主の御降誕おめでとうございます
Joyeux Noël ! 主の御降誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.
主イェス・キリストは,神の御意志への絶対的な忠実さにおいて,あらゆる人間のお手本です.そして,主がわたしたちに残したメッセージは,皆さん御存じのように,これです:
「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いを愛しなさい」 (Jn 13,34).
主は,誰も差別しません.神の愛は,誰も排除しません.
2015年は,わたし,ルカ小笠原晋也にとって,とても有意義な年でした.この LGBT カトリック・ジャパンの活動をペトロ宮野亨さんと共に始めることができたからです.
わたしたちが今こうして pro-LGBT Catholic activist であり得るのは,皮肉にも,LGBT の人々を断罪し,排除するカトリック信徒たち幾人かのおかげです.
彼らは,カトリックの名のもとに,主の愛の教えに反する言辞を弄している:たとえ彼らが多数ではないとしても,この現実を見過ごすことは,わたしたちには不可能でした.
幸い,東京カリタスの家の常任理事をなさっている小宇佐敬二神父様をはじめ,わたしがこの問題に関して相談することのできた神父様たちは皆,教皇 Francesco
と同様,律法中心主義ではなく,キリスト中心主義にもとづいて,如何なる差別にも如何なる排除にも反対し,どのような sexuality の人をも教会に迎え入れたい,という御意見を表明してくださいました.
Internet で目にとまった LGBT に関するさまざまな記事を読むうちに,最も重要な key word に気づきました : inclusive.
その派生語は inclusiveness, inclusivity です.
inclusion は,当然ながら,exclusion[排除]や discrimination[差別]の反意語です.しかし,排除や差別の反意語として日本語で日常的に使われている簡潔な表現はありません.そこで,include
を「包容する」と訳したいと思います.
「包容」こそ,神の愛をその全的な包容力において差ししるす語として,キリスト教の key word となるべきです.神の愛は,あらゆる者を包容します.誰をも差別せず,誰をも排除しません.
さて,sexism[性差別]という表現は,通常,男が女性を差別することを指します.しかし,sexuality[性本能]にもとづく差別をすべて「性差別」と呼ぶとすれば,LGBT
の人々に対する差別も性差別です.
「性本能」という表現に生物学主義の臭いを感ずる人がいるとすれば,ひとこと注釈を付しておかねばなりません:言語に住まう存在としての人間における性本能は,性染色体によって生物学的に一義的に規定されるものではありません.わたしの専門である精神分析の観点から性本能が如何に規定され得るかをここで詳論することはできませんが,ひとくちで言うなら,性本能は人間の在り方(つまり,生き方)の根本にかかわる実存的な問題です.キリスト教の観点において言うなら,ひとりの人間が性本能を如何に生きるかは,創造主たる神の賜です.
ともあれ,性差別に対する闘いにおいて,フェミニストと LGBT activist は連帯することができます.
ところで,性差別の構造を作り出しているものは何か? わたしはそれを male totalitarianism[男全体主義,男性全体主義]と名づけたいと思います.
heterosexual な男たちは,自分たちを「ノーマルな人間」と規定し,ひとつの全体を形成しています.そして,その集合に属さない者をすべて差別します.男全体主義は,性差別のみならず,障碍者差別や人種差別など,あらゆる差別の元凶です.そして,政治的な全体主義の根本構造でもあります.
フェミニストと LGBT activist の共通の敵は,男全体主義です.そして,男全体主義は,神の全包容的な愛に対する抵抗として,キリスト教にとっても克服されるべき悪です.
今や全体主義的社会となってしまった日本において,わたしたちは,「包容」をスローガンとして,神の愛を伝え続けて行きましょう.あらゆる差別をなくすために.