聖書のなかの「宦官」について
聖書のなかの「宦官」について
宦官は,古代,中国だけでなく,中近東諸国の宮廷でも登用されていました.旧約聖書の三大預言書のひとつ,イザヤ書の一節 (56,3-5) に,宦官への言及が見出されます.
預言者イザヤは,神の言葉をこう伝えています:「宦官でも,神の律法を守り,神の喜ぶことをするならば,神の家のなかに居場所が確保される」(56,3-5).
実は,同じ旧約聖書の申命記には,去勢された者は神の民の集まりには入れないと記されています.ですから,イザヤ書に述べられていることは精神的進歩です.
「宦官」はギリシャ語で eunouchos です.その語は,宮中に仕える狭義の宦官だけでなく,去勢された者全般を指します.
eunouchos の派生語 eunouchismos は「去勢」です.
マタイ福音書の一節 (19,12) で,イェスは唐突に「宦官」について語ります:「実際,宦官として母胎から生まれた者があり,人々により宦官にされた者がある.また,天の御国のゆえにみづから宦官になった者がいる」.
続けてイェスは「理解できる者は理解せよ」と言っていますから,この宦官についての彼の発言をどう解釈すべきか,じっくり考えてみなければなりません.
邦訳聖書(共同訳,フランチェスコ会訳)では「宦官」が「結婚できない者」と訳されているので,さらに理解困難です.フランチェスコ会訳では一応,「結婚できない者」はギリシャ語原文では「宦官」と訳される語である,と注釈が付けられてはいますが.
しかし,「宦官」を「去勢された者」と読みかえればどうでしょうか?「生まれつき去勢されている者があり,人々により去勢された者がある.また,天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる.」
実際,天の御国のために自己去勢した者がいます.たとえば,教父のひとりである Origenes (185-253). 彼は偉大な神学者ですが,しかし,神からいただいた身体をみづから損傷したがゆえに,聖人には列せられていません.
去勢は,しかし,身体的なものに限定されません.「去勢」と関連する聖書の語は「割礼」です.ユダヤ教徒は,旧約聖書の律法にもとづき,男児に割礼を施します.しかし,既に旧約聖書において,重要なのは肉に施される割礼ではなく,「心の割礼」である,と述べられています.
聖パウロはローマ書簡 2,25-29 で「割礼を受けていても,律法に違反するなら未割礼者と同じだ」と論じつつ,最後にこう言います:決定的なのは「霊気
(pneuma, spiritus) において心に施される割礼であり,律法の字面において肉に施される割礼ではない.」
かくして我々は,castration spirituelle[霊気における去勢]という表現を作り出しても良いかもしれません.それはまさに精神分析においてかかわる去勢です.
あなたは,自有 [ Ereignis ] のために霊気的去勢を敢行する勇気を持ち得ますか?
ともあれ,先ほど引用したマタイ福音書の一節 (19,12) のイェスの言葉:「天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる」を,我々はむしろこう読むべきかもしれません:「天の御国に入るためには,我々は自身を去勢せねばならない」.
男性性器の包皮を切り取る割礼だけでは不十分です.しかも割礼は,律法に規定されたことを慣習的に実行するだけのことであれば,「肉の割礼」にすぎません.
それに対して我々は,包皮を切り取るだけで済ますのではなく,通常の意味での男性性を象徴する phallus そのものを切り取らねばなりません.
勿論,かかわっているのは,物理的な去勢ではなく,霊気的な去勢です.聖なる霊気,Sanctus Spiritus, 聖霊の作用によって,霊気的な去勢を授かることがかかわっています.
なぜ我々は霊気的な去勢を授からねばならないのか?なぜかというと,それは,霊気的な去勢こそ,乙女マリアのように神の意志に従順であることを我々に可能にするからです.
LGBT に対する差別意識と,女性に対する差別意識は,ともに同じものに根ざしています.それは,俗に男尊女卑と呼ばれている心性です.つまり,男性性を象徴する
phallus を金の仔牛のように偶像崇拝することです.
そのような phallus 偶像崇拝こそ,霊気的な去勢によって除去されるべきものです.そして,それは,天の御国に入るための必要条件です.