LGBTQ とカトリック教義


LGBTQ とカトリック教義

– 多様性における一致が神の愛のもとに実現されるために

ルカ小笠原晋也(聖イグナチオ教会所属信徒)
精神分析家,東京 精神分析 クリニック
LGBTQ 人権擁護活動家,LGBTQ みんなのミサ 世話人


(ときどき細かい訂正や追記をしていますので,『LGBTQ と カトリック教義』最新版は blog で お読みください)

要旨

カトリック教会の基礎は,神の愛である.神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する(神の愛の全包容性 : all-inclusiveness of God’s Love).そのような神の愛のもとに,初めて,菊地功東京大司教が標語となさっている「多様性における一致」は実現され得る.

本書においては,全包容的な神の愛の観点から,LGBTQ+ の人々に対するカトリック教会の伝統的な偏見を批判する.さらに,教皇 Francesco の生と性の神学について論ずる.また,sexuality に関するラカン派精神分析の所論を若干紹介する.


目次

2018年5月増補改訂版のための前書き

序章

第1部 : LGBTQ とカトリック教義

§ 1.1. homosexuality と transgenderism に関するカトリック教会の伝統的な姿勢

§ 1.1.1. homosexuality に関するカトリック教会の伝統的な姿勢

§ 1.1.2. transgenderism に関するカトリック教会の見解

§ 1.2. LGBTQ の人々の司牧に関する教皇 Francesco の新たな姿勢

§ 1.3. LGBTQ に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点

§ 1.3.1. 我々の時代と社会において homosexuality と呼ばれているものは何か?

§ 1.3.2. homosexuality と聖書 – 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない
§ 1.3.2.1. 旧約聖書における男性間の性行為の問題
§ 1.3.2.2. 新約聖書における同性間の性行為の問題

§ 1.3.3. homosexuality に対する断罪の真理は pedophilia に対する断罪である

§ 1.3.4. 同性カップルの性行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

§ 1.3.5.「自然法」(lex naturalis) の神話と男女両性の「相互補完性」の神話

§ 1.3.6. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題

§ 1.3.7. LGBT-phobia の克服と食のタブーの克服 – 神の愛の福音を伝えるために必要なこと

§ 1.4. sexuality とは何か?

§ 1.5. 第1部の結び

第2部:教皇 Francesco の生と性の神学

§ 2.1. 教皇は同性カップルの civil union を認めた

§ 2.2. 教皇庁生命アカデミアでの教皇演説

§ 2.3. 創造と生殖 (creazione e generazione)

§ 2.4. 生殖可能性と「命の与え主」聖霊

§ 2.5. 男女の性の差異と存在論的差異

§ 2.6. 契約と愛

§ 2.7. LGBTQ community にとっての教皇 Francesco の「生と性の神学」の意義


LGBTCJ からの呼びかけ




そも,あなたたちは皆,
信仰によって,Christ Jesus において
神の子である.
そも,Christ において洗礼を授かった
[Christ のなかへ浸された,
神の愛のなかへ浸された]
あなたたちは皆,
Christ を身にまとったのだ.
もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,
奴隷も自由人も無く,
男も女も無い.
そも,あなたたちは皆,
Christ Jesus において一者である.

聖パウロ (Ga 3,26-28)



2018年5月増補改訂版のための前書き

Tokyo Rainbow Pride 2018 で配布するために,今年もこの冊子の増補改訂版を新たに印刷することにしました.表題も『LGBTQ とカトリック教義』と改めました.あとで説明するように,LGBT だけでなく,queer であること[社会的,道徳的な規範からはずれており,それがゆえに辺縁的な立場へ追いやられていること]こそが,わたしたちキリスト教徒にとっては意義深いことだ,と考えるからです.

わたしたちの LGBTCJ は,LGBTQ+ の人々に神の愛の福音の喜びを伝えようとするカトリック信者の自主的な活動です.LGBT Catholic Japan の名称のもとに,2015年夏,東京で開始されました.その後,東京大司教の承認無しに「カトリック」と名のることはできないと東京大司教区当局から御指導いただいたので,今は LGBTCJ を正式名称としています.まだ活動歴も短いので,カトリック教会のなかの正式な活動として承認されてはいません.

LGBTCJ の活動の開始のきっかけとなったのは,Facebook のキリスト教関係のグループ(複数:プロテスタントのものも,カトリックのものも,両方の信者の混成のものも)において非常に激しい homophobia[homosexual の人々に対する憎悪と嫌悪と差別]の言説が蔓延しているのを見かけたことです.

それらの言説は,homosexuality[自身の性別と同じ性別の者を性愛パートナーとすること;わたしは「同性愛」という標準的な訳語は適切なものではないと考えるので,本書においては,英語の表記である homosexualilty および homosexual を用います]に関する無理解にもとづく誤解と偏見に満ちていました.そして,キリスト教徒にあるまじき人間嫌悪が,そこには込められていました.

いくら誤解を指摘し,偏見をたしなめても,何の効果もありませんでした.いくら隣人愛を説いても,憎悪がやむことはありませんでした.

Facebook でそのような経験を共有し,SNS のなかでだけ homophobia の言説に応対していてもほとんど何の効果も無い,と感じたカトリック信者三人が,実際に会うことにしました ‒ 実社会のなかで何ができるかを相談するために.それが,わたしたちの LGBTCJ の出発点です.

2016年7月からは,毎月一回,LGBTQ+ の人々のために御ミサを立てていただくようになりました.現在に至るまで,継続されています.

Tokyo Rainbow Pride には2016年に初めて参加しました.今年で三度めになります.

キリスト教文化圏においては,キリスト教は,カトリックもプロテスタントも,社会のなかで homophobia と transphobia[transgender の人々に対する憎悪と嫌悪と差別]を正当化し,助長する機能を,歴史的に果たしてきました.聖書のなかのいくつかの箇所が,homosexuality を断罪するために,利用されてきました.今でも,保守的なキリスト教徒たち ‒ カトリックもプロテスタントも ‒ のなかには,homosexual の人々と transgender の人々とを,キリスト教の律法と道徳の名のもとに差別し続ける者たちがいます.

キリスト教文化圏に属していない日本においては,宗教的な理由による LGBTQ 差別はほとんど問題にならない,と考える人々もいるでしょう.確かに,そうかもしれません.

しかし,これから日本社会に神の愛の福音を宣べ伝えて行こうとするわたしたちカトリック信者にとっては,キリスト教は差別する側に与しているという先入観は,福音宣教の障害物でしかありません.それを除去する必要があります.

日本人の大多数が文学や映画などを通じて受け取ってきたカトリック教会のイメージは,「権威主義的」,「律法や戒律の遵守に厳しい」,「政治的にも道徳的にも ‒ 特に性道徳に関して ‒ 保守的で頑迷」,「科学的検証に耐えない教義を絶対的な真理と見なす迷信」,等々でしょう.確かに,そのようなところには LGBTQ+ の人々の居場所はあろうはずもありません.

しかし,そのような不寛容なイメージは,過去のカトリック教会に由来するものです.

もう50年以上前のことになりますが,1962年から1965年まで,まる三年をかけて,第二ヴァチカン公会議が行われました.その目的は,教会を現代社会に合わせて改革 (aggiornamento) することにありました.従来の古色蒼然たる保守的な律法中心主義によっていたのでは,信仰の本質を成す神の愛と救済の福音は現代社会にもはや伝わらない,という現場の司牧者たちの危機意識が,そのような改革を動機づけていました.

第二ヴァチカン公会議は,カトリック教会内部における現代の「宗教改革」運動の出発点です.それは,いまだに続いています.未完成のままです.改革の動きに対しては,保守派の側からの反動もあり,それもいまだに続いています.

ただし,そのような落ち着かない状態は,決して望ましくないことではありません.なぜなら,そのように完全な二分裂には至らないままに相互に作用し続ける弁証法的力動は,むしろ,教会の伝統に生き生きとした生命力を与えてさえいるからです.

ともあれ,2013年3月に選出された今の教皇フランシスコ[Francesco, フランチェスコ]は,改革派です.

着座5周年を記念するかのように2018年3月19日付で発表された新たな使徒的勧告 Gaudete et exsultate[喜びなさい,おおいに喜びなさい]において,教皇 Francesco は,聖書や教会の公式文書の文字づらに捕らわれた保守派の「律法に対する強迫的なこだわり」(nº 57) を批判し,それに対して,聖霊が愛を以てわたしたちを支え,わたしたちを聖性へ導いてくださるよう,願っています.

そも,教皇は,使徒的勧告をしめくくって,こう述べています:「以上の文章が,全教会が聖性の欲望 [ il desiderio della santità ] を奨励することに専念するために有用であることを,わたしは望む.聖霊に求めよう:神の最大の栄光のために,聖なるものでありたいという強い欲望 [ un intenso desiderio di essere santo ] をわたしたちのうちに注ぎ込みたまえ,と.そして,聖なるものであろうとする努力において,わたしたちは互いを助け合おう.そうすれば,わたしたちは,世がわたしたちから取りあげ得ない幸福を,分かち合うことになるだろう」(nº 177).

今のカトリック教会には,堅苦しい律法や保守的な道徳を押しつける否定的なイメージは当てはまりません.教皇 Francesco の教会は,そのような古色蒼然たる教会ではありません.逆に,愛の聖霊に満たされた喜ばしい共同体です.

「神は愛である」(第一ヨハネ書簡4章).そして,神の愛は,誰も排除せず,あらゆる人を包容します (God is Love excluding nobody, but including everybody).

神の愛の全包容性 (all-inclusiveness of God’s love) は,しかし,差異を廃絶するものではありません.すべてをひとつの全体へ無理やりまとめ上げてしまうような全体主義ではありません.

そうではなく,共同体がはらむ差異を差異として保ちつつ,それでも誰も排除されたり差別されたりすることのないように,各人の間の連帯を可能にし,共同体を共同体としてひとつに保つもの,それが,神の愛です.

2017年12月に着座した菊地功東京大司教様の標語は,「多様性における一致」(varietate unitas) です.それによって菊地大司教様が提示するカトリック教会のイメージは,まさに,神の愛の共同体のそれです:神の愛のもとで,神の愛によって,多様性が廃されずに,保たれたまま,しかし,分裂をきたさずに,誰も排除されず,誰も差別されず,あらゆる人が歓迎され,包容される教会.それが,今のわたしたちのカトリック教会の理想像です.

わたしたちは,LGBTCJ の活動をとおして,日本に暮らす LGBTQ+ の人々に,全包容的な神の愛の福音を宣べ伝えて行きたいと思っています.そして,そのことは,日本社会全体にも,特に,すさんだ日本社会のなかで苦悩している若い人々にも,救いのメッセージを伝える効果を持つことになるだろう,と思っています.

LGBTQ+ の人々に対して,社会において多数派である heterosexual かつ cisgender[transgender とは異なり,自身の生物学的性別と存在論的性別との間に顕著な解離の無い者]である者たちは,さまざまな偏見を持ち,みづから何らかの差別をし,あるいは,何らかの差別に加担してきました.特に,LGBTQ である子どもたちのなかには,学校などにおいてほかの子どもたちからいじめられ,仲間はずれにされる子も少なくありません.また,日本の法制度においては,同性どうしのカップルには結婚の権利が認められていません.

そのような状況において,LGBTQ+ の人々が自身の人間としての権利(人権)を積極的に護るために社会的な活動を展開して行くことを,わたしたち LGBTCJ は応援して行きたいと思います.

LGBTQ の社会的な運動は,第一義的には,「性の文化革命」のようなものではなく,而して,民主主義社会における人権擁護運動にほかなりません.日本のカトリック教会も,ほかの人権擁護活動におけるのと同様に,LGBTQ の人権擁護の運動を支援しないわけには行かないはずです.

多様性における一致が,まことに,神の愛のもとで実現されてゆきますように.

Tokyo Rainbow Pride 2018 で配布するためにこの冊子の増補改訂版を作成するにあたり,TRP 2017 の際に『LGBT とカトリック教義』と題して配布した冊子と,2017年10月に『教皇 Francesco の生と性の神学』と題して書いた LGBTCJ の blog 記事とを併合し,さらに若干の加筆を行いました.文体の不揃いは,敢えて手直しませんでした.

前書きの最後に,謝辞を述べておきたいと思います.LGBTQ+ の人々のカトリック教会への包容に積極的に取り組んでくださる神父様がたと,会場を快く提供してくださるカトリック施設の責任者の方々に感謝します.また,わたしたちのミサのために奉仕を惜しまない方々に感謝します.

神の愛と聖霊の恵みと主 Jesus Christ の優しさが,この冊子の読者の方々に常に寄り添っていてくださいますように.Amen.


ルカ小笠原晋也


序章

人間の sexuality と gender について,「神は,人間を御自身の似姿に創造なさった.神の似姿に人間を創造なさった.男と女として人間を創造なさった」,そして,男と女は「ひとつの肉になる」ように愛し合う,と聖書の冒頭の創世記には記されてはいても,そこには「男とは何か?」と「女とは何か?」の神学的な本質規定は明示されていないし,愛し合うふたりの人間がひとりの男とひとりの女とのカップルでなければならないことの神学的に必然的な理由も述べられてはいない.単純に,人間存在に関する素朴な性別男女二元論 (gender binarism) と,素朴な「世のならい」としての heterosexuality[自身の性別とは異なる性別の者を性愛パートナーとすること]とが,無反省的に想定され,前提されているだけである.

しかるに,人間の sexuality と gender の現実と真理は,そのような素朴さには還元され得ない.

人間の sexuality と gender に関しては,以下の三つの観点において論ずることが,今や一般的である:

1) sexual orientation[性的指向]:性愛対象の選択において,対象は異性であるか,同性であるか,どちらでもあり得るか,どちらでもあり得ないか,どちらとも定めがたいか,等々;

2) gender identity[性同一性]:単に生物学的にではなく,而して,存在論的に,わたしは男であるか,女であるか,男でも女でもあり得るか,男でも女でもあり得ないか,男であるか女であるかが流動的であり,どちらとも定めがたいか,等々;

3) gender expression[性表現]:社会生活において,自身の性同一性を如何なるものとして社会的に表現するか.

それらの観点を総合的に SOGIE ‒ Sexual Orientation, Gender Identity and Expression の頭文字 ‒ と呼ぶことがある.また,gender expression の観点を省いて,SOGI と呼ぶこともある.

SOGIE に関する人間存在の様態は,性染色体によって生物学的に一義的に規定され,固定化されたものではなく,而して,より多様であり,流動的であり得る ‒ それは,道徳規範の観点から容認し得るか否かにかかわらず,ひとつの人間学的な事実である.

カトリック教会が現代社会において神の愛の福音を宣べ伝えようとするとき,その事実を否定ないし否認したままでいることは,もはやできない ‒ 聖書に何がどう書かれていようと.さもなければ,福音宣教は不可能である.

そも,わたしたちの出発点は,「普遍的」な律法を一様に押しつることではなく,而して,さまざまな状況のなかで現に生きており,創造主にして救い主である神による救済を欲しているひとりの人間である.

聖書にはこう書かれてある,律法はこう規定している,と一般論を言い下すことは,始めから教会の扉を閉ざす態度を示しているに等しい.

そうではなく,まず,目の前にいるひとりの人を,わたしたちと同じく神の被造物である同胞として,神の愛と慈しみを以て歓迎し [ accogliere ], その人に寄り添い [ accompagnare ], その人が語ることに耳を傾け,その人が有する苦悩,困難,問題を分析し [ discernere ], さまざまな条件を考慮にいれつつ,その人を教会共同体の一員にする [ integrare ] ために包容する [ includere ] ‒ それが,教皇 Francesco が日ごろから奨励しているやり方である.

わたしたちは,教皇 Francesco の包容的な姿勢にならいたいと思う ‒ さもなければ,今の日本社会のなかで,特に若い世代の人々に,福音を伝えることはできない.律法を振りかざすなら,人々の耳は閉ざされたままとなるだけである.

SOGIE のことに戻ると,SOGIE に関する人間存在の多様性と流動性は,人間学的な事実である.聖書の創世記に記されている創造神話と世間の常識が無反省的に前提する規範に合致しないからといって,それを拒むことはできない.むしろ,積極的に受け入れるべきである.

であればこそ,我々は,最も頻繁に用いられる LGBT (lesbian, gay, bisexual, transgender) という表記ではなく,SOGIE に関して queer[非規範的]であることと questioning[自問し続けている]であることを表す Q を足した LGBTQ, さらには,「それ以外のものも包容する」ということを強調するために + の記号を付け加えた LGBTQ+ という表記の方をより好んで用いたいと思っている.

元来,queer は侮蔑的な意味で「変態」と訳し得るような差別語であったが,1980年代の終わりころから,sexual minority の研究者や活動家たちの一部がその語を「主流派の社会規範や道徳規範に積極的に違反し,反対し,批判的である」という姿勢を表現するために,肯定的に用い始めた.最も広い意味では,queer は sexual minority 全体を指し得るが,狭い意味では,SOGIE に関して非規範的,反規範的であることを指す.

したがって,homosexual や transgender の人々のなかでも,自身を queer と呼ぶことをみづから選ぶ人々と,主流派の価値観に自身を適応させる respectability politics を選ぶ人々との間には,言うなれば路線対立がある.後者のなかには,LGBT という看板を掲げて社会活動をすることを嫌う人々さえおり,他方,前者のなかには SOGIE に関するあらゆる差別に対する政治的な闘いを積極的に展開して行こうとする人々がいる.

わたしたちキリスト教徒は,Jesus 自身が queer であったことを忘れない.つまり,彼は,既成の社会規範に対して批判的であった:彼自身が規範からはずれていたし,また,彼は,規範からはずれた人々の側に慈しみを以て立つことを選んでいた.

歴史上,如何にキリスト教が社会や道徳の規範を成すものとして利用されてきたし,今もそうされているとはいえ,Jesus 自身の非規範性と反規範性は福音書に生き生きと描かれているとおりである.

社会の既成の価値観に迎合することは,本来,キリスト者のよしとするところではない ‒ なぜなら,「わたし (Jesus Christ) がこの世のものではないように,彼れら(Jesus の弟子たち)もこの世のものではない」(Jn 17,14.16) のだから.(注:本書において「彼」や「彼女」の代わりに用いられる「彼れ」は,gender neutral な人称代名詞である).

自身の SOGIE に関して問い続ける questioning も,それとして支えられるべきことである.既成のカテゴリーや概念のなかに安易に答えを見つけたつもりにならずに,自身の存在の真理に関して問い続けることは,単なる錯誤や迷いではなく,むしろ,存在の真理に誠実な生き方であるから.

神の似姿に創造された人間存在は,神御自身の存在の神秘に与っており,したがって,人間の知性や理性によって捉えきれるものではない.

「わたしは ...である」という identity[自己同一性]を見つけたつもりになり,そこに安住しているとすれば,そのような思い込みの方こそが自己欺瞞である.それは,真理に関してさらに問い続けることを妨げ,真理へ開かれる可能性を閉ざしてしまう.

したがって,わたしたちは,queer である人々と questioning である人々を積極的に歓迎する.そして,彼れらが queer であり続け,questioning であり続けることを,彼れらに寄り添いつつ,支えて行きたいと思う.

カテゴリーの細分化を好む人々は,asexual や aromantic などをさらに追加するが,それらのカテゴリーは「非規範的」という意味で queer のカテゴリーに含まれる,と考えてよいだろう.

また,何らかの先天的な条件によって身体の性分化や SOGI が非定型的となることがある.intersex や disorders of sex development[DSD, 性分化疾患]と呼ばれるカテゴリーである.LGBTQ の人々の場合は疾患がかかわっているのではないのに対して,DSD の人々の場合は身体的な疾患がある.彼れらが自身の sexuality や gender に関して有するかもしれない苦悩や困難については,別に考えて行くのが良かろうと思う.

最後に,pedophilia のことに触れておきたい.

pedophile は LGBTQ のカテゴリーのなかには含まれない.

同性の成人どうしが相互的な同意のうえで愛し合い,性的な行為を行うことは,もはや治療すべき精神疾患の症状とは見なされず,刑事責任を問われるべき犯罪とも見なされない(世界の一部の国々を除いて).それに対して,pedophilia は,児童や青少年を性欲対象とする一種の精神疾患(性倒錯)である.

pedophile たちが性本能を行為化すれば,それは,反人道的な強姦とならざるを得ず,被害者である子どもたちは非常に深刻な心的外傷を被ることになる.そのような行為については,弁明の余地はまったく無い.

pedophilia の患者の大多数は男性であり,性欲対象として男児を選ぶことが多いので,確かに,sexual orientation に関しては homosexual の人々と同様となる.しかし,性犯罪者となり得る性倒錯者を,そのものとしてはまったく反社会的ではない gay と同類と見なすことは,LGBTQ の人権擁護運動の観点からは,はなはだ不適切である.

また,後ほど立ち返って論ずるが,カトリック教会は pedophilia の問題に無関心ではいられない.というより,真剣に関心を向け,早急に抜本的な対策を取らねばならない ‒ 2002年以来,次々に暴露されてきている聖職者による児童の性的虐待の事件の頻発のゆえに.

『カトリック教会のカテキズム』(Catechismus Catholicae Ecclesiae : CCE) 等の教会の公式文書のなかで homosexuality が異様に厳しく断罪されているとすれば,それは,実は,pedophilia に対する断罪の歪曲された表現である,とわたしは推察する(後ほど詳論する).カトリック教会のなかで本当に厳しく断罪され,禁止されるべきなのは ‒ かつ,教皇庁もそうしたいと思っているのは ‒,聖職者の pedophilia であって,一般信徒の homosexuality ではないはずだ,ということは,聖職者による児童の性的虐待の深刻さを知る者の目には,今や明々白々であろう.


第1部 : LGBTQ とカトリック教義


§ 1.1. homosexuality と transgenderism に関するカトリック教会の伝統的な姿勢


§ 1.1.1. homosexuality に関するカトリック教会の伝統的な姿勢


homosexuality に関するカトリック教会の伝統的な姿勢は,『カトリック教会のカテキズム』 (Catechismus Catholicae Ecclesiae : CCE) nº 2357 に要約されている:

homosexuality とは,もっぱら – または,おもに – 自身と同じ性別の者に対して性的に惹かれる男どうしの – または女どうしの – 関繋を指す.それは,さまざまな時代や文化をとおして非常に多様な形態を取る.それが心的に如何に発生するかは,大部分,未解明のままである.同性どうしの性行為を重大な堕落として提示している聖書に基づいて,伝統は常にこう表明してきた:「同性どうしの性行為は,内在的に乱れたものである」.同性どうしの性行為は,自然法 [ lex naturalis ] に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.


それに続いて,nº 2358 では,こう述べられている:

無視し得ない数の男女が,根本的な homosexuality 傾向を現に呈している.この性向は,そのものとして乱れたものであり,彼れらの大多数にとって試練となっている.彼れらは,homosexual であるという自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼れらは,敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.homosexual の人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼れらがキリスト教徒であるなら,homosexual であるという条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう,呼びかけられている.


そして,最後に,nº 2359 でこう述べられている:

homosexual の人々は,貞潔 [ castitas ] であるよう呼びかけられている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼れらは,キリスト者としての完璧さへ,徐々に,かつ,決然と,近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.


まず,遺漏をひとつ指摘しておくと,フランス語版 CCE nº 2358には « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle »[彼れらは,homosexual であるという自身の条件をみづから選んでいるのではない]という文が,上の引用におけるとおりに見出されるが,日本語版には無い.同じ文は,Vatican の web site で公開されている CCE の各国語訳においても,欠落している.

CCE は,初版が1992年に出版され,その後,1997年に若干の増補改訂が加えられた決定版が出版されている.この « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle » という文は,おそらく1997年に追加されたものなのであろう.それに対して,Vatican の web site で公開されている各国語訳の CCE と日本語訳は,1992年版のままなのであろう.

ともあれ,この「彼れらは,homosexual であるという自身の条件をみづから選んでいるのではない」という命題は,「homosexuality は嗜好の問題だ」というよくある誤解 ‒ ないし,意図的な論点すりかえ ‒ を正すものとして重要である.ここでも,強調しておきたい.

CCE の nºs 2357-2359 において homosexuality に関して述べられていることに対する詳しい批判は,後ほど展開するとして,今はとりあえずこう言うにとどめておこう : homosexuality に関するそれら三つの段落を読む者が受ける印象は,こうでしかあり得ないだろう ‒ 如何に nº 2358 において homosexual の人々を受容するよう勧めていても,その効果は,nº 2357 における異様に厳しい homosexuality 断罪によってまったく打ち消されてしまっている.これでは,homosexual の人々は,カトリック教会のなかに救いを見出すことはできないと感じざるを得ない.カトリック教会は,彼れらに対して,みづから扉を閉ざしてしまっており,彼れらへ神の愛の福音を伝えそこなっている.



§ 1.1.2. transgenderism に関するカトリック教会の見解


他方,transgenderism そのものに関しては,カトリック教会は,それを主題として一般的な判断を公式に表明したことはいまだかつて一度も無い.

transgenderism に関して特に問題となるであろうのは,性別適合のための医学的処置(外科手術と性ホルモン療法)であろう(それらを必要だとは感じない transgender の人々もいるが).保守的な者たちは「性別適合の医学的処置は,神により与えられた身体を不当に損なうことだ」と考えるからである.

一般的判断ではなく,ひとつの個別例に関する判断は,既に公式に為されている.詳しく見てみよう.

2015年7月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,当時21歳だった transsexual man, Alexander Salinas(つまり,彼は,生物学的には女性である身体を持って生まれてきたが,存在論的には男性であり,性別適合手術を受けて,身体においても男性となった)が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.

この問題は LGBT 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は「司教の許可が出た」というデマも流れた.

そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,2015年9月1日付の司教声明 Comunicado del Obispo de Cádiz y Ceuta のなかで発表された:

その司教声明全文の翻訳は次のとおり:

或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:

洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること (CCE nº 1255). それらのことすべてのために,教会法は – なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである (Can. 874 § 1 1º et 3º). 必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.

わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:

「この問題について,わたし[当時,教理省長官であった Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理[引用者による強調]にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,「信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている」(Can. 874 § 1 1º et 3º) という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」

実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋 – それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedictus XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011年9月22日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇 Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理 – それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度 [ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si’, nº 155).

以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.

教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理 – を否定することはできない.


とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,原文を見れば明らかなように,実際には,transsexualism に関するものではなく,いわゆる gender theory に対する批判である.当時,教理省長官であった Gerhard Ludwig Müller 枢機卿は,恣意的な解釈のもとに,性別適合手術の不容認の根拠として教皇を不当に引用しているにすぎない.教皇 Francesco が transsexualism や性別適合手術の問題に関して公式に主題的に論じたことは,実際には,今までのところ一度も無い.

ともあれ,上に紹介した一個別例に関しては,教皇庁教理省は,transsexualism において必要とされる性別適合手術は「自身の性別の真理」[ la verdad del propio sexo ] に反するものであり,カトリック教義の観点からは容認され得ない,と公式に判断した.

その結果,何が起きたか? 当の Alexander Salinas 氏のカトリック教会からの離反である.当然であろう.カトリック教会は彼の「性別の真理」を認めようとしないのであるから.


§ 1.2. LGBTQ の人々の司牧に関する教皇 Francesco の新たな姿勢

2013年3月13日に選出された教皇 Francesco は,同性婚に関しては,カトリック教会内に修復困難な分裂を生じさせぬよう,それを公認することは慎重に避けている (cf. Amoris Laetitia nº 251) ものの, LGBTQ の人々のための司牧について,就任当初以来,より包容的な姿勢を積極的に打ち出している.

以下に,教皇 Francesco の LGBTQ に関する発言を幾つか紹介する.

まず彼は,2013年7月28日,Rio de Janeiro 訪問からの帰途の機上記者会見で,homosexuality について質問した記者への答えのなかで,こう言った:

Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla ?

或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?


それに続いて,CCE nº 2358 の文面を記憶で部分的に引用しつつ,彼はこう言った : homosexuality のゆえに差別してはならない.homosexual の人々を社会に迎え入れねばならない.

以上の発言を取り上げ直しつつ,教皇は,2013年8月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica によるインタヴューのなかでこう述べている:

Se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...)

Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : « Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ? » Bisogna sempre conside-rare la persona. Qui entriamo nel mistero dell’uomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia.

もしここに homosexual の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない.(...)

或るとき,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは homosexuality を容認するのですか?」それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの homosexual の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない – 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない.


このように,教皇 Francesco は,homosexuality を厳しく断罪する CCE nº 2357 から,homosexual の人々の教会への包容を説く nº 2358 へ,アクセントを明瞭に移動させている.

彼は,CCE nº 2357 で述べられていることは無効だ,と宣言したわけではない.そうではなく,「そう言われてはいても,しかし,LGBTQ の人々を神の愛し子として教会へ包容し,彼れらに司牧的に寄り添うことが可能になるように,聖書や伝統にもとづいて彼れらを断罪することはしないでおこう」と言っただけである.

ただそれだけのことで,しかし,彼は,世界中の LGBTQ の人々に救いの希望をもたらすことに成功した.

彼のそのような司牧的配慮を支えているのは,ときとして無慈悲であり得る律法中心主義を戒めつつ,人間ひとりひとりに寄り添ってくださる神の愛と慈しみを教義の中心に措定するキリスト中心主義である.

2016年4月に発表された使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]nº 250 において,教皇はこう述べている:

主 Jesus は,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主 Jesus の態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,homosexuality の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て –「あらゆる不当な差別の刻印」(CCE nº 2358) を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,homosexuality の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.


そこにおいては,上に引用したインタヴューで述べられていたことが,教皇の公式文書のなかで改めて明言されている.

また,2016年6月26日,アルメニア訪問からの帰途,機上記者会見において,教皇は「教会は homosexual の人々に赦しを請わねばならない」とまで述べている.その部分を引用すると:

Cindy Wooden (Catholic News Service) :

ありがとうございます,教皇様.2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は homosexual の人々に対する差別について gay community にお詫びしなければならない,と言いました[2016年6月23日,Trinity College Dublin で The Loyola Institute が « The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? » のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件[2016年6月12日に起きたフロリダ州 Orlando の gay nightclub Pulse における多人数殺傷事件]の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco :

教皇としての最初の旅行[2013年7月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』[ nº 2358 ] が言っていることです : homosexual の人々を差別してはならない;彼れらを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼れらに付き添わねばならない.

断罪され得ること – イデオロギー的な理由によってではなく,言うなれば,政治的行動の理由によって,断罪され得ること –,それは,他者に対してやや侵害的にすぎる或る種の言動です.それは,断罪されることもあるでしょう.しかし,そのような類のことは,homosexuality の問題とは無関係です.

問題がそのような事情 [ homosexuality ] を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は,何者でしょうか? 我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.

他方で,幾つかの国や文化のなかには,homosexuality の問題について異なる心性を有する伝統があります.

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきた gay の人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家族の家を訪れてはならないとされていたのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります.

赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください!

それは,我々が忘却している言葉です.

今,わたしは牧者になり,説教もします.いやはや,実のところは,こうです ‒ 慈しみ深い父のような司祭ではなく,冷酷な支配者のような司祭であったこと,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭であったことが,たくさんありました.

しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.

逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.

しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,と Jesus が言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが... お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.


以上に紹介したように,教皇 Francesco は,彼の包容的な司牧的配慮のもとに,カトリック教会内で伝統的であった律法中心主義的な homosexuality 断罪を否定しないままに放棄し,代わって,いかなる差別をも廃し,あらゆる者を神の愛と慈しみにおいて受容するキリスト中心主義的な姿勢を前面に打ち出している.

それによって教皇は,世界中の LGBTQ の人々に,神による救いの希望をもたらすことに成功した.

そのような教皇の姿勢は,あらゆるカトリック信徒にとって見習うべき手本となるものであろう.

また,教皇 Francesco は,2016年10月02日,Baku から Roma への帰途の機上記者会見で,transgender について初めて言及しつつ,こう述べた:

わたしの人生において,司祭として,司教として,そして教皇としても,わたしは,homosexual の人々に寄り添ってきました.彼れらが主に近づくことができるようにしてきました.そうできない人々もいましたが,わたしは寄り添いました.誰も見捨てませんでした.

Jesus が彼ら彼女らに寄り添うように,彼れらに寄り添わねばなりません.彼れらのような状況にある人が Jesus の御前にやってきたら,Jesus は「homosexual の者は立ち去れ」とは決して言わないでしょう.(...)

昨年,或るスペイン人男性 [ Diego Neria Lejárraga ] から手紙を受け取りました.彼は,自身の子ども時代と思春期のことをわたしに物語ってくれました.彼は,女の子でした.しかし,身体的には女の子なのに,自身を男の子と感じていたので,とても苦しみました.(...)[性別適合の]手術を受けて,スペインの或る町の公務員になりました.彼は,司教に会いに行きました.その司教は,彼に寄り添いました.良い司教です.それから彼は,戸籍上の性別も変え,結婚しました.そして,わたしに手紙を書きました.妻も一緒にお会いくだされば慰められます,と.そこで,わたしは彼と彼女に会いました[教皇は,住居としている Casa Santa Marta で,2015年1月24日,非公開に彼れらと接見した].ふたりは喜びました.(...)

人生は人生です.物事は起きるがままに受け取るべきです.(...)

[LGBTQ の人々]ひとりひとりを迎え入れ,寄り添い,その人をよく見て,分析し,統合します.今日,Jesus ならそうなさるでしょう.(...)

事は,道徳の問題であり,人間的な問題です.問題は,解決可能なように解決されねばなりませんが,常に神の慈しみを以て,真理を以て,解決されるべきです.(...) 常に開かれた心を以て.


教皇 Francesco の発言の紹介のしめくくりに,2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での彼の説教:「慈しみと包容」を引用しよう.確かに,そこにおいて教皇は,LGBT に特に言及はしていないが,しかし,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しており,« God’s love excludes nobody, but includes everybody »[神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する]という我々のスローガンを最も良く説明してくれている.包容 [ inclusion ] の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBTQ 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化している.

なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけるが,「包容」の方がはるかに適切な訳語であろう.

慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,Christ において,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,Christ のからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,Christ のからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活した Christ の大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,Christ の抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.


§ 1.3. LGBTQ に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点

先に § 1.1. において見たようなカトリック教会による homosexuality の断罪と性別適合医療処置の不容認の姿勢は,当然ながら,結果的に,LGBTQ の人々をカトリック教会から遠ざけることにならざるを得ない.そのような事態は,あらゆる者を包容する神の愛に適っているだろうか? 我々はそうは思わない.

伝統的なカトリック教義に含まれる幾つかの問題点が指摘される:

1) 聖書において「同性愛」として断罪されている性的行為は,実は,homosexual の者どうしの性行為ではない;

2)『カトリック教会のカテキズム』(Catechismus Catholicae Ecclesiae : CCE) nºs 2357-2359 を始めとする教皇庁の関連諸文書に見出される非常に ‒ あるいは,異様に ‒ 厳しい homosexuality 断罪が言わんとしていることは,実は,カトリック聖職者たちの一部に内在的な pedophilia に対して為されるべき断罪である;

3)「homosexual の人々どうしの性行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,異性カップルが愛し合うのと同様に同性カップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している;

4) 普遍的かつ不変的な lex naturalis[自然法]も,男女両性の complementarity[相互補完性]も,神話的な思念にすぎない;

5) transgenderism において問われている「自身の性別の真理」は,単に生物学的なものではなく,而して,本当の意味で神に与えられたもの,つまり,存在論的なものである.


§ 1.3.1. 我々の時代と社会において homosexuality と呼ばれているものは,何か?

我々の時代と社会において homosexuality と呼ばれているものも,homosexuality という語そのものも,本来,聖書や神学の語彙には属していない.

元来,Homosexualität という語は,19世紀後半にドイツ語において,Heterosexualität との対において新造された.そして,Homosexualität は,ドイツとオーストリアで臨床医および大学教授として仕事した精神科医 Richard von Krafft-Ebing (1840-1902) により,彼の1886年初版の著書 Psychopathia sexualis において,性倒錯 – つまり,性的な欲望の病理学的諸形態 – のひとつとして,精神病理学と司法医学の観点から初めて詳細に研究された.

そこにおいて Krafft-Ebing は,homosexuality は生得的なものであり,それについて当人の責任を問うことはできない以上,homosexual の者の性行為を刑法的に断罪することは公正ではない,と主張した.homosexual の人々どうしの性行為を処罰する国々が少なくなかった当時,それは初の脱刑事罰化の提唱であった.

先進国の大部分は,1980-1990年代に homosexual の人々の性行為を刑罰の対象とすることをやめた.しかし,おもにアジアとアフリカに位置する約70の国々では,それはいまだに続いている.

精神医学の領域では,1970年代に homosexuality の脱病理化が実現された.homosexuality はひとつの精神疾患とは見なされ得ない:なぜなら,homosexuality は,そのものとしては,「必ず主観的な苦悩を惹起し,または,有効な社会的機能性の全般的障害を伴う」(cf. DSM-III) ことはないからである.

以上のような脱刑事罰化と脱病理化のもとに,今,我々が homosexuality と呼ぶところのものは,このような事態である:すなわち,同じ性別に属する人々の間で,一方が他方に,または相互的に,性愛的に惹かれ,その結果,一方が他方を本当の意味で愛し,または,双方が本当の意味で愛し合い,かくして,もし好条件に恵まれれば – つまり,其のもとに異性カップルが永続的な絆を形成し得るところの諸条件と同様の諸条件に恵まれれば –,当該の二人は,永続する誠実なカップルを形成し,共に生きることができる.

今,我々が homosexuality という名称のもとに理解しているのは – そして,もしその語を「同性愛」と邦訳するなら,同性愛という名称のもとに理解しているのは –,そのような事態である.

homosexual の人々の一部は ‒ 特に,男性の homosexual の人々の一部は ‒,持続的なカップルを形成することを好まないようであるが,それは,彼れらに限られたことではなく,heterosexual の男性のなかにもそのような人々は存在する.

現在,同性婚が法制化されている諸国において,同性カップルの結婚の持続性と異性カップルの結婚の持続性とに統計学的な有意差があると結論する研究を,わたしは一度も見かけたことがない.


§ 1.3.2. homosexuality と聖書 – 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない

聖書のなかには,保守派によってhomosexuality を断罪するために長年利用されてきた箇所が幾つかある.それらは,clobber passages と呼ばれる.“clobber” は「激しく殴打して,叩きのめす」という意味の俗語的表現である.

いずれの箇所をそう呼ぶかは論者によって若干異なることがあるが,最も多く数えた場合,以下の八箇所が挙げられる:

創世記 19,1-29 ;
レビ記 18,22 および 20,13 ;
申命記 23,18 ;
ローマ書簡 1,26-27 ;
第一コリント書簡 6,9 ;
第一ティモテオ書簡 1,10
ユダ書簡 7.



§ 1.3.2.1. 旧約聖書における男性間の性行為の問題

現代社会において homosexuality と呼ばれているものが § 1.3.1. で見たようなものであるなら,旧約聖書の幾つかの箇所(創世記 19,1-29 ; レビ記 18,22 および 20,13 ; 申命記 23,18)において言及されている男どうしの性行為は homosexuality に関連するものではあり得ない.

創世記 19,1-29 には,こう物語られている:主の御使い二名(彼れらは男性の姿を取っていることが前提されている)がソドムを訪れる.ロトは,創世記18章においてアブラハムがそうしたのと同様に,彼れらを自宅に迎え,丁重にもてなす.ところが,ソドムの住民全員(すべて男性であることが前提されている)が,彼の客人を強姦するために,彼の家に押し入ろうとする.主の御使いは,罪深いソドムとゴモラを滅ぼす.

以上の一節にもとづいて,homosexuality は「ソドムの罪」と呼ばれることになる.

しかし,実際に聖書の当該箇所において示唆されているのは,明らかに,我々が今 homosexuality と呼んでいる事態ではなく,而して,性暴力である.

男が他の男に対して性的な暴力をふるう場合,その目的は,攻撃や殺傷であったり,侮辱であったり,暴力的支配であったりするだろう.いずれにせよ,そこにおいてかかわっているのは,死の本能であり,その現れとしての攻撃や破壊であって,gay 男性における性的欲望や性愛ではまったくない.

次に,レビ記.そこにおいて,主は,イスラエルの民に「聖なるものであれ,なぜなら,わたしは聖なるものであるから」(19,2) と命ずる.この聖性の命令こそ,神と人間との交わりの可能性の条件として,アブラハムを共通の始祖とするユダヤ教,キリスト教,イスラム教において,最も中心的な律法と見なされ得るだろう.そして,聖なるものであることの必要十分条件は,キリスト教においては,ヨハネ福音書において提示されている Jesus のこの命令:「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちは互いに愛し合いなさい」を実践し得ることである.

以上のことを踏まえて読むならば,「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」(Lv 18,22) と「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13) のふたつの条文(いずれも,男に向けて発せられた言葉であることが前提されている)においてかかわっているのは,旧約の文脈においては,聖性の命令の違反であり,新約の文脈においては,聖性の命令の違反をもたらす愛の命令の違反である.

ところで,真摯に愛し合う gay の男性カップルが,愛情深く性行為を行う場合,それは,愛の命令に対する違反となるだろうか ‒ coitus per anum を伴っていようといなかろうと?

本質的であるのは,カップルが性行為において真摯に互いに愛し合っているか否かであり,単純に性行為がいわゆる sodomy を伴っているか否かではない.

さらに,旧約の律法がユダヤ人男性一般に向けて語られたものであることを考慮するならば,レビ記の条文において想定されているのは,heterosexual の男が,性的衝動に駆られて,女性に対して姦淫や強姦を犯すのと同様に,男に対して – なぜなら,性行為の対象となる女性がその場に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して – 姦淫や強姦を犯すことである,と解釈するのが合理的であろう.古代ユダヤ民族において特に gay の男性のみを対象とする法律がわざわざ作られた,とは考えにくい.

第三に,申命記:「イスラエルの娘たちのなかに神聖娼婦がいてはならず,イスラエルの息子たちのなかに神聖男娼がいてはならない.娼婦の稼ぎや犬の給金を,汝が神,主の家に,献げものとして持ち来たってはならない.なぜなら,両者はともに,汝が神,主にとっては,忌まわしいものであるから」(Dt 23,18-19).

当該箇所ならびに列王記上巻 14,24 では,カナン地域の土着の神 Baal の崇拝との関連において,豊饒祈願儀式として神聖売買春が行われていたこと,および,そのような売春を行う者のなかには男も女もいたことが,示唆されている.

イスラエルの民のなかに神聖売春を行う者が存在してはならず,また,神聖売春により得られたものを主への献げ物としてはならない,という禁止は,当然ながら,主以外の神々の崇拝の禁止に包含されているものである.

古代ユダヤ教の律法において異神崇拝禁止との関連において禁ぜられた神聖売買春における男どうしの性行為が,我々が今 homosexuality と呼んでいるものとはまったく異質のものであることは,明白である.


§ 1.3.2.2. 新約聖書における同性間の性行為の問題

新約聖書に収録されている使徒書簡のなかで言及されている同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである.

ユダ書簡 7 については,それは,単に,創世記において物語られているソドムとゴモラに対する処罰の神話を取り上げ直しているにすぎないので,ここで詳しくは論じない.

まずは,ローマ書簡を改めて読んでみよう.その 1,17 において ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται[信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる]と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず [ ἀσέβεια ], 偶像 [ ὁμοίωμα εἰκόνος ] を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] について論じている.

そのような者たちは神の怒り [ ὀργὴ θεοῦ ] を受け,神は彼れらを,彼れらのこころの欲望において [ ἐν ταῖς ἐπιθυμίαις τῶν καρδιῶν αὐτῶν ], 不浄 [ ἀκαθαρσία ] と恥辱の熱情 [ πάθη ἀτιμίας ] へ引き渡す.それによって,彼れら,および,彼れらの一族(または家族)の女たちは,自然に反して [ παρὰ φύσιν ] 同性の相手と性関繋を持つことになる.

以上において明らかなように,聖パウロの論理は,「神を信じないがゆえに非正義であるならば,同性間性行為を行うことになる」ということであって,その逆:「同性間性行為を行うならば,非正義である」ではない.

むしろ,heterosexual の者が異性パートナーと行う性行為も,神を信じないことにおいて義ならざる偶像崇拝者たちが,愛も無しに,衝動のままに性交するのであれば,それは,断罪さるべき「忌まわしい」行為にほかならない.

また,ἀδικία[非正義]や ἀκαθαρσία[不浄]は,レビ記で述べられていた「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示唆している.つまり,聖パウロが念頭に置いているのは,レビ記の 18,22 と 20,13 によって規定されている禁止である.それが homosexuality にかかわるものではないことは,既に見たとおりである.

次いで,第一コリント書簡 6,9 と第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳には « pédéraste », 日本語訳には「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語の原文で聖パウロが用いている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには,「男と性交する男」である.

フランス語の pédéraste は παιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,古代ギリシア社会における παιδεραστία でも,現代社会における homosexuality でもなく,而して,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

しかも,それらの禁止の言葉が向けられているのは,heterosexual の男性にであって,homosexual の男性にではない.

今,日本において同性婚が合憲か違憲かを論ずる際には,このことを考慮に入れねばならない:すなわち,1946年に作成された日本国憲法においては,1948年に制定された世界人権宣言においてと同様,結婚したいと思う同性カップルの存在はまったく想定されていなかった.

憲法制定時に想定されていなかったことは,そこにおいて禁止もされていない.憲法24条に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として...」と述べられてはいても,それは,あくまで異性カップルの婚姻に関することであって,同性カップルの結婚を禁止するために書かれたものではない.

同様に,古代ユダヤ人社会 ‒ 聖パウロも,元来,そこに属していた ‒ においては,現代社会において homosexuality と呼ばれている事態は,想定されていなかった.律法の言葉は,すべて,heterosexual であることが当然のこととして想定されているユダヤ人男性一般に向けられていたのであり,特別に gay の男性を対象とするような命令も禁止もなかった.

現代社会において homosexuality と呼ばれているものに関する否定的な言説を聖書のなかに読み取る者は,聖書の文章がいつ,どこで,誰によって,誰のために,如何なる目的で作成されたのかを,考慮していないだけである.


§ 1.3.3. homosexuality に対する断罪の真理は pedophilia に対する断罪である

今,カトリック教会が直面している最大の試練のひとつは,疑いなく,世界各国における聖職者による児童の性的虐待の問題であろう.

2002年に USA で大々的に報道され始めて以来,Vatican も無視し続けることができなくなり,この問題にようやく真剣に取り組み始めた.

カトリック教会の長い歴史のなかで,それまでも問題が散発的に公になることはあったが,対応は,事件が起きた教区の司教にまかされていた.表沙汰になる前に司教によって事件はもみ消されるのが通例であった.スキャンダルによって教会の威信が傷つくことを恐れたからである.加害者である司祭は,処罰されることなく,ほかの役職へ異動させられるだけだった.被害者への対応はおざなりだった.

しかし,Vatican は,2001年以降,聖職者による児童の性的虐待が疑われるケースはすべて,歴史的なもの(何十年か前に起きたもの)も含めて,教理省 (Congregatio pro doctrina fidei : CPDF) へ報告させるようにし,Vatican が世界中の情報を一元的に把握し得るようにした.

Vatican が問題に真摯に取り組むようになって,被害者たちも,何十年も前に受けた虐待について語り始めた.

Vatican が2014年5月6日に発表したところによると,過去10年間に全世界で3,400件以上のケース(何十年か前に起きたものも含む)が報告され,848人の司祭が職を解かれた.時効が成立していない場合は,当然,刑事罰の対象となった.

聖職者による児童の性的虐待の問題が大々的に公になって以来,世界中でカトリック教会の権威は揺らいだ.特に,伝統的にカトリック信者が多数派であった国々で,信者の教会離れが進んだ.

カトリック教会は過去も現在も同性婚を認めていないが,今や約30ヶ国で同性婚は法制化ないし合法化されている.それは,少なくとも部分的には,そして,特に Ireland のように伝統的にカトリックであった国々では,聖職者による児童の性的虐待の事件によるカトリック教会の権威の失墜の効果である,と言われている.

pedophilia の性向を有する聖職者の存在とその問題の致命的な重大性に,Vaticanは,カトリック教会の長い歴史において,まったく気がついていなかったはずはない.しかし,抜本的な対策が取られることは,2001年以前にはなかった.

では,その間,カトリック教会は何をしていたのか?聖職者の pedophila について真剣に問う代わりに,homosexual の人々全体を異様に厳しく断罪してきただけである.

そのような Vatican の欺瞞性のただなかを高位聖職者として生きてきたのが,Joseph Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)である.

1927年生まれの彼は,1959年から1977年まで神学教授として大学で教えていた.第二 Vatican 公会議には,進歩派の神学者として参加していた.しかし,Karl Rahner や Hans Küng らのより進歩的な神学者たちに比しては,より保守的な方向性を保った.1977年に München und Freising 大司教に叙階され,同年,枢機卿に任命された.そして,1981年,教皇 Joannes Paulus II によって教理省長官に登用され,2005年4月に教皇に選出されるまでその職を続けた.1992年に発表された『カトリック教会のカテキズム』は,彼の指揮のもとに作成された.Joannes Paulus II が病気のために執務困難となった2000年以降は,彼は,実質的に Vatican の長の機能を果たした.2005年に教皇に選出され,2013年2月末に高齢を理由に隠退した.

このように,第二 Vatican 公会議以降,現在に至るまで,カトリック教会のなかで Benedictus XVI の影響力は,さまざまな面において絶大である.

homosexuality に関する『カトリック教会のカテキズム』(CCE) nºs 2357-2359 の文言は,ほぼ完全に,教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿の名において1986年に世界中の司教全員へ送られた書簡 Homosexualitatis problema[同性愛の問題]にもとづいている.そこには,homosexual の人々の司牧に関する彼の考えと指示が公式化されている.

CCE nºs 2357-2359 において homosexuality がどのように論ぜられているかを,改めて見てみよう:「聖書は,同性どうしの性行為を,重大な堕落として提示している」;「同性どうしの性行為は内在的に乱れたものである,とカトリック教会の伝統は常に表明してきた」;「同性どうしの性行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「homosexuality の性向は,そのものとして乱れたものである」.

そこには,非常に厳しい断罪が執拗に繰り返されている.「CCE の homosexuality に関するくだりを見ると,自殺したくなってくる」と述べる gay の人々もいるほどである.

それに比べて,ほかの罪に関しては,どう論ぜられているか?例えば peccatum mortale については如何?

peccatum mortale は,「大罪」と訳されるが,文字どおりには「致命的な罪,致死的な罪」である.それと対を成すのが,peccatum veniale である.「小罪」と訳されるが,正確には「赦される罪」である.それに比すなら,peccatum mortale は「赦され得ない罪」である.

peccatum mortale 一般について,例えば CCE nº 1861 はこう述べている:「愛 [ amor ] そのものと同様に,致命的な罪 [ peccatum mortale ] は,人間の自由のひとつの根本的な可能性である.致命的な罪は,愛 [ caritas ] の喪失と,我々を聖なるものにしてくれる恵み [ gratia sanctificans ] ‒ すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] ‒ の剥奪とを,もたらす.もし悔悟と神による赦しとによって贖われなければ,致命的な罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを惹き起こす ‒ 我々の自由は,とりかえしのつかない永続的な結果をともなう選択を為す能力を有している.しかしながら,我々は,或る行為について,それはそのものにおいて重大な過ちである,と判断し得るとしても,その行為をおかした人物についての裁きは,神の正義と慈しみに委ねるべきである」.

このように,peccatum mortale 一般については,「地獄での永遠の死」という脅しが提示されているとはいえ,贖いと赦しの可能性が十分に強調されている.

他方,妊娠中絶に関しては:「紀元一世紀以来,教会は,誘発された妊娠中絶はすべて道徳的に悪であることを断言してきた.この教えは,変わっておらず,今後も変わらぬままである.直接的な妊娠中絶 ‒ すなわち,目的または手段として欲せられた妊娠中絶 ‒ は,道徳律に重大に反している」(nº 2271) ;「妊娠中絶への正式な協力は,重大な過ちである.人間生命に対して犯されるこの罪を,教会は,破門という教会法上の刑を以て罰する.妊娠中絶を得んとする者は,その効果が実現するなら,その罪を犯したという事実そのものにより,かつ,教会法により定められた条件のもとで,破門の判決を受けることになっている」(nº 2272).

妊娠中絶に関しては,いかにも,非常に厳しい断罪が為されているが,胎児の人命が損なわれる事態の重大性に鑑みれば,理解できないではない.

ついでながら述べておくと,教皇 Francesco は,妊娠中絶の処置を受けた女性の罪を赦す権限を,司祭に与えている.

では,pedophilia と児童の性的虐待については,如何 ?

CCE のなかで homosexuality という語は用いられているのに対して,pedophilia という語は用いられていない.そして,児童の性的虐待に関する記述は,わずか二箇所において,しかも付け足しとして,見出されるのみである.

ひとつは,強姦に関する段落において:「強姦とは,或る人の性的な内密部へ暴力を以て侵入することである.それは,正義と愛に対する侵犯である.強姦は,あらゆる人が有する尊重される権利,自由の権利,身体的および精神的な不可侵性の権利を深く損なう.強姦は,被害者に一生残る傷跡をつけ得る重大な損害を生ぜしめる.強姦は,常に,内在的に悪しき行為である.さらに重大なのは,親によって為される強姦(近親相姦を参照),または,委ねられた子どもに対して教育者が為す強姦である」(nº 2356).

もうひとつは,上に参照が示唆されているように,近親相姦に関する段落において:「近親相姦とは,結婚の禁じられた親等の親族または姻族どうしの[性的に]親密な関係のことである.聖パウロは,特に重大なこの過ちを非難している:『あなたたちの間では,不品行のことしか話題になりません.(...) あなたたちのひとりが自分の父親の妻と同棲している,というほどに ! (...) 主 Jesus の名において,その者を肉の滅びのためにサタンへ引き渡さねばなりません』(1 Co 5,3-5). 近親相姦は,家族どうしの関係を損ない,獣性への退行を画する.また,子どもの性的虐待‒ 成人が,自身の保護下に委ねられた児童または青少年に対して為す性的虐待 ‒を,近親相姦に付け加えることができる.そのような性的虐待の場合,過ちは,子どもたちの身体的および精神的な不可侵性に対するスキャンダラスな侵害 ‒ 彼れらは,それによって一生残る傷跡をつけられる ‒ と,教育的責任の義務違反とによって,二重化される」(nºs 2388-2389).

homosexual の人々どうしの性行為は,強姦の場合を除けば(そして,強姦は,大多数の場合,heterosexual 男性が女性に対して為す犯罪である),双方が合意のうえで行われるものであり,それによって傷つく者はいない.「被害者」は誰もいない.むしろ,それは,ふたりの愛し合う者どうしの愛の確認と強化の効果を有するだけである.

それに対して,子どもの性的虐待は,非常に大きな,かつ,ほとんど消すことのできない傷跡を被害者に残し得る重大な犯罪である.いくら強く非難しても,いくら厳しく断罪しても,足りないほどである.

かくして,CCE において,児童の性的虐待の問題は,homosexuality の問題に比して,事態の重大性に鑑みるなら,明らかに,不適切に軽い扱いをしか受けていない,と言わざるを得ない.

この事態が示唆していることは,何か?それは,このことにほかならない:教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)を始めとするカトリック教会の中枢は,聖職者たちの一部に内在的な pedophilia の問題の重大性をしかるべく認識し,それに適切に対処する勇気を持つことができず ‒ 事が公になって,教会の威信が失墜することを恐れるあまり ‒,その代わりに,homosexuality 全体を不必要に厳しく断罪したのだ.

精神分析家として,わたしは,そこに,カトリック聖職者全体が自身に内在的な pedophilia を否認するために強固な homophobia を反動形成 (Reaktionsbildung, reaction formation) により作り上げた強迫神経症を見て取る.

我々は,こう断言し得る:カトリック教会による homosexuality に対する異様に厳しい断罪の真理は,カトリック聖職者の一部に内在的な pedophilia に対して為されるべき断罪(為されるべきであったが,実際には怠られてきた断罪)である.

実際,先ほども引用した CCE nºs 2357-2359 の文言において,homosexuality を pedophilia と読み替えてみれば良い:「pedophilia の行為は,重大な堕落である」;「pedophilia の行為は,内在的に乱れたものである」;「pedophilia の行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「pedophilia の性向は,そのものとして乱れたものである」.まったくそのとおり.異論を唱える者は誰もいないだろう.

Vatican は,聖職者において禁止さるべき pedophilia は homosexuality の一種であり,それゆえ,homosexuality 全体を厳しく断罪しておけば,それによってpedophilia にも厳しく対処したことになるはずだ,と暗に思い込んでいたのかもしれない.

確かに,pedophile 司祭の多くが性的対象として男児を選ぶ.しかし,序章において確認したように,homosexuality はもはや精神疾患とは見なされないのに対して,pedophilia は精神疾患としての性倒錯のひとつに分類され続けている.

Vatican が pedophilia と homosexuality とを混同しているとすれば,あるいは,前者を後者の一亜型と見なしているとすれば,それは不適切なことである.

そもそも,カトリック教会が homosexuality を忌避するようになったのは,修道院共同体の内部で男どうしが性的行為におよぶことを禁止するためであった.当初,禁止の対象は,修道士や司祭たちの homosexuality 行為に限られていた.そのような禁止が,教会の制度化の過程で,いつのまにか一般化され,信者全体に及ぶようになり,homosexuality そのものが罪悪と見なされるようになった.そして,その聖書的な根拠が,いわゆる clobber passages に求められた.歴史的な経緯はそのようなものであっただろう,と推察される.

1986年に Homosexualitatis problema を世界中の司教全員へ書き送り,1992年に CCEを完成させた Joseph Ratzinger 枢機卿は,2001年に USA において聖職者による児童の性的虐待の事件が大々的にあばかれ始めたとき,自身が犯してきた判断の誤りの重大性に気づかされ,愕然としたに違いない.

しかし,それをきっかけに,彼は,pedophilia の問題を否認したり回避したりすることをやめ,自身の判断の誤りの責任をみづから負った.2001年当時,彼は既にVatican の実質的な長であり,その後,2005年から2013年まで教皇座にあった.その間,カトリック聖職者の児童性的虐待問題の処理に,彼は敢然と取り組んだ.そのことは,彼の神学的業績とならべて,評価されてよいだろう.

調査が過去何十年もさかのぼって為されるべきケースも少なくなく,加害者も被害者も非常に多いので,この問題は完全な解決を見るにはいまだに至っていない.教皇 Francesco も,後処理に追われている.

しかし,この問題が明るみに出て,もはや否認し続けようもなくなったことは,カトリック教会がより健全なものになって行くためには当然,必要なことである.

残るは,CCE nºs 2357-2359 に記された homosexuality 断罪の文言の不適切性を教理省が認め,当該部分を削除するか,あるいは,書き改めるかすることである.

それが実現するのはいつのことになるか見当もつかないが,いずれにせよ,教皇Francesco は,それらの段落にもとづいて homosexuality を断罪しないよう,みずから手本を示している.

最後に,問うてみよう:カトリック聖職者であることと pedophile であることとの間には,何か本質的な連関があるのだろうか?

そのような問いを措定することが適切であるか否かを判断するには,一般男性人口に対する男性 pedophile の人数の比と,カトリック聖職者の総数に対する pedophile 聖職者の人数の比とを比較することが必要であるが,いずれに関しても正確な統計を得ることは非常に困難である.

アメリカ合衆国カトリック司教協議会の依頼により New York 市立大学の John Jay College of Criminal Justice が2004年に作成した報告書 : The Nature and Scope of Sexual Abuse of Minors by Catholic Priests and Deacons in the United States 1950-2002(合衆国において1950-2002年の間に起きたと申し立てられたカトリック司祭および助祭による未成年者の性的虐待の性質と展望:通称 John Jay Report)においては,USA において1950年から2002年の間に児童に対する性的虐待の疑惑を申し立てられた司祭の数の司祭総数に対する比は約 4 % である,と述べているが,この数字の意義は定かではない.

児童に対して性的虐待を為す者たちも,精神病理学的に均質なグループを成すわけではない.

しかし,もっぱら男児を性欲対象とする男性 pedophile については,次のような精神病理学的構造が推定されている:すなわち,対象男児との彼の関繋は,彼の母親と子供時代の彼自身との関繋の再現である.そこにおいて,彼は,欲望 ‒ 特に,Freud が Penisneid[ペニス妬み]と名づけたもの ‒ において,自身の母親と同一化している.そして,彼の子供時代に彼の母親が彼において phallus を欲していたように,今,彼は,彼の母親との同一化において,対象男児において phallus を欲している.

敬虔なカトリック信者である女性が自身の息子を Penisneid の対象とした場合,彼女はこう欲するかもしれない:彼女の息子が,彼女にとって最も理想的な phallusを有する男性としての神父になって欲しい.

息子がそのような母親の欲望にしたがって神父になった場合,Penisneid における母親との同一化において,彼は,身近にいる男児のなかから性欲対象を選ぶことになる.

少なくとも,カトリック聖職者による児童の性的虐待のケースの一部においては,以上のような構造がかかわっていることが推定される.

そのようなケースは,精神分析によって治療が可能であるかもしれない.わたし自身は,そのような司祭を治療したことはないし,そもそも pedophile の患者を扱ったこともない(性倒錯者が,性倒錯そのものを理由にして治療を求めてくることは,まず無い)が,理論的には以上のように考えることができるだろう.

もしカトリック聖職者のなかに pedophile である人々がいまだに残っているとするなら,彼らは,CCE nºs 2358-2359 の文言は,homosexual の人々にではなく,彼らに向けられたものであることを自覚すべきである.そこにおいて,homosexual を pedophile と読みかえれば,こうなるのだから:

pedophile の者たちは,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼らがキリスト教徒であるなら,pedophile であるという条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう,呼びかけられている.

pedophile の者たちは,貞潔であるよう呼びかけられている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼らは,キリスト者としての完璧さへ,徐々に,かつ,決然と,近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.



§ 1.3.4. 同性愛行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

「同性愛行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,男女のカップルが愛し合うのと同様に同性愛者のカップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している.

「同性愛行為は,生殖を目的としない快楽追求にすぎない」という偏見は,実際には,「同性愛行為においては生殖は不可能であるがゆえに,同性愛行為は快楽追求にすぎない」という思念に基づいている.

確かに,同性どうしの性関係は生物学的な意味における生殖活動を包含し得ない.しかし,だからと言って,それが単なる快楽追求であるということにはならない.

実際,教皇 Francesco は Amoris laetitia nº 125 において Gaudium et spes を引用しつつこう述べている:

さらに,結婚は,熱情に固有の音調を含む友情であるが,常により堅固かつ強固な絆となるよう絶えず方向づけられている.そも,「結婚が制度化されているのは,生殖のみを目指してではなく」,而して,相互的な愛が「その廉直さにおいて表現され,進歩し,花開く」ためである (Gaudium et spes, nº 50). ひとりの男とひとりの女との間のこの特別な友情は,ひとつの全包含的性格 – それは,夫婦の絆においてのみ見出される – を有するようになる.まさに全包含的であるがゆえに,その絆は,第三者を容れないものでもあり,互いに忠実でもあり,生殖へ開かれてもいる.ふたりは,相互的敬意において,すべてを – sexuality をも – 分かち合う.そのことを第二 Vatican 公会議はこう言って表現した:「そのような愛は,人間的なものと神的なものとを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く.それは,優しさの感情と所作によって顕わされる.そして,それは,夫婦生活全体に浸透する」(Gaudium et spes, nº 49).


そのような相互的自己贈与としての相互的愛は,異性どうしのカップルにおいてだけでなく,同性どうしのカップルにおいても勿論可能である.そのことは,既に同性婚が法制化されている諸国において,あまたの実例によって証明されている.

また,カトリック信徒にとって,procreation[生殖]は単に生物学的意味において子孫を作ることではない.より本質的なのは,次世代へ信仰を伝達することである.procreation は,新たな信徒を生み出すことを包含しており,むしろそのことこそが procreation において肝腎なことである.

だとすれば,同性カップルが養子を取り,その子を愛情と信仰を以て育て,その子に神の愛を伝えることができれば,それは,生物学的生殖に勝るとも劣らない procreation である,と言うことができるだろう.

実際,同性婚が法制化されており,同性カップルが養子を取ることも認められている諸国においては,同性カップルの子どもたちは,異性カップルの子どもたちと同様に,幸福に育っている.むしろ,望まずに子どもができてしまった異性カップルの子どもより,心から子どもが欲しくて養子を取った同性カップルの子どもの方が,より健康的で幸福である,という報告もある :

Parent-reported measures of child health and wellbeing in same-sex parent families : a cross-sectional survey
Simon R Crouch et al.
BMC Public Health (2014) 14:635


§ 1.3.5.「自然法」(lex naturalis) の神話と男女両性の「相互補完性」(complementaritas) の神話

既に見たように,CCE (Catechismus Catholicae Ecclesiae) nº 2357 には,こう述べられている:

同性どうしの性行為は,自然法 [ lex naturalis ] に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性 [ complementaritas ] から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.


また,CCE nº 372 には,こう述べられている:

男と女は「互いのために」造られている.神は,男と女を「半人前」の「不完全」なものとして造ったわけではない.神は,男と女を personarum communio[人と人との交わり]のために創造した.その交わりにおいては,一方は他方の「助け」であり得る.なぜなら,男と女は,同時に,人として平等 [ aequales ] であり,かつ,男女として相互補完的である [ sese mutuo complent ] からである.結婚において,神は男と女を結び合わせる – 男と女が「ただひとつの肉」と成って (Gn 2,24), 人間生命を[子孫へ]伝え得るように : « Crescite et multiplicamini et replete terram » (Gn 1,28). 人間生命を子孫へ伝えることにおいて,男と女は,配偶者および親として,無類のしかたで創造主の御業に協力する.


さらに,1986年に Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)が教理省長官として世界中の司教全員へ宛てた書簡 Homosexualitatis problema の nº 6 には,こう述べられている:

創世記に包含されている創造の神学こそが,homosexuality が措定する諸問題の適切な理解のための根本的な観点を提供してくれる.神は,無限なる知恵と全能なる愛とにおいて,万物を,神の善意の反映として,現存へ呼び出す.神は,御自身の写しや似たものになるよう,人間を男と女として創造する.したがって,人間は,神の被造物のうちで,男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] をとおして創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映するよう呼ばれている被造物である.この任務を,人間は,夫婦が相互に自己贈与することによって生命を[子孫へ]伝えることにおいて神と協力するとき,無類のしかたで果たす.


察せられるように,自然法 (lex naturalis) と男女両性の相互補完性 (complementaritas) とは,密接に関連している.自然法によれば,当然,男女は相互補完的であらねばならないことになるからである.

ところで,カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものは,如何なるものか?

それは,いわゆる道徳神学の領域の概念である.CCE nº 1952 において,こう述べられている:

道徳律 [ lex moralis ] の表現は多様であり,道徳律の多様な表現はすべて,相互に協調されている:

もろもろの律法すべての神における源である永遠の律法 [ lex aeterna ] ;

自然法 [ lex naturalis ] ;

旧約の律法と新約の律法 ‒ または,福音の律法 ‒ とを含む啓示された律法 ;

市民法および教会法 [ leges civiles et ecclesiasticae ].


カトリック教義における自然法の概念は,おもに,聖 Thomas Aquinas が Aristoteles に準拠しつつ作り上げたものである.現代のカトリック神学のなかでは,いわゆる modernisme に対抗する保守派の néo-thomisme または néo-scolastique が,自然法の概念を重要視する.

Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)は,自然法の概念を CCE のなかに取り入れたことにおいては,néo-thomiste な考え方をしていることになる ‒ 第二 Vatican 公会議のときには,現代社会におけるカトリック信仰の可能性について積極的に思考しようとする nouvelle théologie[新神学]の側の神学者のひとりと見なされていたにもかかわらず.

ともあれ,信仰と神学における悪しき相対主義を批判する Ratzinger 枢機卿は,自然法への準拠は道徳神学における相対主義を退けるために必要なことだ,と考えたのであろう.

自然法は,実定法のように成文化されたものではなく,而して,人間 ‒ Aristoteles が ζῷον λόγον ἔχον[理性を有する動物]と定義し,それにならって Thomas Aquinas が animal rationale[理性的な動物]と定義した人間 ‒ に本性的 [ natural ] に備わっていると想定される理性に由来するもの,または,理性そのもののことである,と考えられている.

CCE nº 1954 では,こう述べられている:

[理性を有する動物として]人間は,創造主の知恵と善意に与っており,創造主は,人間に,自身の行動の制御と,真理と善とにしたがって自身を支配する能力とを,与えている.自然法は,本源的な道徳感覚 ‒ それは,何が善であり悪であるか,何が真理であり虚偽であるかを,理性によって識別することを,人間に可能にする ‒ を表現している.

自然法は,善を為すよう命じ,罪を犯すことを禁止する〈人間の〉理性であるのだから,人間すべての ‒ かつ,各人の ‒ 魂のなかに書き込まれ,刻み込まれている.(...) しかし,人間の理性が定めることは,より高位の理性[すなわち,神の意志]‒ それへ我々の精神と我々の自由は服従せねばならない ‒ の声かつ通訳であるのでなければ,律法の効力を持ち得ないだろう.


理性を有する動物としての人間に本性的に備わっているものであるので,自然法は,普遍的であり,決して変わることはなく,永遠に保たれるものである,と思念されている.

また,CCE nº 1955 が「神により与えられた自然法 [ lex divina et naturalis ] は,善を為し,目的に到達するために取るべき方途を,人間に示す」と述べていることに示唆されているように,自然法は aristotélico-thomiste な目的論 [ téléologie ] を包含しており,そこにおいては,すべては,causa prima[第一原因]としての神から発し,そして,究極的な目的である summum bonum[最高善]としての神へ向かう.自然法が命ずる倫理的な選択は,そのような目的論に適っている,と思念されている.

カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものが以上のようなものであるなら,確かに,「ひとつの肉となる」よう創造された男と女の関係は,相互補完的であり,かつ,「多産であれ,繁殖せよ,地を満たせ」との祝福のもとで,生殖を目的とする,と考えるのが当然である,と思念されることになる.

しかし,Martin Heidegger が「存在の歴史」(Geschichte des Seyns) として展開した形而上学批判を学んだ我々にとっては,自然法の基礎を成す Aristoteles と Thomas Aquinas の形而上学は,そもそも,現代においてはもはや無効である.

人間の本質は,λόγος[理性]を有する動物であることに存するのではない.人間は,Λόγος[神の御ことば,言語]のなかに住まう存在としての現場存在 (Dasein) である.

神は,causa prima ないし causa sui と呼ばれる存在事象にも,summum bonum と呼ばれる存在事象にも,還元され得ない.それらのようなものとしての神は,「哲学者と神学者の神」であって,「Abraham と Isaac と Jacob の神」ではない.

Heidegger (GA 11, p.77) は,暗に Pascal に準拠しつつ,こう述べている:

Causa sui としての原因 ‒ 哲学における神にふさわしい名は,それである.そのような神に,人間は,祈ることも,献げものをすることもできない.Causa sui の前で,人間は,畏怖から跪くこのもできなければ,そのような神の前で音楽を奏でたり踊ったりすることもできない.それゆえ,神無き思考 ‒ 其れは,哲学の神,Causa sui としての神を放棄せねばならない ‒ の方が,おそらく,神的な神により近しいだろう.それは,ここでは,ただ,この謂である:神無き思考の方が,Onto-Theo-Logik が自認しているよりも,神に対してより開かれている.


では,「哲学者や神学者の神」を神と取り違えることをやめるためには,どうすればよいか?

Heidegger の「存在の歴史」,および,彼が我々に示唆する否定存在論 (apophatische Ontologie) に準拠すればよい.

のみならず,形而上学,および,その歴史必然的な帰結である Nihilismus の超克のためには,否定存在論に準拠するしかない.

否定存在論は,次の四つの場所から成るトポロジックな構造として展開される:

存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] の場処 [ Ort ] ;

存在事象そのもの全体の場処に対して「解脱実存的」[ ek-sistent ] である Sein存在 : 抹消された存在]の在処 [ Ortschaft ] ;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離する存在論的差異 [ die ontologische Differenz ] の切れ目,ないし穴;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離しつつ結合する Austrag[解和]の結合縁 (le bord nodal).


Heidegger が「存在の歴史」として展開した形而上学批判によれば,Platon が ἰδέα[イデア]を τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]として措定したことに始まる形而上学は,それによって,存在事象そのもの全体の場処と Sein の解脱実存的な在処とを分離する存在論的差異の穴を塞いでしまい,Sein をそのものとして思考することできなくしてしまった.τὸ ὄντως ὄν は,ἰδέα 以降,Aristoteles においては ἐνέργεια や ἐντελέχεια と呼ばれ,スコラ哲学においては essentia, causa prima, summum bonum などと呼ばれ,近現代哲学においては Subjekt[主体,主観]や Wille[意志]や Wert[価値]などと呼ばれてきた.しかし,今や,形而上学が Sein をそのものとして思考し得なかったがゆえに必然的に行き着いた Nihilismus[虚無主義]において,形而上学が τὸ ὄντως ὄν と見なしてきたものは何ものでもないことがあらわとなった.

では,どうするか?まずは,新たな τὸ ὄντως ὄν として持ち出して来られるかもしれない何かを探し求めるのをやめ,Sein の Ek-sistenz の在処をそれとして支える否定存在論的なトポロジー構造をわきまえることである.

もはや神は causa prima や summum bonum と呼ばれる存在事象ではなく,理性においてあらゆる真理がすべて書かれ得るわけでもなく,そのような理性に準拠する自然法が普遍的かつ不変的な律法として可能なわけでもない.

神の Sein は,神秘である.それは,書かれないことをやめないものである.

神の存在の真理にもとづいて「理性」が道徳的な善と義のすべてを,潜在的にであれ,既に書きあげてある,という自然法の形而上学的な想定は,神の 存在 の神秘に対する冒瀆でさえある.

我々が立ち返るべき神は,「哲学者や神学者の神」ではなく,而して,「神は愛である」の神である.誰をも裁かず,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を迎え入れ,包容する神の愛である.

Heidegger が Austrag[解和]と呼んだものも,存在事象の場処と Sein の在処との間の差異を差異として保ちつつ,両者を結合し,和解させることを可能にするものとしての神の愛にほかならない.

もはや,形而上学において「理性を有する動物」と定義された人間に「本性的」に備わっているはずの理性や自然法が,道徳神学の基礎を成すのではない.

そうではなく,今や道徳神学の基礎となるのは,Jesus Christ が「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合いなさい」と言って我々に与えた愛の命令であるはずである.

では,そのとき,「男女両性の相互補完性」については如何?

上に見たように,Homosexualitatis problema において,Ratzinger 枢機卿は,「男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] は創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映する」と論じていた.

つまり,「ただひとつの肉と成る」ことを可能にする「男女両性の相互補完性」は,申命記 6,4 において「聴け,イスラエル!」の呼びかけに続いて「我れらの神,主は,一なる主である」と公式化される神の単一性を反映するもの,と思念されている.

ところで,「男女両性の相互補完性」とは,より正確に考察してみるなら,如何なるものか?

男女それぞれの性器の解剖学と生理学が,男女が「ただひとつの肉と成る」ことを保証しているのか? そのような男女の「性器的」相互補完性の思念は,「ただひとつの肉と成る」ことの神学的な理解としては,あまりに素朴であり,粗雑であろう.

この「男女両性の性器的な相互補完性」という「常識」的で「普遍」的な思念が実は単なる神話にすぎない – Sigmund Freud が著書 Totem und Tabu[トーテムとタブー]で提示した Urvater[源初の父]の神話と同様に,まったくの作り話にすぎない – ということは,ラカン派精神分析家である筆者にとっては,一目瞭然である ‒ Lacan の一見逆説的な公式 :「性関係は無い」[ il n’y a pas de rapport sexuel ] にもとづくなら.

医学や心理学を含む世の臆見においては,こう思念されている:性本能 [ sexualité, Sexualität または pulsion sexuelle, Sexualtrieb ] の発達がその完成段階としての性器的成熟に至ると,異性間の性器的な性交の行為において,性本能の十全な満足が成就される.それ以前の未成熟な段階においては,性本能は,前性器的な部分客体(たとえば,口唇にとっての乳房とその等価物,肛門にとっての糞便とその等価物,等々)において,あるいは,自慰行為において,不完全で不十分な満足をしか得ることができない.

性本能の満足のことを,Lacan は jouissance[悦]と呼んでいる.その用語によれば,未成熟な前性器的段階における満足は plus-de-jouir[剰余悦]と呼ばれ,成熟した性器段階における満足は「性器的悦,性器悦」[ jouissance génitale ] ないし「性的な悦,性悦」[ jouissance sexuelle ] と呼ばれる.

Lacan の命題 :「性関係は無い」は,「性器悦は不可能である」ということである.

なぜ性器悦は不可能であるのか?それは,それを可能にするかもしれない性器 phallus は,実際には,不可能であり,存在事象の領域には欠如しているからである.

常識的な思念において「性的」な満足と見なされているものは,不可能な性悦の代わりに,さまざまな前性器的ないし非性器的な客体において得られる剰余悦にすぎない.

男が持ち得る関繋は,悦が固着した諸客体との関繋のみである.それら客体は,本質的に fetish であり,女の存在との直接的に統一的な交わりに入ることを妨げる.

他方,女は,自身をそのような fetish にし,本来的な自己ではない fetish としてのみ男の欲望と関繋し得る.もし女が fetish としての自身を廃することを敢行するなら,彼女は,アビラの聖テレサのごとく神秘的な解脱状態に陥るが,しかし,そのような場合,彼女のパートナーは,もはや人間としての男ではなく,神そのものである.

精神分析の臨床的な作業は,悦の非性器的な固着を解消することに存する.しかし,そのような作業の結果として,男女両性の間の性器的な交わりが可能になるわけではない.

精神分析の経験においては,古代にエジプトやギリシャで広く行われていたかもしれない秘儀におけるように phallus の仮象が啓示されるのではなく,むしろ,phallus の欠如 – Freud が「去勢」と呼んでいた欠如 – の穴こそが顕わとなる.それが,Lacan が公式「性関係は無い」を以て指し示す穴である.

その穴は,不安 – Freud が「去勢不安」と呼んでいたもの – を惹起する.症状は,その不安をごまかすために穴を剰余悦で埋め合わせることに存する.精神分析治療は,逆に,穴を新たな剰余悦で埋め合わせるのではなく,口を開いた穴が惹起する不安に耐えることを可能にする.

「性関係は無い」の穴のゆえに「男女両性の性器的な相互補完性」は不可能であるのだから,男と女との関繋を特権化することは正当化され得ない.ふたりの人間の性器的な相互補完性は,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,同じように不可能である.

我々は,むしろ,こう指摘することができるだろう:神の「内的な単一性を反映」し得るのは,男女の「性器的」相互補完性ではなく,而して,Gaudium et spes nº 49 で説かれているような愛の絆である.

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に,誠実に,情熱的に愛し合うとき,「その愛を,主は,主の恵みと主の愛を特別に賜ることによって,癒し,完成し,高めてくださる.そのような愛は,人間的な愛と神的な愛とを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く」(Gaudium et Spes, nº 49).

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間がそのように愛し合うとき,それこそは優れて,一なる神の愛の徴である.

ふたりの人間の愛の関係と愛の行為は生殖を目的とせねばならない,という思念は,現代においてはもはや有効とは認められ得ない téléologie aristotélico-thomiste のものにすぎない.


§ 1.3.6. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題

transgenderism という人間的事実は,「自身の性別の真理」とは何のか?という問いを,我々皆に突きつける.

transgender の人々は,典型的には,言語の世界に住み始めるやいなや,つまり,早くも満 1, 2 歳のころから,解剖学的・生理学的性別とは異なる側の性別の人間として存在し,生きる.

例えば,男の子の身体に生まれてきても,女の子向けの服装やオモチャを「本能的に」選び取る.あるいは,杉山文野氏は,自伝『ダブルハッピネス』(講談社文庫,2009年)において,「ものごころついてからずっと,気持ちは『僕』なのに,からだは女だった.以来,僕はずっと,女体の着ぐるみを身に着けているかのような感覚のまま,人生を過ごしてきた」と証言している.

ところで,こう問うてみよう : transgenderism は,生物学的性別と心理学的性別との解離へ還元され得るか?言い換えると,transgender 問題は,いわゆる心身二元論の展望において適切に思考され得るか?

否.逆に,もし然りと答えるなら,conversion therapy と呼ばれる一種の認知療法を正当化することになるだろう.そこにおいては,自身の性別の認知(いわゆる性自認)と生物学的事実との解離を解消するためには,「自身の性別の真理」である身体的性別に合致するよう,誤った認知を矯正すればよいのだ,と思念されている.

ついでに指摘すれば,「性自認」という表現そのものが,自身の性別の真理は身体的性別の側に存するという想定を既に暗に受け入れており,conversion therapy と呼ばれる認知行動療法の余地を残してしまっている.

性同一性に関してではなく,性的指向に関してであるが,いわゆる conversion therapy は,治療的に無効であるばかりか,患者を自殺へ至らせることさえあるがゆえに,容認され難いものだ,ということは,American Psychological Association[アメリカ心理学協会]が,2009年に発表した報告書 Appropriate Therapeutic Responses to Sexual Orientation において,既に結論づけている.性同一性に関する認知行動療法についても,同様に,無効かつ有害である.

さて,transgenderism という人間的事実により措定される本質的な問題をより適切に思考するために,心身二元論を超克して,こう定式化しよう : transgenderism は,存在事象的な性別 [ ontic sex ] と存在論的な性本能 [ ontological sexuality ] との存在論的な解離に存し,その解離においては,存在事象的に男性である者が存在論的には女性であり,存在事象的に女性である者が存在論的には男性である,という事態が成立する.

そして,「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的な性別の側にではなく,而して,存在論的な性本能の側にである.

そのような存在論的観点から,我々は,人間存在に関する同様の解離を聖パウロが第一コリント書簡 15,42-44 で論じているのに気づく:

死者の復活についても同様である.朽ち果てるものとして種蒔かれても,朽ちることなきものとして復活する.卑しいものとして種蒔かれても,栄光において復活する.弱きものとして種蒔かれても,力に満ちて復活する.σῶμα ψυχικόν[生物的身体]として種蒔かれても,σῶμα πνευματικόν[霊気的身体]として復活する.σῶμα ψυχικόν があれば,σῶμα πνευματικόν もある.

一方に存在事象的性別と存在論的性本能との区別があり,他方に σῶμα ψυχικόν と σῶμα πνευματικόν との対置がある.それらふたつの対立は,合同である.

かくして,我々はこう言うことができるだろう:「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的性別ないし σῶμα ψυχικόν の側にではなく,而して,存在論的性本能ないし σῶμα πνευματικόν の側にである.

なぜなら,神の創造の真理が存するのは,死すべき生物の σῶμα ψυχικόν の側にではなく,永遠の命において我々が生きるところの σῶμα πνευματικόν の側にであるから.

性別の真理は,単に解剖学的・生理学的性別のものではなく,而して,存在論的な性別のものである.そして,後者こそが,本当の意味で神に与えられたものである.

かくして,transgender の人々のための医学的性別適合処置は,神によって創造された身体を不当に損なう冒瀆的な人為ではなく,むしろ,神の創造の真理を尊重することである.なぜなら,それは,存在事象的な σῶμα ψυχικόν を存在論的な σῶμα πνευματικόν に合致させようとすることであるから.

transsexual の人々は,持って生まれた性別の身体に非常に強い違和感を覚えており,そのため,欝状態に陥ったり,自傷行為を繰り返したり,自殺してしまうことすらある.性別適合手術は,彼ら・彼女らの精神的な救いとなる限りにおいて,容認されるべきである.その不容認は,彼ら・彼女らに対する非常に不寛容にして残酷な態度であり,非人道的との批判を免れ得ないだろう.

教皇 Francesco が同性愛者について言ったように,こう言うことができるだろう:或る人が transgender であり,主を求めており,善意の人であるなら,彼ないし彼女を医学的性別適合処置のゆえに断罪する我々はいったい何者か?

ただし,我々は次のことをも考慮に入れておかねばならない:

理想的なのは,性別男女二元論が社会的固定観念としては克服され,規範に合致しない queer な人々が queer なままで存在することができる社会である;

transgender の人々が性別適合のための医学的処置を必要とすると感ずるとすれば,そのような事態の原因は,transgender の人々の側にだけあるのではなく,性別男女二元論に凝り固まった社会の側にもある.むしろ,後者の要因の方がより決定的かもしれない;

transgender の人々が今かかえているかもしれない心理的な問題の責任は,大部分,性別男女二元論が支配的な社会の側にある.社会の transgender 受容力ことが,問われるべきである;

transgender の人々にとって,家族や学校などの適切なサポートが非常に重要である.そのようなサポートを受けている場合,自殺や欝の危険性は,そうでない場合に比べて有意に低いことを示す研究 ‒ 例えば : Olson KR et al., Mental Health of Transgender Children Who Are Supported in Their Identities. Pediatrics. 2016;137(3) ‒ が発表されている.


§ 1.3.7. LGBT-phobia の克服と食のタブーの克服 – 神の愛の福音を伝えるために必要なこと

注)この節は,2017年5月30日付の blog 記事の転載である.文体は,もとの記事のままにしておく.


5月17日は International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia (IDAHOT) でした.「LGBT 差別に反対する国際記念日」とでも翻訳し得るでしょうか.

しかし,« -phobia » は,むしろ,差別を動機づける「嫌悪」を指しています.

日本語で「生理的嫌悪感」と言います.その直訳に相当する表現は,英語やフランス語には見当たりません.「生理的に嫌悪感を感じさせる」は,英語では disgusting, nauseating, フランス語では dégoûtant, nauséabond, ドイツ語では widerlich, ekelhaft などと言うでしょう.nauseating, nauséabond, ekelhaft は,文字どおりには「嘔気を催させる」です.

食生活に関するタブーを有する宗教があります.それらの宗教の信者たちにとって,禁止された食材は吐き気を催させるでしょう.例えば,ユダヤ教徒やイスラム教徒は,我々が豚肉を喜んで食べているのを見て,「生理的嫌悪感」を感ずるでしょう.

或る民俗学者が,こう教えてくれました:キリスト教がユダヤ民族の宗教から Ecclesia Catholica(普遍的教会)へ変身するためには,食のタブーの克服は決定的な条件のひとつだったのではないか.

使徒言行録 10,9-15 で,こう物語られています:空腹を覚えた Petrus の目の前に,天から大きな布のようなものが降りてくる.そのなかには,Moses の律法で食べることを禁止された鳥獣類すべてが入っている.天の声は Petrus に「食べろ」と命ずる.彼は,そのような「下品なものも不浄なものも [ κοινὸν ἢ ἀκάθαρτον, commune et immundum ] 一度も食べたことがありません」と言って拒絶する.声は「神が浄めたものを下品と言うな」と言って,彼を叱る.

「下品かつ不浄」な食べ物を前にして,Petrus は「生理的嫌悪感」を覚えたでしょう.

上に言及した民俗学者も,調査のために訪れた地で地元の人々が食する昆虫料理などを勧められると,「気持ち悪い」と思わずにはいられない – しかし,地元の人々と良い関係を築くことは良い調査の必要条件ですから,感謝していただくそうです.

同様に,神の愛の福音をユダヤ人でない人々へ伝えるためには,律法に条件づけられた嫌悪感に捕らわれたままでいることはできません.

実際,使徒言行録の物語はそのように展開して行きます.つまり,幻覚のエピソードの後,Petrus は,非ユダヤ人である百人隊長 Cornelius のところへ招かれ,福音を説き,彼の家族を始め多くの人々に洗礼を授けることになります.

律法で禁止された食材を食べろという命令に「生理的嫌悪感」を克服しつつ従うことによって初めて,Petrus は非ユダヤ人へ全包容的な神の愛の福音を伝えることが可能になります.

使徒言行録 10,28 には,Petrus が確かに非ユダヤ人に対する差別感情を克服したことが記されています:「ユダヤ人にとって異邦人と接触することは律法違反ですが,神はわたしに示してくださいました – 決してひとりの人間のことを[律法の観点から]『下品だ,不浄だ』と言ってはならない,と」.

先ごろ,改正学習指導要領に関する意見公募の際,LGBTQ 人権擁護活動家たちは heteronormativity を前提する記述を改めるよう要請しましたが,文部科学省の回答はこうでした :「sexual minority について指導内容として扱うことは,個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導,保護者や国民の理解,教員の適切な指導の確保などを考慮すると,難しい」.

それに関連して,先日,朝日新聞に「読者の意見」が紹介されていました.大部分は LGBT friendly ですが,ひとつだけ LGBT-phobic なものが:

小・中・高校生と3人の子どもがいる静岡県のもと看護師は,「思春期になると異性への関心が芽生える」という指導要領に「同性の場合もあり得る」と書き加えられ,教師がそう教えるようになったら,子どもにどのような影響が出るのか母親として憂慮している,と書きました.同性から告白されたらどう思うかと子どもたちに尋ねたら,「困るし,気持ち悪い」,「受け入れられない」という言葉が返ってきたそうです.「多様性を認めるという言葉のもとに『LGBT を受け入れることが道徳であり,優しさである.そうでなければ,差別やいじめである』と教育されるとしたら,子どもたちの言葉は差別発言になるのでしょうか?」


あきれかえります.いったい,この女性は,もし仮に子どもたちが「女性は生理出血するから不浄だ,気持ち悪い」と言ったならば,それを即座に差別発言と断定しないのでしょうか?ひとりの人間に関して「気持ち悪い」と言うのは,当然,差別発言です.そして,そのような差別を克服し得るようにするのが,教育の機能です.

『カトリック教会のカテキズム』(CCE) nº 2358 には,こう述べられています:

無視し得ない数の男女が,根本的な homosexuality の傾向を呈している.この性向は,(...) 彼れらの大多数にとって,試練となっている.彼れらは,homosexual としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼れらは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼れらに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼れらがキリスト教徒であるなら,homosexual としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.


そこでは homosexuality という表現が使われていますが,sexual minority 全体のことがかかわっていると考えてよいでしょう.

カトリック信者は,LGBTQ の人々を「敬意と共感と気遣いとを以て受け入れる」べきであり,「あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」–「不当な差別」のなかには,Moses の律法の観点から「下品だ,不浄だ」と断罪することも含まれます.

教皇 Francesco は「司牧者としてのわたしの仕事のなかに homophobia が占める場所は無い」と断定した,と伝えられています.同様に,カトリック教会のなかには LGBT-phobia の占める場所はありません.

にもかかわらず,日本には,LGBTQ の人々が気がねなく御ミサに与ることのできない教会がまだまだあるようですし,LGBT-phobia を公言してはばからない人々さえいるようです.教会のなかで指導的な立場にある人々も,教皇 Francesco のように LGBTQ 包容の姿勢を積極的に示すことはしてくださっていません.

日本においても世界においても,教会の礎である聖 Petrus にならって,あらゆる差別を克服し,カトリック教会を本当の Ecclesia Catholica にして行くことができるよう,カトリック信者ひとりひとりのよりいっそうの自覚的努力が,必要です.

特に,大司教様と司教様に,LGBTQ の人々への司牧的配慮に関して『いのちへのまなざし』における以上により積極的な指導的メッセージを発していただきたく,お願い申し上げます.


§ 1.4. sexuality とは何か?

最後に,sexuality とは何かに関して,この冊子において可能な限りで論じておきたい.

周知のように,sexuality に関しては,少なくともふたつの側面が区別される:わたしは「男であるのか,女であるのか,等々」の存在様態と,何をわたしは性愛の対象とするのかの対象選択と.

まず,対象選択 (Objektwahl, object choice) について.それは,Freud の用語である.「性的指向」(sexual orientation) という概念において問われているのは,対象選択の問題である.

「選択」と言っても,我々は完全に意志的ないし意図的なしかたで性愛対象を選択するわけではない.選択するのは,言うなれば,性本能である.我々のうちに見出されながらも,我々自身にあらざる何ものかとしての性本能が,選択する.

性本能は,ある対象を選択する ‒ そこにおいて満足の可能性を見出すために.

その対象は,ひとりの人間であることもあるし,そうではない何ものか – たとえば fetish – であることもある.

対象がひとりの人間である場合も,それは必ずしも heterosexual な選択ではない:もっぱら異性である;または,もっぱら同性である;または,どちらでもあり得る;または,そもそも性愛対象選択が起こらない,等々の多様性があり得る.

第二に,いわゆる性別について.そこには,三つの側面が区別される:

1) 生物学的性別 (biological sex) : 原則的に,性染色体によって決定される身体的性別.しかし,何らかの先天的条件による非定型例が幾種類もあり得る;

2) 社会学的ジェンダー (sociological gender) : 歴史的,文化的,民族学的,等々の後天的な諸条件により規定される性別.或る個人に対して,その人が何らかの意味で所属している集団が其の遂行を要請してくるところの性別役割.あくまで人為産物である;

3) 存在論的性別 (ontological sexuation) : 先ほど transgenderism との関連において論じた「自身の性別の真理」がかかわるところの存在論的な「男で在る」または「女で在る」.ただし,単純な男女二元論ではない.「女で在る」は,実際には,「男に在らず」という否定的な規定性であって,そこには「男で在る」以外のあらゆる存在論的多様性が包含される.

先ほども指摘したように,transgenderism との関連でよく言われるようなしかたで生物学的な性別と心理学的な性別とを区別するだけでは不十分である.transgender の人が,身体的には男であっても「わたしは女である」と感じ,あるいは身体的には女であっても「わたしは男である」と感ずるとすれば,その性別感覚は,単なる錯覚や認知錯誤ではあり得ない.そうではなく,それは存在論的性別に準拠した感覚である.身体的性別とは異なる性別の「真理」,存在論的な「男で在る」ないし「女で在る」という事実にもとづく感覚である.

また,社会学においては,生物学的性別と社会学的 gender との区別しか考慮されていない.

教皇 Francesco は,社会学的な gender theory を批判しているが,それは,gender theory においては性別は gender という人為産物へ還元されてしまうからである.教皇が言いたいのは,性別は神の創造であって,人為産物ではない,ということである.先にも指摘したとおり,生物学的性別ではなく,存在論的性別こそが,神の創造した性別である.

そのように,gender identity の問題に関しては,今のところ,存在論的性別が考慮されないことによって,さまざまな無用な混乱と対立が生じている.

さて,この冊子のなかで存在論的性別について詳論するのは困難であるが,できる限りで Lacan の性別についての議論を紹介してみよう.

精神分析の基礎を成す存在論は,いわゆる実体論的存在論 [ ontologie substantialiste ] でも本質論的存在論 [ ontologie essentialiste ] でもなく,而して,否定存在論 [ ontologie apophatique ] である.そして,その存在論は,topologique に展開される.

以上のことを,Lacan は,Heidegger から学び取っている.

否定存在論においては,存在は,ひとつの実体でも本有でもない.実体や本有(本質)は,存在事象の側のものである.

否定存在論においてかかわる非実体的な Sein[存在]について思考するために,Heidegger は Sein という語をバツ印で抹消する:


我々は,技術的な簡便さのために,Sein, 存在 と表記する.

否定存在論においてかかわる 存在 は,存在論的差異によって,存在事象から本源的に分離されつつ結合されている.

topologique に言えば,存在 の在処 [ die Ortschaft des Seins, la localité de l’être ] は,存在事象の場処 [ die Ort des Seienden, le lieu de l’étant ] に対して ek-sistent, ex-sistent[解脱実存的]である.

topologie がかかわるのは,存在 をひとつの場として思考するからである.存在 は,実体や本有ではない.存在事象ではない.かと言って,単なる無ではない.存在 は,それ自体としては空(から)であるひとつの空間,ひとつの場であり,その場は,存在事象が位置する場から,存在論的差異によって分離されつつ結合されている.

そのような在処としての 存在 が,否定存在論においてかかわる 存在 である.

否定存在論における 存在 は,神の 存在 であり,かつ,人間の 存在 である.神と人間は,存在 において交わりあっている.あるいは,人間は,本来的に,自身の Dasein[現場存在]において,神の 存在 を匿う.

さて,神に性別は無い.CCE nº 370 において述べられているように,神は,たとえ Jesus によって「父なる神」と呼ばれてはいても,純粋霊気であって,性別を持たない.

言い換えると,神は純粋 存在 である,すなわち,そのものとしては空(から)の解脱実存的在処である.

にもかかわらず,神は「父なる神」と呼ばれる.それは,社会学者やフェミニストが考えるように,単に,歴史的な家父長制の名残なのだろうか?

Lacan は,不可能な父の phallus について思考することから出発する.

「不可能」とは,この場合,「書かれないことをやめない」ことである.

したがって,「不可能である」ことは,単純に「欠如している」こととは異なる.後者は「存在事象の次元において不在である,見出されない」ことであるのに対して,前者は,「存在 の解脱実存的な在処 (ek-sistente Ortschaft des Seins) において,書かれないことをやめない」ことである.

そのような不可能な父の phallus の不可能性のゆえに,性関係は不可能である.Lacan は「性関係は無い」と公式化しているのは,そのことである.

男女の存在論的な性別は,不可能な父の phallus との関係によって規定される.

Lacan が formules de sexuation[性別の公式]と呼ぶ形式論理学的な式に若干手を加えたものを,提示しよう:


注)以下,形式論理学的記号が用いられている一節は,このページで再現し得ないので,こちらの blog ページを参照.

以上が,存在論的性別 (sexuation ontologique) に関するおおまかな説明である.

存在論的性別は,生物学的性別とはまったく別の次元のことである.生物学的な女性が存在論的には男性であることもあり得,生物学的な男性が存在論的には男性ではないこともあり得る.

transgender の人々の自身の実存に関する証言は,性別に関する固定観念や先入観から我々を解放してくれ,性別づけられて在ることに関してより適切に思考することを可能にしてくれる.

最後に,対象選択の問題 ‒ sexual orientation の問題 ‒ に立ち返るなら,それは,基本的に,Lacan が aliénation[異状]と呼ぶ構造において展開される.

aliénation の構造を,Lacan は次のように形式化している:


詳細な説明は省くが,男である者にとって,sexual orientation の問題は,性的対象として選択される客体 a の性別が,自身 ‒ 上の図では,右側の a の側とは反対の,左側の S2 の側 ‒ の性別と同じか異なるか,という問題に帰せられる.

この aliénation の構造において,heterosexual な男にとっては,客体 a は,女性である人物,または,女性の身体,または,その一部,または,女性の何らかの表象である.

この構造は,いわゆる sexual objectification[男による女性の身体または表象の性欲対象化]の構造である.

heterosexual の女性は,愛の対象となり得る男との親密な人間関係に入るために,多かれ少なかれ否応無しに,あるいは,多かれ少なかれやむを得ず,この aliénation の構造における客体 a の座に身を置く.

homosexuality の場合には,S2 の側と a の側の両方に同じ性別の人物が位置する.どちらの側に位置するかは,人それぞれであり,あるいは,何らかの条件によって,或る同一の人物が S2 の側に位置したり a の側に位置したりすることもあるだろう.

sexuality に関する Lacan の観点からのさらなる詳細な説明は,別の機会に譲りたい.


§ 1.5. 第1部の結び

以上,我々は,LGBTQ+ の人々の実存の実事性が提起する諸問題に関して,カトリック教会の伝統的な見解を改めて検討した.

キリスト教の最も根本的なよりどころは,律法ではなく,而して,神の愛である.

神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する.

God is Love excluding nobody, but including everybody.

この全包容的な神の愛に寄って立つとき,LGBTQ に対するカトリック教会の伝統的な姿勢は神の愛に適うものとは思われない.よって,幾つかの批判的な議論を我々は展開した.

教皇 Francesco は,LGBTQ に対する従来の断罪を放棄し,神の慈しみにおいて,如何なる差別も無しに,あらゆる者を包容する姿勢を前面に打ち出している.そのような良き司牧者を我々に与えてくださったことを,我々は主に感謝する.

ただ,教皇 Francesco のもとでも,すべてが解決したわけではない.『カトリック教会のカテキズム』のなかの homosexuality 断罪の文言は削除されておらず,transgender を代父母の役から排除した Vatican の決定は取り消されてはいない.同性カップルは結婚の秘跡を授かることはできず,公に homosexual である者は司祭に叙階され得ない.

神の全包容的な愛が世において実現されるよう,我々は可能な限り努力し,そして,祈り続けたい.


第2部:教皇 Francesco の生と性の神学


§ 2.1. 教皇は同性カップルの civil union を認めた

Papa Francesco は,カトリック教会の門を LGBTQ+ に対して大きく開くことに貢献してきましたが,同性カップルの結婚を異性カップルのそれに対してまったく差別しない「結婚の平等」に関しては自身の考えを公に明確に述べてこないできました.確かに,2016年の使徒的勧告『愛の喜び』251段において結婚の平等は否定されていますが,それは,2015年のシノドスの参加者たちが作成した最終報告書のなかの文章の引用にすぎませんでした.しかし,2017年09月06日に出版された本 Politique et société[政治と社会](Les éditions de l’Observatoire) のなかで,教皇は同性婚を「結婚」と呼ぶことに対する否定的な意見をみづからはっきり表明しました.

周知のように,同性婚を認めるか否かに関しては,カトリック信者たちの間でも,社会一般においても,激しい意見対立があります.今,教皇が完全な結婚の平等を是認すれば,カトリック教会が内部分裂する危険すらあります.そのような事態を招かないために教皇は慎重を期したのだ,と解釈することもできるでしょう.

ともあれ,Papa Francesco が結婚の平等を認めなかったのは,残念なことです.しかし,必ずしも残念ではない側面もあります.

Politique et société は,フランスの社会学者 Dominique Wolton による教皇のインタヴューにもとづいています.彼は,2016年02月から一年間,毎月一回 2 時間ずつ,教皇と対話し,教皇の口からさまざまな言葉を引き出しました.

話題は,本の表題が示すように,政治と社会にかかわることから個人的な出来事に至るまで多岐に及んでいます.

精神分析家としてわたしが特に興味深く思ったのは,42歳のとき Jorge Bergoglio 神父は短期間ながら精神分析を経験したことがある,ということです.

当時,1978年,アルゼンチンは軍事専制政権によって支配されていました.1976年から1983年まで続いた軍政時代,多くの反政府活動家が逮捕され,拷問され,暗殺されました.カトリック教会の上層部は体制派でしたが,民衆の司牧に直接たずさわる神父たちのなかには反体制派もいました.イェズス会のアルゼンチン管区長として,Jorge Bergoglio 神父は,民衆の側に立ちたいと思いつつも,イェズス会の内部分裂を回避せねばならない,という矛盾のなかで,非常に苦悩していました.そのことは,先ごろ日本でも上映された Daniele Luchetti 監督による教皇の伝記映画 Chiamatemi Francesco (2015) にも描かれていました.

そのような危機的な状況のなかで,彼は,或るユダヤ人女性精神分析家のところに週に一回,半年間通いました.当時,アルゼンチンの精神分析家たちの多くはクライン派でしたから,彼女もそうだったでしょう.半年間,週に一回の面接では十分に精神分析を経験したとは言えませんが,彼にとっては「とても助けになった」(p.386) と教皇は言っています.

1953年に或るフランス人司祭が精神分析的観点を応用して性について書いた本が禁書に指定されたことに象徴される過去の Vatican の精神分析に対する拒絶反応を想起するなら,今や教皇が精神分析を受けていたことを公言することができるのも第二 Vatican 公会議の効果である,と言えるでしょう.

話を同性婚のことに戻すと,教皇は Wolton との対話においてこう語っています (pp.321-323) :

教皇:同性の人どうしの結婚について,どう考えるか?「結婚」は,歴史的な語です.教会においてだけでなく,人類においてはずっと,結婚はひとりの男とひとりの女との結婚です.それを,星影のもとで変えるわけには行きません.(...)

それを変えることはできません.それは,ものごとの自然です.ものごとは,そうなっているのです.ですから,[同性どうしの場合は]civil union[原文ではフランス語で union civile : 異性どうしか同性どうしかにかかわりなく,結婚の場合とほぼ同等の権利と保護をカップルに与える法的制度;カトリック教会は,civil union のカップルには「結婚の秘跡」を授けない]と呼びましょう.

真理に関しては,おふざけをしないでおきましょう.まことに,背後に潜んでいるのは,ジェンダーイデオロギー (idéologie du genre, gender ideology) です.子どもたちは,性別を選ぶことができる,と本でも学びます.なぜなら,ジェンダー –「女である」または「男である」こと – は,選択の問題であって,自然の事実ではないから?そのようなことが,誤りを助長します.

だが,ものごとを,実際にそうであるように言いましょう:結婚は,ひとりの男とひとりの女との結婚です.それが,正確な用語です.同性どうしの union は,civil union と呼びましょう.

Wolton : ジェンダーイデオロギー,それは同じ問題ではありません.それは,社会学的偏向です.それは,こう言うことに存します:性別は未分化であって,ひたすら社会が男性の役割と女性の役割を割り当てるのだ,と.ひどいものです,そのような決定論は.自然も文化も,あったものではありません.運命も自由も,ありません.社会的決定があるだけです.その決定論に反対ならば,保守反動と呼ばれます.「あなたは,カトリック教会の立場を採っている」と言われてしまいます!そのようなイデオロギー的偏向は,この20年間に起こりました.

教皇:現時点で,それは危機的な混乱です.わたしは,或る日,Piazza San Pietro で,結婚について語りながら,公にそう言いました[おそらく,2015年06月14日,ローマ教区会議開会式での演説で].わたしは言いました :「新しい観念があります.ジェンダーイデオロギーというこの新しい観念は,基本的に言って,差異を恐れることに基づいているのではないか,とわたしは自問します」.(...)

Wolton : ジェンダーイデオロギー,それは,差異の否定の危険性です.差異は,単に社会的なものではありません.もっと複雑です.ジェンダーイデオロギーは,一種のさかさまの決定論です.男も女も無く,すべては社会しだいである,と言うことによって,実際には,一種の社会的決定論が作り出されています.

教皇:ジェンダー理論 (théorie du genre, gender theory) の問題と,同性愛の人々に対する態度についてのわたしの見解とを,混同しないでほしい,とわたしは思います.


教皇が Wolton との対話のなかで同性婚について語っているのは,以上の一節においてです.

教皇が gender について語ると,英語圏の LGBTQ 活動家たちは必ず「教皇は transgender に関して否定的な見解を述べた」と反応するのですが,以上の一節においても明らかなように,教皇は transgender のことは何も問題にしていません.彼が gender ideology や gender theory の名のもとに批判しているのは,男女の性の差異を社会学的な構築物に還元しようとする「ジェンダーの社会的構築論」(social constructionist theories of gender) です.そのことについては,後ほど立ち返りましょう.

実際,今しがた引用した一節の最後でも,教皇は「ジェンダー理論の問題と,同性愛の人々に対する態度についてのわたしの見解とを,混同しないでほしい」と要請しています.この場合,「同性愛の人々」は LGBTQ+ 全体を指している,と取って良いでしょう.実際,教皇は,さまざまな機会に,同性愛者についても,transgender についても,みづから包容的な態度を取っており,また,そうすべきであると主張してもいます.教皇の LGBTQ+ に対する包容性は,一貫しています.

同性カップルには civil union が認められる,という教皇の見解は,いかにも,イタリアの社会的現実の承認です.イタリアでは,2016年5月に同性カップルの civil union が法制化されました.完全な「結婚の平等」の法制化に関しては,イタリアの世論は賛否両論に分裂し,激しい社会対立が顕在化しました.そのため,残念ながら,それは断念されました.教皇も,generazione[新たな生命を生み出すこと,生殖]の可能性(そのことについても,後ほど立ち返ります)に関連して,同性婚と異性婚とを同等のものと見なすことはできない,と考えています.

しかし,教皇が同性カップルの civil union を認めたということは,それなりの意義がある,と思われます.教皇は,同性カップルが親密な関係において生活をともにすること,および,同性カップルにも異性カップルと同等の社会的および法的な権利と保護が与えられることを,是認したのです.そこにおいて「性行為だけは例外だ」と誰が言い得るでしょうか?つまり,教皇は,同性カップルの性行為を容認したのです.「わたしは,同性どうしの性行為をそのものとして断罪することはしない」と教皇は思っている,と解釈してよいと思います.

従来,カトリック教会は,結婚したカップルの生殖可能性に開かれた – ただし,年老いた Abraham と Sarah のカップルも,聖霊と処女マリアとのカップルも,生殖可能性に開かれています – 性行為しか是認してきませんでした.しかるに,教皇は,同性カップルの civil union を認めたことによって,そのような限定を暗に撤廃したのです.

教皇の2013年7月の有名な言葉:「或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?」にならって,我々はこう言うことができるでしょう:「或るカップルが同性どうしのものであり,ふたりが愛し合っており,ふたりとも主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのようなカップルを断罪するなら,いったい,わたしは何者か?」


§ 2.2. 教皇庁生命アカデミアでの教皇演説

さて,使徒的勧告 Amoris laetitia やさまざまな説教と談話から,わたしたちは,Papa Francesco の「生と性の神学」を学び取ることができるだろうと思います.はたして,その射程は如何なるものでしょうか?

Papa Francesco の「生と性の神学」についてより詳しく見るために,彼が2017年10月05日に「生命のための教皇庁アカデミア」(la Pontificia Accademia per la Vita : PAV) の総会において為した演説を読んでみましょう.

PAV は,1994年に聖 Joannes Paulus II の意向により創設されました.生命倫理に関する Vatican の think tank のようなものです.Papa Francesco は,2016年,PAV の組織を改革し,2017年06月に新たなメンバーを多数,任命しました.そのなかには,ユダヤ教徒,イスラム教徒,信仰を持っていない人々も含まれます.日本人メンバーもふたりいます:刑法学者の秋葉悦子氏と,iPS 細胞の研究で2012年にノーベル生理学医学賞を受賞した山中伸弥氏です.現在の PAV は,言うなれば,Papa Francesco の肝いりの組織です.

この演説のなかで,教皇は,科学技術と資本主義が支配的である現代において,如何に生命と存在が危機的状況におかれているかについて,「生と性の神学」の観点から根本的に問おうとしています.


生命のための教皇庁アカデミアの総会の参加者たちへの教皇Francesco の演説

(2017年10月5日,シノドス広間にて)


皆さん,この年次総会の機会に皆さんにお会いし,嬉しく思います.先に挨拶と導入をしてくださった Paglia 大司教に感謝します.皆さんがもたらしてくださる貢献に感謝します.その価値は,時の経過とともに,ますます明らかになって行くでしょう ‒ 科学的,人間学的,倫理的な知識の深化においても,生命への奉仕においても.特に,人間の生命と,我々の共通の家である被造界とのケア (cura) において.

今回のテーマ:「生命に寄り添う ‒ 科学技術の時代における新たな責任」は,論ずるに容易なものではありませんが,同時に,論ずる必要のあることです.今回のテーマは,近年の生命科学の技術的発達に鑑みて,全地球的なヒューマニズムを問いただす好機と危機との交錯に正面から取り組みます.昨日までは思いもよらなかった生命操作を今や既に可能にしている生命技術の力は,恐るべき問いを措定します.

そのような社会の技術的進歩の効果に関する研究と取組とを強化することは,それゆえ,喫緊の要事です.そのためには,この時代の挑戦に負けないような人間学的総合を構築せねばなりません.したがって,専門家としての皆さんの助言の領域は,倫理的,社会的,ないし司法的な次元の葛藤の特異的な状況によって措定される問題の解決に限定され得ません.人間存在の尊厳と整合的であるような行動のインスピレーションを得るためには,科学と技術の理論と実践を,生命とその意味とその価値とのそれらの関係において,それらの総合的な基礎において,考察せねばなりません.まさにそのような展望において,わたしは,今日,わたしの省察を皆さんに提示したいと思います.

1. 人間という被造物は,今日,人間自身の歴史の或る特別な移行期にいると思われます.そこにおいては,古来の ‒ かつ,常に新しい ‒ 問い ‒ 人間の生の意味についての問い,人間の生の起源とその運命についての問い ‒ が,前代未聞の文脈のなかで交錯しています.

この移行期を象徴する特徴は,総合的に言って,次のことに認められ得ます:現実に対する人間の主権 ‒ 人類としても,個人としても ‒ に強迫的に中心づけられた文化の急速な流行.« egolatria » という用語を使う人すらいます.つまり,まったくの自我崇拝です.その祭壇には,あらゆるものが ‒ とても大切な愛情をも含めて ‒ いけにえとして献げられます.そのような価値観は,無害ではありません.それは,次のような主体を形成するからです:自身を絶えず鏡のなかに見つめ続け,ついには,他者と世界とへ目を向けることができなくなる主体.そのような態度の流行は,人生における愛情ときづなすべてに対して重大な帰結をもたらします (cf. Enc. Laudato si’, nº 48).

当然ながら,人々がより良い「生活の質」を望むことの正当性や,そのことを促し得る経済的資源や技術的手段の重要性を否定したり矮小化したりすることが,かかわっているのではありません.しかしながら,[資本主義]経済と[科学]技術との同盟を特徴づける無遠慮な物質主義 ‒ それは,人間の生を,能力と利益の関数によって搾取または廃棄すべき資源として扱います ‒ が黙認されることはできません.

残念ながら,世界中いたるところで,男たちも女たちも子どもたちも,科学技術の支配と結びついた物質主義の詐欺的約束を,苦渋と苦痛を以て経験しています.以下の理由により,なおさら ‒ すなわち,市場[経済]の拡大にともなって生活の豊かさは自動的に広がるだろうというプロパガンダとは矛盾して,逆に,貧困,紛争,格差,放置,怨念,絶望,それらが満ちた地域は広がっているがゆえに.本当の科学的な,技術的な進歩は,逆に,より人間的な政治をもたらすはずでしょう.

キリスト教信仰は,「古き良き時代」を懐かしがったり,現状を嘆いたりする消極的な態度をすべて退けつつ,イニシアティヴを取り戻すよう,我々を促します.そもそも,教会が有していた寛容で啓蒙された精神の長い伝統が,近代において,科学と良心のために道を開いたのです.

世界は,キリスト教信者を必要としています ‒ 真摯であり,喜びを有し,創造的であり,提案することができ,謙虚であり,勇敢であり,世代間の断絶を修復する決意を決然と有しているキリスト教信者を.

世代間の断絶は,人生を伝えることを途絶えさせてしまいます.若者たちの熱気に満ちた可能力を称賛するとしても,しかし,誰が若者たちを成熟したおとなとなるよう導くのでしょうか?

おとなであることの条件は,責任を引き受けることができ,愛することができることです ‒ 将来の世代に対しても,過去の世代に対しても.高齢となった親の生には,それが惜しみなく与えてくれたもののゆえに,敬意を表するよう,期待されています.それがもはや有していないもののゆえに捨て去ることがあってはなりません.

2. このイニシアティヴの取り戻しのためのインスピレーションの源は,またしても,神の御ことば (la Parola di Dio) です.その光は,生の起源と運命とを照らしてくださいます.

創造と贖いの神学 ‒ あらゆる生のために,それぞれの生が生きている間ずっと,愛のことばと愛の身ぶりに自身を翻訳することができる〈創造と贖いの〉神学 ‒ が,今日,かつてなかったほどに,必要だと思われます ‒ 今,我々が住まう世界のなかで教会が歩むべき道を共に歩むために.

回勅 Laudato si’ は,創世記の始めの数章において我々に提示されている啓示の壮大な物語にもとづいて世界への神と人間のまなざしを取り戻すマニフェストのようなものです.創世記はこう言っています:我々は,それ自体として神により欲されており,愛されている被造物です.単に,生命の進化の過程において淘汰され,良く組織化された細胞の集合体であるのではありません.被造界全体は,人間という被造物 ‒ それは,親たちと子たちの全世代に渡ります ‒ に対する神の特別な愛のなかに記入されているがごとくです.

神は,生の起源を祝福し,永遠の命への運命を約束してくださっている ‒ そのことは,あらゆる生の尊厳の基礎です.すべての人々についてそうであり,すべての人々のためのそうであるのです.世の生,地に生きる男たち,女たち,子どもたち ‒ 諸民族は,彼れらにより構成されます ‒ を,神は,誰ひとり排除することなく,愛しています.そして,安心できる場所へ連れて行こうとしています.

聖書に書かれた創造の物語は,常に改めて読み直されるべきです ‒ 神の愛の所作の大きさと深さ全体をその尊さにおいて感ずるために.神は,被造界と歴史を,男と女の契約 (alleanza) に委ねます.

この男と女の契約は,いかにも,結婚と家族とによる生の伝達の道を標しづける愛の結合 ‒ 個人どうしの,実り豊かな結合 ‒ により押印されています.しかし,それは,その[個人どうしの愛の]印の彼方へまで及びます.男と女の契約は,社会全体の演出を引き受けるよう,呼ばれています.それは,世界に対する責任を負うことへの招待です ‒ 文化においても政治においても,労働においても経済においても.そして,さらに,教会においても.単に,機会の平等や相互の承認がかかわっているのではありません.かかわっているのは,就中,生の意味と諸民族の道とに関する男と女の合意[相互理解,協調](intesa) です.男と女は,ただ愛について語り合うよう呼ばれているだけではなく,而して,愛とともに,あらゆる被造物に対する神の愛の光のなかで人類の共同生活が実現されるために何を為すべきであるかについて語り合うよう,呼ばれています.語り合い,契約を結び合う ‒ なぜなら,両者のいずれも,男だけでは,女だけでは,世界に対する責任を引き受けることはできないからです.神は,男と女を一緒に創造しました ‒ 両者の差異を祝福しつつ.男と女は一緒に罪を犯しました ‒ 神に取って代わろうとする思い上がりによって.男と女は一緒に,キリストの恵みによって,神の御前に戻ります ‒ 神が両者に任せた〈世界と歴史の〉ケア (cura) を引き受けるために.

3. 要するに,一種の本当の文化革命が,現代の歴史の地平線にあります.そして,教会は,率先してそこに参加せねばなりません.

この展望において,何よりも先に,遅れと怠りを正直に認めねばなりません.不幸にも女性たちの歴史に刻印を残してきたさまざまな形態の[女性を男性よりも下位に置く]差別 (subordinazione) は,決定的に廃されねばなりません.

ひとつの新たな始まりが,諸民族のエートス (ethos, ἦθος) のなかに書き込まれねばなりません.そして,それを為し得るのは,ひとつの新たにされた〈同一性と差異の〉文化です.

「男女の性の差異をラディカルに中性化し,ゆえに,男と女の合意を根本的に無効化することによって,人間存在の尊厳のために道を改めて開くことができる」という〈近年提起された〉仮説 [ social constructionist theories of gender ] は,正しくありません.男女の性の差異 ‒ それは,人間存在の尊厳のために減殺不可能な価値を有しています ‒ の価値を損なうような性差の否定的解釈に対して反論する代わりに,性差を事実上なきものにしようとする人々がいます.彼れらは,性差を人格発達や人間関係にとって重要でないものにする技法や実践を提唱しています.しかし,「中性」のユートピアは,性的に異なる心身構造の人間的尊厳をも,生の生殖的伝達の人間的な質 (la qualità personale della trasmissione generativa della vita) をも,同時に取り去ってしまいます.性の差異を生物学的または心理的に操作すること (la manipolazione biologica e psichica della differenza sessuale) ‒ biomedical technology はそのような操作が自由意志により完全に可能であるかのように垣間見させていますが,そんなことはありません!‒ は,かくして,〈男と女の契約を涵養し,創造的で実り豊かなものにする〉エネルギー源を取り壊してしまう危険性を有しています.

世は神により創造されたということ (la creazione del mondo)と,御子は御父から生まれたということ (la generazione del Figlio) との神秘的なつながりは,我々を驚かせ,感動させることを決してやめません.その神秘的なつながりは,御子が,我々に対する愛のゆえに,マリア ‒ イェスの母,神の母 ‒ の胎のなかで人間と成ったこと (farsi uomo del Figlio) において,啓かされます.この啓示は,存在の神秘と生の意味とを決定的に照明します.

そこから出発して,生殖(generazione :「生む,生まれる」ということ)のイメージは,生[生命,命]に関する深い知恵を放射します.

生は,賜としていただいたものである限りにおいて,賜において称賛されます:[賜である]生を生むことは我々を生まれかわらせ,[賜である]生を使うことは我々を豊かにします.

人間の生の生殖 (la generazione della vita umana) に関して為される脅し ‒ あたかも生殖は女性に対する侮辱であり,公共の福祉に対する脅威であるかのごとくに ‒ によって措定される挑戦を受けて立たねばなりません.

生殖の可能性の条件を成す〈男と女の〉契約 (l’alleanza generativa dell’uomo e della donne) は,男たちと女たちの全地球的なヒューマニズムを守るものであって,それに対する handicap ではありません.もし我々がこの真理を拒むなら,我々の歴史が新しくされることはなくなってしまうでしょう.

4. 生に寄り添い,生をケア (cura) する情熱は,その個人的ならびに社会的歴史全体をとおして,憐れみと優しさのエートスの回復を要請します ‒ その差異における人間存在の誕生と再生のために.

就中,生涯のさまざまな年齢 ‒ 特に,子どもたちと高齢者たち ‒ に対する感受性を改めて見出さねばなりません.高齢者においてデリケートで脆いもの,傷つきやすく,衰えて行くもの,そのようなものすべては,もっぱら医療と福祉にのみ担当させておくべき事柄であるわけではありません.そこにおいてかかわっているのは,魂と感受性を有する人間たちのなかには個人や共同体によって聴かれ,認められ,守護され,尊重されることを求めている人々がいる,ということです.もし或る社会のなかでそのようなことはすべて売り買いされるしかなく,役所の規則に縛られており,技術的に提供されるだけであるなら,そのような社会は生の意味を既に見失っています.そのような社会は,生の意味を,幼い子どもたちに伝えることはなく,年老いた親たちのなかに見出すこともありません.ですから,我々は今や,そうと気づかぬうちに,子どもたちに対して常により大きな敵意を有する町や,高齢者たちに対して常により無愛想な共同体を,作り上げています.その壁には,扉も窓もありません.壁は,防護してくれるはずですが,現実においては,息を詰まらせるだけです.

神の慈しみを信ずることの証し ‒ それは,あらゆる正義を精製し,成就します ‒ は,さまざまな世代の間に本当の憐れみが行き来することの本質的な条件です.それ無しには,世俗の都市の文化は,ヒューマニズムの麻痺と堕落に抵抗する可能性をまったく持てません.

以上のような新たな地平線のなかに「生命のための教皇庁アカデミア」の使命は書き込まれている,とわたしには見えます.困難なことだとはわかっていますが,しかし,情熱をかきたてることでもあります.わたしは,こう確信しています ‒ 皆さん ‒ 善意の人々と研究者たち ‒ がこれだけいらっしゃるのですから,不足はありません.皆さんは,宗教に関しては方向性はさまざまであり,世界についての人間学的および倫理的な視覚もさまざまですが,善きことの分かち合いを思い,諸民族のためにより真正な「生の知恵」を報告する必要性を共有しています.人間の生のために価値ある道理の探求に専念する人々多数との開かれた,かつ実り多い対話が成立し得るでしょうし,そうなるべきです.

教皇と教会全体は,皆さんがこの使命を引き受けてくださることに感謝します.人間の生に責任を以て寄り添うこと ‒ その受胎から始まり,その道行き全体にわたり,そして,その自然な終わりに至るまで ‒ は,自由で熱意ある男女と,金で雇われた者ではない牧者とにとって,愛を要する分別と知性の仕事です.皆さんが有する科学と良心によって彼れらを支える皆さんの意図を,神が祝福してくださいますように.ありがとうございます.そして,わたしのために祈ることも忘れないでください.


以上が,2017年10月05日の教皇庁生命アカデミアでの Papa Francesco の演説の全文の邦訳です.

このテクストが発表されると,再び,英語圏の LGBTQ 活動家たちは「教皇は transgender について否定的な発言をした」と非難しました.しかし,生命技術の時代における生命倫理という文脈をふまえてよく読むならば,教皇は transgender については何も語っていません.

先ほども指摘したように,教皇が批判しているのは,男女の性の差異を社会学的な(人為的な)構築物へ還元しようとする social constructionist theories of gender[ジェンダーの社会的構築論]です.男女の性の差異については,後ほど立ち返ります.

とりあえず,transgender の人々はこのことに気づくべきです:社会学者たちの social constructionist theories of gender は,transgender の人々が性別適合手術を受ける必要性を否定します.なぜなら,その理論によれば,男女の性別は単なる人為産物であり,仮象的なものにすぎないのだから,「自分の『本当』の性別と身体的な性別との不一致」は偽問題であり,気にする必要のないことだからです.実際,feminist たちのなかには,「transgender は gender binarism を強化する」と考えて,transgender の存在を嫌悪している人々も,多数ではありませんが,います.


§ 2.3. 創造と生殖 (creazione e generazione)

生と性の神学の観点から,我々は,まず,教皇演説の次の一節に注目しましょう:

la creazione del mondo[世は神により創造されたということ]と,la generazione del Figlio[御子は御父から生まれたということ]との神秘的なつながりは,我々を驚かせ,感動させることを決してやめません.その神秘的なつながりは,御子が,我々に対する愛のゆえに,マリア ‒ イェスの母,神の母 ‒ の胎のなかで人間と成ったこと (farsi uomo del Figlio) において,啓かされます.この啓示は,存在の神秘 [ il mistero dell'essere ] と生の意味 [ il senso della vita ] とを決定的に照明します.


「Christ が乙女マリアの胎内で人間となったことにおいて啓かされる creazione と generazione との神秘的なつながり」とは,どういうことでしょうか?

おそらく,教皇の意図は,『カトリック教会のカテキズム』372段に述べられていることの意義を説明し,展開することに存するのでしょう:

男と女は,互いのために[一方は他方のために]造られている:神は男と女を「半分」や「不完全」に造ったのではない:神が男と女を創造したのは,人間存在の交わりのためである.その交わりにおいて,各々は他方のための「助け」であり得る – なぜなら,両者は,人間存在として等しいと同時に,男と女として相補的であるから.結婚において,神は,男と女が「ひとつの肉」となることによって人間生命を伝え得るように,男と女を結び合わせる:「多産であれ,ふえよ,地を満たせ」(Gn 2,24). 子孫へ人間生命を伝えることによって,男と女は,配偶者かつ親として,唯一的なしかたで,創造主のわざに協力する.


la creazione del mondo[世の創造]: 神は,愛の顕現のために,世を無から創造 (creatio ex nihilo) します.創造主による無からの創造は,被造界に存在するもの(das Seiende, 存在事象)の存在の可能性の条件であり,存在事象にとって「存在の神秘」です.

la generazione del Figlio : 父なる神から子なる Christ は生まれます (ἐκ τοῦ πατρὸς γεννηθείς ; ex Patre natus). 世界中の教会で毎主日唱えられているニケアコンスタンチノープル信条は,Christ は « γεννηθείς, οὐ ποιηθείς ; genitus, non factus »[神により造られたのではなく,父から生まれた]のだから,« ὁμοούσιος τῷ πατρί ; consubstantialis Patri »[本有において父と同じである]と強調しています.

神は何の助けもなく無から世を創造し得るとしても,la generazione del Figlio が起こり得るためには,創造主の側からの要請に対するひとりの被造物 – 乙女マリア – の側からの応答 : « γένοιτό μοι κατὰ τὸ ῥῆμά σου ; fiat mihi secundum verbum tuum »[おことばのとおりのことがわたしに起こりますように]が必要です.

この fiat の応答によって初めて,マリアは,イェスの母として,特権的なしかたで創造主のわざに協力し,参与することになります.そして,それによって初めて,本有において父と同じである子たる Christ がひとりの人間的 Dasein[現場存在]として世に誕生することができます.

そこに,creazione ex nihilo と generazione ex Patre との「神秘的なつながり」が存します.単なる被造物としての存在事象は,そのものとしては,神の本有 (存在事象そのもの全体としての「存在」から区別するために Heidegger が抹消して表記する「存在」: Sein, すなわち,存在 の解脱実存的な在処,ek-sistente Ortschaft des Seyns) から切り離されています – 言い換えると,Heidegger が「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼んだ差異によって隔てられています.しかし,創造主に対する被造物の側からの fiat – 勿論,この fiat そのものも,神の恵みによるものです – によって生まれる人間は,その Dasein において,存在事象と神の本有とを「神秘的」に結び合わせることができます.

そのことを,Heidegger は,Austrag[解和]と呼びます.それを我々は,「存在論的差異」との関連において,「存在論的結合性」(nodalité ontologique) と呼んでもよいでしょう.

この nodalité という表現は,Lacan が精神分析の純粋基礎について思考するための道具として数学的トポロジーから取り入れた「ボロメオ結び」(noeud borroméen) に由来します.


ボロメオ結びは,三つ以上の輪の独特な結合性に存します.この図に描かれているのは,四つ輪のボロメオ結びです.そこにおいては,任意のひとつの輪が切れると,全体のボロメオ結合性が成り立たなくなります.つまり,例えば I の輪が切断されると,II と III と IV の輪は相互に離ればなれになってしまいます.また,任意のふたつの輪は,通常の鎖の輪のように相互にかみ合うことはなく,相互に自由であり,相互の隔たり,相互の差異が保たれています.例えば,I の輪と IV の輪は相互に自由であり,隔たっています.しかし,II の輪と III の輪の仲介によって相互に結びつけられており,全体のボロメオ結合性に与っています.要するに,ボロメオ結びにおいては,構成員は各々相互に自由であり,隔たっており,相互の差異を保ちつつ,かつ,各々が相互に対等な資格において,全体としてひとつの結合性を構成しています.ボロメオ結びにおいては,そのように,各構成員の対等のもとに,自由(差異)と結びつき(結合)とが両立可能であるような,一種独特の連帯性が成り立っています.

イタリアの貴族 Borromeo 家が自身の紋章に三つの指輪からなるボロメオ結びを取り入れたのも,各分家相互の独立性と連帯性の象徴としてであったでしょう.

ボロメオ結びは,今,我々にとって望ましい社会構造のモデルを成している,と言うこともできるでしょう.

三位一体を象徴するボロメオ結び


話をもとに戻すと,存在事象と神の本有とを相互の存在論的差異において相互に結び合わせる存在論的ボロメオ結合性を,聖書は「契約」(בְּרִית [ beriyth ], διαθήκη, alliance) と呼んでいます.

創造主が欲する愛の顕現は,存在事象と神の本有との存在論的ボロメオ結合性としての「契約」– creazione と generazione との神秘的な結合性 – に存します.そして,それは,わたしたちの主 Jesus Christ の Dasein において完成されています.

この存在論的ボロメオ結合性を生きること,各自自身の Dasein においてみづから存在論的ボロメオ結合性で在ること,それが,我々人間にとって「生の意味」である,と言うことができます.

教皇 Francesco の「生と性の神学」は,生について以上のことを言おうとしている,と我々は解釈します.


§ 2.4. 生殖可能性と「命の与え主」聖霊

ところで,その場合,generazione とは何でしょうか?それは,生物学的な意味の「生殖」に限られるのでしょうか?そうではないでしょう.というのも,生物学的に言えば高齢のゆえにとうに生殖可能ではなくなっていた Abraham と Sarah のカップルにさえ,神は Isaac の generazione を可能にします.不妊症にもかかわらず,Manoah の妻は Samson を,Anna は Samuel を,生むことができます.そもそも,乙女マリアは,未婚のまま,性行為も無しに,イェスを宿します.

本当の意味での generazione は,生物学的な「生殖」には限られません.なぜなら,本当の意味で命を与えるのは,聖霊であるからです.

そも,ニケアコンスタンチノープル信条では,聖霊 (τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον, Spiritus Sanctus) は ζωοποιόν, vivificans(命を作るもの,命を与えるもの)と形容されています.第二コリント書簡 (3,6) では,聖パウロはこう言っています : « τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει, τὸ δὲ πνεῦμα ζωοποιεῖ ; littera enim occidit, Spiritus autem vivificat »[律法の文字は殺し,霊気は命を作る,命を与える].

本当の意味での「生殖可能性」(generatività, capacità generativa, capacità di generazione) は,生物学的なものではなく,而して,聖霊による generazione のために創造主へ fiat と答え得ること – 神の恵みによって – に存します.それは,乙女マリアだけの特権ではありません.あらゆる人間は,神の恵みによって,そう答えることができます.たとえ生物学的な意味においては生殖可能ではない – 何らかの医学的条件のせいで,あるいは同性カップルであるがゆえに,等々 – としても.しかも,カップルである必要すらありません.乙女マリアがまさにそうしたように,人間パートナー無しに,聖霊とのカップルにおいて,fiat と答えることができれば,その人は独身でも生殖可能です.

そのような観点からは,生殖能力を有する男女の結婚カップルのみが生殖可能である,と考える必要はありません.何らかの医学的な条件によって,あるいは同性カップルであるがゆえに,あるいは独身であるがゆえに,生物学的には子を授かることができない者たちが養子を取ることも,generazione のひとつの可能な様態です – fiat と答える用意ができていれば.

むしろ,fiat と答える用意ができていないのに生物学的な意味で親になってしまった者たちは,最悪の場合,子の存在を受け入れることができず,neglect によって子を死なせてしまうことすらあります.残念ながら,それは,「命の与え主」聖霊の恵みを受けた generazione ではありません.

generazione について,Papa Francesco は生物学主義的観点にとどまっているかのように見受けられます.そのことは,「結婚は,男と女との結婚だ」という彼の見解,および,gender の社会的構築論に対する批判とも,関連しています.男女の性の差異について問う際に,立ち戻りましょう.


§ 2.5. 男女の性の差異と存在論的差異

Papa Francesco は,一貫して,男女の性の差異 (differenza) を,還元不可能なものとして,強調します.一見すると,それは単なる生物学主義的な先入見にすぎないように見えます.しかし,そうでしょうか?「生と性の神学」の観点から考えてみましょう.

2015年6月14日のローマ司教区総会での演説で,Papa Francesco はこう言っています:男であることと女であることは,「存在の多様性」であり,「人間存在を定立する第一の差異,最も根本的差異」である.そのような差異に対して恐怖を感ずる人々がいる[性の差異を社会学的構築物に還元しようとする一部の社会学者たち].男と女は「両者の差異において互いに愛し合う」.男と女が性の「差異を引き受ける」ことは「挑戦」であり,「その挑戦は両者を豊かにし,成熟させ,成長させる」.男女の性の差異という「多様性は,何と大きな富であることか!その多様性は,相補性となり,相互性となる.それは,一方と他方との結び目 (nodo, noeud) である.差異における相互性と相補性は,子どもにとってとても重要である」.

また,2015年4月15日の一般接見において,Papa Francesco はこう言っています:「男と女は,カップルとして,神の似姿である.男と女の差異は,対立や従属のためのものではなく,而して,常に神の似姿において,communione[交わり]であり,generazione である」.「ジェンダー理論は,もはや男女の性の差異に直面することができない.差異をなくすことは,解決ではなく,問題である.男と女は,関係性の問題を解決するためには,より互いに語り合い,聴き合い,識り合い,愛し合うべきである.互いを尊敬し合い,友情を以て協力するべきである.そのような基礎のうえに,神の恵みによって支えられて,生涯にわたって続く結婚と家族の結合を考えることできる」.「神は,男女の契約に,地を委ねた」.「神との communione は,男女の communione に反映される.天の父への信頼の喪失は,男と女の間の分裂と葛藤を生ぜしめる」.

以上から推察されるように,Papa Francesco は男女の性の差異を,単純に生物学的なものと見なしているわけではなく,而して,存在論的なものとして考えようとしています.

性別に関して,我々はかねてよりこう提唱しています:性別を考える際には,transgender に関してよく言われるように,生物学的ないし身体的な性別と「心理学的」な性別の二種類を素朴に前提すればよいのではなく,次の三つの観点が必要である:

1) 生物学的性別 (biological sex) : 基本的には性染色体により規定される身体的な性別(ただし,何らかの先天的な条件のもとで非定型的となり得る);

2) 社会学的性別 (sociological gender) : ジェンダーの社会的構築論が問題とする性別;

3) 存在論的性別 (ontological sexuation) :「男である」,「女である」,「男でも女でもある」,「男でも女でもない」,「男であるか,女であるか,流動的である,特定し得ない」等々は,この存在論的性別の問題である.transgender の問題は,身体的性別と「心理学的」性別との不一致ではなく,身体的性別と存在論的性別との解離に存する.いわゆる心理学的性別は,「性自認」という表現に現れているように,自身の性別の「認知」(cognition) により規定されると見なされているが,そのような思念は,transgender において「性自認」を身体的性別に一致させようとする「認知療法」を正当化することになってしまうだろう.「心理学的」性別という概念や「性自認」という表現を用いることは,それゆえ,避けるべきである.

Papa Francesco が神学的に問おうとしている性別も,存在論的性別です.ところが,論者の大多数は生物学的性別と社会学的性別とをしか考慮しないので,性別の問題について適切に思考することができません.

存在論的性別の概念は,精神分析において Freud の所論を批判的に捉え直す Lacan が公式化した「性別の公式」(les formules de sexuation) にもとづくものです.詳しく論じようとするとかなり長くなってしまうので,概要を提示するにとどめましょう.

存在論的に「男である」を規定するのは,男の自我理想 (Ichideal) としての phallus Φ との同一化です.それは,生物学的ないし身体的な性別にかかわりません.ですから,身体的に女性であっても,自我理想 phallus と同一化していれば「男である」ことになり,逆に,身体的に男性であっても,その同一化がなければ,「男である」ことにはなりません.

それに対して,存在論的に「女である」を positive に規定するものはありません.男の自我理想 phallus Φ に対応するような「女の自我理想」はありません.ですから,「女である」と positive に言うことはできません.「男である」のではない,と negative に言うしかありません.

確かに,我々は日常的には「女である」と言うことはできます.しかし,「女である」ことは存在論的には規定され得ません.それは,まさに社会的に構築されるものです – Beauvoir がまったく適切に « on ne naît pas femme : on le devient »[我々は,女に生まれるのではなく,女に成るのだ]と言ったように.

かくして,存在論的には,「男である」の側と,「男である」のではない側とが区別されます.そして,後者の側には,「男である」のではないあらゆる者が,その非規定性と多様性において位置づけられます.

では,Papa Francesco が「男と女との間の性的な差異」(la differenza sessuale tra l’uomo e la donna) と言うとき,それをどう思考すればよいか?

「男である」は自我理想 phallus Φ との同一化によって規定されますから,男の集合は措定され得ます.男すべてからなる集合は,ひとつの存在事象として存在します.それに対して,「女である」を規定する命題を公式化することはできません.それゆえ,女の集合は措定不可能です.言い換えると,女は,存在事象たる男に対して ek-sistent である,つまり,抹消された 存在 (Sein) の在処に位置づけられます.

つまり,「男と女の性の差異」は,Seiendes[存在事象]と Sein との間の存在論的差異そのものです.

だからこそ,Papa Francesco は,男女の性の差異は還元不可能である,と強調します.それは,人間と神との間の – Seiendes と Sein との間の – 存在論的差異と同じものであるからです.

ジェンダーの社会構築論の名のもとに男女の性差を否認する者たちは,源初的かつ根本的である存在論的差異を否認することになります.彼れらは「差異を恐怖している」とすれば,それは,Freud の表現を用いるなら,「去勢不安」にほかなりません.


§ 2.6. 契約と愛

かくして,Papa Francesco が「男と女との契約」(alleanza dell’uomo e della donna) と言うときも,その「契約」は,人間と神との間の存在論的ボロメオ結合性としての「契約」そのものである,ということがわかります.

男と女との相互性と相補性とを可能にするのは,性器を介する性行為ではありません.

Papa Francesco は,「相互に語り合い,聴き合い,識り合い,愛し合い,尊敬し合い,友情を以て協力する」と列挙しています:要するに,存在論的ボロメオ結合性としての「契約」です.ひとことで言うなら,「愛」です.

その愛は,神の愛(神が人間を愛すること,人間が神を愛すること)と同じです.

「男と女との契約」を,教皇は「男と女との交わり」(communione dell’uomo e della donna) と言い換えてもいます.そして,「人間と神との交わりは男と女との交わりにおいて反映される」(la comunione con Dio si riflette nella comunione della coppia umana) と言っています.

男と女との契約と交わりとしての結婚は,人間と神との契約と交わりの象徴です.その限りにおいて,結婚は解消不可能である,とカトリック教会は定めています.

問題は,結婚するカップルが結婚の本当の神学的意義を必ずしも理解してはいない,ということです.カトリック教会は,そうならないように十分な努力を払っているでしょうか?

もし教会で結婚した男女が結婚の神学的意義を理解していないままに離婚に至ったなら,責任の一部はカトリック教会の側にあるかもしれません.

そのような場合に関して司牧的配慮をするよう Papa Francesco が提案しているなら,それはまったく適切であると思われます.


§ 2.7. LGBTQ community にとっての教皇 Francesco の「生と性の神学」の意義

一見すると,Papa Francesco は,結婚の平等を認めず,生殖への生命技術の介入に対して否定的であり,男女の性の差異を還元不可能なものと強調することにおいて,単純に保守的な生物学主義と男女二元論の立場を取っているかのように見えます.しかし,以上の論考において我々が見てきたように,彼の「生と性の神学」の射程は,生物学主義や男女二元論を越えています.彼は存在論的に思考しようとしているからです.

「男女の性の差異」と教皇が呼んでいるものは,存在論的差異へ還元されます.男女の差異を差異として保ちつつ両者を繋ぐ契約と交わりと愛は,人間と神との契約と交わりと愛と同じものであり,それらは,存在論的なボロメオ結合性に存します.generazione の可能性の条件は,命を与えてくださる聖霊の働きであり,generazione は単純に生物学的な生殖に限られるわけではありません.

Papa Francesco の「生と性の神学」は以上のことを含意しているのであれば,結婚の条件はカップルの愛のみであり,カップルは異性どうしでも同性どうしでも構わないはずでしょう.同性カップルや独身者が養子を取り,愛のなかで育てて行くことも,そこに創造主の計画に対する fiat があるなら,生物学的な generazione に等しいひとつの generazione であるはずでしょう.transgender の人が身体的性別と存在論的性別との解離による苦悩を軽くするために性別適合や中性化の医学的処置を望むとき,神の愛は,それを禁止して,その人を苦しみのなかに放置することはしないはずでしょう.

結婚の平等に関しては,最初にも述べたように,Papa Francesco はこう思っているのかもしれません:勘弁してくれよ,蜂の巣をつつくようなことまで求めないでくれ.もう既に保守派の不満は十分に大きいのだから.

しかし,わたしたちは,第二ヴァチカン公会議に始まったカトリック教会の「宗教改革」をさらに進めてくださるよう,Papa Francesco にお願いしたいと思っています.わたしたちも,わたしたちに可能な限り,それをお手伝いしたいと思います.



LGBTCJ からの呼びかけ

LGBTCJ は,カトリック教会が LGBTQ+ の人々によりよく寄り添うことができるようお手伝いする有志カトリック信徒の活動です.

日本カトリック中央協議会の公式な委員会やデスクではありません.

東京カリタスの家常任理事,小宇佐敬二神父様,上智大学哲学科准教授,鈴木伸国神父様 SJ を始め,性的少数者に御理解のある神父様がたに,御指導いただいています.

現在,おもな活動は,毎月第四日曜日の午後に行われる LGBTQ+ みんなのミサと,ミサ後の分かち合いの集いです.また,Facebook や Twitter などの SNS でも積極的に発信しています.

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