが生じたわけです.

しかし,イェスさまは,民族にこだわりなく,ひとりひとりの人を助けようとして,まっすぐ進んでいるだけです.

イェルサレムには何があるのか?神さまの思いを受け継いで祈る神殿があります.その神殿の場で,イェスさまは,本当の祈り方を人々に示そうとする.そのために,わざわざそこに入っていくわけです.

人間の思惑による憎しみ合いの社会状況のなかで,そこに絡め取られることなく,神の方に向かって進み,しかも,差別意識を持つ人たちの感情をいさめて,回心させよう — そういう壮大な目標を持っていたのが,イェスさまです.そのために自分の身がどうなってもよい — 自身を捧げるつもりで,必死で旅をしています.

今日,この社会で,人々のいろいろな生き方を理解しない狭さを持つ人がおります.二千年前のユダヤ民族の単一の血筋だけを守ろうとする狭い人たちがいたのと同じ状況が,今日の社会でも続いております.

そういう苦しみの状況のなかで,それでも,今日の福音朗読箇所を読むことで,わたしたちは少し安心感を得ることができます.イェスさまだけは,人間的な思惑に絡め取られないで,神を信じて進む — そのような潔い態度を見せてくださっています.そして,狭いこころを待つ人々の気持ちを打ち砕いて,変えさせようとして,戦っています.

差別を越えて,人を受け入れて,いっしょに生きようとする — それこそが神のみむねである,という信念を以て進むのが,イェス・キリストです.

ミサは,イェス・キリストが今も生きておられて,わたしたちの心を理解して,そばにいてくださる,ということを,実感する場です.生きているイェス・キリストと旅をする歩みが,ミサの集まりです.

第一朗読と第二朗読も,真剣に生きる人々の姿が描かれています.本当のことを求めて生きようとする純粋さを持つ人は意味のある生活をしている,ということが伝わってきます.

福音朗読箇所に戻ると,イェスさまのまわりには,ついて行きたい,弟子になりたい,と名のりをあげて近づいてくる人々もたくさんいる,ということが描かれていますが,イェスさまは,ひとりひとりの状況を見て,ひとりひとりへの声のかけ方が違っています.ある人は,厳しくたしなめて,家に帰させるし,ある人には「従って来なさい」と勧めるし,各人の将来をよく眺めたうえで,別々の答えを出しています.イェスさまは,全員に対して一律に同じ答えを出すことはしない,という特徴があります.

よく,修道会や教区司祭は,若い人を誰でも呼び込んで,後継者にしようとすることがあります.人のことを考えず,組織を守って存続させるために,募集しようとします.人のこころの状況を無視して,「誰でも来なさい」と誘う — 自分たちの組織に入って仕事をしてほしいからです.そのように気軽に募集しておいて,しかし,当人が自分たちのやり方に合わないとなると,すぐに切り捨てる,追い出す — そういうことをやってしまうわけです.

しかし,イェスさまの場合は,そうではなかった.イェスさまは,相手を中心にして生きています.この人は厳しい生活に耐えられそうもないから,家に帰して,社会的な奉仕活動をとおして生きる方が,よりイェスさまのこころと一致できる — そう判断したなら,その人を家に帰させる.その場合,いくら当人がイェスさまの弟子になりたいと叫んでも,その人を戻す — それが,イェスさまのやりかたです.相手が厳しい修行に耐えきれるかどうかをよく理解した上で,無理をさせない,という優しさがあります.

このような聖書の場面を読むときに,わたしは反省させられます.修道会も教区も,若い人を誰でも募集して,入れ込もうとして,その若い人ひとりひとりの成長段階や適性を無視している場合があって,組織のために利用しようとする浅ましさがあるからです.

そう考えると,イェスさまの人に対する招き方は,人を主役にして,人を中心にして,その人の行く末をしっかり考えたうえで,言葉をかけている — そういう思いやり深さがにじみ出ています.

今日の福音朗読の箇所だけをそのまま読んでしまうと,「イェスさまは,せっかく来た人を追い返している.何て冷たいんだろう」とカン違いしがちですけれども,本当はそうではなくて,イェスさまは,その人の将来,行く末をよく思いめぐらしたうえで,言葉をかけているのであって,単に無理に相手を追い返そうとしているわけではありません.相手の立場に立って,相手の将来を理解して,見送るだけの思いやりが,イェスさまのこころの底には,隠されています.厳しい言葉を使うときのイェスさまの表面だけを見るのではなくて,そのこころの奥に隠されている親心 — 相手の将来をよく理解したうえで送り出そうとする親心 — に注目する必要があります.

聖書を読むと,イェス・キリストが結構,厳しい言葉で人に接する場面が数多く描かれていますが,イェスさまのこころの内を推測してみると,深い配慮に満ちた思いによって言葉がつむぎ出されているのが,見えてきます.

イェスさまは今日,皆さんひとりひとりのこころの奥を見てくださり,いっしょにいようとしてくださり,適切な言葉をかけようとしてくださっています.

ひとりひとりが主役であって,人生のなかで意味のある生活を続けている — それを,イェス・キリストだけはしっかり見てくださっている.

そのことを今日の福音朗読箇所から学びながら,イェス・キリストと引き続きいっしょに歩みたいという気持ちを,表明してまいりましょう.

2019年07月02日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加しましょう

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加しましょう

わたしたち LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 LGBTCJ は,今年も Tokyo Rainbow Pride に参加します.

4月28日,29日の両日,出展します.ブース番号は 186 です(けやき並木道の NHK ホール入口に近いところです).ブースでは,虹色十字架,虹色ロザリオ,パンフレット『LGBTQ とカトリック教義』などの販売,配布をおこないます.

28日は,パレードにも参加します.事前登録の必要ないI Have Pride のフロートに参加する予定です.

わたしたちといっしょに TRP に参加しましょう!

LGBTCJ のブース (186) に是非,お立ち寄りください.

ブースを手伝ってくださる方も,歓迎です.部分的でかまいません.御協力くださる方は,lgbtcj@gmail.com へ御連絡くださるか,または,当日,直接わたしたちのブースへおいでください.

なお,全面的に come out しているわけではない方は,当日,大きめのサングラスや帽子などを着用し,服装も普段とは異なるものになさるよう,お勧めします.

2019年04月23日

主の御復活おめでとうございます


主の御復活,おめでとうございます!

しかし,なぜ主の復活のお祝いのメッセージに Maria Magdalena の肖像を添えるのか — しかも,復活した Jesus に近寄ろうとする彼女に対して発せられた彼の言葉 "Noli me tangere"(わたしに触れるな)の主題のもとに描かれた数々の名作のひとつではなく,神秘的な恍惚の状態にある彼女を描いた Caravaggio の作品を?

その理由は,Jesus は決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりはしなかった,ということだけではありません.

話はちょっと横道にそれますが,説明しておきましょう.そうです,復活した Jesus は Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と冷たく禁止したりはしませんでした.

ヨハネ福音書 20 章 17 節で,何と言われているか?ギリシャ語の原文では,彼は彼女にこう行っています : μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の二人称単数の命令形です.μή は否定辞です.ですから,その文は確かに一種の否定命令 — つまり,禁止 — を表してはいます.しかし,それは単なる「触れるな」ではありません.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を接続法アオリストに活用して,μή μου ἅψῃ と言うはずです.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,こんな光景です:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし彼女は地面にひざまづくか,ひれ伏していると想像するなら,彼女は彼の下半身に抱きついたか,彼の足を手で握りしめた); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は彼女に優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されています.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」ともよりよくつながります.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されています.もはや,それは誤訳であると言わざるを得ません.

話をもとに戻すと,この記事の挿絵として "Noli me tangere" ではなく,恍惚の Maria Magdalena の肖像を選んだのは,単に Jesus は彼女に「わたしに触れるな」とは言わなかったからだけでなく,しかして,そもそも,死者たちのうちから復活した主は,40日間,幽霊のような地上的な「存在事象」として,彼女や弟子たちとともに「存在」したはずはないからです.

わたしは,むしろ,こう思います:福音書に物語られていること — 復活した Jesus は最初に女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が真理を表しているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいるひとりの女性(または,女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」とは言いません),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は誕生しました.それがいつのことなのか — Jesus の処刑(推定,紀元30年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは何年も後のことなのか — は,定かではありません.勿論,最初のパウロ書簡(第一テサロニケ書簡)が書かれたと推定される紀元51年より前であることは確かですが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができます.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を無視しました.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は福音書のなかにしっかりと書きとめられました.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに崇められています.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は誕生し得なかったのです.

もうお気づきのことと思いますが,「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもありません.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとかではありません.

もし仮にそう考えるなら,それは仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまいます.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまいます.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまいます.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうことでしょう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるでしょう.

キリスト教は,そのような仏教と同じではあり得ません.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々において成起し得ることであるからです.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではありません.そうではなく,人間が今,神の命(存在)を生きる,ということです.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かせて(存在させて)くださっているからです.

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではありません.人間が生きている生は神御自身の生であり,人間の存在は神御自身の存在です.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言いました.その理由は,こうです:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活するということである.

無からすべてを創造する神は,我々ひとりひとりを創造するとき,我々ひとりひとりの存在を神御自身の存在によって可能にしてくださいました.そのことに気がつき,そのことに感謝しましょう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからです.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもあります.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆されます.

ところで,今年の聖週間は,本当に悲しい週でした — 我々が愛する Notre Dame de Paris の火災のゆえに.それは,まるで乙女マリアの火刑を目の当たりにするような苦痛でした.

今日,復活の主日,ある意味で,我々が感ずる主の復活の喜びは,復活した主と出会った Maria Magdalena が感じたであろう喜びと同じです — かけがえのないものの喪失を経験した後の喜びである限りにおいて.

もうひとつ,重大な喪失を,我々は最近,味わいました.カトリック聖職者による青少年および女性に対する性的虐待の構造的な蔓延による〈カトリック教会そのものへの信頼の〉喪失です.

一方は偶発的な喪失であり,他方は必然的な喪失です.しかし,それらふたつの喪失をほぼ同時に経験した我々は,そこから新たな創造が成起し得ることを予感します — 聖職者中心主義によらないカトリック教会と律法中心主義によらないカトリック信仰の可能性が,改めて我々に与えられたのです.

ある意味で聖職者中心主義を象徴する Notre Dame de Paris の建設は,12世紀に始まりました.今 thomisme と呼ばれている律法中心主義を象徴する聖トマス・アクィナスが生きたのは,13世紀でした.両者は,homosexuality と transgender を断罪し,排除するカトリック教会の象徴でもあります.

Maria Magdalena の経験がキリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も律法中心主義も,我々の信仰には異質なものであり,不要なものです.

今日,復活の主日,わたしたちは,改めて,キリスト教の原点である Maria Magdalena の経験を経験しなおしましょう.

主の御復活,おめでとうございます!

ルカ小笠原晋也(LGBTCJ 共同代表)

2019年04月21日

教皇フランチェスコの天国と地獄に関する教え

教皇フランチェスコの天国と地獄に関する教え

以前にも紹介したことがありますが,教皇 Francesco は,2015年03月08日にローマ市内のある小教区を訪問した際,ガールスカウトの少女の質問 :「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言いました:

******
あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.

では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.

しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました :「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.

神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.

地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.

そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです — 神との関係を全然欲しがらずに.

他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う :「主よ!...」.

その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.

イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う :「主よ,わたしを憐れんでください!」.

すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43).

なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.

地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです :「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」— 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.

わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

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死後,わたしたちはどうなるのか?それは,死の穴に直面するわたしたちが,不安におののきながら,自問する問いです.歴史上,さまざまな想像力がさまざまに答えてきました.

しかし,実は,本質的に重要なのは,「死後どうなるか?」に関する空想的な答えではなく,しかして,死の穴に直面する不安から逃げない,という態度です.そして,死の穴に直面しつつ,今,どう生きるべきか,今,どう在るべきか,について問うことです.

教皇 Francesco は,こう答えています:もしあなたが「我々人間は自律的に自立しており,自身に起こることは,単なる偶然を除けば,すべて,自業自得,自己責任であって,神の愛による救済や赦しはあり得ないこと,無用なことだ」と思っているなら,あなたの世界は地獄です.あなたは死後,神罰によって地獄へ突き落とされるのではありません.神の愛の福音に対して耳を塞ぎ,神へ背を向けたままでいるあなたは,今,地獄を生きているのです.

なぜ今の日本社会が地獄のようであるのか,よくわかります.

神は律法をふりかざして処罰したりはしません.神は愛し,赦し,救ってくださいます.神に愛されたいと欲する者は,今,もうすでに,神のみもとにいます.神とともにいます.イェスとともに天国にいます.

以上が,教皇 Francesco の天国と地獄に関する教えです.

2019年03月28日

homosexuality に関する日本カトリック司教協議会の見解について

homosexuality に関する日本カトリック司教協議会の見解について

日本カトリック司教協議会が 2015年05月06日付で発表した文書 のなかで homosexuality に言及していることを,最近知りました.わたしは,それに今まで全然気がついていなかったので,ここで取り上げておきたいと思います.

皆さん憶えていらっしゃるように,2014年と2015年に家族を主題とするシノドス (Synodus Episcoporum) が行われ,それを受けて,2016年,教皇 Francesco は使徒的勧告 Amoris laetitia を発表しました.

2014年のシノドスの報告書は,2015年のシノドスを準備するための文書 Lineamenta として発表されました.そして,その際,報告書の内容に関連する 46 の問いが,さらにそこに付加されました.

以下に紹介する文章は,Lineamenta として発表された2014年のシノドスの報告書のうち homosexuality に関連する部分の邦訳,ならびに,付加された 46 の問いのうち homosexuality に関連する部分の邦訳,および,それら 46 の問いに対する 日本カトリック司教協議会の回答 のうち,homosexuality に関連する部分です.

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[2014年のシノドスの報告書から]

homosexual な性的指向を有する人々に対する司牧的注意

55. homosexual な性的指向を有する人々をメンバーとして擁する家族がある.そのことに関して,我々は,そのような状況に対して為すべき司牧的注意について,問いあった — 教会の教えに準拠しつつ :「homosexual なつながりと,結婚および家族に関する神の計画とを,同列に置くこと,あるいは,両者の間に類似性を認めること — たとえ遠く離れた類似性であれ — には,如何なる根拠も無い」.とはいえ,homosexual な性向を有する人々は,敬意と心遣いを持って迎え入れられねばならない.「彼れらに対しては,不当な差別の刻印は,如何なるものも,避けるべきである」(教理省,「homosexual な者どうしのつながりを合法的なものと認める計画に関する考察」(Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali, 4) (2003).

56. この領域において,教会の司牧者たちが圧力を受けることは,まったく容認しがたい.また,国際機関が,貧しい国々に対する財政援助を行うに際し,同性の者どうしの「結婚」の法制化の導入をその条件とすることも,まったく容認しがたい.

[55 および 56 に関する問い]

homosexual な性向を有する人々に対する司牧的注意は,今日,新たな課題を措定している — 特に,社会的水準において彼れらの権利[の問題]が提起されているしかたによって.

40. homosexual な性向を有する者をメンバーとして擁する家族に対して,キリスト教共同体は,如何に司牧的注意を向けるか?あらゆる不当な差別を回避しつつ,如何なるしかたで,homosexual であるという状況にある人々にかかわることができるか — 福音の光のもとで?彼れらの状況に対する神の意志の要請を,如何に彼れらに提示するか?

******
日本カトリック司教協議会の〈問い 40 への〉答え

1.
i. 当事者が一番苦しんでいる。医学的治療に結びつけ、まず,人間として生きていくことができるように支援が必要。長い検査と治療の結果、性別が確定され、それによって生きる道が選択されていくのではないか。
ii. 教会は、同性婚の結婚を認めることができなくても、同性愛は本人の選択によるのではないし、神が拒絶しているとは考えられない。せめて,同性愛の傾向を持つ男女が作る家庭も神に祝福された家庭だというメッセージを発信することが必要だと思う。最近、東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例を可決した(賛成派が過半数をやや上回っている)。
iii. 彼らがさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない。むしろ、社会的な少数者として受け入れる必要がある。
iv. 結婚の目的についての教会の教えを、絶えず信者たちに教える必要がある。

2.
同性愛者が家庭の中にいると分かれば、イエス・キリストのように愛と憐みの心をもって,「罪人と罪」を区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡の時に真実を告げられると、助言する他に方法はない。

3.
i. 裁くことなく、同性愛者とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない。
ii. 教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよい方法であろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について,専門家に話をしてもらう。
iii.「結婚の本質は夫婦愛から生まれるいのちの継承にある」という、神によって示された方向性は決して変えるべきではないが、その在り方については,母なる教会の心をもって対応されるべき。宗教学・医学・科学的見地に立ち、可能な限りの解決策を試み、それでも根本的解決に繋がり得ない場合は、その人の目から涙をすべて拭い去る救いへの努力が求められる。本人たちのせいではなく、神さまから頂いた傾向だと思われるので、秘跡に与る権利があることを本人にはもちろん,家族にも話すことは大事。

******
若干のコメントを述べておきたいと思います.

まず,すぐに気づくことができるように,どうやら,日本カトリック司教協議会は,sexual orientation[性的指向]と gender identity[性同一性]とを区別し得ていないようです.というのも,Lineamenta においては homosexuality — つまり性的指向にかかわること — についてしか問われていないのに,日本カトリック司教協議会の回答においては「性別の確定」— つまり性同一性にかかわること — への言及が為されているからです.まずは日本のカトリック教会のなかで LGBTQ+ および SOGI (sexual orientation and gender identity) に関する初歩的な学習が必要であることが,示唆されます.

「当事者が苦しんでいる」— それは確かです.しかし,その苦しみを惹き起こしているのは何か?それは,LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別であり,homosexuality を断罪するカトリック教会の教義であり,そして,性別男女二元論 (gender binarism) に固執する一般的な固定観念です.今,Vatican では,教皇 Francesco も含めて,gender という単語を聞くと "gender ideology" が自動的に連想されるようですが,むしろ,性別男女二元論こそがひとつの形而上学的なイデオロギーです.教皇 Francesco が強調する「男と女の差異」は,性的なものではなく,Heidegger が「存在論的差異」と呼んだものに還元されます(詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』第 2 部「教皇 Francesco の生と性の神学」を参照).

「医学的治療に結びつけ」— もはや,homosexuality も transgenderism も,そのものとしては,精神疾患とは見なされていません.

「人間として生きてゆくこと」— LGBTQ+ の人々は人間です.各人が,今,あるがままに,人間として生きています.彼れらが「人間的に」生きてゆくことができるようになるためには,先ほども指摘したように,1) LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別 ; 2) homosexuality を断罪するカトリック教会の教義 ; 3) 性別男女二元論に固執する一般的な固定観念,それら三つのものを取り除く必要があります.

「homosexual であることは本人の選択の問題ではなく,LGBTQ+ の人々を神が拒絶しているとは考えられない」— そう断言していることは,評価できます.

「homosexual の人々がつくる家族も神に祝福されている,というメッセージを発信することが必要だ」— 大賛成!是非,早急に実行しましょう.また,地方自治体による同性パートナーシップの認定に言及していることも,評価できます.

「LGBTQ+ の人々がさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない.むしろ,社会的な少数者として,彼れらを受け入れる必要がある」— そのとおりです.ただし,LGBTQ+ に対する偏見と差別にカトリック教会が加担していることを,自覚し,反省する必要があります.特に,homosexuality に対する断罪の教義と,性別男女二元論への固執が,問題です.

「結婚の目的に関する教会の教え」— 本質的に言って,それは何でしょうか?後段ではこう述べられています :「結婚の本質は,夫婦愛から生まれる命の継承にある」.そこで言う「命の継承」とは,如何なることでしょうか?まず,形而上学的な lex naturalis[自然法]の先入観を捨てましょう.そして,性別男女二元論も,生物学的な生殖を前提とする固定観念も,捨てましょう.結婚は,愛し合うカップルの愛のきづなに存します.「結婚を創造するのは,神自身である」(カテキズム 1603)— なぜなら,神は愛であるからです.ですから,教会は,異性カップルであれ,同性カップルであれ.愛し合うカップルの愛のきづなを祝福し,それを秘跡と認めるべきです.そこに差別があってはなりません.また,「命の継承」は生物学的な生殖によるものに限られる必要はなく,親子関係は adoption[養子縁組]によるものであってもよいはずです.同性カップルは,養子を迎え,その子を新たな命としてはぐくみ,信仰を伝えてゆくことができます.その側面を,教会は無視してはなりません.

「homosexual である者が家族のなかにいるとわかれば,イエスキリストのように愛と憐みの心をもって,罪人と罪とを区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡のときに真実を告げられたなら,助言するほかに方法はない」— この言説は,もはや容認しがたいものです.カトリック教会は,homosexuality を断罪することをただちにやめるべきです.homosexuality は,神のみわざです.神は,homosexual である人々を,そうであるがままに創造しました.homosexuality を断罪することは,homosexual の人々を創造した神を断罪することにほかなりません.そして,homosexual である人々と,彼れらの愛の行為とを区別することも,許されません.ふたりの人間が愛しあうことも,神のみわざです — 異性どうしであれ,同性どうしであれ.また,今や,カトリック教会による homosexuality に対する断罪がカトリック聖職者の pedophilia の原因のひとつであることから目をそむけ続けることはできません.

「裁くことなく、homosexual の人々とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない」— 賛成です.そして,聖霊は我々をどう導いているでしょうか? homosexuality を断罪することをやめなさい,と我々に告げていないでしょうか?神の愛の福音を聴くよう,耳を開くときです.

「教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよいだろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について専門家に話をしてもらう」— まず,大司教様,司教様,神父様たちが,LGBTQ+ と SOGI に関する初歩的なことがらを勉強してください.勿論,一般信徒へ教えることも有意義です : LGBTQ+ の人々を,神の全包容的な愛にしたがって,如何なる差別もなしに,教会へ迎え入れましょう ; homosexuality を断罪するカトリック教会の教義が,如何に形而上学に毒されており,神の愛に反しており,しかも,それは司祭の pedophilia 問題の原因にすらなっている,ということを,カトリック信者皆に知ってもらいましょう.

homosexual であることは「本人たちの選択によるのなく、神さまからいただいたものだと思われるので,[homosexual の人々も]秘跡に与る権利があることを,本人にはもちろん,家族にも話すことはだいじ」— そのとおりです.LGBTQ+ であることは,神から与えられたことです.LGBTQ+ の人々は,あらゆる人間と同じく,神の被造物です.そして,そのようなものとして,あるがままに,存在尊厳を与えられています.結婚に関することも含めて,如何なる差別もカトリック教会のなかでは容認され得ません.

2019年03月28日

小宇佐敬二神父様の説教,2019年02月24日,LGBTQ+ みんなのミサ

2019年02月24日の LGBTQ+ みんなのミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

小宇佐敬二神父様は,2017年08月以来,御病気の療養中ですが,比較的体調の良いころあいを見はからって,久しぶりに LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださいました.神父様に改めて感謝します.

小宇佐神父様の熱意のこもった説教をお聴きください.音声ファイルは こちら から download することができます.

書き起こしテクストはブログでお読みください

2019年03月01日

日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言

日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言

2019年02月21-24日,Vatican で,世界各国の司教協議会の長を招集して,カトリック教会における青少年に対する性的虐待の問題と未成年者の保護の問題に関する会議が開かれます(通称 Vatican sex abuse summit : ヴァチカン性的虐待サミット).

それに対する皮肉のごとくに,今までも homosexuality に関する著作を多数発表している社会学者 Frédéric Martel 氏が,Vatican に内在的な homosexuality に関する研究書 Sodoma — Enquête au coeur du Vatican[ソドム — ヴァチカンのただなかにおける調査](英訳表題 : In the Closet of the Vatican : Power, Homosexuality, Hypocrisy[ヴァチカンの隠し所:権力,ホモセクシュアリティ,偽善]を,その会議の初日に合わせて出版します.The Guardian 紙は「Vatican の司祭の 5 人に 4 人は gay だ」との見だしのもとに,その本を紹介しています.

そして,日本でも,カトリック聖職者による性的虐待の被害者が,初めて,みづから名のり出ました:竹中勝美さんです(1956年生れ — わたし[ルカ小笠原晋也]と同い年です).彼の証言が,文藝春秋2019年03月号に発表されました.以前に彼が洗礼名「エドワード」名義で発表した書簡回想の方が,記事よりも,彼の痛々しい経験をなまなましく伝えています.

それによると,竹中勝美さんは,初等教育期間を東京サレジオ学園で過ごしました.1955年から 6 年間,学園の小中学校の校長を務めた Thomas Manhard 神父 SDB (1915-1986) から,竹中さんは,9-10歳ころ,頻繁に性的虐待を受けました.その後遺症は,長年にわたって彼を苦しめ続けました.

わたしは東京学芸大学附属小金井小学校中学校に通っていたので,そのすぐ近くにあるサレジオ学園の名前はなじみのものでした.そのなかで子どもたちに対する虐待が頻繁に行われていたのかと思うと,今さらながら,強いショックを感じます.ともあれ,竹中さんの勇気をたたえるとともに,彼の証言が日本におけるカトリック教会の改革に貢献してくれることを願いたいと思います.

今までも繰り返し強調してきたように,カトリック聖職者による青少年に対する性的虐待の原因は,加害者の homosexuality に存するのではありません.そうではなく,カトリック教義が homosexuality を厳しく断罪していることこそが問題です.

カトリック聖職者には castitas[貞節,貞潔]の義務が課せられています.その義務を果たし得るためには,単に性欲を「我慢」すればよいのではなく,しかして,欲望の昇華 (sublimation) が達成されていなければなりません.欲望の昇華に至るためには,自身の sexuality に関する自覚と内省の多大な努力が必要です.

ところが,教義が homosexuality を断罪しているせいで,gay である神学生の場合,排斥と否認のメカニズムが働き,自身の sexuality に対する自覚的な取り組みをすることが困難になってしまいます.すると,どうなるか?「わたしは,女性に接しても性欲をまったく感じないから,性的な問題を克服することができている」とカン違いしてしまいます.そして,司祭に叙階され,たまたま,身近に子どもたちがいる環境で働くことになると,どうなるか?排斥されたものの回帰の症状として,抑えがたい性的衝動が襲ってきます.子どもに手を出してはいけないとわかっていながらも,その行動を抑制することはどうしてもできません.そして,適当な合理化のもとに,性的行動を強迫的に反復することになります.

では,神学生から gay を除外すればよいのか?それは,技術的に不可能です.まさに教義による homosexuality 断罪のせいで,gay である神学生は自身が gay であることを自覚し得なくなっているからです.そのような場合でも有効な「homosexuality 探知機」として機能し得る心理テストのようなものは,ありません.勿論,直接の面接によっても,確信的に察知することはできません.

Vatican は,考え方を根本的に方向転換する必要があります.教義における homosexuality に対する断罪を即座に廃するべきです.homosexual である人々が教会のなかで抑圧されているように感じざるを得ない雰囲気を変えるべきです.

聖職者が gay であっても,それはまったくかまわないことです — castitas の義務が守られているならば,つまり,性的欲望の昇華が達成されているならば.

そして,それは,heterosexual の聖職者の場合にも,当然,当てはまります.司祭による女性に対する性的暴力の事件も,昔から,かつ,最近も,大きな問題になっています.

人間存在は,本来的に性的なものです.神が人間をそう創造したからです.性的な欲望の問題については,それにフタをして,そこから目をそらしていたのでは,解決は得られません.欲望の昇華にこそ主題的に取り組むべきときがきたのだ — わたしは,精神分析家として,そう思います.

ルカ小笠原晋也

2019年02月20日

Franz-Josef Overbeck 司教 :「カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」

Franz-Josef Overbeck 司教 :「カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」

神学雑誌 Herder Korrespondenz の2019年02月号にドイツの Essen 教区の Franz-Josef Overbeck[フランツヨーゼフ・オーヴァーベック]司教がゲスト・コメンテーターとして書いたテクストが,LGBTQ+ 関連のニュースのなかで話題になっています.題して :「偏見を克服すること ! カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」(Vorurteile überwinden ! Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern).

Franz-Josef Overbeck 司教は,1964年生れ.1989年,25歳時に Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)により司祭に叙階.神学博士.2007年に司教に叙階され,2009年から Essen 司教,2011年からドイツ連邦軍指導司教.

彼がその寄稿において言っていることは,わたし(ルカ小笠原晋也)の主張とほぼ一致しているので,御紹介したいと思います.

ただし,最後の方で彼は「同性どうしが性的関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問い」に関して判断保留を表明していますが,わたしは,カトリック教会において,性的指向や性同一性 (sexual orientation and gender identity : SOGI) にもとづくあらゆる差別は,同性カップルに結婚の秘跡を授けないという差別も含めて,如何なる条件においても正当化され得ない,と考えています.

******
偏見を克服すること !
カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない

Vorurteile überwinden !
Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern

Von Franz-Josef Overbeck

今,homosexuality についてどう考えるかという問いほど,カトリック教会のなかで人々を熱くさせる問題はほかにほとんど無い.全世界的に見れば,homosexual の人々にとっては,最小限の対人的な敬意を払ってもらうことさえ必ずしも確実ではない.カトリック教会において,より立ち入ったしかたで homosexuality に関する道徳的な価値判断の問題に取り組むことは,現在,喫緊の課題である.それは,[聖職者による青少年に対する]性的虐待に関する MHG 調査[Mannheim, Heidelberg, Gießen の三大学の研究所による合同調査;2018年9月にドイツ司教協議会に報告された]の検討から出発した議論の流れのなかで,カトリック道徳学を考慮に入れないでおくべきではない,というドイツ司教協議会の要請に応えるためである.仮定および問いとしてかかわっているのは,このことである:もしかして,sexuality に関するカトリック教会の教えの幾つかの内容が,人間の sexuality の諸現象を不幸にもタブー視することを促したのではなかろうか?そのことは,特に homosexuality について妥当する.なぜなら — その推察によれば — 教会の[homosexuality に関する]あのように否定的な見方は,個々人の心理においても,また,ついには,教会組織においても,[homosexuality という]性の現象形態の不健全な排斥を — または,否認をさえ — 促進したからである.

ここで,何をどう関連づけようと,ひとつのことは確かである:ひとりの人間の性的指向 — heterosexual であれ homosexual であれ — そのものは,性的虐待の原因と見なされることはできないし,かつ,そうされてはならない.また,専門家の見解によれば,pedophilia と homosexuality との間には,いかなる内的な関連性も無い.それゆえ,たとえば,性的虐待の問題は,司祭職への門戸を自分は heterosexual だと感じている男たちだけに制限することによって解決され得る,と主張するとすれば,それはまったくの見当違いであろう.そのような対策によっては,まさに,教会内における排斥 — 問題多き排斥 — を惹起したあの態度が継続され,さらには強化されることになるのではなかろうか?とわたしは自問する.また,そのような対策によっては,性的虐待というこの非常に複雑な問題に関して我々は確実な解決法を既に所有している,という危険な錯覚が大きくなることにもなるのではなかろうか?

ひとつのことは確実である:あらゆる人間は,きわめて敬意と愛に満ちた対人関係に与り得る.そこから特定の人間集団を排除するとすれば,それは,当事者にとっては耐え難い偏見の表現であり,つまるところ,彼れらを差別し,犯罪者扱いすることをさえ助長する.従来どおり,ひたすら自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづいて homosexuality を知覚し,評価することを単に繰り返すだけならば,教会と密なつながりを持つ信者たちの間でさえ,教会の性道徳に対する信頼性の劇的な喪失を阻止することはできないだろう — この懸念は根拠がある,とわたしは思っている.

いかなる観点においてであれ「sexuality を人間的にする」こと [ Humanisierung von Sexualität ] は,今日,同じ程度に「sexuality を personal なものとする」こと [ Personalisierung von Sexualität ] を意義している.この背景を前にして,もし仮に sexuality に関する問いにおいて人々の経験 — および,人々の経験を反映する人間科学 — との対話を忌避するならば,なおさら,カトリック道徳学は,知的領域において一顧だにされなくなる危険をおかすことになる.

この数十年間の聖書解釈学や道徳神学の認識との対話も,学びと認識の進歩が始めから排除されてはいないようなしかたで行われているはずである.そのようであってこそ,伝統は,キリスト教の始まり以来そうであるように,生き生きとした出来事であり続ける.キリスト教道徳が理性に適うものであることに賭け,それとともに,「単純明瞭」であるかのごとくに見える答えを選ぶよう誘惑する原理主義に抵抗することは,カトリック神学の強みに属すことであるのだから,カトリック教会の教えは,人間の実存が性的なものであること — および,そのことについてより深く知ること — に対して,自身を閉ざしてはならない.

それは,性道徳の問い — 特に homosexuality の問い — については,このことを意義する:すなわち,文化と時代によって条件づけられた諸表象 — それらは,同性どうしの sexuality に関する聖書の文言へも輸入されている — について,この[伝統を生き生きとした出来事にする]光のもとに,新たに省察し,聖書的倫理の基本的な — かつ,ある意味で「時代を超えた」— 諸様相からそれら[文化と時代に条件づけられた諸表象]を明確に区別すること.そこにおいては,「識別能力」— それを以て,聖書的な伝統と教会の伝統の多層性のなかから,今日,何を如何なるしかたで妥当なものとせねばならないかを我々が見つけ出し得るところの「識別能力」— が問われている.そも,正当にも,カトリック教会には,あらゆる時代において善とまことに人間的なものと — そこにおいて神の意志が我々と出会うところ — を探し求めることが,期待されている.

それゆえ,人間の sexuality に関する認識が深められることによって,過去の時代のもろもろの偏見 — それらは,今日に至るまで致命的に影響を及ぼしている — が克服されるならば,それは,基本的に言って,カトリック教会にとって喜ばしい限りである.homosexuality の「脱病理学化」は,当事者たちにとっては,過去と現在における — 部分的には途轍もない — 受難の歴史からの遅すぎる解放を意義する.この数年間,当事者たちとの多くの対話は,わたしに多くのことを考えさせ,わたしの心を動かし,わたしの視野を広げてくれた.それゆえ,今や homosexuality に関する[性道徳的な]知覚と価値判断に関して教会内で議論すべきときとなったとしても,その議論は,当事者たちが過去に受けた傷 — その傷口は,まだほとんど瘢痕化していない — がまた新たに口を開くことのないようなしかたで為されるべきである.その歩みは,同性どうしが[性的]関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問いからは切り離した形で,計画表のなかに予定されている.いずれにせよ,homosexuality というテーマに関して,我々は,第二ヴァチカン公会議の確信を心にとめるべきであろう:「謙虚に,かつ,辛抱強く,ものごとの秘密を探求しようと努める者は,みづからはそうと気がついていない場合でも,神の手によって導かれているかのごとくである — 万物を支えつつ,あらゆるものが,それが其れであるところのものであるようにしている神の手によって」(GS 36).

(ルカ小笠原晋也による翻訳)

2019年02月06日

菊地功東京大司教様に LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を届けましょう

菊地功東京大司教様に LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を届けましょう

菊地功 東京大司教様は,2019年01月の東京教区ニュースに掲載されている彼の新年の挨拶の文章のなかでもおっしゃっているように,彼の宣教司牧方針の策定のために信仰共同体からの意見を募集しています.

2018年05月20日付で発表された「多様性における一致を掲げて」のなかで列挙されている10の課題:

1 : 修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実
2 : 滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し
3 : 継続信仰養成の整備と充実
4 : 現行「宣教協力体」の評価と見直し
5 : カトリック諸施設と小教区・教区との連携
6 : イベントの豊かさだけではなく、霊的にも豊かな共同体の育成
7 : 信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実
8 : 文化の多様性を尊重した典礼の豊かさの充実
9 : 教区全体の「愛の奉仕」の見直しと連携の強化
10 : 東日本大震災への取り組みに学ぶ将来の災害への備えの充実

に関して,「そのすべてでもかまいませんし,また一部でもよいのですが、それぞれの共同体の中で是非とも話し合っていただいて,意見を交わし、それを集約した上で、文書をもって,皆様の提言を私に御提出いただけませんでしょうか。ひとつでも多くの小教区共同体や修道院共同体からの御意見や御示唆をお待ち申し上げます。御提出いただく期限は、2019年の聖霊降臨(6月 9日)といたします」(2019年01月08日付東京教区ニュースより)とのことです.

2019年01月14日の「東京教区年始の集い」でお会いした際に,大司教様に直接確認したところ,LGBTCJ からも是非,意見を寄せて欲しい,とのことです.

というわけで,大司教様から与えられたこの宿題に答えたいと思います.特に「霊的に豊かな信仰共同体の育成」や「信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実」の項目が,わたしたち LGBTQ+ カトリック信仰共同体と関連性が高いと思います.

意見交換や議論の手段についてですが,LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いは議論の場所としてはふさわしくないので,メーリングリストを利用したいと思います.

まず,意見交換や議論のためのメーリングリストを作成したいと思います.参加希望者は lgbtcj@gmail.com へ「リスト参加希望」と表記したメールをお送りください.登録の期限は特に定めません.

そして,御意見を lgbtcj@gmail.com へお送りください.

お送りくださった文面は,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

その意見に関する御意見等も,lgbtcj@gmail.com へお寄せください.その文面も,同様に,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

顔を見ながら意見交換する機会を持ちたいという御意見が多ければ,Skype での会議の機会を持つか,または,5月26日に予定されている LGBTQ+ みんなのミサの後に,分かち合いの集いとは別に,会合の時間を取りたいと思います.

意見書の文面は,皆さんの意見と議論にもとづいて,わたし(ルカ小笠原晋也)が作成し,5月末または 6月始めにメーリングリスト参加者全員へ配信します.そして,その文面に関する皆さんの意見にもとづいて,最終的な形に整えたいと思います.

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菊地功大司教様は,2019年01月21日付のブログで「シノダリティ」について書いていらっしゃいます.

「司教たちのシノドス」(Synodus Episcoporum) は,教皇のための助言組織として,1965年,聖パウロ VI 世教皇によって設立されました.菊地功大司教様がブログで言及している「シノドス」は,若者をテーマに,2018年10月に行われたものです.

「シノドス」という語はギリシャ語の σύνοδος に由来しており,その語は「共に (σύν) 道 (ὁδός) を歩む」ことに由来しています.

ですから,教皇 Francesco が「シノダリティ」(synodality, sinodalità) を強調するとき,そこには,組織の頂点に位置する者の教条的な独断や独裁とは逆に,愛を以て司教や教皇が一般信徒と共に歩み,その声に耳を傾け,愛を以て司牧することが含意されています.菊地功大司教様も,この synodality の精神を確かに実践しようとなさっています.

ブログで菊地功大司教様が言及している 2018年10月28日の Angelus の際の話のなかで,教皇 Francesco は明らかに LGBTQ+ のことに言及しています.日本語訳は,イタリア語原文ではなく英訳を邦訳しているので,誤訳している部分があります.当該箇所をイタリア語で読み直してみましょう:

Con questo atteggiamento fondamentale di ascolto, abbiamo cercato di leggere la realtà, di cogliere i segni di questi nostri tempi. Un discernimento comunitario, fatto alla luce della Parola di Dio e dello Spirito Santo. Questo è uno dei doni più belli che il Signore fa alla Chiesa Cattolica, cioè quello di raccogliere voci e volti dalle realtà più varie e così poter tentare un’interpretazione che tenga conto della ricchezza e della complessità dei fenomeni, sempre alla luce del Vangelo. Così, in questi giorni, ci siamo confrontati su come camminare insieme attraverso tante sfide, quali il mondo digitale, il fenomeno delle migrazioni, il senso del corpo e della sessualità, il dramma delle guerre e della violenza.

この「聴く」という基本的な態度を以て,わたしたちは,現実を読むこと — わたしたちの時代の徴を捉えること — に努めました.共同体的な分析が,神の御ことばと聖霊との光のもとに為されました.それは,主がカトリック教会に与えた最もすばらしい賜のひとつです:すなわち,非常に多様な現実から[さまざまな]声と顔を集め,そして,それによって,現象の豊かさと複雑さを考慮にいれた解釈を試み得る — 常に福音の光のもとに — という賜です.かくして,この26日間,わたしたちは,数多くの挑戦 — たとえば,情報化された世界,移民の現象,身体と性の意味,戦争と暴力のドラマ — を受けながら如何に共に歩むかについて,討議してきました.

この「身体と性の意味」(il senso del corpo e della sessualità) という表現は,明らかに LGBTQ+ のテーマを指しています.教皇が LGBT という語を用いなかったのは,シノドスを準備する段階の文書には LGBT という語が用いられていたのに,最終報告書からはその語は削除されてしまったからでしょう.

ともあれ,教皇 Francesco が LGBTQ+ の人々のことを気にかけているのは,周知のとおりです.

東京大司教区においても,LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を菊地功大司教様に届けましょう.

ルカ小笠原晋也

2019年02月06日

Vincent Nichols 枢機卿が LGBTQ ミサ司式

Vincent Nichols 枢機卿が LGBTQ ミサ司式

「主の洗礼」の祝日であった2019年01月13日,カトリック Westminster 大司教区(London を含む地域)の大司教,Vincent Nichols 枢機卿は,イエズス会の Church of the Immaculate Conception で LGBTQ+ ミサを司式しました.

以前にも紹介しましたように,Westminster 大司教区では毎月二回,第二日曜日と第四日曜日,その教会で LGBTQ+ ミサが行われています.つまり,1月13日のミサは,今年最初の LGBTQ+ ミサでした.Vincent Nichols 枢機卿が LGBTQ+ ミサを司式するのは,今回で二度目です.

記事によると,説教のなかで,枢機卿は,新たな包容的な「家族」の定義を提示しました.彼は,まず,洗礼によってキリスト教徒全員はひとつの根源的な同一性を与えられている,と述べました.その同一性は,ほかのあらゆる同一性(属性)を越えます.この洗礼によって与えられた一致は,愛に根ざしており,その愛は,結婚および家族生活を含むさまざまな友愛的関係に深く参与することにおいて,生きられます.

2018年12月30日(聖家族の祝日)付の司牧書簡においても,Vincent Nichols 枢機卿は,“being at home”[自宅で,自分の家族と家庭のなかで,安らいでいる]という表現の意義について論じています.それは,単に「肉と血」のつながりに負うものではなく,しかして,我々を生かしてくれる愛と友情すべてを祝い,そのことについて神に感謝することです.「家族」という語は,生き方の多様なパターンと次元 — つまり,異性カップルの家族のみならず,同性カップルの家族も,奉献生活の共同体も — を含意し得ます.

ミサ後のスピーチで,Vincent Nichols 枢機卿は,LGBTQ+ ミサの世話役をしているグループ LGBT+ Catholics Westminster を称賛し,それは,カトリック教会のなかで at home であることができる LGBTQ+ の共同体として,Westminster 大司教区における迎え入れと包容の重要な徴である,と述べました.

2019年01月28日

降誕祭の御挨拶,ルカ小笠原晋也 LGBTCJ 共同代表

降誕祭の御挨拶,ルカ小笠原晋也 LGBTCJ 共同代表

主の御降誕おめでとうございます!

神とわたしたちをつなぐ愛のしるしとして,神は,御自身のひとり子 Jesus をわたしたちのところに使わしてくださいました.そして,それによって,わたしたちひとりひとりを,神の子としてくださいました.神の愛の恵みに感謝しましょう!そして,その善き知らせに喜びましょう!

世界的に言って,カトリック教会は,この一年間,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件によって大きく揺るがされました.多数の犠牲者のために改めて祈りたいと思います.

その問題が大々的に表面化したのは,2002年に Boston 大司教区におけるスキャンダルが暴露されたことによってでしたが,実際には,カトリック教会はその全歴史を通じてその問題を抱え続けてきたはずです.21世紀初頭に至るまで,事件はひたすら隠蔽されてきただけです.

聖職者の pedophilia の問題を隠蔽しながら,他方で,カトリック教会は何をしてきたか?一般信徒における homosexuality の断罪です.何と欺瞞と偽善に満ちた態度でしょう!

カトリック教義における homosexuality の断罪を条件づけているのは,実は,聖 Thomas Aquinas によってキリスト教に輸入された Aristoteles 形而上学です.それによって,形而上学的な目的論がカトリック教義に持ち込まれました.生殖を目的としない sexuality は許されないという思念は,それに根拠づけられています.詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』を参照してください.

LGBTQ がカトリック教会に対して提起している問題は,実は,単に sexuality にかかわることだけではありません.むしろ,カトリック神学に染みついた Aristoteles - Thomas Aquinas の形而上学を,我々は今やそこから一掃しなければならない — その非常に本質的に重要なことを,LGBTQ はカトリック教会に教えてくれました.わたしは,今年,そのことに明確に気がつくことができた,と思っています.

今月の始め,教皇 Francesco の新たなインタヴュー本『召命の力』が出版されました.出版に先立って,homosexuality に関する部分の抜粋がイタリアの新聞に掲載され,それにもとづいて,英語圏では「教皇は,カトリック教会から homosexuality を排除するよう方向転換した」とさえ報道されました.しかし,それは誤解です.そのことを検証したブログ記事「『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言について」を別に書きました.是非お読みください.

わたしたちの月例 LGBTQ+ みんなのミサは,2016年07月の開始以来,二年半続いています.主に感謝!そして,今までに御協力くださった神父様がた,一般信徒の方々,会場を提供してくださっているカトリック施設の責任者の方々,そして,ミサ参加者の皆さんに,改めて感謝します.来年以降も継続して行くことができますように!そして,ほかの都市においても,同様の活動が広まって行きますように!

教皇 Francesco は,2018年03月,非常に注目さるべき使徒的勧告 Gaudete et exultate を発表しました.しかし,そこにこめられた彼のメッセージは,性的虐待スキャンダルのせいであたかもすっかり忘れ去られてしまったかのようです.あらためて,その最後の段落 (nº 177) を引用しておきたいと思います:

「以上の文章が,全教会が聖性の欲望 [ il desiderio della santità ] を奨励することに専念するために有用であることを,わたしは望む.聖霊に求めよう:神の最大の栄光のために,聖なるものでありたいという強い欲望 [ un intenso desiderio di essere santo ] をわたしたちのうちに注ぎ込みたまえ,と.そして,聖なるものであろうとする努力において,わたしたちは互いを助け合おう.そうすれば,わたしたちは,世がわたしたちから取りあげ得ない幸福を,分かち合うことになるだろう.」

新たな年2019年が,カトリック教会にとって,形而上学を超克するための新たな出発の年となりますように!そして,それによって,ますます,神の全包容的な愛に忠実になって行くことができますように!それこそ,第二ヴァチカン公会議において示唆されたカトリック教会の方向性です.

改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

ルカ小笠原晋也

2018年12月25日

降誕祭の御挨拶,ペトロ宮野亨 LGBTCJ 共同代表

降誕祭の御挨拶,ペトロ宮野亨 LGBTCJ 共同代表

主イエスの救いのメッセージをみなさんと共有する喜びに感謝!

12月16日の LGBTQ+ みんなのミサの後の集いで,私は,聖書翻訳の例を分かち合いました.

その言語を話す北方の民族の方々には,「喜ぶ」という単語がなかったそうです.「喜ぶ」という表現を調べ尽くしたところ,「シッポを振る」が誰にでも伝わる表現だという結論になったそうです.

喜びがない人達ではなくて,家畜を自分のようにして命を共有しているからだ,というのが私の直感です.

聖書学者,翻訳者たちは,呻吟苦悶したそうです.だって,「イエスはシッポを振った」っていう文章が聖書に書かれるのですから(と,わたしは,分かち合いの集いで言いました).

すると,学者の鈴木伸国神父様は,その日のうちにその話の出典を見つけてくださって,ご返事をくださいました.

出典の原著は:

Mark Stibbe 著,Every Day with the Father : 366 Devotional Readings in John’s Gospel[毎日,御父とともに — 信仰を以てヨハネ福音書を読む366日]

そのなかの第346日 :

「弟子たちは,[復活した]主を見て,大喜びした」(ヨハネ 20:20)

わたしは憶えている,牧師になるトレーニングを受けているとき,学校で必ず出席せねばならない礼拝にあまり行きたくなかったことを.わたしは非常に多忙で,せねばならないことがたくさんあったので,本当は礼拝に行きたくはなかった.しかし,あるとき,聖書をイヌイットの言語に翻訳する仕事に携わっている牧師が説教に来た.そのとき彼が言ったことは,今でもわたしの記憶に残っている.彼は,次のような話を我々にした:
ヨハネ福音書 20 章 20 節に来たとき,翻訳者たちは途方に暮れた.イヌイットの言語には抽象的な概念を表す言葉が無く,いかに「大喜びする」という観念を伝達する動詞を見つけるかは,難問だった.ヨハネはこう言っている:復活した主を見て,弟子たちは大喜びした.「大喜びする」は,ギリシャ語原文では χαίρειν であり,それは「喜ぶ,うれしい」である.イヌイットの言語にはそのような動詞は無い.そのとき,翻訳者たちはどうしたか?彼れらは,まず,祈った.すると,彼れらのうちひとりが,完璧な解決を思いついた.彼は,イヌイットの男たちとハスキー犬とのきづながどれほど分かちがたいものであるかに気づいていた.男たちは,朝起きると,犬たちのところに行く — 犬たちを外に出してやり,そして,犬たちにそりを引かせるために.犬たちは,飼い主を見ると,大喜びして,シッポを振る.そこで,彼は,ヨハネ 20:20 のイヌイット語訳のためのそのアィディアを使うよう,提案した.ほかの翻訳者たちも同意した.かくして,イヌイット語聖書ではこう言われている :「主を見たとき,弟子たちはシッポを振った」.

読者諸氏が犬を好きかどうかはわからないが,わたしは犬が大好きだ.わたしは,いつも犬といっしょに生きてきた.結婚以来,わたしたちは三匹の黒いラブラドールを飼ってきた.彼れらは皆,とても忠実な友だった.今飼っている犬は,モリーという名だ.わたしが帰宅するとき,必ず彼女はわたしを待っており,わたしを見て,喜びのダンスを踊る — シッポを激しく振って.

復活した主イェスを見たとき,弟子たちはそのように大喜びしたのだ.彼らは,大喜びでシッポを振ったのだ!

以上は,英語原著からの邦訳です.

実は,この後が私の分かち合いたい気持ちです.

教会共同体は,「人間が喜ぶ」という言葉をイヌイットに押し付けず,「今 & ここ」で使われている気持ちや言葉を大切にして,人々に伝わるように聖書の表現を変えました.

私の言い方ですと:神に愛されるために,私は何も変わらなくて良い.全能の神が自在に,私に合わせて変わってくださる.神が変わったときの気持ちすら,私は知るすべがない.だけど,私は「喜ぶ」という気持ちがよく分かる.

これを,私達 LGBTCJ で思い直してみます.きっと,神様は,私達にフィットする表現で福音宣教を可能にしてくださいます.

私達には「シッポを振る」という汎用言語はありませんけれど.

この先,私達一人ひとりの気持ちや言葉を紡いでいけば,長い撚り糸ができて,それで布ができます.縦糸横糸の役割があっても,90度合わせば,縦横の役割も変わります.そして,誰をも包み込めるほどの肌触りの良い布になるでしょう.その後は,必要な方に合わせて,自在に断裁されて,縫い合わせられるでしょう.私達の布は,世界中で使われる布になっていきます.

皆さん,クリスマスは,みんなでシッポを振りましょう!

ペトロ宮野亨

2018年12月25日

『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言について

『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言について

2018年12月,クラレチアン宣教会 (Congregatio Missionariorum Filiorum Immaculati Cordis Beatae Mariae Virginis : CMF) のメンバーであるスペイン人司祭,教皇庁立サラマンカ大学の神学教授,Fernando Prado による教皇 Francesco のインタヴューが,一冊の本として出版されました.その表題は,La forza della vocazione — La vita consacrata oggi[召命の力 — 今日の奉献生活]です.

「奉献生活」は,一般には耳慣れない語かもしれません.おおざっぱに言えば,自身の生を神に奉じた修道士や修道女の生き方のことです.

Fernando Prado 神父は,奉献生活にテーマをしぼって,2018年08月09日の午後,数時間にわたって,教皇 Francesco にインタヴューしました.そのなかでは,当然,修道士や修道女の養成の問題が取り上げられています.そして,奉献生活に入ろうとする候補者が homosexual である場合についても論ぜられています.

このインタヴューがどのようなタイミングで行われたのかを,想い起こしましょう:その12日前,教皇は,青少年に対する性的虐待のゆえに Theodore McCarrik 氏を枢機卿の地位から事実上,解任したばかりです.

2018年,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件が改めて大々的に報道され,世界的にカトリック教会に対する不信感が高まりました.

そのような文脈において,12月始め,出版に数日先だって,La forza della vocazione の homosexuality に関連するくだりの抜粋が,イタリアの新聞で紹介されました.その記事は,英語圏でも広く紹介され,日本でも報道されました:教皇 Francesco は homosexuality を単なる「最新流行」(fashionable) と見なし,カトリック教会には受け容れ難いと発言した,というような印象を与えるしかたで.

12月16日に行われた LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いにおいても,教皇の言葉にショックを受けた,と言った人がいました.

わたしは,La forza della vocazioneのスペイン語版とイタリア語版とフランス語版をさっそく注文しました.フランス語版はすぐに届きましたが,このブログ記事を書いている時点で,スペイン語版とイタリア語版はまだ来ていません.ともあれ,フランス語版にもとづいて,および,イタリア語の新聞で紹介されているイタリア語版の抜粋にもとづいて,教皇 Francesco が homosexuality について語っている一節を含む部分(フランス語版で pp.76-85)の私訳を,以下に掲載します.

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神の聖なる忠実な民に仕えるための養成

— フランシスコ教皇,あなたは,あるとき,奉献生活[神に奉ぜられた生:修道士や修道女などのこと]のための養成について語ったとき,それは「警察的な仕事」というよりは「職人的な仕事」である,と言いました.何をおっしゃりたいのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,奉献生活のための養成のスタイルのことです.それは,養成される者のあるがままの在り方を奉献生活にもっとふさわしいものにせねばなりません.カリスマの原理に則って,奉献生活の候補者たち — つまり,そのために養成される者たち — を,男性であれ女性であれ,彼れらのあるがままの在り方において,少しずつ奉献生活にもっとふさわしいものにすること — 彼れらに寄り添いながら.それは,職人的な作業です.彼れらを見つめ,一歩一歩,彼れらに寄り添う.我々は,彼れらに教義を伝えます.彼れらの言葉に耳を傾けます — とくに,彼れらが内的に感じていることがらについて彼れらが語る言葉に.彼れらが語り出してくることと,彼れらがどのような人間であるかとにもとづいて,我々は,彼れらに分別[見分けること,判断すること]を教えます.逆に,警察の比喩を改めて用いるなら,警察スタイルは,人間を規制し,制御しようとするスタイルです — そうするよう,そうであるよう要請されていることと規則とに候補者が従うように.規則を尊重しない候補者は,排除されます.規則を尊重するなら,それで良し.候補者たちに〈彼れらの成長の過程において〉寄り添うことは,ありません.若者たちは,そうするよう,そうであるよう要請されていることに,単純に適応すればよい.そのようなやり方は,長期的には,彼れらが抱えている問題を隠してしまいます.そして,隠された問題は,後になって現れてきます.

家族においてと同様,ひとりの人間の成長を助けるということは,常に,職人的な作業です.もし親が子どもに寄り添わず,放っておくなら,悪い結果になります.子どもはよく成長することができません.親がそこにいて,よい環境を作り,言うべきときにしっかり「否」と言い,そして,「否」ないし「然り」と言う理由を子どもに説明する.親は,子どもたちに付き添い,寄り添います.

今日,ひとりひとりに寄り添うことのない[奉献生活候補者の]養成は,考えられません.今日,養成者[奉献生活候補者を養成する者]であることは,まったく容易なことではありません — 親であることが容易でないのと同様に.養成者は,霊気的[スピリチュアル]な親であらねばならず,その能力を有していなければなりません.分別と憐れみと忍耐を有していなければなりません.本当に,今日,養成者であることは複雑な任務です.とても複雑です.できあいの行動モデルはありません.しかし,あなたは,組織のカリスマを持っており,奉献生活の概念も経験も持っており,福音も手にしている.神があなたを助けに来てくださるように!

— あなたは,また,人を「全的」に養成し得るよう注意を払うことの重要性,および,神の忠実な民を養成することを究極的な目標とすることの重要性を,強調なさっています.また,「怪物」を作らないよう注意せねばならない,とまで言っています.何をおっしゃりたいのですか?

まず最後の質問 — 悪しき養成がどのような帰結をもたらすか — から答えましょう.候補者の選別の重要性は,既に話題にしました.今度は,既に養成を始めて,あるいは終えて,まもなく司祭や修道者になる者たちの養成のことを話題にしましょう.わたしが最も懸念している悪しき養成の帰結のひとつは,聖職者至上主義 (cléricalisme)です.それは,疑い無く,奉献生活の最も重大な倒錯のひとつです.より一般的に言って,聖職者至上主義は,カトリック教会の生命を損なう倒錯です.ですから,奉献生活においても,司教区の神学校における司祭養成においても,この問題領域に関して非常に注意深くあらねばなりません.聖職者至上主義は倒錯です — なぜなら,それは,第二ヴァチカン公会議の憲章 Lumen gentium が述べているように,教会 — 神の聖なる忠実な民 — の性質を倒錯させてしまうからです.それは,とても肝腎なことです.なぜなら,奉献生活のために,あるいは司祭となるために養成を受けている者たちは,神の民に仕える者となるからです.

— どのような意味において,修道士生活における聖職者至上主義について問題にすることができるでしょうか?

聖職者至上主義者であるために司祭や司教である必要はありません.上の方を向いて,差別的な態度 — 悪い意味での「差別」— を以て生きている者たちにおいて顕わになってくる聖職者至上主義があります.他者に対して貴族のような態度を以て生きている人々です.聖職者至上主義は,貴族主義です.修道士や修道女でも,聖職者至上主義者であり得ます.聖職者至上主義者になるのは,ミサを司式するからではなく,貴族階級に属していると思い込むからです.一般的に言って,貴族的な生活態度にともなうことです.それは,自分は,自分以外の〈神の聖なる忠実な〉民よりも上位に位置している,と人々に信じさせようとする態度に表れてきます.聖職者至上主義,貴族主義,エリート主義のあるところには,神の民はいません — 神の民こそがあなたに聖職者の地位を与えるにもかかわらず.

あなたに教会のなかの地位を与えるのは,神の聖なる忠実な民です.あなたに教会のなかの地位を与えるのは,小教区においては人々との近しさであり,学校では子どもたちや子どもたちの親,病院では患者たちです.聖職者至上主義者であるような修道者は,人々のなかに入って行けません.それが鍵です.「人々のなかへ入る」こと (insertion), それがキーワードです.正当にも第二ヴァチカン公会議後に用いられるようになった表現のひとつです.ときとして,多分,それは正しく用いられず,過小評価されたかもしれませんが,しかし,わたしは,それは聖霊の息吹によって与えられた表現だと心から思います.それは,この Marko Rupnik のモザイク壁画に描かれていることに沿うものです.それは,民のなかへ入るために身を低くしたイェスの συγκατάβασις (condescendence)[身分の高い者が身分の低い者と同じ水準へ身を低めること]です.

聖職者至上主義は,人々なかへ入ることとは逆のことです.聖職者至上主義者は,エリートに属しており,民のなかに居場所を見いだせません.そこから,多くの帰結が生じ得ます — 特に,権力の行使が良くないしかたで行われている場合には.後ほど見るように,聖職者至上主義は多くの問題の根源です.青少年に対する性的虐待のケースの背後にも,聖職者至上主義が見いだせます — ほかの未熟さや神経症に加えて.聖職者至上主義に関しては,養成の過程において非常に注意深くあらねばなりません.未熟さを見分け,明らかにする手助けをし,健全な成長の過程において寄り添う — そうせねばなりません.

— 全的な養成 (formation intégrale) の必要性については,どうでしょうか?

いかにも,養成は,人間の本質的な諸次元をカバーせねばなりません.それは,奉献生活の候補者についても,司教区の神学生についても,言えることです.養成は,四本の柱をよりどころとすべきです:霊気的生 (la vie spirituelle), 共同体的生,勉学的生,そして,使徒的生.それらはすべて,相互作用を及ぼしあうべきです.養成される人間を状況のなかに置かねばなりません.共同体における生は非常に重要です — なぜなら,そのような状況において,反応として,限界が現れてくるからです.共同体的生において,各人は互いに識り合い,わたしたちはほかの者たちによって識られます.とても明白に現れてきます.ある被養成者が自身の限界に対処し得ない,ということに養成者が気づいたなら,注意が必要です.なぜなら,神経症や或る種の未熟さの徴があるなら,どう導くか,どう対処するか,ほかの者たちとは別にするか,等々を考えねばならないからです.しかし,どうかお願いだから,限界を — 自分自身の限界にせよ,他者の限界にせよ — 無慈悲に扱わないようにしましょう.限界にうまく対処するようにしましょう — 四つの次元(霊気的生,共同体的生,勉学的生,使徒的生)において.

限界にうまく対処する

—「限界にうまく対処する」という表現によって何を考えていらっしゃるのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,こういうことです — 限界を恐れてはなりません.限界に寄り添い,そして,可能なら,限界を乗り越えることができるよう工夫しましょう.ひとつの逸話をお話しましょう.ある司祭が恋に落ちた.彼はそのことを司教に言いに行った.どうすればよいのか,彼は自分ではわからなかった.多分,今までしてきたことをすべてやめるべきかもしれない,と彼は考えた.彼は,自分が恋をしており,恋愛対象の女性の姿を常に追い求めている,と感じることにひどく恐怖を覚え,問題が次第にますます大きくなって行くのを感じた.実際には彼は何もしてはおらず,事はすべて,多分,若干思春期的な強迫観念だった.しかし,彼は怖くなり,どうするべきかと思案して最初に浮かんだ考えが,司教に相談しに行くことだった,というわけです.彼は正しいことをしました.父の愛を求めに行くことは,何と大きな救いであることか.危機や問題は,常にあります.それを恐れてはなりません.

わたしは常々,司祭たちに言っています:「どうか,人々の限界を無慈悲に扱わないように」.誰かが告解しに来たら,その人がしたいように告解させなさい.あのこと,このことに関して根掘り葉掘り問いただしたりしないように.その人の限界を,その人の傷を,無慈悲に扱わないように.あなたがわかったことに応じて,その人に助言を与えなさい — あなたがその人に与えたいと思い,かつ,その人が受け取ることのできるだろう助言を.その人に合った助言,良い助言を,ひとつだけ.そして,その人がまた戻って来れるよう,あなたのドアを常に開けておきなさい — その人がこう言い得るように:「あの神父は良い人だ.また会いに行こう」.

実例をもうひとつお話しましょう.Aurelio Luis Calori 神父のことです.彼はブエノスアイレスにいた司祭で,わたしが幼い子どもだったとき,そして,もう少し後,わたしが少年だったとき,わたしは彼のことをよく知っていました.後に彼は,大きな小教区の主任司祭になりました.わたしは,彼から多くを学びました.わたしの目には,彼は神の人であり,また,詩人でした.乙女マリアに献げられたとても美しい詩を,わたしは憶えています.彼はこう歌っています:「わたしは,さか巻く水を行く海賊だ...」.とても美しい詩です.そして,最後,自身の過ちを悔いて,彼は乙女マリアにこう言います:「マリア様,今宵,わたしは心から約束します.が,念のため,ドアに鍵をつけたままにしておくことをお忘れにならないよう,お願いします」.

常に,扉を開けたままにし,人々が入ってこれる空間を空けておかねばなりません — 限界を責めたりせずに.養成を受けている若者たちが悔いるとき,彼れらが耐えることができる限りにおいて,彼れらを支え,彼れらを助けねばなりません.それが養成において必要なことだと思います — 限界の克服を強制することなく,若者たちを養成することです.養成する側として選ばれた者たちにも注意を払う必要があります.養成する側の者たちのなかにも,神経症的な者がおり,若者たちの限界を無慈悲に扱ったり,若者たちが成長するのを助ける代わりに,彼れらを潰してしまったりします.

— 養成の過程において看過することのできない限界もあるでしょうか?

勿論です.たとえば,非常に神経症的で,精神の安定を欠いており,治療的な助けによっても導くことが難しい候補者は,受け入れてはなりません — 司祭職にも奉献生活にも.そのような者たちについては,見棄てることなく,しかし,司祭職や奉献生活以外の道を歩むよう,彼れらを助けねばなりません.彼れらのために歩む道を方向づけてやらねばなりません.しかし,司祭職や奉献生活に受け入れてはなりません.教会 — キリスト教共同体,神の民 — に奉仕するために生きる者たちを養成するのだ,ということを,常に念頭に置いておきましょう.その目標が地平線上にあるのだ,ということを忘れないでおきましょう.彼れらが心理的にも情緒的にも健全であるよう,見守るべきです.

— 奉献生活や司祭職のなかに homosexual の傾向を有する者がいることは,もはや誰の目にも秘密ではありません.そのことについては,どうお考えですか?

そのことは,懸念材料です.なぜなら,その問題にしかるべく対処しなかった時代があったからです.今しがた分かち合ったことがらの続きにおいて言うなら,我々は,候補者を,彼れらが人間的かつ情緒的に成熟し得るよう,養成することに,多大な注意を払うべきです.我々は,真剣に見分けるべきであり,教会自身が有する経験の声を考慮に入れるべきです.それらすべてに関して見分けることに十分な注意を払わないとき,問題は大きくなります.先ほども言ったように,問題はとりあえずは顕在化してこないが,後になって初めて現れてくることがあります.

homosexuality の問題は,養成過程の開始時から,候補者たち自身とともに — もし彼れらが homosexual であるなら — 正しく見分けて行かねばならないとても重大な問題です.我々は,要求水準を高くせねばなりません.社会では今,homosexuality は「はやり」(di moda) であるようにさえ思われており,その心性は,多少なりとも,教会の生にも同様に影響を与えています.

ある司教が憤慨していました.彼は,わたしにこう語りました:彼の司教区 — とても大きな司教区 — に,homosexual 司祭が複数いることがわかり,そのことに対処せねばならなくなった.彼は,まず,ほかの司祭職を養成するするために,司祭養成の過程に介入した.そのような現実を,我々は否定することはできません.奉献生活においても同様に,homosexual の修道士や修道女が必ずいます.ある修道会の長がわたしに語ってくれました:彼の修道会の管区のひとつに公式訪問した際,優秀な若い神学生たち,および,既に修道立願を済ませた修道士たちのなかに,gay が幾人かいる,とわかって,彼は驚きました.彼自身は,この問題について疑念を持っていたので,彼はわたしに「何か問題があると思われますか」と質問してきました.そして,彼はこう言いました:「結局のところ,homosexuality はさほど重大なことではありません.単に,ひとつの愛情表現です」.しかし,その考えは間違っています.単なる愛情表現 (espressione di affetto) の問題ではありません.奉献生活のなかにも司祭生活のなかにも,そのような種類の愛情表現には居場所はありません.であればこそ,教会はこう勧めています:ある人々のなかにその性向が根づいているなら (le persone con questa tendenza radicata), 司牧職務にも奉献生活にも彼れらを受け入れないように.司牧職務も奉献生活も,彼れらの居場所ではありません.homosexual である司祭や修道士や修道女に対しては,我々は,彼れらが完全に貞節を守って生きるよう,勧告せねばなりません.特に,二重生活[つまり,貞節を守らないままに修道士ないし修道女であり続けること]を送ることによって彼れらの修道会や神の聖なる忠実な民を憤慨させることが決してないように,彼れらが重大な責任感を持つよう,勧告せねばなりません.二重生活を送るくらいなら,むしろ,司牧職務や奉献生活から離れるがよいのです.

— 永続的な養成に関してですが,ヴァチカンの Congregazione per gli Istituti di Vita Consacrata e le Società di Vita Apostolica (CIVCSVA)[奉献生活の養成所と使徒的生活の会のための聖省]は,修道立願した後に奉献生活や司牧職務から離れてしまう修道士や修道女のケースについて,ある種の不安を感じているようです.いかにして永続的な養成を確かなものにすることができるでしょうか?危機や困難に陥ったときに召命において辛抱強く生き続けて行くことができるために,いかに手助けすることができるでしょうか?

先ほど言った四つの柱に戻りましょう:祈りの生,共同体的生,勉学の生,使徒的生.それら四つの方向性を支えねばなりません — しかも,常に寄り添いによって.修道士や修道女は,より年長の,より経験のある兄弟姉妹とともに道を歩むようにすべきです.そのような寄り添いは必要です.寄り添うことができ,聴くことができるための恵みを求めることも必要です.しばしば,奉献生活において,修道会の管区長が直面する最大の問題のひとつは,ある兄弟姉妹がひとりで道を歩んでいる事態です.どうなるか?誰も寄り添わないのか?つまるところ,寄り添ってくれる人が誰もいなければ,我々は,奉献生活のなかで,成長することもできなければ,養成されることもできません.

修道士や修道女がひとりで道を歩むことのないように,我々は気をつけねばなりません.そして,そのことは,自明なように,即席でできることではありません.誓願前の修練の時期から,寄り添ってもらう習慣をつけねばなりません.その習慣を持つのは,良いことです.なぜなら,もし良い寄り添い者がいなければ,悪い寄り添い者を探すことになってしまうかもしれないからです.ひとりでは,道を歩むことはできません.奉献生活者は皆,良い寄り添い者を探し,その寄り添いを受け入れるべきです — コントラストとなってくれることができ,相手の話を聴くことのできる寄り添い者です.理想的な者を見つけるのは,多分,容易ではないかもしれません.しかし,多少とも兄貴の役を果たしてくれることのできる誰か — 対話することができ,信頼することのできる誰か — は,必ずいます.

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改めて強調しますが,このインタヴューにおいて,教皇 Francesco は,もっぱら奉献生活 — つまり,修道士や修道女 — について論じているのであって,修道士でも修道女でも司祭でもない一般信徒のことを問題にしているのではありません.

LGBTQ+ であろうとなかろうと,また,離婚と再婚の経歴があろうとなかろうと(2016年の使徒的勧告 Amoris laetitia においても取り上げられていたように,家族の問題について考えるとき,homosexuality と並んで,結婚と離婚と再婚も,カトリック教会においては大問題のひとつです:あるカップルが結婚したとき,もしそれが本当に結婚の秘跡によるものであるなら,人間がそのきづなを解くことは決してできず,民法上は離婚が成立しても,教会法上は婚姻関係は解消され得ませんから,したがって,民法上は認められる再婚も,教会法上は重婚と見なされてしまいます — 最初の結婚が実は無効であったと認められない限り),一般信徒に関しては,教皇の姿勢は一貫しています:絶対的と見なされるような律法にもとづいて一般的な観点から断罪するのではなく,しかして,目の前にいるひとりの人を,神の被造物である同胞として,神の愛と慈しみを以て歓迎し [ accogliere ], その人に寄り添い [ accompagnare ], その人が語ることに耳を傾け,その人が有する苦悩,困難,問題を分析し [ discernere ], さまざまな条件を考慮にいれつつ,その人を教会共同体の一員にする [ integrare ] ために包容する [ includere ] — それが,教皇 Francesco が日ごろから奨励しているやり方です.

つまり,LGBTQ+ の人々について,同性どうしの性行為をしているか否か,性別適合のための医学的処置を受けているか否か,等々,そのようなことを教皇 Francesco は問いません.ある人が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,その人はカトリック教会に歓迎されます.

それに対して,基本的に修道会のなかで男どうし — または女どうし — の共同生活を営む修道士や修道女の場合は,条件が異なります.彼れらは,自身の生を神に奉ずるため,貞節の誓願を立てます — 清貧と従順の誓願とともに.

もし homosexual である者が修道士や修道女となった場合,どうなるか?もし貞節の誓いが性的な欲望の昇華のもとに立てられたのではなく,単に性的欲望が抑えつけられただけの状態である場合,homosexual の者にとっては貞節の誓いを守ることが heterosexual の者よりも困難になるだろう,ということは,容易に察せられます — なぜなら,欲望の昇華が達成されていない場合,homosexual の者は,同性どうしの共同生活のなかで,性的な欲望の対象となり得る他者と出会う可能性が,heterosexual の場合よりも高いからです(欲望の昇華に関しては後述します).

そもそも,カトリック教義が homosexuality を断罪するようになった歴史的な出発点は,修道会共同体のなかで修道士や修道女が同性どうしで性的行為に及ぶことの防止と禁止に存していたはずです.そのことは,6 世紀に聖ベネディクトが修道院を設立し始めた当初から問題となっていただろう,と容易に察せられます.そして,当初は修道会共同体のなかでだけ遵守さるべきものとされていた同性どうしの性的行為の禁止は,カトリック教会の歴史のなかで,いつのまにか一般信徒にまで拡大適用されるに至ったのでしょう(その歴史的経緯を調べた研究があるかどうかは,まだ確認していません).

その限りにおいて,教皇 Francesco も,カトリック教会の規定方針を追認しています:すなわち,奉献生活に入るために養成を受けている者が homosexual であるか否かを吟味し,そうであることが確認されれば,その者を奉献生活には受け入れないように.

しかし,教皇は,homosexual である修道士や修道女(既に誓願を立てている者たち)を修道会共同体から排除しろ,とは言っていません.単に,貞節の誓願を厳格に遵守するよう命じているだけです.そして,もしそうすることができないなら,奉献生活から離れるよう,命じています.

それは,当然のことです.そして,貞節の誓願の遵守は,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,あらゆる奉献生活者が自身に課したことです.もし仮に貞節であることができないのなら,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,修道会共同体から離脱すべきです.

インタヴューにおいて用いられている「愛情表現」(espressione di affetto) という語は,同性どうしの者たちの性的な行動のことを指している,と理解されます.「表現」ですから,「行動に表されたもの,行動化」(acting out) です.修道会共同体の内部での homosexuality の行動化は容認されない — まったく当然です.

そして,奉献生活者の貞節の誓願に関して言われていることは,修道会に所属していない聖職者(司祭や司教)の独身の約束にも,そのまま当てはまります.聖職者には,異性どうしであれ同性どうしであれ,性的な acting out は容認されません.pedophilia の acting out は,なおさら容認されません.

この『召命の力』のインタヴューに関して,「教皇はカトリック教会全体から homosexual の者を排除するよう命じた」というような意味合いの報道が為されましたが,それは単純に誤読であるか,あるいは,メディアが好むセンセーショナルな誇張です.そのようなことを教皇 Francesco はまったく言っていません.

我々としては,むしろ注目したいのは,教皇 Francesco が二度にわたって指摘しているこのことです:養成課程の始めにおいて,あるいは,養成の全期間をとおして,隠されていた問題が,後になってから顕在化して来ることがある.そのような好ましからざる事態を防止せねばならない.

どうしてそのような事態が生じ得るか?教皇自身の表現によれば,それは「警察的」な養成のスタイルによってです.つまり,律法や規則の遵守を強制するだけで,被養成者に寄り添う姿勢を欠いている場合です.

そう述べたとき,教皇 Francesco の念頭には,当然,枢機卿から解任したばかりの Theodore McCarrick 氏のことがあったはずです.彼は,おそらく,典型例です.

精神分析の観点から,見てみましょう.もっとも,この記事においてはあまり詳細に論ずることはできませんが.

sexuality について論ずる際,sexual orientation[性的指向]の問題と gender identity[性同一性]の問題とが区別されます.今は,sexual orientation についてのみ論じます.一般的に「性欲」と言いますが,欲望は,実は,本源的には「死的」(thanatic) なものです.つまり,死と破壊をもたらすものです.それを「性的」(sexual, erotic) なものにするのが,精神分析で言う「オィディプス複合」(Oedipus complex) です.そのメカニズムによって,欲望の客体(対象)の選択が基本的に規定されます.「選択」と言っても,我々が意図的ないし意識的に選択するのではありません.言うなれば,選択するのは「無意識的な欲望」自身です.欲望がいかなる対象を「選択」するかを基本的に規定するのが,オィディプス複合のメカニズムです.欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるかも,そこにおいて規定されます.

欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるか(あるいは,いずれでもあり得るか,いずれでもないか)は,たいてい,思春期にあらわになってきます.そして,特に妨げが無ければ,同性ないし異性の対象へ性的な関心が向かいます.

ところが,そのとき,カトリック教義などの影響のもとに homosexuality の断罪や禁止が作用すると,同性の対象を選択しようとしていた欲望は,その対象選択を断念せざるを得なくなります.今,日本で一般的に知られている用語では「抑圧」と言います.精神分析の創始者 Sigmund Freud (1856-1939) が用いたドイツ語原語は,Verdrängung です.より適切には「排斥」と訳します.

homosexual な対象選択が排斥されると,我々は,みづから自身が homosexual であることに明確に気づくことができなくなります.うすうす感づくことがあっても,「いや,そんなはずはない」と否認してしまいます.

教皇 Francesco が「警察スタイル」と呼んでいる養成のしかたは,排斥を助長し,強化します.養成を受ける者は,自身の性的指向に気がつくことができず,homosexuality は隠蔽されてしまいます.

そのような排斥と隠蔽の状態においては,たとえば gay である被養成者は,こう思うことになります:イェス様は「女性をひたすら性的欲望の対象としてのみ見る者は,それだけで姦淫の罪を犯している」と言っているが,わたしはそのようなことは一度もない.わたしは,ほかの人々が悩んでいるような性欲の問題から自由だ.貞節を守ることは,わたしにとっては容易なことだ...

それはまったく勘違いなのですが,被養成者自身も,彼を指導する者も,そのことに気づくことはできません.そして,そのまま,奉献生活の誓願を立て,あるいは,司祭として叙階される.Theodore McCarrick 氏の場合,優れた模範的な聖職者として,さらに,司教に叙階され,高位聖職者として出世して行く.

そのようにして,教会のヒエラルキーのなかで権威と権力を与えられたとき,McCarrick 氏に何が起きたか?それまで排斥されていた homosexuality が,強迫的な症状行動として回帰してきたのです.聖職者至上主義の環境のなかで,司教としての権威と権力を利用すれば,身近な神学生たちのなかから好みの homosexual な対象を入手することは比較的容易となったからです.homosexual な性的行動をしてはならない,と彼は百も承知していたはずです.しかし,彼はみづからその衝動を抑えることができなかった.それは,強迫的に彼に実行を迫り来て,それに対して彼は抗うことができなかった.そして,してはならないとわかってはいても,その行動化は際限無く反復された.

精神分析の用語においては「反復強迫」(Wiederholungszwang) と言います.Theodore McCarrick 氏に限らず,青少年に対する性的虐待を犯した聖職者たちの大多数において見出されるであろう現象です.

そのような反復強迫は,排斥によって条件づけられます.ですから,聖職者による青少年に対する性的虐待を根本的に防止するためには,homosexuality の排斥が生じないようにしなければなりません.

homosexuality が排斥されていれば,それは,奉献生活のための養成の過程において,見逃されてしまいます.そうではなく,まず,被養成者が自身の homosexuality に気づくことができなければなりません.homosexual な対象選択をしてしまう欲望が自身のなかに潜んでいることを認めることができなければなりません.そして,養成において寄り添ってくれる指導者とともに,欲望の行動化が生じなくなるよう,取り組んで行くことができなければなりません.

しかし,それは,homosexuality に限られたことではなく,heterosexual な性欲に関してもまったく同様です.自身の欲望から目をそらすことなく,欲望の行動化が起こらなくなるよう,問題に取り組んで行く.しかも,孤独にではなく,寄り添ってくれる養成者とともに.

それが,教皇 Francesco の勧めていることです.

heterosexual にせよ homosexual にせよ,欲望の行動化が起こらなくなる — それは,単に欲望を抑えつけることによって可能にはなりません.そのためには,精神分析において「昇華」(sublimation) と呼ばれている状態が達成されねばなりません.つまり,欲望が客体への隷属から解放されることです.精神分析が目ざしているのは,まさにそのことです.

欲望の昇華は,奉献生活のためにも司祭職のためにも,本当は,必要条件であるはずです.しかし,今までのところ,カトリック神学のなかで欲望の昇華について主題的に論ぜられたことは,多分,皆無でしょう.貞節ないし貞潔は奨励されてはいますが,いかにしてその状態が達成され得るのかが昇華の観点から論ぜられたことは一度もなかったのではないか,と思います.精神分析家であるわたしから見ると,大きな欠陥です.

ともあれ,教皇 Francesco が指摘しているように,奉献生活と司祭職のための養成は,律法と規則で規制し,取りしまり,抑えつける「警察スタイル」のものではなく,師匠や先輩が弟子や後輩に寄り添い,ともに歩み,若者の成長を助ける「職人スタイル」のものであるべきならば,それを可能にするためには,まず,カトリック教義から homosexuality 断罪を取り除かねばなりません.なぜなら,それこそ「警察スタイル」の象徴なのですから.

カトリック教義のなかで homosexuality が断罪されているからこそ,homosexuality の排斥と隠蔽が生じ,さらにそこから homosexual な症状行動の反復強迫が生じてきます.

自身の性的な欲望に対して,寄り添ってくれる指導者や先輩とともに,自覚的に取り組み,欲望を客体への隷属から解放する昇華へと至ること — それが望ましいことです.そして,それを達成するためにこそ,homosexuality が排斥されないよう,「警察的」な教義は削除されるべきです.

今回出版された『召命の力』において,わたしたちは改めて,教皇 Francesco がわたしたち信者を霊気的に指導するスタイルを確認することができると思います:律法を振りかざして断罪することは控えなさい.愛を以て寄り添いなさい.既定の規則やしきたりを押しつけるのではなく,ひとりの兄弟姉妹が語る言葉に耳を傾け,聖霊の知恵を以て見分け,分析しなさい.そして,その人を教会共同体のなかへ包容し,神の愛によって支えなさい.

わたしたちのカトリック教会がまことにそのような神の愛の共同体となって行くことができますように.

ルカ小笠原晋也

2018年12月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

王たるキリスト の祝日

「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ 18.33b-37)

“King” と聞いて,皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。マーティン・ルーサー・キング牧師を思いうかべる人から「バーガー・キング」を思いうかべる人まで,いろいろかもしれません。わたしは,短距離走者の Ben Johnson や、ボクシングの井上尚弥、あるいは矢沢永吉をイメージしてしまいます。とはいっても,私の中で King of Rock 'n' Roll 忌野清志郎は別格です。

或るパパ様は「王」を「他のどんな者よりも秀でていて」、すべてのもの、とくに人のこころを見とおして語りかけて、またその語りかけがこころの真実にまでたっする力をもっていることで「人のこころを統べる者」だと言われたようです (cf. Annum Sacrum, Leo XIII, 1899, n.7). もちろんパパ様が言われる王はイエス・キリストただ一人のはずですが、人のこころに語りかけ、その言葉によって人の意志を何か大切なものに向けさせるのが王なら、それは部分的にはミュージシャンたちの役目でもある気がします。また少なくとも福音のなかのピラトには、権力と恐怖による「支配」は理解できても、この意味での「王」には思いいたれなかったようです。

もうすこし政治的な意味で現代で「王」とは誰でしょうか。EU が求心力を失いかけている状態では、どんな人物であるかを別にすれば、合衆国大統領と中国共産党総書記は現代の「この世の王」たちであるように見えます。この二つの国の統治制度は,日本のそれよりも、聖書が語る「国」の理論に近いように見える部分があります。どちらの国でもトップが変わると、それに合わせてたくさんの職員か制度が変わり、社会とそこに住んでいる人たちの生活も一変するからです。「統治者 / 王 (basileus)」が変わればその「統治 / 国 (basileia)」が変わるのは当然です。「統治」はその統治にあらわされた「統治者」の姿でもあります。

ともかく,わたしたちの「王」、わたしたちのこころと社会を統べる「王」が大統領でも、総書記でも内閣総理大臣でもなく、人のこころの痛みと願い、苦痛とよろこびを知り、そのすべてを自分の身に負いながら、人を癒し、なぐさめ、弟子たちを導いた方であるのはありがたいことです。

ところで,この祭日の制定を思うとき、わたしはそれをただありがたい祝いだと片づけることができません。教皇がこの祭日を宣言したのは、第一次世界大戦後、急ぎ設立された国際連盟が早々に無力化され、各国がふたたび自国の権益拡大にむけてわれ先に駆けだしたころです。王はただ一人、すべての存在を愛し、支える王だけであることを,教皇は何としてでも訴えたかったことでしょう (cf. Quas primas, Pius XI, 1925).

しかし,それ以上に,わたしにとっては「王たるキリスト」という言葉は、それにつづく期間にたくさんの人の口から叫ばれた "Viva Christo Rey !" という声と結ばれています。わたしの所属する修道会はスペインに一つの起源をもち、またそのためたくさんの会員が中米、南米などで働いています。たくさんのスペイン人の神父様がたにとってスペイン内戦 (1936-39) の記憶はあまりに苛烈なものです。たくさんの司祭は夜、連行されて,平原のなかの谷の底で射殺されました(或る神父さんは,その数は 6,000人くらいだろうと話していました)。そしてその何十倍の人たちが、戦場で、あるいは対立側の人間と見なされることでただ、逮捕され殺されてゆきました。そのなかで教会の人間はこの言葉 "Viva Christo Rey !" を叫んで銃殺されてゆきました。

もちろんこの内戦はフランコ派と共和派の戦いであり、またその後ろにいた独伊連合とソビエト・社会主義派の戦いであって,その一方に肩入れすることもできませんが、そこで射殺されようとするとき、"Viva Christo Rey !" — たとえば「王はキリスト(ただ一人)!」あるいは「キリストよ、永遠に!」とでも訳したらいいのでしょうか — と叫んだ人たちのこころには、その対立をこえて,愛によるキリストの統治、キリストの国への希求があったに違いないと思いたい気持ちを抑えられません。

「わたしの国はこの世には属していない」とイエスは言います。わたしたちにとっても同じだと思います。私たちの祖国は神の国一つ、私たちの法はイエスの言葉、私たちの王はキリストただ一人、それがいちばんしあわせな生き方だと思います。

2018年12月08日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。

2018年12月08日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年09月30日

2018年09月30日(年間第26主日,B 年)の LGBTQ+ みんなのミサにおける鈴木伸国神父様の説教

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は...」(マルコ 9.38-43, 45, 47-48)

福音書の言葉のなかで今日の箇所ほど、罪に対して苛烈な言葉が向けられる箇所はありません。手を「切り捨ててしまいなさい」、足も「切り捨ててしまいなさい」、目は「えぐり出してしまいなさい」。それだけを聞いて、自分の業の深さを思えば、福音の言葉とはいえ罪への恐れよりも、ただその光景の恐ろしさに心を囚えられてしまいそうです。怖がりな私なら、宗教説話にあるような地獄での折檻の情景さえ連想してしまいます。

しかもこのマルコの箇所では、マタイと違い具体的にどんな罪を避ければいいかを一々説明さえしてくれません。怒りと暴言(マタイ 5.21- )はどうなんでしょう。情欲や姦淫 (5.27-, 31- ), 嘘や復讐 (33-, 38- ) はどうなんでしょうか。それは放っておいてもいいというんでしょうか。そんなことはないでしょうが、マルコは罪から遠ざかるために、もっと大事なことを言っているような気がします。

今日の箇所のなかでマルコが避けるべきこととして指摘するのはただ一つ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」こと。それだけです。決して怒りや嘘、情欲やセクシャリティなどがそれだけで罪として指摘されてはいません。

私たちがただ罪に目を留めようとすれば、その目に罪は益々大きなものになり、その恐れは私たちの心を押しつぶしてしまいます。あるいは罪を隠して、自分を罪のない者のように見せ、また自分でもそう思い込もうとするかもしれません。

そうならないようにマルコはとても簡単な道を示してくれます。それが「これらの小さい者たち」に目を留め、自分の目で見つめることです。ただ一般的に弱者のことを思えというのではなありません。マルコもマタイ (18.6) も「これらの」小さな者たちと、具体的に示唆しています。彼らを傷つけてはいけない、躓かせてはいけない、彼らを保護し、養え。そして「一杯の水」を差し出せる機会があればよろこんでしなさい、そうマルコは勧めているようです。

マルコはこれに少しだけ加えて、嫉妬と妬みからは遠ざかるように勧めていいるように思いますが(「やめさせてはならない」マルコ 9.39)、それに続くイエスの言葉は穏やかなもので、少しユーモラスでさえあります。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。そう読んで見ると、マルコの言葉は「罪を恐れよ」というより、「罪を恐れるあまり、心が暗くなり怖じけることをこそ恐れよ」といういう呼び掛けのようにも聞こえます。

それを思うにつけ、今年 8 月から 9 月にかけて報告された、教会のあまりにたくさんの不祥事は、聞くのにさえあまりに酷でした *。

二つ気を付けるべきだと感じます。一つはマルコが勧めるように、罪を避けようとしてただ罪にだけ目を留めるなら、人は情欲に捕らわれれば盲目になってしまうことがあるということです。目の前にいる子どもたちが「これらの小さい者たち」であることも分からなくなってしまいます。もう一つは、人間のセクシュアリティをただ抑圧するだけではいけないということです。人がただ暴力でこれほどの罪を犯すことはないように思います。知恵も良心も豊かにもちえたはずの、たくさんの人々がそれでもこんなことをしてしまうと思えば、性の力というのはやはり大きなものなのだとも思います。人と人を心身ともに結び合わせる賜物であるはずの、人間のセクシュアリティが本当にその役目を果たしてくれるためには、それをとても大事に、そして丁寧に見つめ、相応しく養ってあげることがどうしても必要なのだろうということです。

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* : 8月31日、ペンシルベニアの裁判所は 300 名以上の神父が 1000 人以上の子供の虐待に関わったと報告しました。9月12日、ドイツの新聞社は国内で 1946 年から 2014 年までの虐待の被害者は 3,700 人に及ぶと報じました。18日、ブルックリン教区は 4 人の被害者の方々との和解に約 30 億円を支払うことになったとの報道がありました。21日にはケララ(インド)の司教がシスターへの数年にわたる性的暴行の疑いで逮捕されました。そして教会内のことではありませんが、今アメリカの最高裁判事候補の過去の性的暴行が告発されています。

2018年10月17日

Tokyo Rainbow Pride 2018 に参加して

2018年05月06日,LGBTCJ は,代々木公園イベント広場で行われた Tokyo Rainbow Pride の祭典に出店を出し,パレードにも参加してきました.本文は,ブログ記事をお読みください.

2018年09月09日

『LGBTQ と カトリック教義』(増補改訂版)を発表しました

LGBTQ と カトリック教義』(増補改訂版)を発表しました.

今年の増補改訂にあたり,昨年05月の『LGBT と カトリック教義』と,昨年10月に blog に書いた『教皇 Francesco の生と性の神学』とを合併しました.

さらに,カトリック教会による homosexuality に対する厳しい断罪はカトリック司祭の pedophilia の問題をごまかすためのものであることを分析した章,および,Benedictus XVI が homosexuality 断罪のために登用した「自然法」(lex naturalis) の概念を批判的に分析し,現代におけるその無効性を論ずる章を,新たに書き加えました.

Blog 版PDF 版 があります.

lgbtcj@gmail.com へ御注文くだされば,印刷した冊子版(1,000円,送料込)をお送りします.

2018年05月10日

主の御復活おめでとうございます(ペトロ宮野亨)

ご復活に感謝

もしわたしが苦しまなかったら
どうしてイエスさまの苦しみがわかっただろうか
もしイエスさまが苦しまなかったらば
どうして神様の愛がわかっただろうか

二週間ほど前から,この祈りを祈り続けています.

神に感謝.

私の友人の弟が,リマで爆弾テロで負傷して,失明の暗黒状態から多少の明かりを感じるようになりました.

快復を祈り,明後日から九回目のノベナです.朝食の断食と,主の祈り六回を毎日捧げています.

九日間のノベナをいつまで続けるか,主イエスのお言葉を待ちます.

ゲッセマネでの祈りからご復活までが,私の人生の全てです.

ひとつだけ分かち合います.

ペトロが三回イエスを拒んだ後,主は,振り向いて,ペトロを見つめられました.

NJB(New Jerusalem Bible : ニューエルサレムバイブル)では,

and the Lord turned and looked straight at Peter

と訳されています.

そして,主は,振り返って,ペトロを真っ直ぐ見た.

「真っ直ぐ」という言葉が書かれています.主は,ペトロだけを見つめました.

私は,この straight という言葉だけを黙想して,主に出会いました.私は,その瞳と逢って,「私を創った人の眼だ」と直感しました.

私達一人ひとりを,主イエスは「真っ直ぐ」に見つめています.

ご受難のときの言葉は,七つしかなくて,イエスのお気持ちを私達は想像するしかありません.

「真っ直ぐ」私を見つめたとき,主が何とおっしゃったかを,私は直感しています.それは:

「わたしは,あなたの苦難や貧しさを知っている.だが,本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録 2章 9節).

ペトロ宮野亨

ブログ記事でもお読みください.)

2018年04月02日

主の御復活おめでとうございます(ルカ小笠原晋也)

Resurrexit sicut dixit, alleluia !

主の御復活おめでとうございます!

改めて強調するまでもありませんが,Jesus の復活は,地上的な生に「生き返る」ことではなく,永遠の命への復活です.かつ,「地獄」からの復活です.

ニケア・コンスタンチノープル信条にはそのくだりはありませんが,使徒信条では,「三日目に死者たちのうちから復活し」の前に,Jesus Christ は「地獄に降りた」と言われています.勿論,公式な日本語訳では「冥府(よみ)にくだり」です.しかし,ラテン語では « descendit ad inferos » です.「地獄」(inferi) という語が確かに使われています.

地獄に関して,数日前にこんなニュースがありました.イタリアの全国紙 La Repubblica の創立者であるジャーナリスト Eugenio Scalfari による Papa Francesco の「インタヴュー」が,03月28日付の同紙に掲載されました.そのなかで,教皇は「地獄は存在しない」と言ったことにされていました.それに対して,Vatican の広報室は,翌日すぐさま,そのことを否定する声明を発表しました:教皇は Scalfari を個人的に接見したが,インタヴューを受けたわけではなく,しかも,教皇の言葉として記事に書かれてある文章は,教皇の実際の発言を忠実に再現しておらず,Scalfari 自身の作文にすぎない.

この件を,USA のイエズス会の週刊誌 America も,03月29日付で報道しています.

それによると,教皇は,2014年3月,マフィアに向かって警告して言っています:「犯罪行為をやめて,回心しなさい.さもなければ,あなたたちを待っているのは地獄だ」.

また,2015年03月08日にローマ市内の或る小教区を訪問した際,教皇は,ガールスカウトの少女の質問:「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言っています


あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.

では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.

しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました:「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.

神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.

地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.

そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです ‒ 神との関係を全然欲しがらずに.

他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う:「主よ!...」.

その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.

イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う:「主よ,わたしを憐れんでください!」.

すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43).

なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.

地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです:「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」‒ 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.
わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!


さすが Papa 様!わかりやすいお話しです.神の愛を信ずる者は,かならず救われ,イェス様といっしょに永遠の命へ復活させていただけます.神の愛は,うらぎりません.

改めて,主の御復活おめでとうございます!よい復活節をおすごしください!

ブログ記事も御覧ください

2018年04月01日

James Martin 神父のスピーチ

今月 6日に Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の⼈々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に⼊れるように]の増補改訂版が出版されたのに合わせて,James Martin 神父様の新しい動画 Spiritual Insights for LGBT Catholics が発表されました.

翻訳して,御紹介します.

記事本文は,ブログを御覧ください

2018年03月12日

ある gay bar のバーテンダーが息子の come out に当惑した母親へ完璧なアドバイス

Kara Cowley は,この17年間,幾軒かの gay bar でバーテンダーをしてきたが,こんな電話を受けたのは初めてだった.

先週末,彼女が電話に出ると,相手はひとりの母親だった.彼女の息子は gay であることを彼女に打ち明けてきたのだが,彼女は何と言ったらよいのかわからなかった.多分,相談相手になってくれそうな LGBTQ が彼女の知人のなかには誰もいなかったのだろう.しかし,彼女は誰かを見つけることにした.

そこで彼女は,Mississippi 州の Gulfport 市にある gay bar, Kara Cowley の勤め先,Sipps に電話した.賢い選択!最良のアドバイスを与えることができるのは,自身が LGBTQ であるバーテンダーだ.

Kara Cowley は,その会話について自身の Facebook に書いている

わたし:こんばんわ ! Sipps にお電話くださり,ありがとうございます.

電話をかけてきた婦人:そちらは gay bar ですか?

わたし:そうですね,当店は「だれでも」バーですけど,確かに,お客の大部分は gay の方々です.

婦人:おたずねしたいことがあるのですが...

わたし:どうぞ

婦人:あなたは gay ですか[この場合,gay という語は,lesbian を含む同性愛者全体を指す]?

わたし:はい,そうです.

婦人:あなたが御両親に come out したとき,あなたが御両親にしてほしかった唯一のことがあるとすれば,それは何ですか?

わたし:ウ~ン...

婦人:わたしの息子がわたしに come out してきたのです.彼を傷つけるかもしれないようなことを,わたしは何も言いたくないのです.

わたし:そうですね,あなたが彼を愛しており,受け入れている,ということを,彼に確実にわかるようにしてあげるべきだと思います.でも,あなたは受け入れることができているのですか?

婦人:ウ~ン... もし息子がそう望んでいるのなら,はい,受け入れます.

わたし:絶対,あなたが彼を愛しており,受け入れている,ということを,彼に知らせるべきです!そうすれば,すべてはうまく行くことになる,と思います!

婦人:わかりました.どうもありがとうございます.

わたし:どういたしまして!うまく行きますように!

17年間,メキシコ湾岸の gay bars でバーテンダーをしてきたけど,こんなの本当に初めて!

2018年01月29日

主の御降誕おめでとうございます!(ルカ小笠原晋也)

主の御降誕おめでとうございます!

わたしたちの救い主が世に与えられたことの喜びを,あらためて皆さんと分かち合いたいと思います.

今年をふりかえると,LGBTCJ のおもな活動としては,昨年に続き,5月に Tokyo Raibow Pride の祭典に参加しました.また,LGBT 特別ミサを月例行事として継続することができました.主に感謝します.そして,御病気療養中の小宇佐敬二神父様と,8月から LGBT 特別ミサの司式をお引き受けくださっている鈴木伸国神父様に,改めて感謝し,おふたりのために祈りたいと思います.

降誕祭を祝うメッセージにはふさわしくないと思われることを,わたしは,しかし,この機会に是非述べておきたいと思います.

今月,カトリック教会にとっては深刻に反省すべき問題のひとつ,聖職者による児童の性的虐待に関連するニュースが,相次いで報道されました.ひとつは,その問題を隠蔽したことの責任を取って2002年に辞任した前 Boston 大司教 Bernard Law 枢機卿の死去,もうひとつは,Australia でその問題に関する徹底的な調査を行った Royal Commission into Institutional Responses to Child SexualAbuse の最終報告書の発表です.

それらのニュースを聞いたとき,わたしは,『カトリック教会のカテキズム』の2357段と2358段において同性愛について用いられている激しい表現の本当の意味を理解し得たと思いました.

周知のように,2357段ではこう述べられています:「同性愛行為を重大な堕落として提示している聖書に基づいて,伝統は常にこう表明してきた:『同性愛行為は,内在的に乱れたものである』.同性愛行為は,自然の法則に反しており,(...) 如何なる場合も是認され得ない」.また,2358段では,さらに追い打ちをかけるように,「同性愛の傾向は,[同性愛者自身にとってはそうではなくても]客観的には乱れたものである」と述べられています.

非常に激しい,厳しい表現です.そのような表現は,『カテキズム』のなかで,原罪についても大罪 (peccata mortalia) についても用いられていません.にもかかわらず,なぜ同性愛についてはそこまで言うのか?

聖職者による児童の性的虐待の深刻さが改めて明るみに出た今,我々はこう解釈することができます:同性愛断罪の言葉の激しさは,少なからぬ数のカトリック聖職者たちに「内在的」である同性愛に対する「反動形成」の表れである.

おりしも,今月,Milwaukee 大司教区の Gregory Greiten 神父が gay であることを come out しました.彼が担当する小教区の信徒たちも,Milwaukee の Jerome Listecki 大司教も,彼に対する称賛と支持を表明しました.2015年に come out して司祭職から退いた Krzysztof Charamsa 氏のことも思い返されます.

彼らのように,自身が gay であることを自覚し,それをみづから認め,公にすることができるなら,精神分析家であるわたしの目から見れば,それは健全なことです.彼ら自身も,肩の荷をおろすことができた,と感じています.

問題は,自身が同性愛者であることに明確に気づいていない場合,あるいは,気づいていても,それを否認する場合です.そのような場合,自身に内在的な同性愛に対する反動 (Reaktion) として,激しい同性愛嫌悪 (homophobia) が形成されることがあります.精神分析的に言えば,まったく病理学的な事態です.

ひとつの組織としての Vatican に内在的である同性愛とそれに対する反動形成としての homophobia と ‒ それらが,『カテキズム』のなかの同性愛に対する激しい断罪の言葉を動機づけている,と解釈することができます.

Krzysztof Charamsa 氏は,カトリック聖職者の少なからぬ割合が同性愛者である,と言っています.それが事実か否かは,今のところ確かめようがありません.しかし,児童の性的虐待の問題に続いて,同性愛の問題は,改めて真剣に取り組まれるべきことだろうと思われます.

児童の性的虐待は,勿論,根絶されるべきです.それに対して,独身と貞潔を誓う限りにおいて,司祭は同性愛者であってはいけないのか?それは,改めて問うに値する問いだと思われます ‒ 独身と貞潔を誓う限りにおいて,司祭は女性であってはいけないのか?さらには,transgender ではいけないのか?queer ではいけないのか?という問いとともに.

今月は,東京大司教区と日本のカトリック教会にとって,とても喜ばしいこともありました.菊地功大司教様の着座です.ガーナで 8 年間の宣教活動を経験なさった菊地大司教様が,キリスト教を拒み続ける日本社会に対して新たな宣教の風を送ることができるよう,わたしたちも少しでもお手伝いしたいと思います.「多様性における一致」をモットーにする菊地大司教様が LGBTQ+ の人々をカトリック教会へ歓迎することに消極的であるはずがない,とわたしたちは期待しています.菊地大司教様のために祈りましょう.

今,ニヒリズムが極みに達した日本社会に最も必要とされるのは,神の愛の福音です.

今の日本政府は,Ge-Stell(科学と資本主義の支配のもとに形成されたニヒリズムの最終形態を,Heidegger はそう呼びます)が人類と地球を蝕み続けることに積極的に加担しています.安倍晋三氏は,全地球的な資本主義の利益追求のために日本社会がどうなろうと,お構いなしです.彼が民族主義的な日本会議イデオロギーの信奉者としてふるまうのは,そのカモフラージュのためにすぎません.日本会議イデオロギーそのものも,ニヒリズムに伴う症状のひとつです.

そのような日本社会の現状のなかで,神の愛の福音を必要としている人々は決して少なくないはずです.むしろ,今こそ福音宣教の好機です.わたしたち信者も,ひとりひとりが宣教者として活動して行くことができますように.

最後に,今年は,queer という語の重要性に改めて気づくことができました.韓国では,LGBTQ の祭典は Queer Culture Festival(クィア文化祭)と呼ばれています.queer は,heterosexual cis-gender men が成す heteronormativity ‒ それは,性差別を生むだけでなく,政治的な全体主義の原因でもあります ‒ に対する強烈な批判の語であり得ます.

このところ,LGBTQ community の内部対立のようなものをよく見かけます.LGBT という名称のもとに「十把一絡げ」にされることに対する反発,商業主義や heteronormativity に迎合しようとする動きに対する非難,lesbian feminist たちからの gay や transgender woman に対する批判,等々.

しかし,実は,SOGI (sexual orientation and gender identity) に関して heterosexual cis-gender men ではない者は,皆,queer です.LGBT だけではありません.女性は誰しも,queer です.

韓国におけるように,queer という語のもとに,heterosexual cis-gender men の phallofascism に対する批判の動きが結集されて行くことができるよう,祈るとともに,今後も活動して行きたいと思います.

改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

LGBTCJ 共同代表,ルカ小笠原晋也

2017年12月25日

みなさま,メリークリスマス!(ペトロ宮野亨)

みなさま,メリークリスマス!(ペトロ宮野亨)

クリスマスは、心の底からの喜びを、しかも毎年体感実感できる日です。

本当に、ほんとうに、嬉しい日です。

なぜこんなに嬉しいのかを私は書き出しましたが,ここで幾つかだけを分かち合います。

・旧約は私が神を探し求めていましたが、イエスが私を探し求めてくださいます。

・イエスは私の体の中に住んでくださっています。

・あえて御聖体のかたちにまでなって、私達の中に入ってきてくださいます。イエスが私達の中に入るときはどんなお気持ちでしょうかと想う時、感謝が湧き上がります。

・主の祈りを唱えるたびに悔い改めとなるので、ゆるしをいただけます。

・ゆるされないと思い込むから悪魔の術中にはまりますが、主の祈りでゆるされている実感を体感すれば悪魔は全てをやり直しです。そして、いつでもゆるされます。

・悪魔には謙遜がわからず,十字架が見えないので、教会がそうであるように、私達 LGBTCJ の共同体も、謙遜の場であるイエスの御傷の中から生まれたと感じられます。

・私達 LGBTCJ にも謙遜の場であるミサを下さいました。

・イエスはこの世で成功するとか苦難や困難がなくなるとは約束されていませんが、一人ひとりの霊魂を救って本当は豊かだと実感させてくださいます。

・御父、御聖霊は私達には見えませんが、イエスは現われて、私達 LGBTCJ は神を見ています。

・カテキズムにも書かれているゴールデンルール「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」を教えてくださいました。

・十字架上のイエスを見上げながら祈る時が、わたしの至福の時,と実感させてくださいます。

・霊操という祈り方をイエスは教会共同体に与えてくださいました。

・私を創造してくださった目的を私に教えて下さいます。

・イエスを愛する心もイエスは私に下さったから,私はイエスを愛していると実感できます。

・御聖体のかたわらで安心できるように、人となられたのでいつでもそばに寄り添えます。

・「ありがとう、ごめんなさい、助けてください」と毎日できるふりかえりを教えてくださいました。

・・・・・・
みなさま、メリークリスマス!

LGBTCJ 共同代表,ペトロ宮野亨

2017年12月25日

共同祈願,2017年12月17日,LGBT 特別ミサにて

2017年12月17日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

わたしたちの救い主 Jesus Christ の御降誕の祝いを一週間後にひかえて,祈りましょう.父なる神よ,あなたは,わたしたちを律法の束縛から解放し,愛において新たな契約をわたしたちに授けるために,あなたの子 Jesus 様をわたしたちに遣わしてくださいました.あなたの恵みに感謝します.あなたの愛は,誰も排除せず,あらゆる者を包容してくださいます.従来,律法を武器としてふりかざすキリスト教徒たちにより差別されてきたわたしたちを,分け隔てなくあなたの家に迎え入れてください.今もなお,差別に傷つけられ,苦しむわたしたちの同胞を,あなたの愛によって癒してください.カトリック教会を,神の愛における一致と完成へ導いてください.

わたしたちの牧者のために祈りましょう.Papa Francesco は,今日,81歳のお誕生日を迎えます.カトリック教会の扉をわたしたちのために大きく開いてくださった Papa 様が,これからも力強く神の愛の福音を全世界に宣べ伝えて行くことができますように.菊地功大司教様の着座式ミサが,昨日,東京カテドラルで盛大に祝われました.多様性における一致をモットーとする新たな大司教によって,神の愛の息吹が日本のカトリック教会によりいっそうもたらされますように.小宇佐敬二神父様は,御病気の療養を続けていらっしゃいます.神の愛が小宇佐神父様を支え続けてくださいますように.そして,鈴木伸国神父様,わたしたちのためにこのように毎月特別に御ミサをたててくださり,ありがとうございます.感謝の気持ちを,クリスマスプレゼントとしてお送りします.どうかお受け取りください.慈しみ深い主よ,わたしたちを導くために世に羊飼いたちを遣わしてくださるあなたに感謝します.彼らをあらためて祝福し,ますます聖霊の恵みで彼らを満たしてください.

結婚の秘跡がわたしたちにも授けられるよう,祈りましょう.今月,Australia では同性婚が正式に法制化され,また,Austria では,同性婚を認めない現行法制が憲法裁判所により違憲と判断されました.日本でも,地方自治体が同性カップルにパートナーシップを認定する動きが広まりつつあります.ふたりの人間が真摯に愛し合うとき,それは,それぞれの性別の如何にかかわらず,神の愛の徴です.Jesus Christ によってわたしたちに新たな愛の契約をもたらしてくださった神よ,愛し合うカップルすべてに結婚の秘跡を認めるよう,カトリック教会を導いてください.いまだに LGBTQ を差別し,同性婚を認めようとしないキリスト教信者がいるとすれば,それらの者たちの目をあなたの愛の真理へ開いてください.

わたしたちの友人,世田谷区議会議員,LGBT 自治体議員連盟メンバーの上川あやさんと,彼女のお母様のために祈りましょう.上川あやさんのお母様は,今月13日に永眠なさいました.主よ,彼女に永遠のやすらぎを与え,絶えざる光のなかに彼女を迎え入れてください.喪の悲しみに泣く上川あやさんの涙を,あなたの優しい指でぬぐってください.死の不安におびえるわたしたちを,永遠の命の約束によって支えてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年12月24日

共同祈願,2017年11月26日,LGBT 特別ミサにて

2017年11月26日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

11月02日は,亡くなった人々を記念する日でした.わたしたちのなかで,また,わたしたちの友人や知人のなかで,近しい存在を亡くした人々と,その亡くなった方々とのために祈りましょう.特に,LGBT 特別ミサに幾度か参加しているわたしたちの友人のひとりが,二週間ほど前にお父さんを亡くしました.彼と彼のお父さんのために祈りましょう.復活と命である主よ,わたしたちのもとからあなたのもとへ呼び寄せた人々に,永遠の安らぎを与えてください.絶えざる光でそれらの人々を照らしてください.そして,わたしたち,喪の悲しみに泣く者を,改めて「幸いなり」と言って,祝福してください.わたしたちが喪失の痛みに耐えることができるよう,あなたの優しい手でわたしたちの涙をぬぐい,わたしたちを慰めてください.

11月20日は,Transgender Day of Remembrance, トランスジェンダー追悼記念日でした.毎年,世界中で,数十人が transgender に対する憎悪によって暴力的に命を奪われている現実を前にして,祈りましょう.平和の主よ,hate crime によって命を落とした transgender の人々に,永遠の安らぎを与えてください.閉鎖的で差別的なうなじかたくななる者たちの心に巣喰う憎悪を,あなたの愛で消し去ってください.カトリック教会が,あらゆる LGBTQ+ の人々に平和と安心を与えることができるようになるよう,聖職者たちと信徒たちを導いてください.

新たに東京大司教区に任命されたタルチシオ菊地功大司教様と,病気療養中のヨハネ小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.Societas Verbi Divini, 神言会,神の御言葉を伝えるために派遣された者たちの会の一員である菊池功大司教様は,アフリカのガーナにおける八年間の宣教経験にもとづき,東京大司教区でも missionary spirit を呼び起こしたい,とおっしゃっています.12月16日に,聖マリア・カテドラルで着座式の御ミサが行われます.小宇佐敬二神父様は,年内はペトロの家で療養に専念する予定です.恵み深い主よ,わたしたちに新たな大司教,タルチシオ菊地功をお遣わしくださったことに感謝します.彼と,彼を迎える東京大司教区を,祝福してください.多様性のなかの一致をモットーにする菊地功大司教が,わたしたち LGBTQ+ を始め,あらゆる少数者をカトリック教会へ積極的に歓迎するよう,すべてを包容するあなたの愛で彼を導いてください.また,日本で初めて LGBTQ+ の牧者となった小宇佐敬二神父を慈しみ深く見守り,彼の苦しみを優しく癒してください.

毎年12月01日は,World AIDS Day です.それに先立ち,今日までの三日間,中野で Tokyo AIDS Week の催しが行われています.世界中の HIV 感染者たちと,彼れらを支援する同胞たちのために祈りましょう.命の与え主である主よ,死の可能性に直面する者たちが,死から目をそむけるのではなく,その不安に耐えることができるよう,復活の約束によって彼れらを支えてください.その手伝いに,カトリック教会がより積極的にかかわるよう,導いてください.Tokyo AIDS Week に集う人々を,慈しみ深く祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年12月10日

共同祈願,2017年10月22日,LGBT 特別ミサ

2017年10月22日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

世界中の LGBTQ の同胞たちのために祈りましょう.10月11日は,National Coming Out Day でした.自分自身の spiritual な成長のために,また,まだ come out していない若者たちを安心させるために,勇気を以て come out した人々がいます.他方,身近な人々との軋轢や社会的な迫害,いやがらせを避けるために敢えて come out しない人々もいます.慈しみ深い主よ,あなたの愛は,誰も排除せず,あらゆる者を包容します.性的指向や性同一性にかかわらず,わたしたちすべてにあなたの愛の恵みを注いでください.sexuality に関連する差別をすべて,あらゆる人の心から取り去ってください.come out した人々を,その勇気のゆえに祝福してください.come out しない人々に,弁護と慰めの聖霊の寄り添いを送ってください.

今,いじめられている人々,および,過去にいじめを経験したことのある人々,皆のために祈りましょう.10月19日は,性的指向や性同一性を理由とするいじめに反対し,LGBTQ の若者たちをサポートする気持ちの表明として紫色のものを身に着ける Spirit Day でした.憐れみ深い主よ,今いじめられている人々の涙をあなたの指でぬぐい,やさしく慰めてください.過去にいじめられたことのある人々の心の痛みを慈しみ深く癒してください.自分たちと少しでも異なるところのある者へ憎悪と攻撃性を向けようとする者たちの心のかたくなさを,あなたの愛でやわらげてください.差別やいじめに立ち向かう勇気を,わたしたちに与えてください.

性的指向や性同一性のために迫害を受けている同胞たちのために祈りましょう.Chechenya に加えて,今,Azerbaijan と Egypt で gay に対する激しい迫害が起きている,と伝えられています.正義の主よ,あなたの律法の名のもとに不正義を行う者たちの欺瞞をあばいてください.遠く離れた国々で迫害を受けている同胞たちの苦しみを,わたしたちが祈りのなかで分かち合うことができるようにしてください.あなたの正義の支配を,天におけるごとく,地にもあまねく行き渡らせてください.

Papa Francesco とカトリック教会の司牧者すべてのために祈りましょう.10月19日朝,Casa santa Marta でのミサ説教で,Papa Francesco は,救済の無償性と神の近しさと神の慈しみの三点を改めて強調しつつ,司牧者が律法を理由にして神への門を誰かに対して閉ざすことがあってはならない,と言いました.また,ほかの機会に教皇は,カテキズムも伝統も,福音の教えにより忠実となるよう変えて行くべきである,とも述べています.そして,司牧者がファリサイ人にならないように信徒が祈ることが必要だ,と求めました.ですから,わたしたちも祈りましょう.教会の頭である主よ,あなたの手足である司牧者たちとわたしたち信者が,救いの無償性とあなたの近しさとあなたの慈しみを決して忘れることのないようにしてください.あなたの律法をあなたの愛によって完成してください.あなたのもとで安らぎを欲する者を皆,あなたの御国に受け入れてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年10月31日

共同祈願,2017年09月24日,LGBT 特別ミサ

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,先日,無事に退院し,現在,ペトロの家で療養生活をおくっています.あわれみ深い主よ,日本で初めて LGBTQ カトリックの司牧に取り組んだあなたのしもべ,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,あなたの愛で彼を癒してください.

全世界の性的少数者のために祈りましょう.今年の前半カナダで行われた調査によると,カナダの全人口のなかで LGBTQ が占める割合は 13 % でした.全人類の約1割は LGBTQ である,と言って良いと思います.にもかかわらず,日本において,わたしたちの人権は十分な法的保護を受けておらず,また,性的指向や性同一性を理由とする差別やいじめや迫害は世界の至るところで続いています.正義の神である主よ,あらゆる LGBTQ が安心できるよう,慈しみ深いあなたのふところへ皆を受け入れてください.何らかの差別を被る少数者すべてのためにカトリック教会があなたの愛を実践し,社会正義の実現に貢献することができるよう,全教役者と全信者を導いてください.

Australia では現在,同性婚法制化の可否を問う国民投票が行われており,結果は11月15日に発表されます.世界中の同性カップルのために祈りましょう.愛の神である主よ,如何なる分け隔ても無く,あらゆる者にあなたの限り無い愛を注いでくださることに,感謝します.愛し合うカップルすべてを慈しみ深く祝福してください.いつの日かカトリック教会が同性婚を認めるよう,あなたのしもべたちを導いてください.

日本の LGBTQ 政治家たちのために祈りましょう.transgender であることを公にしている保坂いづみさんが,先日,根室市の市議選で当選しました.わたしたちも,心からの祝福を保坂さんに送りましょう.小さき者すべてを御心にとめてくださる主よ,今年7月に誕生した LGBT 自治体議員連盟のメンバーたちを祝福してください.性的少数者であることを公にしている政治家たちが日本社会の差別的な構造を変えて行くことができるよう,慈しみ深く見守ってください.

長谷川博史さんと HIV 感染者すべてのために祈りましょう.東京新聞は,昨日,長谷川博史さんの人生と活動を紹介する記事を掲載しました.長谷川博史さんは,勇敢にも,日本でいちはやく HIV 感染者の当事者団体 JaNP+ を組織し,今も懸命に啓発活動を続けています.あわれみ深い主よ,HIV 感染者すべてにあなたの愛の恵みを注いでください.同胞のために惜しみなく奉仕する長谷川博史さんを,あなたのカトリック教会のしもべたちと同様に祝福し,あなたのふところへ受け入れてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年10月31日

鈴木伸国神父様の説教,2017年09月24日,LGBT 特別ミサ

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様の説教


二つのものの間に揺れる心

パウロは,第二朗読では二つのことの間で揺れ動いています。生きようか死のうかと悩んでいます。

「[わたしは]二つのことの間で板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと... だが他方では、肉にとどまる方が...」(フィリピ書簡 1,23)

わたしたちが生きてゆくことは,悩みを生きてゆくことでもあります。周囲の力に押し流されながら、それでもわずかに効く舵にしがみついて、いのちを自分のもとにとりもどそうともがいているようなものです。でも,ここでパウロは「諦めようか、でも苦しいけど生きようか」と苦しみと苦しみを天秤にかけているのではありません。また,「死んでしまおうか、それとも可能性を信じてみようか」と、苦しみと、希望のなかの恐れを比べているのでもありません。彼は、不思議なことですが、「今すぐにキリストに会おうか、それとも今ここにいる人たちのために何かできることがあるだろうか」と思案しています。彼は,二つの自分の願いや望みのあいだに立って、自分がどちらに召されているかを感じ取ろうとしています。彼は、神とともにある者に「万事が益となるように共に働く」(ローマ 8,28)ことを経験しているようです。

公平な賃金?

さて,今日の福音も不思議な物語です(「ぶどう園の労働者」マタイ20,1-16)。

このぶどう農園は収穫期なのでしょう、農園の主人は働き手を探しています。とても忙しいのでしょう、もう夜明けには出かけ,手配をし、働き手を農園に送り出します。仕事も続いている朝九時ころ、この主人は、作業監督のあいまの休憩でしょうか、広場のあたりを通りかかります。すると,何人かの男たちが見るからに手持ち無沙汰なようすでたむろしているのを見かけます。ご主人は声をかけます。「わたしの農園に行きなさい、払うから。」

このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。

ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。

でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。

わたしたちの思い

しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。

神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。

主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。

そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。

では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。

でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。

そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると... 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。」

2017年10月31日

LGBTQ を嫌悪する福音派プロテスタント教会の声明に対する LGBTQ クリスチャンの側からの反対声明

LGBTQ を嫌悪する福音派プロテスタント教会の声明に対する LGBTQ クリスチャンの側からの反対声明


2017年8月29日,USA の保守的な福音派プロテスタント教会が構成する the Council on Biblical Manhood & Womanhood は,同性愛,同性婚,性別非二元論を非難する14組の肯定と否定から成る Nashville Statement を発表しました.LGBTQ+ の人々を非常に傷つける内容です.

Nashville 市長は,市の名が冠されたその声明を直ちに非難し,良識的なジャーナリズムは批判的な記事を発表しました.

カトリック教会からもプロテスタント教会からも,Nashville 声明を批判し,LGBTQ+ を擁護するために,何組かの肯定と否定から成る声明が発表されました.ここに翻訳して御紹介します.

ひとつは,LGBTQ+ 擁護で有名な James Martin 神父様の Twitter での発言です.一連の tweet は,「sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方」と題されて,the Washington Post にまとめて転載されました.

もうひとつは,親 LGBTQ プロテスタント諸会派の関係者多数が連名で発表した声明です.

sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方

by Fr James Martin SJ

わたしは肯定する:神は LGBT の人々すべてを愛している.

それに対して,Jesus が我々を侮辱したがっている,裁きたがっている,あるいは,LGBT の人々をさらに差別したがっている,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:我々は皆,回心が必要だ.

それに対して,おもな罪人は LGBT の人々である,あるいは,LGBT の人々だけが罪人である,と何らかのしかたで特別視することを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,Jesus は,断罪ではなく歓迎を以て導いた.

それに対して,Jesus が裁きをもっと欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,洗礼のおかげで,教会のまったき一員である.

それに対して,LGBT の人々が自分たちは教会の一員ではないと感ずるよう神は欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:多くの教会によって,LGBT の人々は,自分たちがあたかも汚れた者であるかのように感じさせられてきた.

それに対して,我々が LGBT の人々の多大な苦しみをさらに増すよう Jesus は欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,わたしが知る最も聖なる人々に属している.

それに対して,Jesus は我々が他者を裁くよう欲している,ということを,わたしは否定する.そのようなことを Jesus は明らかに禁じている.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,御父により愛されており,御子により招かれており,聖霊により導かれている.

それに対して,LGBT の人々に対する神の愛に関してわたしが否定することは,何も無い.


Christians United in Support of LGBT+Inclusion in the Church(教会における LGBT+ 包容を支持するために一致するクリスチャンたち)の2017年8月30日付の声明

Jesus Christ のあとに従う者として,わたしたちは,あらゆる時代において,神の愛と恵みと真理を証しせねばならない.わたしたちは,神を信じ,神に仕える.神は,生きており,働いており,わたしたちが Jesus Christ の似姿および彼れが宣言した王国へもっと近づけるよう,絶えず導いてくださっている.Christ 御自身がわたしたちに断言したように,聖霊に従うことは,しばしばわたしたちを変化の時代へ導く.そこにおいては,わたしたちは,自分たちの伝統と慣習について反省し,それらを Jesus Christ の心と手本により明らかに適うものへ改革するよう呼びかけられている.それは,キリスト教の歴史全体を通じて当てはまることである.かくして,わたしたちは,わたしたち以前のあらゆる時代と同様に,キリスト教の教えと慣習について反省し,悔い改め,それらを Jesus Christ において啓かされた神の心と意志により密接に添うものへ改革するよう呼びかけられている.

教義や伝統を考え直し,改革するよう,神がわたしたちに呼びかけているのに,聖霊の導きにさまざまなしかたで抵抗し,旧来の教義や伝統に固執する者たちは,いつの時代にもいる.わたしたちの歴史を通じて,聖霊が聖化する業(わざ)の最先端を行く者たちは,当初,既成のキリスト教組織に属する者たちによって,排除され,差別され,悪魔視されることが,しばしばあった.21世紀の今日,教会は再び新たな改革の際に立っている,とわたしたちは信ずる.その新たな改革において,聖霊は,人間の性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えを再検討するために聖書と伝統へ立ち返るよう,わたしたちに呼びかけている.

数十年にわたり,多くの司牧者と神学者と改革者が,大胆にも,聖霊の呼びかけに応えて,性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えの理解を刷新するよう教会に呼びかけるために,歩を踏み出してきた.性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えは,lesbian, gay, bisexual, transgender, non-binary, queer の人々を,神により創造され,完全に祝福された者として,かつ,あるがままの状態で ‒ つまり,キリスト教が従来登用し受け入れてきた異性愛規範的,家父長的,男女二元的な性的指向と性別規範に迎合する必要無しに ‒ 教会と社会の生活へ歓迎されている者として,包容し,肯定し,受け入れる.それらの預言者的な声が歩み出すにつれて,伝統的なキリスト教組織のなかからは,彼れら ‒ 聖書と伝統を再検討するよう導く聖霊に忠実に従う者たち ‒ を悪魔視し,排除し,差別するために労を惜しまない者たちが出てきた.改革者たちは偽教師であり,異端者であり,世界中のクリスチャンの小さな割合をしか代表していない,とそれらの者たちは言い張った.

特に過去20年間で,世界中で何万人ものキリスト教徒が,聖霊の促しに応え始め,聖書と伝統の教えを理解し,LGBT+ の人々と彼れらの人間関係とを全的に肯定し,受容し,称賛するようになった.伝統的なキリスト教組織のなかには,LGBT+ の包容に関する考え方を改めさせた傑出したクリスチャンの声のうねりが高まるのを抑えようとする者もいるが,否定しようのない真理はこのことであり続ける:すなわち,性的指向と性同一性に関する「伝統的」なキリスト教の教えは捨て去られつつある;そして,それに代わる新たな性的指向と性同一性の理解は,より誠実であり,よりキリスト中心的であり,わたしたちの信ずるところでは,より聖書にかなっており,それは,神の創造性をたたえ,神による人間の創造における豊かな多様性を賛美するものである.

教会のなかで,新たな一日が夜明けを迎えつつある.クリスチャンは皆,LGBT+ の同胞たちを等しく神の国に与る者として肯定し,称賛するために,大胆に,言いわけ無しに,歩み出すよう,呼びかけられている.それゆえ,Jesus Christ の教会に仕えることを望みつつ,かつ,より大きな改革と教会と LGBT+ の人々との和解を促進することを望みつつ,わたしたちキリスト教指導者たちの連盟は,以下の肯定と否定を提示する.

その 1 :
わたしたちは肯定する:人間は皆,神の似姿に創造されており,人類においてそれぞれユニークな性的指向と性同一性の広範なスペクトラムを通じて表現される豊かな多様性は,神の創造の業(わざ)の規模の完璧な反映である.

それに対して,神の創造の意図は性別二元論に限定されており,人間の恋愛関係に関して神が欲することはひとりの男とひとりの女との間の異性愛的な関係においてのみ表現される,と示唆するようなあらゆる教えを,わたしたちは否定する.

その 2 :
わたしたちは肯定する:神は結婚をこのようなものとして計画した ‒ すなわち,結婚は,愛し合い,仕え合い,生涯相互に誠実に委ね合った生を生きることを誓約した人間たちの間の契約の絆である.

それに対して,神は人間の恋愛関係をひとりの男とひとりの女との関係に限定しようと意図した,ということを,わたしたちは否定する.そして,互いに愛し合い,仕え合うことを契約し,誓約する人間の神聖な,もしくは市民的な権利を制限しようとする試みは,いかなるものも,神の創造の計画に対する侮辱である,と宣言する.

その 3 :
わたしたちは肯定する:堕落した人間たちの関係は大きな歪みを被り,その結果,さまざまな形の不貞や不健全な行動が生じ,それらは人類の苦しみを悪化させている;しかるに,神が欲しているのは,人間皆が愛と自己犠牲の相互関係 ‒ 恋愛的なものであれ,プラトニックなものであれ,社会的なものであれ,また,性にも性同一性にもかかわりなく ‒ に入ることである.

それに対して,人間関係の堕落のゆえに性的指向と性同一性の多様性が生じたのだ,ということを,わたしたちは否定する.むしろ,堕落は,自身を与える愛 ‒ その似姿にわたしたちは創造されている ‒ の代わりに,快楽主義的な自己利害にもとづいて機能する人間の能力のうちに表れている.

その 4 :
わたしたちは肯定する : intersex[何らかの先天的な条件により生物学的性別分化が非定型的である人々]として生まれた人々は,神の似姿を完全に,かつ等しく有する人々であり,完全な尊厳と尊重に値する;わたしたちは,intersex の人々を,彼れらの自己実現の旅路において,および,神によって創造された彼れらのユニークな性的指向と性同一性 ‒ それが如何なるものであれ ‒ を受容する旅路において,肯定し,支える.

それに対して,intersex の人々は,性別二元論や異性愛規範的な性別規範に合致するよう求められている,ということを,わたしたちは否定する.

その 5 :
わたしたちは肯定する:男の性同一性と女の性同一性は大多数の人間の家族の反映であるとはいえ,神は,男女二元性に当てはまらない性同一性を有する人々を創造してきた.transgender の人々は,本当の性同一性とは合致しない身体を持って生まれてきた.わたしたちは,それらの人々を支えるべきである.そして,「わたしは誰か」,「どのように神はわたしを創造したのか」の問いに関して彼れら自身が識っていることを,信頼すべきである.

それに対して,身体の生物学的所与にもとづく文化的想定に合致する性同一性を受け入れるよう強いることが健全な行いであり,異性愛的男女二元論が創造における神の聖なる意図に唯一適合する反映である,ということを,わたしたちは否定する.

その 6 :
わたしたちは肯定する : LGBT+ クリスチャンは,神が欲することを履行する聖なる生 ‒ すなわち,彼れらのために神が創造の際に意図したことに適うよう生きることをとおして神に喜ばれる生 ‒ を生きるよう呼ばれており,また,クリスチャンすべてと同様に,わたしたちの主 Jesus Christ の手本を反映する生のリズムにあわせて歩むよう呼ばれている.

それに対して,異性愛または男女二元的性同一性が,神の創造の自然な善さを反映する唯一の正当な性的指向と性同一性である,ということを,わたしたちは否定する.

その 7 : わたしたちは肯定する : LGBT+ の人々は,LGBT+ である個人として,かつ Jesus Christ に忠実に付き従う者として,誇りをもって公然と生きることができ,また,彼れらは,教会が Christ のからだとなる召命を十全に受け入れ得るために,教会のリーダーシップと生と教役のあらゆるレベルにおいて,例外無く十全に受容され包容されねばならない.さらに,わたしたちは肯定する : Christ は,教会が,性的指向や性同一性や諸個人の関係性や性に関する信念の多様性のただなかにおいて,ひとつであり,ひとつにまとまるよう,呼びかけている.

それに対して,性的指向と性同一性 にかかわる聖書の言葉をどう解釈するかに関する教えは正統性を規定する問題であり,クリスチャンの間の分裂の原因となるべきだ,ということを,わたしたちは否定する.

その 8 :
わたしたちは肯定する:世界中のキリスト教教会において,非包容的な教えは,LGBT+ の人々を心理的,精神的に著しく傷つけている.また,わたしたちは肯定する : Jesus Christ の教会は,何十万人もの人々にいじめ,虐待,家族や共同体からの排除を経験させてきた有害なメッセージの宣教について罪を負っており,Christ の名において LGBT+ の人々に対して為されてきた害について,公に悔いねばならず,LGBT+ の人々との和解を求めねばならない.

それに対して,有害な教えをやめようとせず,LGBT+ の人々との開かれた対話を拒むクリスチャンは Jesus に忠実にならう手本に従った生を生きている,ということを,わたしたちは否定する.

その 9 :
わたしたちは肯定する:性的指向と性同一性は,相異なる多様なしかた ‒ そこには,独身であることも含まれる ‒ で表現され得る.また,わたしたちは肯定する:神が欲することへの積極的参加,同意,尊重,自己犠牲的愛は,クリスチャンにとって神聖かつ正当と見なされるべきあらゆる生と関係性の中心であらねばならない.

それに対して,関係性の家父長的,異性愛規範的なモデルに合致させるために,性的指向や性同一性を変えることを約束する何らかの形の治療を受けるよう,ある個人 ‒ 特に,未成年者 ‒ に強いるべきだ,とする意見を,わたしたちは否定する.

その 10 :
わたしたちは肯定する : Jesus Christ は,人間すべてに救済をもたらすために世に来たのであり,彼れの生と教えと死と復活によって,あらゆる人は Christ による贖いへ招かれている.

それに対して,Christ は誰かを性的指向や性同一性の理由でその愛に満ちた受容から排除する,ということをわたしたちは否定する.また,同性愛,両性愛,queer sexuality, trans identity, asexuality, その他の queer identity は,罪深く,歪んでおり,神の創造の意図からはずれている,ということを,わたしたちは否定する.

ルカ小笠原晋也による翻訳

訳者注記:三人称代名詞を「彼れ」,「彼れら」と訳しました.特に they の訳語として gender を特定する「彼ら」や「彼女ら」を用いるのを避けるために,本来 gender neutral な指示詞「彼(か)」の利用を復活させてはどうか,と思うからです.それにともなって,単数形も「彼」(かれ)ではなく,「彼れ」(かれ)としてはどうでしょうか?「彼れ」は,gender neutral な三人称単数代名詞として用いることができるでしょう.もっとも,文書のなかでだけですが...

2017年09月08日

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

聖書のことばには,たとえその一節についてではあってもたくさんの解釈や説教が歴史のなかで積み重ねられていて,そこに何か新しいことが見つけられることはなかなか難しいはずです.でも不思議なことにわたしには読むたびごとに違った趣を示してくれるもので,いつも新しい発見や着想を与えてくれます.

カナンの女(マタイ 15,21-18)

今日の個所はイエスが異邦の地に旅をしたときの話しです.ティルスとシドンはガリラヤ湖からは 40 - 50 km ほどの地中海岸沿いの港町で,現在のレバノンにあたる地域にありました.そこである女性がイエスに自分の娘の病を癒してくれるように願い,断られながらも根気強く願いつづけ,最後には聞き入れられたというお話しです.新共同訳には「カナンの女の信仰」という小見出しが付けられています.

この箇所をよむとき,信じれば「桑の木」や「山」も動くという物語(マタイ17,19f ; ルカ17,6)のように,信じることの不思議さを感じることがありますし,「裁判官とやもめ」(ルカ 18,1-8)のように根気強く願い,また祈りつづけることの意味を考えさせられることもあります.自分のことではなく,自分の娘を思う母の強さと愛情にこころが留まることもあります.でも今日はわたしにはまったく別の情景が浮かびました.

わたしに特別な印象を与えてくれたのは「主よ,ごもっともです.しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というカナンの女性の言葉です.たいへん失敬な言い方になるかもしれませんが,この句がわたしには,少し,いえ,かなり慣れなれしそうな話し方で,たとえばこんな響きをもって聞こえてきました:

もちろんです.もちろんですとも,イエス様.本来ならあなたが異邦人に親しくしてくださるなんてことはないはずです.でもイエス様,さっきテーブルのうえのパンを,お足元の子犬たちに分けてあげていらっしゃるとき,イエス様,とってもおやさしいお顔でしたわ.ほんとに,遠くから拝見しただけもちょっと涙ぐんじゃうくらいの,おやさしい微笑みでらっしゃいました.ねぇイエス様,神様のお恵みはあなたのなかであふれるほどです.ねぇ,イエス様.

そうですねぇ.少し違いますけれど,ミュージカル映画 Sister Act[邦題:天使にラブソングを](1992) のなかの Deloris (Whoopi Goldberg) か,歌謡グループ Perfume の歌「ねぇ」のような印象でしょうか.自分でも何だか分かりませんが,わたしのなかにそんな情景がひろがり,わたしは一遍にこのカナンの女性のファンになりました.(聖句にもとづく観想的な祈りというのは不思議なもので,それがどんな意味なのかは分からないままにまずイメージが与えられます.)

信頼

わたしが新しさを感じたのは多分,(丁度「聖書と典礼」の冊子の扉絵のように)へりくだって腰をまげて,あるいはひざまずいてイエスに恵みを請い願う女性という,わたしが持っていたそれまでのイメージが,イエスととても親しい人たちと同じ立場にある人と変わらない親しさで,あるいは自分の友人が困っている自分を助けないなどとはちっとも思わずに,何の疑いもなくイエスに向かって助けを求める手を差しだすような,そんな一人の女性のイメージへと転換したからだと思います.

心象としてその展開を描いてみれば以下のようなものです.この女性は自分を遠ざけようとしているイエスにむかって,自分が彼にとって大切な存在である,あるいはなりうることを疑わずに,逆に近づいて行きました.近づいて,そして少しも恐れたり,不安に飲まれることなく,イエスの前にとどまり,イエスに無関係なものではないだけではなく,ごく短い対話を通じてでも,親しく言葉と愛情を交わし合える存在であることを示しました.そしてイエスの眼差しのなかで彼女はもはや異邦人としてではなく,自分にとってかけがえのない友人たちの一人に実際に変貌します.そのとき「イスラエルの失われた子ら」であるか否かという区別と障壁がイエスの中で消え,それにせき止められていた恵みは,イエスの承認の言葉とともに,この女性のうえに,そしてその娘へと流れだしてゆく.

新共同訳でイエスの承認の言葉は「あなたの信仰 (πίστις, pistis) はりっぱだ」と訳されていますが,わたしはここでは「あなたの信頼はりっぱだ」と理解したいと思います.「あなたはわたしを信頼し,わたしがあなたを友として受け入れることを疑うことなくわたしに近づき,わたしのこころの情景を変えてくれた.あなたの信頼があなたをわたしの友とし,わたしをあなたの友としてくれた」.そんな印象でしょうか.

たぶんこのようなわたしの心象の背景にあるのは,1960 - 1970年代にかけての学生運動やフェミニズム運動に自分を賭してきた人たちの姿だと思います.彼らはそれまで個人のなかに押し込められてきた悩みや苦悩を,公共的な場に提示し,それを願いとしてではなく,自明,あたりまえのこととして実践しました.でもそれを「運動」などと,とりたてて言わなくてもいいのかもしれません.誰かの苦しみはたいていはある事象を苦しみとして感じさせる社会構造と表裏のものであるはずのもので,自分の中だけから作られた悲しみなどというものはどこにも無いはずだからです.たしかに “the private is political (or public)”(個人的なことは政治的なこと)だからです.

それにしてもこの女性は「つよい」と思います.自分の娘と自分の苦しみを,隠されるべき負の負い目としてではなく,友人でもないが友人になってくれるだろう人のもとに,引け目や恥の意識をのりこえて差し出しているからです.このときこの女性は,多くの解釈のように,腰を曲げて,自分が悪いものででもあるかのように,懇願することもできたでしょう.しかしそれでは,人と人を分かつ区別と障壁は,別種のものに変えられることはあっても取り払われてしまうことはなかったでしょう.

人のこころの機微

もう一つこの女性の姿でわたしをひきつけるものがあります.このカナンの女性のかしこさです.かしこさと言っても,頭がいいとか博識だというのではありません.彼女は人の心のどこのボタンをどの順番で押せばいいのかを心得ているように感じたからです.

そもそもイエスの態度はなかなかのものです.彼の最初の反応は「何もお答えにならなかった」,つまりまったくの無視です.つぎに弟子たちから急かされたときの反応は ‒ 自分は「失われた羊のところにしか遣わされていない」‒ 拒否です.しかも出自の違いを盾にした拒絶です.そして詰寄ってくる女性に ‒ 今の文脈なら明らかに相応しくない incorrect な言い方になりますが ‒「犬」という言葉をかけます.自分の母親に向かって「そこの女性」と呼びかける人だとしても,あんまりだと感じます.

ではカナンの女性の側はどうだったでしょうか.彼女は初めは「叫んで」いました.そして弟子たちがイエスに取り次いでいるのを遠くから覗い,今度は叫ぶことなく,しかし「ひれ伏して」イエスに懇願します.この女性はしたたかに人の機微を伺って願うものへと近づいてゆきます.そしてイエスから侮蔑的な言葉とともに最終的な拒絶を投げかけられたときには ‒ これは飛び切りなのですが ‒,その侮蔑のことばをそっくり受け取って,主人と食卓,パンと犬からなる,同じ情景のなかに,まったく別の,逆の含意をもった物語りをつくり,しかも相手がきっと受け取るだろう文脈を添えて返しています(「ごもっともです.しかし,小犬も...」).彼女は,願うものを得るために,機智を見せるだけでなく,人の心もうけとっています.苦労を知っている人の知恵のようにも思えますし,(意識的な技巧ではないかもしれませんが結果からすれば)外交官なみのたしなみのようにも思えますが,わたしには神を信じる人の巧まざる愛情と知恵の現れのように感じられました.

その結果,イエスはあっさりと考えを変えます.ほぼ180度です.「あなたは正しい.ぼくが間違っている.それがはっきりと分かる.ああ,婦人よ,あなたの信頼は神に嘉(よみ)されている.恵みはあなたのものだ」と言っているような気がします.自分の側にある壁をのりこえて,また裏切られることもあらかじめ受け入れながら,人を信頼すること,人が笑顔を交わし合えることを信じられること.たしかにこの女性が自分を神に愛されるものにしたのだと思います.

いったいわたしのこんなイメージがお説教に相応しいのかどうか分かりませんが,少なくとも私はこの女性のファンになりましたし,皆さんも少しファンになっていただけたとしたら,それで十分な気がいたします.

2017年08月25日

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

小宇佐敬二神父様と鈴木伸国神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,御病気のため暫く療養に専念なさることになりました.あわれみ深い主よ,あなたのしもべ,わたしたちの牧者,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,彼を癒してください.そして,寛大な主よ,彼に代わる牧者として鈴木伸国神父をわたしたちに与えてくださったことを感謝します.あなたの愛の恵みを特別に注ぎ,鈴木神父を祝福してください.

LGBTQ inclusion に積極的に取り組む教役者たちのために祈りましょう.アメリカの Newark の司教 Joseph Tobin 枢機卿に続いて,世界のあちらこちらでカトリック教会が LGBTQ の人々を歓迎し,包容する姿勢を公にあらわしています.Scotland の Glasgow の Paul Morton 神父は Facebook でこう告知しました:「わたしたちの教会は,性的少数者を歓迎します.神の愛から排除されている人は,ひとりもいません.神の家には誰もが歓迎されます」.また,Brazil の Cruz 司教は,説教でこう説きました:「性的少数者であることは,個人の選択によるのでも精神疾患によるのでもないのだから,神の賜以外のものではあり得ません.人種差別と同じく,sexuality による差別は克服されねばなりません」.日本でも,晴佐久昌英神父様は,キリスト教徒の心に根深く残る原理主義的な傾向を批判し,神の愛の全包容性と救済の普遍性を説いています.そして,彼が主任司祭を務める教会は LGBTQ の人々をいつでも歓迎する,と断言しています.慈しみ深い主よ,あなたの愛をあまねく実現するよう努めるあなたのしもべたちを祝福してください.あなたの福音を世界中に宣べ伝えようとする彼らの声に耳を塞ぐ者たちの心を優しく開いてください.

ブラジルの LGBTQ 人権活動家 Toni Reis と彼の家族のために祈りましょう.Toni Reis と彼の夫 David Harrad の同性婚カップルは,あきらめずに求め続けた結果,養子三人を迎えることができ,さらに,子どもたちに洗礼を授けてもらうこともできました.そして,子どもたちの洗礼について Papa Francesco の祝福の言葉を伝える手紙を Vatican から受け取りました.命を与えてくださる主よ,あなたは,実の親により育てられずにいた子どもたちに同性婚カップルを親として与え,あなたの愛の聖霊で彼らに新たな命を与えました.Toni と David と彼らの子どもたちを改めて祝福してください.世界中の同性カップルとその子どもたちにも,あなたの愛の恵みを与え,皆を祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年08月25日

小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 ‒ 奇跡 ‒ による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ ‒ からし種の譬えとパン種の譬え ‒ が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか ‒ そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 ‒ 悪を行う者や不法を行う者 ‒ を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた ‒ そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く ‒ そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている ‒ そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ ‒ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる ‒ それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ ‒ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する ‒ その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている ‒ そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

2017年07月28日

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年7月17日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち ‒ 特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.6月30日にドイツで,7月12日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月28日

小宇佐敬二神父様の説教,2016年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,3章13-19節で十二使徒が選ばれ,6章7-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,6章17-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」‒ 何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と ‒ それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない ‒ そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書10章01-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く ‒ その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる ‒「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書6章01-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 ‒ そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる ‒ その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」‒ ,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか ‒ それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる ‒ それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 ‒ 救いの神秘 ‒ でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 ‒ さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す ‒ もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し ‒ それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける ‒ それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で mysterion, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる ‒ その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.

2017年07月02日

共同祈願,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

LGBT Pride Month のために祈りましょう.今から48年前,1969年6月に起きた Stonewall 事件を記念するために,今月は LGBT Pride Month として祝われています.日本でも先月,Tokyo Rainbow Pride が祝われました.主よ,差別と自己否定に苦しむわたしたちが社会に対して抗議し,自身に誇りを取り戻すために祭を祝うとき,慈しみ深くわたしたちを祝福してください.わたしたち皆を,神の愛し子として,憐れみ深く,あなたの懐に受け容れてください.

主の恵みに感謝して,祈りましょう.復活節が終わった後,今月は,多くの記念日が祝われました ‒ 聖霊降臨,三位一体,キリストの聖体,イェスの御心,そして,昨日は洗礼者ヨハネの誕生.さらに,四日後には,聖ペトロと聖パウロの記念日も祝われます.主よ,それらをとおして与えられるあなたの恵みに感謝します.そして,主よ,お願いします:誰をも排除せず,すべての者を包容するあなたの愛を,聖霊の恵みとして,わたしたち皆のうえに注いでください.

同性パートナーシップのために祈りましょう.今月一日,札幌市で,政令指定都市としては全国で初めて,同性パートナーシップを公に証明する制度が開始されました.そのような制度がより多くの地方自治体に広がって行くことが,日本における同性婚の法制化に繋がって行くかもしれない,とわたしたちは期待しています.異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うとき,それは,まぎれもなく,神の愛の恵みのしるしです.無限の愛の源である主よ,世界中の同性カップルの絆を,あなたの愛で祝福してください.そして,わたしたちのカトリック教会を,全包容的なあなたの愛に従うよう,導いてください.

日本においても世界においても LGBT-phobia の犠牲になった人々のために祈りましょう.今月12日は,Florida 州 Orlando の gay club Pulse で49人の命が奪われた事件の一周忌でした.チェチェン共和国では LGBT に対する迫害が続いています.一橋大学アウティング事件の裁判も続いています.憐れみ深い主よ,LGBT-phobia の犠牲者すべての涙をあなたの優しい御手でぬぐい,あなたのみもとで皆に永遠の安らぎを与えてください.少数者を嫌悪し,排除しようとする者たちの頑なな心を,あなたの愛へ開かせてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月02日

「カトリック新聞」に LGBTCJ に関する記事が載りました

「カトリック新聞」2017年04月02日付の p.2 に,LGBTCJ に関する記事が掲載されました


Web 版の記事はこちらです.

本年02月19日の LGBT 特別ミサの際に行われた取材にもとづいています.

LGBTCJ の活動に関心を持ってくださった「カトリック新聞」に感謝します.また,インタヴューに応じてくださった方々に感謝します.

如何にカトリック教会が性的少数者の人々を包容し得,そして,如何に彼らがそのなかで活躍して行き得るかは,カトリック教会内の女性の立場の問題と並んで,カトリック教会にとって決定的な試金石となるでしょう.

律法の文字に拘泥する死せる教会となるか,それとも,神の愛と息吹によって生きる教会となるか,それがかかわっています.

2017年04月14日

日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版の出版

日本カトリック司教団のメッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版が出版されました.

幸田和生司教様を始め,御尽力くださいました関係者すべての方々に,御礼を申し上げたいと思います.

LGBT については,27段でこう述べられています:

「イエスはどんな人をも排除しませんでした.教会もこのイエスの姿勢に倣って歩もうとしています.性的指向のいかんにかかわらず,すべての人の尊厳が大切にされ,敬意をもって受け入れられるよう望みます.同性愛やバイセクシャル,トランスジエンダーの人たちに対して,教会はこれまで厳しい目を向けてきました.しかし今では,そうした人たちも,尊敬と思いやりをもって迎えられるべきであり,差別や暴力を受けることのないよう細心の注意を払っていくべきだと考えます.例外なく,すべての人が人生における神の望みを理解し実現するための必要な助けを得られるよう,教会は敬意をもってその人たちに同伴しなければなりません.結婚についての従来の教えを保持しつつも,性的指向の多様性に配慮する努力を続けていきます.」

注において,『カトリック教会のカテキズム』2358段と Amoris laetitia no. 250 への言及が為されています.

日本カトリック司教団が,主の全包容的な愛にもとづいて,性的少数者に関して明確な包容的メッセージを発してくださったことに,感謝したいと思います.

カトリック信者のなかには,今もなお,『カテキズム』の教えに反して,LGBT 差別の言動を続けている人々がいます.すべてのカトリック教会からそのような差別をなくして行くことを今回の司教団メッセージが可能にするよう,期待したいと思います.

同性婚については,カトリック教会内に修復困難な分裂を生ぜしめるかもしれない敏感な問題であり,教皇 Francesco も慎重な態度を崩していないので,日本司教団にも教皇以上のことを期待することはできない,と承知しています.

しかし,神の御前にあらゆる人間は皆平等であるのですから,誰の結婚も,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,神の愛の徴としての真摯な愛にもとづくものであれば,秘跡であるはずです.わたしたちは今後も,カトリック教会が同性婚を異性婚と同等に扱うようになるよう,求め続けて行きたいと思います.

また,教皇 Francesco は,2016年6月,「カトリック教会は同性愛者に謝罪すべきだ」とおっしゃいました.しかし,日本司教団のメッセージからは,LGBT に対する差別の長い歴史に関する教会の謝罪の気持ちを読み取れません.何らかの機会に是非,明確な謝罪表明をお願いしたいと思います.

なお,用語の問題をひとつ指摘しておきたいと思います.「性的指向」のもとに transgender のことまでが語られていますが,現在,一般的には「性同一性」は「性的指向」とは区別されています.この点についても,若干の訂正または補足が必要だと思います.

2017年04月14日

同性婚法制化は若者の自殺を減らす

同性婚法制化は若者の自殺を減らす

すばらしい統計学的研究が発表されました.それによると,同性婚の法制化は若者の自殺を減らす効果を明確に有しています.公衆衛生の観点からは大変評価される結果です.さっそく一般誌でも報道されています.

アメリカの小児科の学会誌に昨日付で発表されたその研究においては,アメリカ合衆国の1999年から2015年までの Youth Risk Behavior Surveillance System(若者の危険行動の監視システム)の統計にもとづき,同性婚法制化が若者の自殺未遂ケースの数にどう影響したかが統計学的に分析されました.

周知のとおり,全米で同性婚が認められたのは,2015年6月26日に連邦最高裁が「同性婚を禁止する州法は合衆国憲法に違反している」と判断したことによってです.それまでは,同性婚を認める州と認めない州とが合衆国のなかで混在していました.同性婚が domestic partnership の形で最初に認められたのは,1992年,Washington DC においてでした.同性婚が異性婚と同等の婚姻として初めて法制化されたのは,2009年,Vermont 州においてでした.

論文のなかで表に示されているように,調査対象となった全学生の自殺未遂率は,同性婚法制化前は 8.6 % であったのに対し,同性婚法制化後は 8.0 % へ有意に低下しました.sexual minority の学生に関しては,自殺未遂率は 28.5 % から 24.5 % へ有意に低下しました.

人間の命の尊重を教えるカトリック教会が同性婚を認めないことによって若者の自殺の減少を妨げているのだとすれば,どうでしょうか?2018年の若者を主題とするシノドスに向けて,すべてのカトリック信者に真剣に受けとめていただきたい事実です.

ブログ記事へのリンク

2017年02月21日

2017年01月15日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

2017年01月15日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

新たな年を迎え,今月から,わたしたちの LGBT 特別ミサは,原則的に毎月,*** で行われ,小宇佐敬二神父様が司式してくださいます.主の恵みに感謝します.性的少数者の司牧に積極的に取り組んでくださる小宇佐神父様に感謝します.そして,寛容にもわたしたちに場所を提供してくださる *** に感謝します.わたしたちのミサが,今年もますますより多くの同胞たちに,神の愛を感ずる場を提供することができますように.

昨年6月,教皇 Francesco は,カトリック教会の歴史における LGBT 差別に関して,教会は被害者たちに謝罪し,赦しを請わねばならない,とおっしゃいました.それを受けて,オーストラリアでは,カトリックとプロテスタントが共同で,Equal Voices という名称のもとに活動を開始しようとしています.その活動の目的は,キリスト教が性的少数者を差別してきたことを謝罪し,あらゆる人々がキリストのからだにおいて相互に和解することができるよう,真に包容的な教会を作り上げて行くことです.オーストラリアにおけるこの画期的な試みが成功しますように.また,ほかの国々においても,同様に,神の愛の名においてあらゆる人々を包容する活動が教会のなかに展開されて行きますように.特に,日本において,我々も含めて,性的少数者に福音を告げる人々に,主よ,力と勇気を恵み与えてください.

今月9日は成人の日でした.今ちょうど,世田谷区では LGBT 成人式が行われており,今月から来月にかけて,あちらこちらで LGBT 成人式が行われます.それらの会合に参加する人々を,主が祝福してくださいますように.学校や職場において差別され,いじめられている LGBT の子どもたちや若者に対してわたしたちが積極的に救いの手を差し伸べることができるよう,主よ,わたしたちをお導きください.

さまざまな事情で今日,わたしたちの御ミサに与ることができない同胞たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みが,今日これなかった人々にも豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

2017年01月16日

福音館書店の月刊誌「母の友」の LGBT 特集について

『ぐりとぐら』や『魔女の宅急便』などの児童書の出版社として有名な福音館書店は,幾つかの月刊誌も出しています.そのひとつが「幼い子を持つおかあさん,おとうさんに;子どもにかかわるすべての人に」向けられた『母の友』.1953年に創刊された長寿雑誌です.その『母の友』が,2017年2月号で特集「LGBT ‒ じぶんの性をいきる!」を組みました.

本文はブログ記事でお読みください.

2017年01月09日

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

今日,12月18日は,待降節第四主日です.

今日のミサの中心点は,「この子をイエスと名づけなさい,エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです.

クリスマスの季節にわたしたちがお祝いのカードに見るマリア,ヨセフ,幼子イエスの聖家族の姿は,なじみ深いものです.でも,聖家族と呼ばれるこの家族から学び得るこれらのことがら ‒ 命の誕生,母性,父性,名づけ ‒ の深い意味を,わたしたちは十分に把握しているでしょうか?

わたしたちは,当り前のように教会用語を使って,「マリアは処女,ヨセフは名づけ親,イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれませんが,処女性とは何か,名づけ親とは何か,聖霊とは何か,と訊かれたら,何と答えましょうか?

実は,こう言うことができます:

1) ある意味で,どの親も,名づけ親であり,養父母のような面を持っている;

2) そして,どの親についても,親になって初めて,母親の処女性は深い意味を帯びてくる;

3) さらに,生まれてくる子どもは,どの子も,聖霊によって生まれる;

4) また,first name を与えられ,その名前で呼ばれるどの人間も,かけがえのない尊厳を持っており,「人間である」とか「何々人である」とか「何々の特徴を持っている」とか言うより先に,「誰々という個人だ」と言わなければならない.どの人間も,排除されたり差別されたりされるべきではない.

ヨハネパウロ 2 世が述べたように,「イェスの御降誕において,あらゆる人間の誕生の全的な意味もが啓示される」(『命の福音』1).

では,その意味を深めるために,マタイとルカの両福音書を合わせて読みましょう.マタイ 1,20-21 からはヨセフへのお告げを,ルカ 1,31 からはマリアへのお告げを,聴きましょう

ルカ福音書 1,31 では,お告げの物語が述べられています.マリアは目が覚めていたでしょうか,うたたねしながら夢を見たのでしょうか?夢だとしても,それは,真実を見つめさせる夢です.近いうちに結婚することになるマリアには,それに対する望みもあり,不安もあるかもしれません.マリアに,安心させる御使いが現われます.御使いは言います:「マリアよ,恐れることはない.あなたは,命をめぐまれる.あなたは,身ごもって,男の子を生む.その子をイエス(人を解放する方)と名づけなさい」.

マタイ福音書 1,20-21 では,ヨセフへのお告げが物語られています.夢ですが,彼を目覚めさせる夢です.ヨセフは近いうちにマリアを妻として迎える予定ですが,それに対する望みも不安もあります.御使いは彼を安心させます:「恐れずに,マリアをあなたの妻として迎え入れなさい.彼女の胎内に生じたものは,神の聖なる息吹によるものだ.彼女は,息子を生む.その子をイエスと名づけなさい.その子こそ,民を罪から救うであろうから」.

このようにルカとマタイを合わせて読むと気がつくのですが,マリアにもヨセフにも,ふたつのことが告げられます:ひとつは,あなたたちは子どもを授かる;もうひとつは,生まれる子どもは聖霊によって生まれる.

そして,マリアにもヨセフにも,子どもに名前をつける役割と使命が与えられます.

イエスという名前を選んだのは,神様です.その名は,御使いを通して伝えられます.そして,名前をつけるのは,父親と母親の役割と使命だ,と言われています.(当時は,父親が名前をつけるのが普通でした).

父親も母親も,新しい命である子どもを恵まれたら,まず名前をつけるでしょう.名前をつけるということは,つまり,その命を受け入れて育てることを約束する,ということです.

その意味で,どの父親も母親も,名づけ親であり,養父母だ,と言えるでしょう.

また,どの新しい命も,聖霊の息吹を受けて生まれます.どの子どもも,聖霊によって母親がみごもった結果,聖霊によって生まれる,と言えます.

その意味で,どの親も神とともに協働創造者である,と言えます.

生まれてくる子どもは,親から生まれると同時に,聖霊によって生まれるのです.

その子どもに,親は,名前を付ける.すなわち,その存在を受け入れる.そして,これからもそのように育て続けることを約束します.その子に,社会に,神に,約束します.

子どもがどんな状況のなかで生まれたにしても,どんな事情で親がその子に名前をつけ,その子を受け入れたにしても,そう言えます.親が正式な夫婦でも,そうでない同棲カップルや LGBT のカップルでも,子どもが体外受精や代理出産などで生まれた場合であっても,同じことが言えます.

名づけの重要さについて,もうひとつの観点から考えることができます.世に生まれてくるあらゆる被造物は,その誕生の状況が如何なるものであれ,侵すことのできない人間存在の尊厳を持っており,いかなる差別の対象にもなり得ない.

差別するということは,尊厳をないがしろにすることです.個人の名前のかわりに,レッテルを貼ることです.たとえば,あなたはスペイン人だから,こういうことはわからないでしょう;あなたは独身だから,この問題について語る資格はありません;あなたは LGBT だから,しかじかの権利はありません... そのように,レッテルを貼られ,差別されます.

しかし,その人は,単にスペイン人でしょうか? 単に独身者でしょうか? 単に LGBT でしょうか? いいえ,その人は,しかじかという固有名を持つ人です.その固有名で呼ばれるべき人です.次いで,その人はスペインで生まれ,独身であり,LGBT であり,さらにほかの多くの属性を有しています.

そのような属性以前に,人は,固有名と,固有の尊厳とを持っています.

今日の福音によって,わたしたちは支えられ,励まされます.親に感謝しましょう.どの人間にも,等しくかけがえのない尊厳がそなわっていることを自覚しましょう.そして生まれてくるすべての子どものために祈りましょう.

わたしたちは皆,聖霊によって親から生まれてきました.クリスマスの夜には,親に感謝,神に感謝,命の為に感謝して,グロリアを唱えましょう:天のいとたかきところに神に栄光!

わたしたちは,あらゆる妊娠において命を大切にし,誰も排除されない,誰も差別されない世の中を作って行きたいものです.地上に平和があるように,平和を作るように,努めたいものです.

2016年12月27日

降誕祭おめでとうございます ‒ ルカ小笠原晋也より

降誕祭おめでとうございます!

Logos の受肉,主 Jesus Christ のお誕生を祝いましょう!神の子 Jesus の御降誕は,存在の真理の自己示現です.

そして,わたしたちは皆,男も,女も,性的少数者の人々も,誰もが,神の子です.神により創造されたものとしての人間は,誰もが,ひとりの christus[聖別のために塗油された者]です.ですから,人間は,誰もが,存在の尊厳を有しています.

そのことを,わたしたちの主 Jesus Christ は,御自身の誕生を以て,証明してくださっています.神に感謝しましょう!

さて,sexual minority の人々とともに歩むわたしたち有志カトリック信者の活動 LGBTCJ にとって,2016年はとても実り多き年でした.Deo gratias !

まず,何よりも,LGBT 特別ミサ.社会的に差別されてきた人々の司牧に御理解のある神父様たちにより,今年7月から毎月一回,性的少数者限定の御ミサを立てていただけるようになりました.日本のカトリックの歴史のなかで初めてのできごとです.主の恵みに感謝します.そして,御協力くださる神父様がたに感謝します.LGBT 特別ミサは,来月からも継続されて行きます.LGBTIQ+ の人々が各人の所属する小教区の御ミサに何の気がねもなく参加することができるようになるときまで.

世界的には,先月までの12ヶ月間は慈しみの特別聖年でした.それによって教皇 Francesco は,このことを強調しました:キリスト教の根本は,律法に存するのではなく,愛に存する.誰をも排除せず,あらゆる人を包容する神の愛です.

神の律法に準拠する司牧が,律法の普遍性にこだわるあまり,例外的少数者を排斥し,差別することになるのに対して,神の愛を実践する司牧は,わたしたちひとりひとりに寄り添い,各人を個別的に導いてくれます.神の愛へ心を開く人は,誰もが救済されます.

聖パウロが強調しているとおりです : 「すなわち,愛は,律法の完成である」(Rm 13,10).

いまだに聖書の文言の断片を以て性的少数者を断罪する者たちは,このことがわかっていないのです:「イェス・キリストにおいて命を与える霊気の律法は,罪と死をもたらす律法からわたしを解放してくれた」(Rm 8,2) ; 「キリストは,わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった」(Ga 3,13).

また,4月には教皇 Francesco は,使徒的勧告 Amoris laetitia [愛の喜び]を発表し,インタヴューにおいてだけでなく,公式文書において初めて,性的少数者を積極的に包容する司牧的配慮を明確に打ち出しました.

残念ながら,教皇 Francesco は,同性カップルに結婚の秘跡を授けることを容認するところまでは踏み込みませんでした.しかし,それを以て彼が十分に liberal でないと非難することはできません.彼は,教会の分裂を招かないよう慎重であるだけです.実際,同性婚法制化をめぐっては,幾つもの国々で世論は賛否に二分され,激しい対立が起きています.ですから,律法にこだわらないでおきましょう.異性カップルであれ同性カップルであれ,ふたりの人間が誠実に互いを愛し合うとき,それは神の愛の徴です.神は,慈しみ深く,ふたりを祝福してくださいます.それこそが,本当の結婚の秘跡です.

いわゆる gender theory に対する教皇 Francesco の批判は,LGBT 活動家たちから,性的少数者の問題に関する無理解として非難されました.しかし,それも当たっていません.教皇が言いたいのは,このことです : sexuality は,神による創造の賜であって,社会学的な人為産物ではない.

議論の混乱を避けるためには,わたしたちは性別について三つの概念を区別しなければなりません.ひとつは,生物学的な sex ; ふたつめに,社会学的な gender ; そして第三に,ontological sexuation [存在論的な性別化].この第三の性別こそが,神による創造の賜です.それは,生物学にも社会学にも還元され得ません.性的少数者に関して性別を論ずるとき,とりわけ transgender の問題を論ずるときは,わたしたちは,ontological sexuation の概念に準拠しなければなりません.それは,性に関して心身二元論を超克するための唯一の道です.

先日 80 歳のお誕生日を迎えたパパ様が,これからも笑顔で元気にカトリック教会を全包容的な神の愛の完成へ導き続けることができますように!

最後に,sexuality の問題は,女性や性的少数者の人権の問題であるにとどまりません.女性と性的少数者に対する差別を克服するための社会活動と性理論によって,このことが明らかになってきました:人間が神の愛に対して心を閉ざす悪へ陥ってしまう理由は,男性中心主義 [ androcentrism, male chauvinism ] に存する.そして,男性中心主義を動機づけているのは,家父長主義 [ patriarchalism ] であり,さらにそれを動機づけているのは,phallofascism です.

性的少数者を擁護する活動は,フェミニズムとの連帯において,男性中心的な日本社会の構造を変革する可能性を追求して行きます.そして,その際,わたしたちを導いてくれるのは,神の愛です.

また,資本主義と科学技術による支配のもとで,日本社会も世界も,人間の尊厳がますますないがしろにされる方向へ向かって行きつつあります.そのような動向に対する最も有効な批判を可能にしてくれるのも,神の愛です.

喜ばしき御降誕祭と幸多き新年を皆様とともにお祈りいたします.

神の愛の恵みがますます豊かに皆様とともにありますように!

LGBTCJ 共同代表
ルカ小笠原晋也

2016年12月24日

主の御降誕おめでとうございます ‒ ペトロ宮野亨より

主の御降誕おめでとうございます!

主の御降誕に心からの感謝を捧げ,皆様と一緒にお祝いします!

わたしはこの数年,聖体拝領で,ひとつの「気持ちと心」を味わえるように,神に願い続けています.それは,御聖体の形にまでなって,わたしの中に入ってきてくださる主イエスの「気持ちと心」です.

これだけを噛みしめて味わいます.

これにより深まるわたしの中身は,「神を愛する気持ちや心もすべて神からいただいているから,神を愛せる.自分の力ではない.わたしはただの器」という実感です.

わたしは神に愛されているから,神を愛する「愛」や人を愛する「愛」を神はすべて常に下さっている,と実感しています.

では,クリスマスでは,どうでしょうか.赤ちゃんにまでなって,わたしたちに現れてくださった主イエスの「気持ちと心」は,例えばどんなでしょうか?

非暴力,無抵抗,堕胎拒否,LGBT 賛美,命そのもの... この他にも沢山あるでしょう.

わたしが最も感謝しているのは,「親が赤ちゃんに捧げる無償の愛を,三位一体の御交りは天国から見ていて,羨ましくなって,赤ちゃんになってその愛を実感したかった」という恵みです.人に愛される実感を神が感じたがっているという恵みです.

この他には,聖マリアは,わたしたちと同じ質素なありふれた女性です.特別ではない普通の人間に,神は御計画を打ち明けています.それも,聖堂の中ではなくて,マリアが家でくつろいでいるときに,神は,その日常生活のなかに来て,愛を打ち明けます.

自宅のなかに神がドアを開けて入ってくる情景は,わたしの心の扉を神が開けて,わたしの部屋に入ってきてくださる情景と一致します.

ある神父様は,「神を,生活の場や日常の些細な出来事のなかに感じないならば、それは単に神を理性で捉えているだけで、まだ命の神と出逢い触れ合っていない」と言っています.

アビラの聖テレサは「神は台所の鍋のなかにもおられる」とわたしたちに諭しています.「罪に較べて無限に偉大な神の愛を,いつも感じて,頼りましょう」と言っています.

わたしがスゴイなと感じるマリア様は,「何故,そのご計画がわたしなんですか?」と素直に本質的な質問を神にしています.神にいつも尋ねて答えや恵みをいただく信徒の姿を,わたしたちに教えてくれます.

神は,わたしが常に問いかける存在です.「何故わたしは○○○なんですか?」と問いかけます.

御復活祭前後に過越の神秘を祈るとき,わたしの問いに答えて,主はいつもメッセージをくださいます:「わたしはあなたのために死んだ.わたしに従いないなさい」と.

クリスマスのときのわたしへの答えは,「わたしはあなたのために生まれた.わたしに従いなさい」です.

三位一体の御交りとの交りを感じるクリスマスでありますよう,皆様のため,心から祈ります.

皆様に感謝をこめて,

LGBTCJ 共同代表
ペトロ宮野亨

2016年12月24日

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

アジアで最も LGBT friendly な国のひとつと言われている台湾で,同性婚法制化法案が議論され,世論は賛否半々に二分されています.

Tsai Ingwen(蔡英文)総統は,同性婚法制化に賛成する若い世代の支持を受けて2016年 1 月に選出され,5月に就任しましたが,保守派の反発を恐れて,この問題に関する態度を明確にしていません.

台湾で同性婚法制化が急に政治課題となったきっかけは,或る自殺でした.国立台湾大学のフランス文学教授 Jacques Picoux は,約40年間連れ添った同性パートナー Tseng Chingchao が癌で亡くなる際に,医療に関する意志決定にも死後の遺産相続にも関与することができず,今年10月,自殺しました.この痛ましい事件が,同性婚法制化の動きを急加速させることになりました.しかし,それに対する反発も引き起こすことになりました.

台湾でキリスト教徒の数は総人口の約 4.5 % であり,カトリックとプロテスタントが半々です.キリスト教は,少数派ではありながら,クリスチャンである政治家や知識人の存在のため,社会的影響力を持っていると言われています.

台湾のカトリック司教たちは同性婚法制化に反対の意見を表明していますが,若いカトリック信徒のなかには賛成する人々が多いようです.

わたしたちも,亡くなった Tseng Chingchao と Jacques Picoux のために祈りましょう.また,台湾の人々が神の愛のもとに対立を乗り越え,少数者の権利を尊重する全包容的な社会を築いて行けるよう祈りましょう.

ところで,同性婚法制化をめぐる社会対立の激化のなかで,我々の友人 Frank Wangさんは,12月04日付の Taipei Times にすばらしい意見記事を発表しています.是非日本の皆さんにも読んでほしいと思い,邦訳しました.翻訳を快く承諾してくれた Frank Wang さんに感謝します.

なお,Taipei Times は表題を "Catholics must accept gay marriage"[カトリック信者たちは同性婚を容認せねばならない]としていますが,これは執筆者の意図どおりではありません.Frank Wang さんが付けた原題は "In Love We Have No Fear"[愛において我々は何も恐れない]です.

Taipei Times, 2016年12月04日付記事

愛において我々は何も恐れない

執筆者 : Frank Wang(王增勇,国立政治大学ソーシャルワーク研究所副教授)

同性婚は,カトリック教会内で賛否が両極端に分かれる問題である.わたしは,この論戦に巻き込まれたカトリック教会の一世俗信徒として,「怒りのせいで愛を忘れたカトリック信者」にはなるまいと努めている.

神は,我々を皆,愛しており,誰をも遠ざけようと思ってはおられない.各人の人生は,ちょうど聖書のようである:我々は皆,神から霊気を受けている.

それは,「我々は,聖書を武器にして,真理と理性を独占しており,我々だけが人々すべてに対して審判をくだすことができる」という意味ではない.もし心が愛に満ちていないなら,言葉は虚ろに響くだけだ.したがって,重要なのは,神の命令:「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」に従って,同性婚問題を再検討することである.

神は,わたしを同性愛者として創造なさった.しかしそれは,神がわたしを他の人々より愛していないという意味ではない.それどころか,わたしが同性愛者であるということは,わたしに与えられた最大の祝福である.

わたしは,カトリック信仰のせいで同性愛者である自分を嫌悪する,ということにはならなかった;むしろ,神の無条件な愛によって,わたしは,あるがままの自分を受け入れる勇気を与えられた.

わたしも最初は自分を受け入れることができなかった.同性愛者であるせいで,大切に思っているものすべてを失ってしまうことになるのではないかと恐れていたからだ.しかし,神の愛は,恐れることはない,とわたしに教えてくださった.

同性婚問題を論ずるとき,カトリック信者は,「愛するとき,怖いものは何も無い」という根本的な論点に準拠すべきである.

多数のカトリック信者が同性婚に反対する潜在的な理由は,内在的な不安感である.社会秩序が失われてしまうのではないか,子どもたちに悪影響があるのではないか,今まで慣れ親しんできた世界がなくなってしまうのではないか,という恐れである.

しかし,信仰は我々にこう教えている:他者の苦しみに目をつぶることはできない,なぜなら,十字架上でイェスはたいへん苦しまれたから.今日,同性愛者たちが苦しんでいるのを見るとき,我々は,イェスの苦しみを思い出すべきである.少数者たちが犠牲にされるのは,「彼らは我々とは違う」という思いが不安にさせるからだ.この不安感が自身の内にあることを認めることによってのみ,我々は,神の愛を実践することができる.

教皇フランシスコは既に,同性愛者たちに対するカトリック教会の従来のふるまいについて謝罪した.

同性愛についてわたし自身が以前に感じていた不安を,ここで分かち合いたい.わたしは常々こう懸念していた:もしわたしが同性愛者なら,両親はとても悲しむだろう,特にわたしは一人息子だから.

また,こうも懸念していた:友人たちはわたしから離れて行くだろう,わたしが「不道徳」で「ふしだら」なことをしているという理由で.わたしは,そうしたいと思っても,隣人を助ける仕事に身が入らなかった.同性愛者から助けてもらいたいと思うような人は誰もいないだろうから.

そのような自己否定をしている間,わたしは,異性愛の関係を持とうと試みた.しかし,自分自身に誠実ではなかったので,当時のガールフレンドに与えることができた感動もニセモノにすぎなかった.彼女に近しくあろうとしても,わたしは躊躇してしまい,彼女にわたしのすべてを与えることができなかった.ふたりの関係は,わたしたち双方を傷つけて終わった.今に至るまでなおも,わたしはそのことを恥ずかしく感じている.

わたしは,神によって同性愛を「直して」もらおうとした.しかし,祈りにおいて,わたしは,神がわたしを受け入れてくださり,愛してくださっていると感ずることができた.ついに,わたしは,不安のうちに生き続けることをやめた.自身と他者を欺く生活は二度としない,と誓った.

もし仮に「神は異性愛夫婦の愛にしか祝福を与えない」と信じていたなら,わたしは多分,もう既に異性と結婚していただろう.しかし,わたしも妻も,性的な欲望を満たすことができず,きっと後悔と自責の念を抱き,その苦痛の重荷を相手に背負わせることで終わっていただろう.そのような不幸な結婚生活のなかで育つ子どもが,どうして健康なおとなになり得るだろうか?

教皇は最近,人々に警告した:「敵意の伝染病」に毒されることのないように,そして,憎悪をあおるレッテル貼りをしないように,と.同性婚に関する論争によって,多くのカトリック信者がやるせない気持ちになっている.分裂によって不安が撒き散らされ,対立が生み出されたからだ.互いに愛し合うかわりに,キリスト教徒たちは,憎しみにより分裂してしまっている.

わたしは,カトリックの兄弟姉妹たちに言いたい:あなたたちが今感じている不安を,わたしもかつて感じていた.しかし,同性婚を許容することによって,あなたたちは,次世代がより良く互いに愛し合うのを学ぶことを可能にするだろう.同性婚を認めても,次世代が同性愛の世代になるわけではない.

同性愛者たちは,異性愛者の世界のなかで,自分は人間だと感ずる資格が認められるだろうという希望を持つことができない:それが,同性愛者の感ずる最大の苦痛である.どうか,わたしたちが神の愛へ立ち戻れるようにしてほしい.どうか,神を手本にして,学んでほしい,誰をも遠ざけず,他者に希望を与え,同性愛者に愛を与えることを.そして,同性愛者に知らせてほしい,彼ら・彼女らの愛も神に祝福されている,ということを.

2016年12月20日

日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』改訂版に LGBT について書いてくださる Masiá 神父様へ,性的少数者の意見や要望を伝えましょう

2001年に日本カトリック司教団メッセージ:『いのちへのまなざし』が出版されました.


その内容は:

第一章:聖書からのメッセージ

第二章:揺らぐ家族
1. 夫婦について
2. 性と生殖,そして家庭
3. 親子について
4. 高齢化社会を迎えて

第三章:生と死をめぐる諸問題
1. 出生前診断と障害者
2. 自殺について
3. 安楽死について
4. 死刑について
5. 命科学の進歩と限界
6. 脳死と臓器移植
7. ヒト胚の研究利用,人間のクローン,遺伝子治療
8. 環境問題

つまり,21世紀における生命倫理の諸問題に関するカトリック教会の考え方が述べられています.この本は,カトリック系の学校で副読本としても用いられていました.

しかし,今年で出版から15年が過ぎ,内容が部分的に社会の現状から遅れたものになってしまったので,現在,改訂版の準備が進められています.

特に,初版ではまったく扱われなかった性的少数者の問題が,今度は取り上げられることになっています.その執筆は,Juan Masiá 神父様 SJ が担当なさる予定です.

Masiá 神父様が司式してくださる12月18日の LGBT 特別ミサの後の集いでは,新たな『いのちへのまなざし』に性的少数者についてどのような内容を盛り込んで欲しいかに関する皆さんの御意見や御要望を,神父様に聴いていただきたいと思っています.

御ミサにいらっしゃる方は,その場で直接,神父様にお話ください.

いらっしゃれない方は,わたしたち LGBTCJ 宛てに,お考えをお知らせください.わたしたちが神父様へお伝えします.

2016年12月13日

2016年12月の LGBT 特別ミサのお知らせ

2016年12月の第6回 LGBT 特別ミサについてお知らせします:

日時 : 12月18日(日曜日)13:30 - 14:30

場所:都内(参加申込の方にのみお知らせします)

司式 : Juan Masiá(ホァン・マシア)神父様 SJ


マシア神父様は,周知のとおり,長年,上智大学や Comillas 教皇庁立大学で,人間学や生命倫理の教授をなさってきました.

避妊や妊娠中絶に関して,保守派のように一律に律法をふりかざすのではなく,教皇 Francesco と同様,苦悩をかかえた人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添い,ともに歩んで行くことを重んじていらっしゃいます.

今は,カトリック中央協議会の「正義と平和」協議会の「死刑廃止を求める」部会の長として,死刑廃止運動に積極的に取り組んでいらっしゃいます.

性的少数者の人々の苦悩に関しても御理解のあることは,言うまでもありません.

マシア神父様が LGBTIQ+ の皆さんとともに立ててくださる御ミサに,是非お出でください.

ミサ後の集いでは,マシア神父様を囲んで,性的少数者をカトリック教会へより良く包容するために何が必要とされているかを,LGBTIQ+ の皆さんとともに考えて行きたいと思います.

また,特に,現在改訂作業が進められている司教団メッセージ冊子『いのちへのまなざし』の新版において性的少数者に関する部分をマシア神父様が執筆なさる予定ですので,この機会に是非,その内容に関する皆さんの御要望を神父様にお伝えください.

参加申込は こちら から.

2016年11月29日

教皇 Francesco による「六つの幸福」

周知のように,​2016年11月01日,Malmö の Swedenbank Stadion における​御​ミサの説教​で,​教皇 Francesco ​は「六つの幸福」​を公式化しました.「カトリック新聞」による翻訳にあまり正確でない部分もあるので,改めて御紹介します.LGBTCJ の活動も,「六つの幸福」の精神に則って続けて行きたいと思います.

Beati coloro che sopportano con fede i mali che altri infliggono loro e perdonano di cuore ;
幸いなり,他者が加えてくる苦痛に信仰を以て耐え,こころの底から赦すことのできる者らは;

beati coloro che guardano negli occhi gli scartati e gli emarginati mostrando loro vicinanza ;
幸いなり,社会から拒絶され,辺縁に追いやられている者たちの目を見つめ,彼ら彼女らに近しさを表明する者らは;

beati coloro che riconoscono Dio in ogni persona e lottano perché anche altri lo scoprano ;
幸いなり,あらゆる人のなかに神を認め,かつ,そのことをほかの人々も気づくよう努める者らは;

beati coloro che proteggono e curano la casa comune ;
幸いなり,全人類の共同の家である地球のエコロジーを守り,救う者らは;

beati coloro che rinunciano al proprio benessere per il bene degli altri ;
幸いなり,他者のために自身の安穏を断念する者らは;

beati coloro che pregano e lavorano per la piena comunione dei cristiani.
幸いなり,キリスト者たちどうしが十全に交わることができるよう,祈り,働く者らは.

Tutti costoro sono portatori della misericordia e della tenerezza di Dio, e certamente riceveranno da Lui la ricompensa meritata.
それらの者は皆,神の慈しみと優しさを担う者であり,確実に,神によってふさわしく報われる​だろう.

2016年11月29日

2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での教皇 Francesco の説教:慈しみと包容

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.God's love excludes nobody, but includes everybody.

この命題は,わたしたち LGBTCJ の旗印です.

以下に御紹介する説教において,教皇 Francesco は,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しています.性的少数者のことを直接には話題にしていませんが,包容の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化しています.

なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけますが,わたしたちは以前から「包容」と訳しています.

慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容 [ inclusion ] です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,キリストにおいて,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,キリストのからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,キリストのからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活したキリストの大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,キリストの抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.

2016年11月21日

トランスジェンダー追悼記念日

11月20日は Transgender Day of Remembrance(トランスジェンダー追悼記念日)です.

トランスジェンダー追悼記念日は,1998年に憎悪犯罪で殺害されたと推定されているアメリカのトランスジェンダー女性 Rita Hester (1963-1988) を追悼し,トランスジェンダーに対する憎悪犯罪に抗議するために,1999年に創始されました.

LGBT のなかでも,男性から女性へ性別を変更した人々は,phallofascist な男たちからの暴力の被害者となる危険性が高く,報告されているだけで2016年は現在までに世界で計26人が命を奪われています.その陰には,報告されないまま憎悪犯罪により落命した幾人もの transgender 女性がいると推定されています.

sexuality を理由とする憎悪犯罪の被害者すべてのために祈りましょう.彼ら彼女らの涙を主がぬぐってくださいますように!神の愛によって,あらゆる憎悪が全世界から一掃されますように!

2016年11月20日

教皇 Francesco は言った:司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い

教皇 Francesco は言った:司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い

2016年10月30日,James Martin 神父 SJ に対するアメリカの LGBT カトリック団体 New Ways Ministry による Bridge Building Award[架け橋賞]授賞式の際に,教皇 Francesco の元教え子 Yayo Grassi 氏(68歳)は,教皇が彼にこう言ったと証言しました:

「司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い」.

Yayo Grassi 氏は高校生時代,教職に就いていたイエズス会士 Bergoglio 神父の教え子のひとりでした.Grassi 氏が同性愛者であることを,Bergoglio 神父は当時から承知していました.ふたりの友情関係はその後もずっと続いており,2015年9月の教皇訪米の際には,教皇は,Washington DC の Vatican 大使館に Grassi 氏とその同性パートナーを迎え,個人的に会談しています.

2010年にアルゼンチンで同性婚が法制化された際,Grassi 氏は,ブエノスアイレス大司教 Bergoglio 枢機卿が修道女たち宛ての書簡のなかで同性婚を厳しく非難していると報道されているのを見て,驚きました.彼の知る Jorge Bergoglio は,そのようなことをする人ではなかったからです.そこで彼は,e-mail で,恩師に真意を問いただしました.それに対して Bergoglio 大司教は,Grassi 氏の表現によると,こう返答しました:

「わたしを信じてください.報道されているようなことをわたしは全然言っていません.わたしは,修道女たちに宛てた二通の手紙で,同性婚について何も意見表明をしないようにと彼女たちに要請しました.そこでわたしが述べた言葉を歪曲して,新聞は報道したのです」;「わたしを信じてください.司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所はありません」.

教皇 Francesco の個人的な発言に関する Grassi 氏の以上の証言は,最近の LGBT friendly な教皇の発言とも整合的であり,作り話と疑う理由はありません.

むしろ,今年5月にイタリアで同性カップルの civil union が法制化されるに至る過程で同性婚反対派により幾度か引用された「2010年に Bergoglio 大司教は同性婚を非難していた」という話の真相が,このたびの Grassi 氏の証言により明らかになりました.

2016年11月06日

わたしたちの活動の公式名称を LGBTCJ とします

わたしたちは,2015年夏の活動開始以来,LGBT カトリック・ジャパン (LGBT Catholic Japan) という名称を用いてきましたが,今月(2016年11月)からは,LGBTCJ を公式名称とすることにしました.

活動の趣旨や内容は,今までどおりです.

今後も,よろしくお願い申し上げます.

2016年11月04日

晴佐久昌英神父様の2016年10月23日の LGBT 特別ミサにおける説教

晴佐久昌英神父様の2016年10月23日の LGBT 特別ミサにおける説教

(前日,10月22日は,晴佐久神父様の59歳の誕生日でした).

(...)[わたしが]小学校1年になったときには,神父が我が家にやってきて,「もう1年生になったんだから侍者をやってもらう.ラテン語を覚えてください」.そうして,[神父が]我が家に通ってきては,[わたしは]ラテン語をたたき込まれた.「« dominus vobiscum » と言ったら,« et cum spiritu tuo » と答えるんですよ」.そう教わって,小学校1年生,ただただラテン語を覚えた.

あれはほとんど虐待というか洗脳というか... しかし,それは何と甘美な洗脳であり,何と聖なる虐待だったか.わたしは,そのおかげでカトリックの信仰をたたき込まれ,やがて神父にもなり,ミサに仕えて一生をささげたいと,そう願って今日も生きております.(...)

わたし,昨日59歳になりました.(拍手)ありがとうございます.

59年.おやじが,ぼくが神学校に入る前の年,50歳で死んだとき,自分も50歳まで生きられるだろうかと思った.

「神様,もし生きることができるとしたら,後は,父さんができなかった分まで代わりにぼくが働く」と,そう神様に約束した.おやじにもそう言った.もう死ぬ数週間前,「ぼくは来年神学校に入るから,父さんも頑張って」.

おやじはぼろぼろ泣いて,うれし涙かと思ったら,悔しいって泣いた.もうそれはわたし,すぐにわかった.息子が神父になった姿を自分はもう見ることができない,その悔しさですね.もう彼は死ぬことを知っておりました.

だから,わたしは言った.「自分が神父になったら父さんのおかげだ,父さんの分まで頑張る,約束する」と,そう申し上げた.その約束は決して揺るがすことはできない.(...)

わたしは,もう小さなころから注意欠陥障害を抱えておりましたし,おちついていることができない.いつも思ったことを好きなようにやってしまう.自制心がない.うろちょろうろちょろ遊び歩いていて,いつも叱られていた.(...)

わたしは,[或る教会付属の]聖ペトロ幼稚園の出身です.(...) 父はわたしにペトロという霊名をつけた.

教室にいない子供で,いつも先生に心配をかけておりましたが,わたしは幼稚園,楽園のように覚えております,楽しかった.先生たちが忍耐し,みんなが受け入れてくれて,それでわたしは自尊心を失うことなく,こんなふうにおっちょこちょいで失敗ばかりで,どうしようもない自分だということを知りながらも,「それでもいいんだ」という自分の信仰の原点は,そこで学びました.

みんな,わたしを受け入れてくれた.教会の人たち,特に両親.ミサの途中もおちつかないで,それでも精いっぱいじっとして,しんとした気持ちでお祈りしておりましたけれども.

悪餓鬼というんですか – 急に思い出しました – 友達と,いただいた御聖体を口の中でどれだけ溶かさずに持っていられるか,そういう競争をした.口でいただいたでしょう,舌の先に載せられたのを口の中で浮かしたままずーっと保って,ミサが終わった後,聖堂の外でせーのでみんなでべーっと出して,誰のが一番丸く残っているか.これも叱られたね,何をやっているんだ,と.

でも,楽しいこと,おもしろいこと,いっぱいあった教会.悪餓鬼でしたし,おっちょこちょいでしたし,でも,みんな受け入れてくれた.

わたしにとって教会は,どんな自分でも受け入れてもらえるという天国でありました.両親がそのような両親でしたし,教会がそのような教会でしたし.

神父になって,もう 30 年になるんですね.わたしはひたすら,「どんなあなたでも大丈夫だ,神様はあなたを愛している,神様はあなたに何も求めていない,あなたがいるだけでうれしいんだ,なぜなら神はあなたを望んで生んだからだ」と,そう福音を語り続けてまいりました.どこに行っても福音を語ってきた.

今週だって講演会,四つあったんですよ.火曜日,四谷,水曜日,竹橋,福岡市,金曜日だ.昨日土曜日は鎌倉.それぞれ切り口は違えど,どこに行ってもわたしは福音を語り続けてきた.

あなたを望んで生んだのは神だ,あなたの原点は神の内にある,あなたがどういうあなたであろうとも,何をしていようともいなくとも,あなたがどこにいようとも,いつになっても,あなたの原点は神の内にある.何も恐れることはない,あなた自身が神の喜びであり,神の親心の内に永遠なる命をいただいていて,やがてほんとうのあなたとして神の内に生まれていくんだ.ただただその神様にのみ信頼して,「こんなわたしを愛してくれている神様,ほんとうにありがとうございます,すべてをあなたに委ねます」と,そう祈って生きていく.何とすばらしい人生.

わたしはその福音をどこに行っても語り続けてまいりましたが,その原点は[子供時代の教会に]あります.カトリック教会.誰をも受け入れて,みんなが,「わたしがここにいることはすばらしい」と言える,そんなキリストの教会が,確かにありました.わたしはそこで育てられました.

父に約束したとおり,父がやりたかったこと,「我が家が教会だ」と言い続けて,みんなを集め続けて,みんなに純粋に大盤振る舞いをし続けた父.ただただもてなし続けて50歳で死んでいった父の後を継ぐのはわたしだと,そんな思いで今も教会のことをしております.

昨日,鎌倉でやった講演会は,精神障碍者のグループの講演会で,福音を語りました.

ひとりの方が,そのことがすごくうれしかったらしく,お昼のお弁当の後でわたしのところに来て,「自分は統合失調で長く苦しんできたけれども,その苦しみはほんとうに大変でしたけれども,今日この話が聞けて良かった」,そう言ってくれた.わたしは福音を語って良かったなとすごくうれしく思いました.その後でまた講話をして,午後帰る前のときに,彼は立って,みんなに証しをしました.「自分はほんとうに長い間苦しんできたけれども,病気になったおかげで信仰に出会い,洗礼を受けることができた,病気になったおかげでこの会にも加わり,今日もこの福音を聞くことができた,病気になったおかげで晴佐久神父さんに出会って,今日はほんとうに自分がどれほど幸せかということを感じた,わたしは病気になってほんとうに良かったと思います」と,そうおっしゃった.

わたしは,そのような言葉を聞けただけで,昨日ちょうど誕生日でありましたが,最高のプレゼントをもらった気持ちになりました.

永遠なる神様が,全能の神様が,すべての我が子を天地創造の始めから,どうしてもいてほしいと望んで生み,愛して育てて,今日もここに集め,こうしてわたしたちをひとつにしてくださっていること,この事実を前に,もう語る言葉もないとわたしは感動いたします.

59年前の10月22日,わたしもこの世にオギャーと生まれてまいりました.それはわたしの原点です.それは,神の望みによるという原点です.

神の望みにわたしは,何ひとつ付け加えることも,差し引くこともしたくない.このわたしが神の喜びであるという,その確信を持って,これからも福音を語り続けてまいりましょう.

目を天に上げようともせず,胸を打ちながら祈ったひとりの徴税人,その心はどれほど平和か.「神様がこのわたしを愛している,この罪人を赦してくださっている,神様がこのわたしをつくり,神様が今ここに,このわたしを生かしてくださっている.天の父よ,あなたにすべてを委ねます,どうかこの弱いわたしをあわれんでください,あなたのあわれみの中でわたしは生きてまいります」.そう祈る徴税人の心は平和です,恐れがない.信頼と希望.聖なるミサです.

わたしたちひとりひとり,自分の胸に手を当てて,「主よ,あわれみたまえ」と祈ります.でも,そのとき,神様はほんとうに喜ばれる.

「義とされて家に帰ったのはこの人だ」とイェス様はおっしゃいました.義とされる,神様の思いにかなって,神様の喜びとなり,「ああ,ほんとうにこの子を生んで良かった」と神様が思う瞬間.

「天の父よ,こんなわたしをあわれんでください,わたしはあなたの子供です,あなたにすべてを委ねます」と,そう祈るとき,神様は喜ばれる.

聖なるミサにおいてわたしたちが最も為すべきことは,今ここで神がこのわたしを喜びとしてくださっていると信じて,安らぐことです.

皆さんもいろいろな思いを抱えておられるでしょうが,病気になって良かった,障害を抱えて良かった,罪人で良かった,こんなわたしで良かった,あんな失敗をして良かった,みんなから責められてほんとうに良かった – なぜなら,あなたのみもとで「主よ,あわれみたまえ」と祈れるから.「天の父よ,このわたしを – 感謝します」と,そう祈ります.

2016年10月29日

SpiritDay – 性的少数者である子どもたちに対するいじめをやめさせるために

SpiritDay – 性的少数者である子どもたちに対するいじめをやめさせるために

思春期は誰にとっても多かれ少なかれ人生の苦悩の時期ですが,特に性的少数者にとっては,思春期に sexuality の問題がよりいっそう深刻になります.transgender の人々は,思春期よりずっと前から,言葉を話し始める満 1, 2 歳の幼児期から,自身の生物学的性別とは異なる性別を生きていることによる違和感に悩まされますが,やはり二次性徴が身体に現れてくる思春期に違和感はさらに強まります.

そして,性的少数者のうち少なからぬ人々が,学校などにおける偏見といじめに苦しめられます.その問題は,今年の 1 月に NHK の或る番組でも取り上げられました.そこで紹介されている2014年に行われた或る調査の結果は次のとおりです:


深刻に受けとめるべき調査結果です.

全体主義的な傾向の強い日本社会は特に,何らかの意味で少数者である人々に対してあらゆる状況で排除的であり,性的少数者にとっても非常に生きづらい社会です.

USA では,1970年代以来,さまざまな LGBT 人権擁護運動が展開されています.

特に,1985年に設立された GLAAD(Gay and Lesbian Alliance Agaist Defamation の頭文字であったが,今は団体の正式名称)という NPO は,2010年以来,毎年10月の第三木曜日を SpiritDay と名づけて,性的少数者である子どもたちに対する学校などにおけるいじめをやめさせるためのキャンペーンを行っています.

今年は,10月20日がその SpiritDay です.日本でも是非広げて行きたい運動です.Spirit Day という表現は,そのままでは日本語に訳しにくいので,何か良い名称を考える必要があるでしょうが.

現在,日本の政治は右傾化しつつあると言われていますが,日本社会の全体主義的な体質は,戦前は言うに及ばず,1945年以降も一貫しており,何ら改善されていません.そのような日本人の心性を変えて行くための第一歩は,何らかの意味で少数者である人々すべての存在の尊厳を尊重することです.

わたしたち LGBTCJ としては,特に,カトリック信仰を標榜する初等中等教育の学校における性的少数者いじめの問題が解消されるよう,積極的に活動して行きたいと思います.

神の愛において

ルカ小笠原晋也


付録:教皇 Francesco が2016年4月に発表した使徒的勧告 Amoris laetitia(愛の喜び)の第250段落:

主イェスは,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主イェスの態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て – 「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム 2358 段落)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.

2016年10月19日

聖霊に対する冒瀆は赦されない – 兄弟を傷つけておきながら,謝罪も和解も拒み続ける或る人物について

聖霊に対する冒瀆は赦されない – 兄弟を傷つけておきながら,謝罪も和解も拒み続ける或る人物について

『カトリック教会のカテキズム』 1864 段落において,マタイ福音書 12,31 におけるイェス様の言葉の引用とともに,こう述べられています:

「あらゆる罪や冒瀆は赦される.しかし,聖霊に対する冒瀆は赦されない」(Mt 12,31). 神の慈しみは無限である.しかし,神の慈しみを悔悛によって受け入れることを敢えて拒むなら,それは,自身の罪の赦しと聖霊が差し出す救済とを拒むことである.さような頑なさは,臨終の不悔悛と永遠の滅びへ至り得る.

つまり,「聖霊に対する冒瀆」とは,神の愛の恵みを拒むことです.そしてそれは,隣人愛をないがしろにすることを包含しています.

なぜなら,「わたしは神を愛していると言いながらも兄弟を憎む者は,嘘言者である.実際,目に見えている自身の兄弟を愛さない者は,目に見えない神を愛することはできない」(1 Jn 4,20-21) からであり,かつ,「イェスはキリストであると信ずる者は,神から生まれたのであり,そして,生んでくださった神を愛する者は誰しも,神から生まれた[ほかの]者をも愛する」(ibid., 5,1) からです.神を愛することと隣人愛とは相互に等価的です.

ですから,イェス様はわたしたちにこう勧めています (Mt 5,23-24) :

かくして,祭壇に献げものをしに行くときに,兄弟とあなたとが何ごとかで対立していることを思い出したなら,献げものを祭壇の前に放置して,まずは兄弟と和解しに行きなさい.次いで,捧げものをしに戻って来なさい.

もし和解を拒むなら? イェス様は譬えを用いて次のように答えています (Mt 22,11-13) :

王は,息子の婚宴に招かれた人々を見るためにやってくると,礼服を着ていない者に気づいた.王は彼に言った:「我が友よ,どうして礼服を着ずに来たのだね?」 その者は黙ったままであった.そこで王は仕える者たちに言った:「その者を,手足を縛って,外の暗闇へ放り出せ: そこで泣いて歯ぎしりするしかあるまい」.

実際,『カトリック教会のカテキズム』 1861 段落でもこう述べられています:

愛がそうであるのと同様に,大罪も,人間の自由のひとつの根源的な可能性である.大罪は,愛の喪失と,聖なるものとする恵み – すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] – の剥奪とをもたらす.悔悛と神の赦しとによって贖われなければ,大罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを惹起する.我々の自由は,取り返しのつかない決定的な選択を成す能力を有しているのである.

そして,『カテキズム』 1415段落ではこう規定されています:

聖体拝領においてキリストのからだを受けたい者は,恵みの状態 [ status gratiae ] にあるのでなければならない.大罪を犯したことを意識している者は,あらかじめ悔悛の秘跡において赦しを受けていなければ,感謝の祭儀に与ってはならない.

つまり,隣人愛をないがしろにしながら和解しようとしない者は,恵みの状態を剥奪されているのですから,御ミサに与ることはできません.

さて,去る 7月17日,第一回 LGBT 特別ミサの後に行われた分かち合いの集いにおいて,或る人物が同席の兄弟のひとりを心ない言葉でひどく傷つけました.その場にいたほかの者たち皆が,その事件の証人となるでしょう.

傷つけられた人は,口論することなく,すぐさまその場から立ち去りました.LGBT カトリック・ジャパンの共同代表のひとり,宮野亨氏が会場の玄関口で彼に必死で謝り,そして,わたしの妻が最寄りの駅まで彼に付き添いました.

ところが,その人を傷つけた心ない人物は,何の反省の色も謝罪の態度も示しませんでした.

司会役をしていたわたしは,集いの雰囲気をそれ以上悪化させないために,その場で彼を戒めることはせず,数日後に,誠意を以て謝罪と和解の態度を被害者に対して示すよう彼に勧告しました.しかし,彼は応じようとしませんでした.

問題の人物は,この幾年来,ほかの幾つものグループにおいて同様のトラブルを起こしてきており,その都度,何の謝罪も和解もしようとしないので,それらのグループすべてから排除処分を受けてきています.そのなかには,或るプロテスタント共同体も含まれます.

本年 4月,Tokyo Rainbow Pride 2016 の数週間前,問題の人物は, LGBT カトリック・ジャパンの Facebook ページに,そのプロテスタント共同体を主宰する牧師に対する攻撃的な言葉を書き込みました.わたしは彼にキリスト者にとっての和解の重要性を指摘し,その牧師との和解を勧めました.すると彼は,わたしの勧めを拒否したばかりか,わたしに対する逆恨みの言辞を LGBT カトリック・ジャパンの Facebook ページに書き込み始めました.結局彼は,Tokyo Rainbow Pride の LGBT カトリック・ジャパンの出店にも姿を現しませんでした.

LGBT 特別ミサは,保守的な人々により妨害されることのないよう,非公開となっており,参加希望者は必ず事前の申込をするよう公示してありました.ところが,問題の人物は,幾人かの知人とともに,7月17日のミサに,申込無しでやってきました.いずれも顔見知りではあったので,わたしも宮野亨氏も彼ら・彼女らを拒絶せず,むしろ歓迎の態度を示しました.ところが,その結果が上述の事態です.我々の彼ら・彼女らに対する受容的な対応のせいで,初めて出会った兄弟のひとりがひどく傷つけられることになってしまいました.

この心ない人物は以前,「今までにも幾つものグループをつぶしてきた」と豪語していました.彼が悪意を以て LGBT カトリック・ジャパンの活動に対しても嫌がらせをしようとていたのかを彼に直接確認することは,敢えてしていません.

いずれにせよ彼は,兄弟愛をないがしろにして,何の反省の意も示そうとしません.つまり,敢えてみづから神の愛の恵みを拒絶し,聖霊を冒瀆しています.そのような者は,上に見たように,「悔悛と神の赦しとによって贖われなければ」,神の愛の宴に参加することはできません.したがって,LGBT カトリック・ジャパンとしても,この心ない人物の参加を今後は断らざるを得ないと判断しました.

8月28日の特別ミサに,問題の人物は事前に参加を申し込みませんでしたが,前回と同様,申込無しにやってきて,入場を強要する可能性が危惧されました.主催者側には男手は宮野亨氏とわたししかおらず,ふたりとも御ミサの侍者や進行役をするため,もしトラブルが起きても対処しようがありません.

そこで,彼が会場に無理やり入ってくることのないよう,警備会社に依頼して警備員二名を派遣してもらいました.彼が実力行使をしようとしても,警備員が二人で通せんぼうをすれば大丈夫でしょうから.また,彼が後から「からだが触れた」等の言いがかりを我々につけてくる事態を未然に防ぐためでもあります.

警備員を二名派遣するよう依頼したのに対し,その二人がまだ警備の仕事の初心者であり,上司が彼らに同伴したため,結果的に三名の警備員が会場の建物の出入り口を守ることになりました.いずれにせよ,彼らには私服姿で来てもらっていたので,そうと言われなければ警備員とはわからなかったはずです.

警備員として派遣される人々は,職務に必要な専門的訓練を事前に受けており,問題の人物がふるうかもしれない暴力に対して有効かつ合法的に対応するすべを心得ています.警備員の方が彼に対して積極的に違法な暴力をふるうことはあり得ません.

いずれにせよ,問題の人物は 8月28日の特別ミサ会場にみづから姿を現すことはありませんでした.しかし,彼の知人のひとりがやってきました.その人物は,事前の参加申込をしていませんでしたが,顔見知りではあったので,わたしは,ミサに参加するようその人物をその場で招待しました.しかし,その人物は会場内に入ろうとせず,立ち去りました.その後も,ミサ後の集いが終わるまで,会場内でも会場外でも何のトラブルもありませんでした.主に感謝します.

我々は,特別ミサを企画する側として,参加者の方々を不快なトラブルから守るために,今後も可能な限りの対策を取って行きたいと思います.

また,我々は,傷つけられた方のために祈るとともに,その方を傷つけた者が神の愛の恵みに気づき,悔悛するよう,祈り続けています.

ルカ小笠原晋也

2016年10月14日

LGBT 特別ミサのお知らせ: 第四回,2016年10月23日

LGBTIQ+ の人々のために特別に立てていただく御ミサの第四回が,10月23日(日曜日)16時から都内で行われます.

今回司式してくださるのは,晴佐久昌英神父様です.今,日本で最もカリスマ的な(その語の本来の意味において,つまり,聖霊の恵みを受けた)神父様のおひとりです.晴佐久昌英神父様が LGBTIQ+ であるあなたのために神の愛の福音を宣言してくださいます.お楽しみに!

御ミサ終了後,参加者の皆さんが各人,晴佐久昌英神父様と歓談することができるよう,ソフトドリンクなどを用意する予定でいます.

参加可能なのは,御自身 LGBTIQ+ である方々のみです.普段,小教区教会の通常の御ミサに参加しづらいと感じている方も,気がねなく聖体拝領や祝福にお与りください.

カトリックの洗礼を受けている必要はありません.カトリック信徒の方は勿論のこと,カトリック以外に正教会,聖公会,プロテスタントの方でも,あるいは,キリスト教信仰に関心をお持ちの未受洗の方でも,御自身 LGBTIQ+ であり,かつ,神の愛の恵みに与りたいとお望みである方は,参加可能です.

ただし,世話役として,LGBT カトリック・ジャパン共同代表,ルカ小笠原晋也とペトロ宮野亨,ならびに両人の配偶者など,幾人かの ally がお手伝いのために参加いたします.

また,性的少数者である家族メンバーのことで御相談のある方の参加も,事情によってはお受けすることもあります.

参加なさりたい方は,事前に e-mail : lgbtcj@gmail.com へお申し込みください.

お名前は,匿名でも結構です.使用なさる e-mail address も,必ずしも普段お使いのものではなく,Gmail などに ad hoc に作った account のものでも構いません.その方が匿名性が高まります.ただし,LGBT カトリック・ジャパン (lgbtcj@gmail.com) からの御案内を受信できるようにしてください.

e-mail をお使いでない方は,電話でお申し込みください.申込先は:

090-1650-2207(ルカ小笠原晋也),または

080-1307-3910(ペトロ宮野亨).

その際,お名前をお尋ねしますが,本名でなくても結構です.会場でお申し込みくださった方かどうかを確認させていただくためだけのものです.

ミサ後の集いでも,匿名のままでも結構です.

参加をお申し込みくださった方々には,御ミサが行われる場所をお伝えします.都内の山手線内です.

御ミサ会場となるお御堂には 15:30 からお入りいただけます.
お申し込みをお待ちしております.

2016年10月12日

10月11日は カミングアウトの日

1988年以来,毎年10月11日は,カミングアウトの日 (National Coming Out Day) です.

日本社会は,基本的に,異質なものに対して自身を閉ざし,自身の内が均質であることを要請します.そして,その際に基準となるのは,男性中心の heteronormative[異性愛を社会規範とする]な価値観です.

何らかの意味で少数者である人々(性的少数者のみならず,障碍者,宗教的少数者,政治的少数者,異邦人,等々)にとって日本社会が生きづらいところであるのは,そのためです.

少数者だけではありません.男性より多数者であるはずの女性もが,女性であるというだけの理由で,差別され,軽んじられ,嫌がらせや性的暴力に絶えずさらされています.

そのようなことすべての原因は,上に述べたように,異性愛を規範とする男性優位の日本社会の構造です.多様性の実現を妨げているのは,それです.

あなたが何らかの意味で少数者であること,女性であることは,確かに,あなたの個人的な事実です.しかし,個人的なことは政治的なことです (the personal is political).

なぜなら,人間は共同体のなかで生きているからです.共同体を構成するのは,ひとりひとりの個人です. ひとりをないがしろにして平気でいる共同体は,健全ではありません.そのような社会は,1945年以前の日本やドイツと同様に,全体主義に病んでいます.

個人的なことは政治的なことです.あなたがひとりで悩み,苦しんでいるなら,その苦悩を共同体構成員は皆,分かち合うべきです.

カミングアウトは,そのための第一歩です.

(以下は,ブログ記事をお読みください.)

2016年10月12日

LGBT カトリック ジャパン の日本語正式名称を「LGBT カトリック信者の集い」とします

2016年10月04日,LGBT カトリック ジャパン の共同代表,ルカ小笠原晋也とペトロ宮野亨は,小宇佐敬二神父様にお会いして,発足後一年間の活動をふりかえり,今後の活動について相談しました.

我々が LGBT カトリック ジャパン の活動を始めたきっかけは,Facebook に開設されている幾つかのキリスト教関係グループのなかの憎悪言説に驚かされたことです.カトリックのグループも,プロテスタントのグループも,双方が混ざっているグループも種々ありますが,おしなべてそれらのグループでは LGBT に対する誤解と偏見と憎悪に満ちた投稿が常に頻繁に見うけられました.

我々は,カトリック信徒として,普遍的な神の愛にもとづき,誤解や偏見に対しては,現在の医学的,心理学的常識による説明をし,憎悪に対してはその根拠の非正当性を指摘しました.しかし,そのようなことを幾度くりかえしても,LGBT に対する憎悪言説はやみませんでした.

そこで,Facebook のような限られた世界で LGBT 擁護を試み続けても無駄であると判断し,我々は,カトリック信徒として,我々に可能な限りでもっと現実的に有効な社会活動を LGBTIQ+ の人々のために始めることにしました.それが LGBT カトリック ジャパン です.

昨年夏の発足にあたり,ルカ小笠原晋也が信徒として所属するカトリック本郷教会でときどき主日の御ミサを立ててくださっていた「東京カリタスの家」常任理事,小宇佐敬二神父様に相談にのっていただきました.本郷教会は,信徒会館内の部屋を「東京カリタスの家」の放課後デイサービス「カリタス翼」に提供しています.

また,東京大司教区の補佐司教である幸田和生司教様にも我々の活動の趣旨を御説明し,賛同していただきました.

まずは Facebook と Blog での言論活動から始めました.

5月 8日には Tokyo Rainbow Pride 2016 に参加し,パレードに加わり,出店も出しました.その際,既に長年 LGBT のためにプロテスタント司牧活動をしている三・一教会平良愛香牧師さんと新宿コミュニティ教会中村吉基牧師さんを始め,幾人もの LGBTIQ+ の人々と出会うことができました.

7月からは,ペトロ宮野亨がカトリック教会内に持つ広い人間関係をたどって出会うことのできた LGBT friendly な神父様たち,小教区教会,修道院などの御協力のもとに,都内で LGBT 特別ミサが始められました.仲間内の秘密会合ではなく,社会に開かれた LGBT カトリック司牧の可能性の端緒として,日本のキリスト教の歴史のなかで初めての試みです.今後も月に一回,継続して行く予定です.

9月には,LGBT とカトリック教義に関してこの一年間に学んだことのまとめとして,「LGBT とカトリック教義」を発表しました.世界のカトリック教会の一部でいまだに続く LGBT 差別の動きをカトリック信者として批判する際に参考にしていただけると思います.

昨日,小宇佐敬二神父様は,我々のお願いに応じて,LGBT カトリック ジャパン の指導司祭となることをお引き受けくださいました.2017年01月からは,原則的に毎月第三日曜日,14時から,小宇佐神父様の司式により LGBT 特別ミサを立てていただくことになりました.

また,小宇佐神父様は,LGBT カトリック ジャパン の日本語正式名称を「LGBT カトリック信者の集い」とするよう助言してくださいました.

したがって,「LGBT カトリック ジャパン」は通称としてのみ用い続けることにします.また,英語の名称は LGBT Catholic Japan, 略称は LGBTCJ とします.

また,小宇佐神父様は,幾つかの自助グループにかかわった御経験にもとづき,ミサ後の分かち合いの集いのやり方をもっと工夫するよう助言してくださいました.今後,参加者の方々と相談しながら考えて行きたいと思います.

歴史的にキリスト教は,聖書の文言の一部にもとづき,同性愛を断罪してきました.しかし,「LGBT とカトリック教義」で指摘したように,改めて仔細に検討するなら,そのような聖書解釈は無根拠であることがわかります.

世界では,法のもとでの平等の理念にもとづき,同性婚を法制化する国々がふえて行きつつあります.

カトリック教会でも,その頂点である教皇 Francesco は,全包容的な神の愛にもとづき,LGBT 司牧に積極的な姿勢を打ち出しています.つい先日,10月02日にも,記者会見のなかで教皇は,「カトリック教会は LGBT の人々に寄り添うべきです.イェス様なら今,当然,そうしているでしょう」と述べました.

日本でも,2020年に東京オリンピックを控えて,LGBT 差別を禁止するオリンピック憲章を尊重すべく,LGBT 差別禁止法案が国会で討論されようとしています.また,幾人かの LGBT 人権活動家の努力によって,LGBT への関心は一般の人々のなかでも高まりつつあります.

しかし,日本のカトリック教会のなかではいまだに司祭や信徒の大多数は LGBT について無関心であるように見うけられます.

1979年にノーベル平和賞を受賞したコルカタの聖テレサは,1986年のノーベル平和賞受賞者 Elie Wiesel の言葉を好んで引用しました:「愛の反対は憎しみではなく,無関心です」.

LGBT カトリック信者の集い(LGBT カトリック ジャパン)が日本のカトリック教会のなかの LGBT に対する無関心を解消して行くことに少しでも貢献することができるよう,共にお祈りください.

2016年10月12日

教皇 Francesco : LGBTIQ+ の人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添おう

10月02日,二泊三日で Georgia と Azerbaijan を訪問し終えて,Baku から Roma へ帰る途中の機内で,教皇 Francesco は,同行ジャーナリストたちの質問に答えつつ,LGBT について語りました(National Catholic Reporter 記事La Croix 記事).

特に注目すべきことに,教皇は初めて,transgenderism をそのものとして話題にしました.

教皇は昨年,或るスペイン人の transgender 男性(女性の身体を以て生まれたが,性別適合手術を受け,戸籍上の性も男性に変更し,今は女性と結婚している)を彼の妻と共に会見のために Vatican に迎えました.その男性は,地元の司教から委任を受けて,教会の活動を積極的に担っています.小教区の司祭も,彼に寄り添っています.

性的少数者の問題は,律法の観点から十把一絡げに扱われるべきではありません.ひとりひとりについて,慈しみを以て,その人を在るがままに受け入れ,その人に寄り添い,その人が主へもっと近づくことができるよう手助けしなければならない.なぜなら,それこそ Jesus がすることだからだ,と教皇は強調します.

Jesus は,LGBT の人々に対して「あっちへ行け」とは決して言いません.Jesus は,誰にでも寄り添ってくださいます.

同じように教皇自身も,実際,司祭として,司教として,LGBT の人々に寄り添ってきました.そして,教皇となった今もそうしています.

それに対して,社会学的な gender theory については,教皇は,使徒的勧告 Amoris laetitia でも展開している批判を繰り返しました.

教皇が gender theory を批判する理由は,それが,神による創造である sexuality を社会学的な人為産物へ還元してしまう,ということに存します.

ですから,LGBT activists が教皇の gender theory 批判を非難するいわれは本当は無いはずです.というのも,もし仮に sexuality が単純に社会学的に規定されているだけなら,いわゆる認知療法のようなしろものによって同性愛も性同一性障害も「治療,矯正」することができるはずだ,ということになってしまいます.しかし,実際にはそんなことはありません.

では,なぜ教皇を非難する LGBT activists がいるのか?それは,彼ら・彼女らが,神による創造としての sexuality の真理を即座に単純に生物学的な性別の事実と同じものと見なしてしまうからです.

ところが,sexuality の真理は生物学的なものではありません.それは,存在論的なものです.

わたしたちは,sexuality について考えるとき,三つのものを区別しなければなりません:ひとつめは生物学的な性 (biological sexes), ふたつめは社会学的な gender (sociological genders), そして第三に存在論的な性別化 (ontological sexuation).

それらを混同するとき,見当違いの議論が生じることになります.

2016年10月12日

USA での研究は警告する: LGBT 差別を続ければ,カトリック教会の信徒は減り続けるだろう

USA の NPO, the Public Religion Research Institute (PRRI) が2016年9月22日付で発表した報告書 Exodus : Why Americans are Leaving Religion and Why They’re Unlikely to Come Back によると,USA の最大の「宗派」は「所属宗派無し」である:全人口の 25 %, 18-29歳の人口のほぼ 40 % が「無し」と答えている.

「所属宗派無し」の人々のうち,なぜ所属宗派が無いのかとの問いに対して,29 % の人々は,教会や教派が LGBT 問題に関して否定的なメッセージを発するから,と答えている.

その傾向は,特に,もとカトリックであった人々において顕著である.もとカトリックであった人々のうちで,教会から離れた理由として,「司祭による児童の性虐待」を挙げる人も 32 % であり,少なくないが,他方,「LGBT に対する教会の否定的な態度」を挙げる人はより多く,39 % である.

カトリック教会のリーダーたちは,LGBTIQ+ の人々の存在を肯定し,彼ら・彼女らを教会に歓迎するメッセージを,より積極的に発するべきであり,かつ,実際に,親 LGBT の司牧方針と司牧実践とを以て,それらメッセージを裏打ちすべきである.さもなければ,信徒人口の減少は加速され,教会の建物は将来からっぽになるだろう.

2016年10月12日

2016年09月25日,第三回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年09月25日,予定どおり第三回 LGBT 特別ミサが行われました.その恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった関谷義樹神父様 SDB に感謝します.

関谷神父様の説教は,直接に LGBT に関するものではありませんでした.しかし,そこには,LGBTIQ+ の人々の存在を無視しようとする聖職者と一般信徒,ならびに,さまざまな理由で他者へこころを開くことが困難な LGBTIQ+ の人々,双方への明確なメッセージが込められています: 神の愛へこころを開きましょう.そうすれば,おのづと隣人へこころを開くこともできるようになります.

以下は,関谷神父様の説教の要約です:

御ミサは,記念です.主イェス・キリストが,わたしたちを愛するがゆえに,わたしたちを死と無と罪から贖い出すために,御自身をいけにえとして捧げてくださったことへ感謝を以て思いをはせる記念です.

「金持ちとラザロの譬え」(ルカ福音書 16,19-31)は,贅沢を戒める単純な教訓ではありません.

死後,アブラハムの隣に運ばれたラザロと,冥府で苦しむ金持ちとの間は,大きな裂口で隔てられています.この隔絶は,しかし,彼らが生きているうちから既にありました.金持ちはラザロに目もくれず,ラザロの方も金持ちに何も言いませんでした.既に彼らは目に見えない壁で互いに隔てられていたかのようでした.

確かに,ラザロが何も言わなくても,神は彼を憐れんで,天の御国へ彼を迎え入れてくださいます.しかし,もし仮にラザロが思い切って金持ちに施しを求めていたなら,金持ちもラザロに気づき,彼の求めに応じたかもしれません.そして,その行為のおかげで冥府に行かずに済んだかもしれません.もし仮にラザロが生前にそう考えることができていたなら,彼は,隣人愛のゆえに,金持ちにむかって「食べものをください,あなたの救済のために」と言うことができたかもしれません.(この部分は関谷神父様がそのままの形でおっしゃったことではありませんが,神父様のお話にもとづいて小笠原が補足しました).

わたしたちは,自身の内に,あるいは,気の合う仲間どうしの内に,閉じこもってしまいがちです.その方が気楽だと感ずるからです.確かに,他者へ近づき,手を差し伸べても,ときには拒否され,ときには攻撃さえされるかもしれません.

しかし,隣人愛は,壁を越えて橋を架けることに存します.

最大の架け橋は,神が御自身と人間との間に架けてくださった橋です.

愛は,身を低めることを可能にします.神は,わたしたちが神を識らなくても,わたしたちを愛してくださり,身を低め,人間との距離をどんどん小さくし,ついには御自身が人間となりました.イェス・キリストです.

神がそうしてくださったのは,人間たちを憐れんだからです.

神は人間を創造してくださいましたが,人間たちは神に背きました.神から目をそらせてしまいました.しかし神は,だからといって,「では勝手にしていなさい,わたしはもう知らない」とは言いませんでした.神は,人間たちを慈しみ,憐れんでくださいました.

隣人愛の実行にも,憐れみがかかわっています.「金持ちとラザロ」の譬えと同様にルカ福音書だけに伝えられているイェスの譬えのひとつが「良きサマリア人」の譬えです.強盗に襲われて半死の状態で横たわる人を無視して,祭司とレビ人は通り過ぎました.しかし,当時イスラエルの民から差別され,社会の辺縁へ追いやられていたサマリア人のひとりは,その男のところに来て,その男を見て,憐れみを覚え,そして彼に近づき,救いの手を差し伸べます.

この「憐れみを覚える」という動詞は,ギリシャ語で splanchnizein です.spleen は脾臓,splanchna は内臓,はらわたです.はらわたが締めつけられるように,胸が締めつけられるように,腹の底から,心の底から感ぜられる憐れみの気持ち.この splanchnizein という動詞は,聖書のほかの箇所では,神が人間を憐れむときにだけ用いられています.

しかし,隣人愛も,神が人間を愛し,憐れんでくださるのと同じように,他者を愛し,憐れむことです.そして,それによって,他者との間に橋を架け,互いに愛し合うことです.

隣人愛にもとづいて,わたしたちも,互いに対して自身を開き,手を差し伸べ合いましょう.


御ミサの後は,分かち合いの集いが開かれました.

関谷義樹神父様は,ドン・ボスコ社発行の月間『カトリック生活』の編集長を務めています.その雑誌で LGBT をテーマとして取り上げるとすれば,どのような記事が望まれるか,と御質問したところ,LGBT を擁護する立場からの記事が欲しい,という御意見が述べられました.

カトリック教会が伝統的に同性愛行為を断罪してきたせいで,同性愛者たちはいまだに強い有罪感にさいなまれており,カトリック教会から拒絶されていると感じています.カトリック教会はそのことに責任を感じ,和解の態度を示すべきです.

LGBTIQ+ の人々を擁護する LGBT 神学の議論が,日本のカトリック教会のなかでも望まれます.

ルカ小笠原晋也

2016年09月27日

Facebook group「カトリック LGBT の交わり」の開設

或る友人が意図せずに「LGBT カトリック・ジャパンにいいねをした人々のグループ」を Facebook 上に作ってくださいました.LGBT カトリック・ジャパンはそれを引き取って,その名称を「カトリック LGBT の交わり」 [ Communion of Catholic LGBTs ] に改め,プライバシー設定を「秘密グループ」にしました.

「カトリック LGBT の交わり」は,カトリック信徒である LGBTIQ+ の人々,カトリックに関心を持つ LGBTIQ+ の人々,および,カトリック信徒である LGBT allies とカトリックに関心を持つ LGBT allies のための communion [交わり,分かち合い]のグループです.

プライバシー設定は「秘密グループ」にしてありますので,メンバーの方々は気がねなく投稿してください.ただし,どなたの発言も口外しないようお願いします.

メンバーとして参加を御希望の方は,LGBT カトリック・ジャパンに御連絡ください.

2016年09月13日

同性愛とは,ある人が在るがままに在るということだ

同性愛とは,ある人が在るがままに在るということだ

フランスでは,公の場で聖書の homophobic な一節を引用すると,有罪となる.

フランスの保守派政治家,もと下院議員,Sarkozy 政権下で「住居と都市」問題担当大臣を務めたことのある Christine Boutin[クリスティーヌ・ブタン]は,2014年4月,或る季刊雑誌のインタヴューで,「同性愛者を断罪したことは一度もない」[ je n’ai jamais condamné un homosexuel ] とことわりつつも,旧約聖書レビ記の「男が女と寝るように男と寝るのは,忌まわしいことだ」にならって,「同性愛は忌まわしいことだ」[ l’homosexualité est une abomination ] と述べた.

この発言のゆえに彼女は,2015年12月,「性的指向を理由に憎悪をあおった」罪で,5000ユーロ(約60万円)の罰金を科せられた.

今月7日,控訴審の法廷には,彼女自身は姿を見せず,弁護士のみが出廷した.

三つの LGBT 団体で構成された原告側の弁護士のひとりは,法廷でこう述べた:「同性愛は忌まわしいことだという言葉を元共和国大臣の口から聞くのは,ショッキングなことです.なぜなら,同性愛とは行動でも選択でもありません.同性愛は,ある人が在るがままに在るということです.[被告の発言は]想像を絶する暴力です.そのような発言は,同性愛を嫌悪し,断罪せねばならないという確信を人々の心のなかに強めることになります」.

原告側のもうひとりの弁護士は,こう述べた:「キリスト教徒は自身の同性愛を自由に生きることができます.同性愛者は,自身の信仰を自由に生きることができます.それはまったく忌まわしいことではありません」.

控訴審判決は11月2日に下される.

2016年09月09日

Fruits in Suits : What and who ?

今月03日付の朝日新聞記事でこう報道されている : Fruits in Suits Tokyo (FinS Tokyo) という LGBT 人権擁護団体が,稲田朋美防衛大臣に,「LGBT をめぐる政府と与党の政策を推進した」との理由で,Japan Pride Award なる賞を贈呈した.

black joke かと思ったが,賞を贈った側は至って本気であるらしい.

ともあれ,Fruits in Suits in Tokyo とは如何なる活動なのか?同名の Facebook group のページの記事によると... (以下は blog 記事をお読みください.)

2016年09月06日

2016年9月の LGBT 特別ミサの御案内

2016年 9月の LGBT 特別ミサの御案内

LGBTIQ+ の人々だけのために特別に立てていただく御ミサの第三回が,9月25日(日曜日)13:30 から約一時間,都内で行われます.

普段,小教区教会の通常の御ミサに参加しづらいと感じている方も,気がねなく聖体拝領や祝福にお与りください.

今回司式してくださるのは,サレジオ修道会の出版部門ドン・ボスコ社代表,月刊「カトリック生活」誌編集長の関谷義樹神父様 SDB です.

御ミサ終了後,よろしければ,分かち合いの集いにも御参加ください.1 - 2時間の予定です.参加は任意です.

御ミサ会場となるお御堂には13時からお入りいただけます.

参加可能なのは,神の愛の恵みを求めており,御自身 LGBTIQ+ である方々のみです.

カトリックの洗礼を受けている必要はありません.カトリック信徒の方は勿論のこと,カトリック以外に正教会,聖公会,プロテスタントの方でも,あるいは,キリスト教信仰に関心をお持ちの未受洗の方でも,御自身 LGBT+ であり,かつ,神の愛の恵みに与りたいとお望みである方は,参加可能です.

参加なさりたい方は,CONTACT US のページに表示されている連絡先へ事前にお申し込みください.

参加をお申し込みくださった方々には,御ミサが行われる場所をお伝えします.都内の山手線内です.

なお,会場使用献金ならびにミサ司式献金を,それぞれ500円以上(計1000円以上)お願いいたします.

お申し込みをお待ちしております.

2016年09月01日

晴佐久昌英神父様は LGBT friendly

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晴佐久昌英神父様は LGBT friendly : 神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する

ペトロ晴佐久昌英神父様(左)と ルカ小笠原晋也(右)

本年4月から浅草教会と上野教会の主任司祭を兼任していらっしゃる晴佐久昌英神父様は,今,日本で最もカリスマ的な神父様のひとりです.彼の熱のこもった御ミサは,お御堂にいっぱいの信徒を引きつけます.

2016年7月3日,LGBT+ の人々のカトリック司牧の問題について質問したところ,以前から彼のまわりには LGBT+ の人々が自然に集まってくる,とのこと.どこに来ればイェス様による救いと出会うことができるか,噂をたよりに遠方からでもやってくるようです.晴佐久神父様は,今までにも多くの LGBT+ の人々に洗礼を授けてきました.

Transsexual の人々が必要とする SRS[性別修正手術]についても,それが当人の救いのためになるなら容認されるべきだ,とのお考えです.実際,既に幾人かの transsexual の人々の transition に寄り添い,洗礼を授けました.

入門講座や講演に引っ張りだこでとてもお忙しい晴佐久神父様ですが,時間の都合が合えば LGBT+ 特別ミサの司式も是非引き受けたい,とおっしゃってくださいました.

2016年07月04日

カトリック教会と transsexualism

カトリック教会における transsexualism に関連する問題の一例
– 洗礼で代父となることを許されなかった transsexual 男性のケース

カトリック教会は,同性愛(狭義)に関しては既にさまざまな公式文書を出しているが,transgender(広義:異性服装の人々や,性別未分化ないし不確定の人々をも含む)ならびに transsexualism(狭義 : SRS [ sex reassignment surgery ] の必要性を有する – または SRS 施術後の – 人々)の問題一般に関して何らかの公式見解を発表したことはいまだに無い.

以下に紹介するのは,教皇庁が transsexualism にかかわる或る個別問題について正式な見解を表明した数少ない(唯一かどうかは不明)ケースのひとつである.

2015年7月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,21歳の transsexual 男性 Alexander Salinas が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.

この問題は LGBT+ 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は,司教の許可が出たというデマも流れた.

そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,2015年9月1日付の司教声明のなかで発表された.

以下に,その司教声明全文の翻訳を参考資料として提示し,さらに若干の予備的な批判的考察を加える:

或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:

洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること(カトリック教会のカテキズム,1255段).それらのことすべてのために,教会法は – なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである(教会法典 874条 1項および 3項を参照).必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.

わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:

「この問題について,わたし[教理省長官 Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている(教会法典 874条 1項および 3項)という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」

実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋 – それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedikt XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011年9月22日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇 Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理 – それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度 [ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si’, n.155).

以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.

教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理 – を否定することはできない.

ここで,とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,transsexualism の問題に関するものではなく,いわゆる gender theory に対する批判である.教理省長官は,恣意的な解釈のもとに,SRS 不容認の根拠として教皇を不当に引用している.教皇 Francesco が transsexualism および SRS の問題に関して主題的に論じたことは一度も無い.

transgender の問題は,つまるところ,神からの賜としての « la verdad del propio sexo »[自身の性別の真理]とは何か?の問いに収斂する.

それは,当然,単に解剖学的,生理学的な身体の次元のもの,つまり,聖パウロの言う soma psychicon[生物的身体]の次元のものではあり得ず,而して,神による創造の神秘として,soma pneumaticon[霊気的身体]の次元のものである.

transgender の問題は性別の生物学的現象と神に創造された真理との解離に存するとすれば,尊重さるべきは,当然,後者である.

2016年06月30日

教皇 Francesco : 教会は,同性愛者たちに赦しを請わねばならない

2016年6月26日,アルメニアからローマに帰る飛行機のなかで行われた記者会見で,教皇 Francesco は「教会は,同性愛者たちに赦しを請わねばならない」と述べました.当該部分の邦訳を提示します.

Cindy Wooden (Catholic News Service) :
ありがとうございます,教皇様.2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は同性愛者差別についてゲイ・コミュニティにお詫びしなければならない,と言いました[2016年6月23日,Trinity College Dublin で The Loyola Institute が The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco :
教皇としての最初の旅行[2013年7月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』 [ nº 2358 ] が言っていることです:同性愛者たちを差別してはならない;彼ら・彼女らを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼ら・彼女らに付き添わねばならない.

断罪され得ること – イデオロギー的な理由によってではなく,言うなれば,政治的行動の理由によって –,それは,他者に対してやや侵害的にすぎる或る種の出来事です.しかし,そのような類のことは,同性愛の問題とは無関係です.

問題がそのような事情を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は何者でしょうか? 我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.

他方で,幾つかの国や文化のなかには,同性愛の問題について異なる心性を有する伝統があります.

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきたゲイの人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家庭の人々には入居できる家もなかったのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります.

赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください!

それは,我々が忘却している言葉です.

今,わたしは牧者として説教していますが,まことには,[慈しみ深い]父ではなく,[厳しい]主人であるような司祭であったこと,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭であったことが,たくさんありました.

しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.

逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.

しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,とイェスが言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが... お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.

(なお,blog 記事には原文も掲載されています.)

2016年06月28日

The International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia

5月17日は the International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia でした.

簡潔な日本語に訳すことはできそうにありません.LGBT 嫌悪に反対する国際記念日,反 LGBT に対抗する国際記念日,反反 LGBT 国際記念日,反 LGBT 差別国際記念日....

ともあれ,何を記念しているのかと言うと,1990年に WHO の国際疾病分類のリストから「同性愛」の項目を削除することが決定された日を記念しています.つまり,同性愛を病気扱いするのをやめることが国際的に正式に決定された日です.

同性愛は,治療さるべき疾患ではありません.同性愛者は,異性愛者と同等の「権利」を有しています.結婚の「権利」も,養子を取る「権利」も,ミサに与る「権利」も,信徒として洗礼してもらう「権利」も.

しかし,「権利」は法学用語です.法律ないし律法の次元においては,人々は,悪しき相対主義や,律法中心主義,教義絶対主義に陥ってしまいがちです.

ですから「権利」ではなく「尊厳」と言いましょう.あらゆる人間は,神に創られた者として,同じ存在尊厳を有しています.

言い換えると,わたしたちは皆,等しく神に愛されています.

God's love excludes nobody, but includes everybody.
神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する.

これが,神の愛の根本原理です.この原理に反することを主張している者は大概,律法中心主義や教義絶対主義に陥っています.

Credo in unum Deum.
我れは唯一の神を信ずる.

それは如何なることか?「神がひとつの存在事象として宇宙のどこかに存在すると思い込む」では全然ありません.そうではなく,「わたしは神の愛に対して自身を開きます」ということです.

神の愛に自身を開くとき,男も女も,straight も gay も,trans も cis も,differentiated も undifferentiated も,あらゆる差異は無効になります.

全世界からあらゆる差別がなくなりますように! Amen !

2016年05月19日

稲田朋美氏の口車に乗せられてはならない

朝日新聞 web 版 2016年5月7日17時55分付の記事は,Tokyo Rainbow Pride 2016 を「視察」した稲田朋美氏の記者団に対する発言をこう伝えている:

「今まで、自民党が LGBT の問題に取り組むと言ったら、なんかこう場違いな感じを受けたが、私はこれは歴史観とか思想信条とかそういうことではなく、人権の問題で多様性の問題なので、政権与党の自民党がしっかりと取り組んで、LGBT の方々の理解を促進していって、一つ一つの課題を解決していくことが重要だと思っている。

「息子が大学生の時、親しい友人が当事者だったこともあり、LGBT の方々の問題にもしっかり取り組まなければいけないと思った。私は色んな人たちが自分らしく生きられる社会をつくりたいと思っている。(これまでの自身の主張と矛盾しているとの批判があるが)私自身は男らしさとか女らしさということを言ったことは今まで一度もないし、男は男らしく女は女らしくすべきだというふうには思っていないし、自分自身もそんなふうにして育ってきていないので、自分としては全く矛盾はない。

「(自民党内では)えっと思う人が反対だったり、すごくリベラルかなと思っていた人が LGBT の問題には全然理解がなかったりする。今まで自分を支援してくれたたくさんの人から、なぜ稲田さんがそんなことを言うのか分からないと言われることもある。

「でも、私は LGBT の問題に取り組んで、その理解を広めることが、実は一億総活躍社会そのものだと思っている。誤解をされている方にも、しっかり説明していきたい。」


しかし,稲田朋美氏の甘言にたぶらかされることはできない.彼女は,日本会議のメンバーとして,最も家父長主義的な考えの持ちぬしのひとりである.彼女の本音は,東京新聞2016年4月29日付のこの記事に端的に表現されている:


同性婚は論外? – 自民党の LGBT 方針の愚

自民党の「性的指向・性自認に関する特命委員会」(委員長:古屋圭司元国家公安委員長)が,性的少数者 (LGBT) に関する基本方針をまとめた.LGBTへの理解の促進に向けた議員立法を目指すが,同性カップルを結婚に相当する関係と認める同性パートナーシップ制度の導入はおろか,差別禁止規定や罰則も盛り込まれていない.研究者からは,「文書そのものに矛盾や認識不足がある」と批判の声が上がっている.(三沢典丈)

制度を直さぬままに「カムアウト不要社会」

2016年4月27日に公表された基出本方針は,「考え方」と「政府への要望」からなる.「考え方」は,社会が性的指向と性自認の多様性を受容するよう国民の理解を促し,LGBT 当事者が「カムアウト(表明)する必要のない社会」を目標に掲げる.「要望」は,教育や雇用の現場で当事者へのいじめや差別があった場合,啓発や指導を求める.

渋谷区は昨年四月,全国初の同性パートナーシップ条例を施行したが,基本方針は「慎重な検討が必要」と否定的だ.欧米各国で認められつつある同性婚については,古屋圭司氏がブログで「憲法24条に規定される両性の合意に基づいてのみ婚姻が成立するということが基本」と述べて一蹴したとおり,最初から蚊帳の外だった.

LGBT をめぐっては,旧民主党が昨年12月,雇用現場での LGBT 差別禁止を義務化し,勧告に従わない企業を公表するとともに,パートナーシップ制度も施行後に検討するとした法案骨子をまとめた.現在,与党を含む超党派の議員連盟が内容を詰めている.

他方,自民党は,2012年発表の改憲草案で,婚姻関係を定めた24条に家族の重要性を説く一文を第一項に挿入し,個人の生き方よりも過去の家父長制的な家族観を尊重する姿勢を打ち出した.今回の基本方針は,古屋圭司氏ら保守派が超党派の動きをけん制する狙いもあるようだ.

当事者を救済する前に,「意図せぬ加害者」を懸念

渋谷区の同性カップル証明交付第一号となった増原裕子さんは,「自民党が LGBT の問題解決に前向きな姿勢を見せたことは評価したい」としつつも,「今,偏見などで苦しむ当事者はたくさんいる.差別禁止の法整備に踏み込まなかったのは物足りない」と残念がる.

渋谷区と同等の取り組みは,他の自治体でも始まっている.東京都世田谷区は,条例ではなく,首長の権限で策定できる要綱に基づき,同性パートナーシップ宣誓書の交付制度を昨年11月にスタート.世田谷方式は,三重県伊賀市が既に取り入れたほか,兵庫県宝塚市や那覇市も検討している.

増原さんは,「自治体の取り組みが自民党を動かしたと思うが,今回の基本方針は LGBT をマイルドに理解していこうという内容で,どこまで実効性があるのか」と疑問視する.

東京大大学院の清水晶子准教授(ジェンダー研究)は,基本方針の「考え方」に厳しい視線を注ぐ:

「性的指向や性自認をカムアウトする必要のない社会は,誰にカムアウトするかしないかが個人の選択に任されることを大前提とする.だが,現行の戸籍や住民票の性別記載,性別変更の要件などは,この前提に反している.にもかかわらず,『考え方』には『現行の法制度を尊重する』と書かれ,変更するつもりがない.カムアウトの必要をなくすには,婚姻や家族の制度を抜本的に見直さなければならないのに,矛盾している」.

加えて,「LGBT への理解が進んでいない現状の中,差別禁止が先行すれば,かえって意図せぬ加害者が生じる」という一文を,清水晶子准教授は問題視する:

「差別は,加害者が意図するか否かにかかわらず起こる.今,偏見や差別による被害者が目の前にいるのに,その救済より前に,加害者が出ることを懸念するのは,国際的な差別撤廃運動の方向性にも逆行する.自民党の差別問題に対する認識不足が露呈されており,信じ難い論理だ」.


今や日本会議の表の顔にほかならない自民党に性的差別の問題の解決を望むことは,「百年河清を俟つ」に等しい.性的差別を解消するには,日本会議の存立を可能にする日本の家父長主義そのものを無効化することを目ざす必要がある.さもなければ,女性と LGBT とに対する性的差別の根本的な解決は不可能である.

2016年05月08日

主の御降誕おめでとうございます

Joyeux Noël ! 主の御降誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.

主イェス・キリストは,神の御意志への絶対的な忠実さにおいて,あらゆる人間のお手本です.そして,主がわたしたちに残したメッセージは,皆さん御存じのように,これです:

「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いを愛しなさい」 (Jn 13,34).

主は,誰も差別しません.神の愛は,誰も排除しません.

2015年は,わたし,ルカ小笠原晋也にとって,とても有意義な年でした.この LGBT カトリック・ジャパンの活動をペトロ宮野亨さんと共に始めることができたからです.

わたしたちが今こうして pro-LGBT Catholic activist であり得るのは,皮肉にも,LGBT の人々を断罪し,排除するカトリック信徒たち幾人かのおかげです. 彼らは,カトリックの名のもとに,主の愛の教えに反する言辞を弄している:たとえ彼らが多数ではないとしても,この現実を見過ごすことは,わたしたちには不可能でした.

幸い,東京カリタスの家の常任理事をなさっている小宇佐敬二神父様をはじめ,わたしがこの問題に関して相談することのできた神父様たちは皆,教皇 Francesco と同様,律法中心主義ではなく,キリスト中心主義にもとづいて,如何なる差別にも如何なる排除にも反対し,どのような sexuality の人をも教会に迎え入れたい,という御意見を表明してくださいました.

Internet で目にとまった LGBT に関するさまざまな記事を読むうちに,最も重要な key word に気づきました : inclusive. その派生語は inclusiveness, inclusivity です.

inclusion は,当然ながら,exclusion[排除]や discrimination[差別]の反意語です.しかし,排除や差別の反意語として日本語で日常的に使われている簡潔な表現はありません.そこで,include を「包容する」と訳したいと思います.

「包容」こそ,神の愛をその全的な包容力において差ししるす語として,キリスト教の key word となるべきです.神の愛は,あらゆる者を包容します.誰をも差別せず,誰をも排除しません.

さて,sexism[性差別]という表現は,通常,男が女性を差別することを指します.しかし,sexuality[性本能]にもとづく差別をすべて「性差別」と呼ぶとすれば,LGBT の人々に対する差別も性差別です.

「性本能」という表現に生物学主義の臭いを感ずる人がいるとすれば,ひとこと注釈を付しておかねばなりません:言語に住まう存在としての人間における性本能は,性染色体によって生物学的に一義的に規定されるものではありません.わたしの専門である精神分析の観点から性本能が如何に規定され得るかをここで詳論することはできませんが,ひとくちで言うなら,性本能は人間の在り方(つまり,生き方)の根本にかかわる実存的な問題です.キリスト教の観点において言うなら,ひとりの人間が性本能を如何に生きるかは,創造主たる神の賜です.

ともあれ,性差別に対する闘いにおいて,フェミニストと LGBT activist は連帯することができます.

ところで,性差別の構造を作り出しているものは何か? わたしはそれを male totalitarianism[男全体主義,男性全体主義]と名づけたいと思います.

heterosexual な男たちは,自分たちを「ノーマルな人間」と規定し,ひとつの全体を形成しています.そして,その集合に属さない者をすべて差別します.男全体主義は,性差別のみならず,障碍者差別や人種差別など,あらゆる差別の元凶です.そして,政治的な全体主義の根本構造でもあります.

フェミニストと LGBT activist の共通の敵は,男全体主義です.そして,男全体主義は,神の全包容的な愛に対する抵抗として,キリスト教にとっても克服されるべき悪です.

今や全体主義的社会となってしまった日本において,わたしたちは,「包容」をスローガンとして,神の愛を伝え続けて行きましょう.あらゆる差別をなくすために.

2015年12月29日

虹色の慈しみのイェス様

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イェス様は1931年2月22日,聖ファウスティーナ (1905-1938) に現れ,神の慈しみのイコンを作成するよう指示なさいました.

聖ファウスティーナは日記にこう記しています:

「ある晩,わたしは自分の小部屋のなかで,イェス様を見ました.イェス様は,白いチュニカを着て,一方の手を挙げて祝福し,他方の手は御自分の服の胸のところに触れていました.チュニカの前開きから二本の光線が出ていました.一方は赤色,他方は青白い色でした.(...) イェス様はおっしゃいました:『あなたの見たとおりの絵を描きなさい.そして,そこにこう書き込みなさい:イェス様,わたしはあなたにおすがりします.』」

イェス様を信頼し,イェス様にすがりたいと思う LGBTIQ+ の人々のために,もとの絵の二本の光線(それは,十字架上でイェス様の胸が槍で刺し貫かれたときに傷口から流れ出た血と水を象徴しています)を LGBT の象徴である六色に修正してみました.虹の慈しみのイェス様です:

 

皆さん,どうぞ,このイコンを広めてください.

2015年08月18日