カトリック教会と transsexualism
カトリック教会における transsexualism に関連する問題の一例
– 洗礼で代父となることを許されなかった transsexual 男性のケース
カトリック教会は,同性愛(狭義)に関しては既にさまざまな公式文書を出しているが,transgender(広義:異性服装の人々や,性別未分化ないし不確定の人々をも含む)ならびに
transsexualism(狭義 : SRS [ sex reassignment surgery ] の必要性を有する – または SRS
施術後の – 人々)の問題一般に関して何らかの公式見解を発表したことはいまだに無い.
以下に紹介するのは,教皇庁が transsexualism にかかわる或る個別問題について正式な見解を表明した数少ない(唯一かどうかは不明)ケースのひとつである.
2015年7月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,21歳の transsexual 男性 Alexander Salinas
が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.
この問題は LGBT+ 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は,司教の許可が出たというデマも流れた.
そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,2015年9月1日付の司教声明のなかで発表された.
以下に,その司教声明全文の翻訳を参考資料として提示し,さらに若干の予備的な批判的考察を加える:
或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta
司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:
洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること(カトリック教会のカテキズム,1255段).それらのことすべてのために,教会法は
– なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである(教会法典
874条 1項および 3項を参照).必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.
わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:
「この問題について,わたし[教理省長官 Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の
transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている(教会法典
874条 1項および 3項)という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」
実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋
– それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedikt XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011年9月22日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇
Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理
– それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度
[ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si’, n.155).
以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.
教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理
– を否定することはできない.
ここで,とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,transsexualism の問題に関するものではなく,いわゆる
gender theory に対する批判である.教理省長官は,恣意的な解釈のもとに,SRS 不容認の根拠として教皇を不当に引用している.教皇
Francesco が transsexualism および SRS の問題に関して主題的に論じたことは一度も無い.
transgender の問題は,つまるところ,神からの賜としての « la verdad del propio sexo »[自身の性別の真理]とは何か?の問いに収斂する.
それは,当然,単に解剖学的,生理学的な身体の次元のもの,つまり,聖パウロの言う soma psychicon[生物的身体]の次元のものではあり得ず,而して,神による創造の神秘として,soma
pneumaticon[霊気的身体]の次元のものである.
transgender の問題は性別の生物学的現象と神に創造された真理との解離に存するとすれば,尊重さるべきは,当然,後者である.