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鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年09月30日

2018年09月30日(年間第26主日,B 年)の LGBTQ+ みんなのミサにおける鈴木伸国神父様の説教

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は...」(マルコ 9.38-43, 45, 47-48)

福音書の言葉のなかで今日の箇所ほど、罪に対して苛烈な言葉が向けられる箇所はありません。手を「切り捨ててしまいなさい」、足も「切り捨ててしまいなさい」、目は「えぐり出してしまいなさい」。それだけを聞いて、自分の業の深さを思えば、福音の言葉とはいえ罪への恐れよりも、ただその光景の恐ろしさに心を囚えられてしまいそうです。怖がりな私なら、宗教説話にあるような地獄での折檻の情景さえ連想してしまいます。

しかもこのマルコの箇所では、マタイと違い具体的にどんな罪を避ければいいかを一々説明さえしてくれません。怒りと暴言(マタイ 5.21- )はどうなんでしょう。情欲や姦淫 (5.27-, 31- ), 嘘や復讐 (33-, 38- ) はどうなんでしょうか。それは放っておいてもいいというんでしょうか。そんなことはないでしょうが、マルコは罪から遠ざかるために、もっと大事なことを言っているような気がします。

今日の箇所のなかでマルコが避けるべきこととして指摘するのはただ一つ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」こと。それだけです。決して怒りや嘘、情欲やセクシャリティなどがそれだけで罪として指摘されてはいません。

私たちがただ罪に目を留めようとすれば、その目に罪は益々大きなものになり、その恐れは私たちの心を押しつぶしてしまいます。あるいは罪を隠して、自分を罪のない者のように見せ、また自分でもそう思い込もうとするかもしれません。

そうならないようにマルコはとても簡単な道を示してくれます。それが「これらの小さい者たち」に目を留め、自分の目で見つめることです。ただ一般的に弱者のことを思えというのではなありません。マルコもマタイ (18.6) も「これらの」小さな者たちと、具体的に示唆しています。彼らを傷つけてはいけない、躓かせてはいけない、彼らを保護し、養え。そして「一杯の水」を差し出せる機会があればよろこんでしなさい、そうマルコは勧めているようです。

マルコはこれに少しだけ加えて、嫉妬と妬みからは遠ざかるように勧めていいるように思いますが(「やめさせてはならない」マルコ 9.39)、それに続くイエスの言葉は穏やかなもので、少しユーモラスでさえあります。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。そう読んで見ると、マルコの言葉は「罪を恐れよ」というより、「罪を恐れるあまり、心が暗くなり怖じけることをこそ恐れよ」といういう呼び掛けのようにも聞こえます。

それを思うにつけ、今年 8 月から 9 月にかけて報告された、教会のあまりにたくさんの不祥事は、聞くのにさえあまりに酷でした *。

二つ気を付けるべきだと感じます。一つはマルコが勧めるように、罪を避けようとしてただ罪にだけ目を留めるなら、人は情欲に捕らわれれば盲目になってしまうことがあるということです。目の前にいる子どもたちが「これらの小さい者たち」であることも分からなくなってしまいます。もう一つは、人間のセクシュアリティをただ抑圧するだけではいけないということです。人がただ暴力でこれほどの罪を犯すことはないように思います。知恵も良心も豊かにもちえたはずの、たくさんの人々がそれでもこんなことをしてしまうと思えば、性の力というのはやはり大きなものなのだとも思います。人と人を心身ともに結び合わせる賜物であるはずの、人間のセクシュアリティが本当にその役目を果たしてくれるためには、それをとても大事に、そして丁寧に見つめ、相応しく養ってあげることがどうしても必要なのだろうということです。

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* : 8月31日、ペンシルベニアの裁判所は 300 名以上の神父が 1000 人以上の子供の虐待に関わったと報告しました。9月12日、ドイツの新聞社は国内で 1946 年から 2014 年までの虐待の被害者は 3,700 人に及ぶと報じました。18日、ブルックリン教区は 4 人の被害者の方々との和解に約 30 億円を支払うことになったとの報道がありました。21日にはケララ(インド)の司教がシスターへの数年にわたる性的暴行の疑いで逮捕されました。そして教会内のことではありませんが、今アメリカの最高裁判事候補の過去の性的暴行が告発されています。

鈴木伸国神父様の説教,2017年09月24日,LGBT 特別ミサにて

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様 SJ の説教

二つのものの間に揺れる心

パウロは,第二朗読では二つのことの間で揺れ動いています。生きようか死のうかと悩んでいます。

〔わたしは〕二つのことの間で板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと... だが他方では、肉にとどまる方が...(フィリピ書簡 1,23)

わたしたちが生きてゆくことは,悩みを生きてゆくことでもあります。周囲の力に押し流されながら、それでもわずかに効く舵にしがみついて、いのちを自分のもとにとりもどそうともがいているようなものです。でも,ここでパウロは「諦めようか、でも苦しいけど生きようか」と苦しみと苦しみを天秤にかけているのではありません。また,「死んでしまおうか、それとも可能性を信じてみようか」と、苦しみと、希望のなかの恐れを比べているのでもありません。彼は、不思議なことですが、「今すぐにキリストに会おうか、それとも今ここにいる人たちのために何かできることがあるだろうか」と思案しています。彼は,二つの自分の願いや望みのあいだに立って、自分がどちらに召されているかを感じ取ろうとしています。彼は、神とともにある者に「万事が益となるように共に働く」(ローマ 8,28)ことを経験しているようです。

公平な賃金?

さて,今日の福音も不思議な物語です(「ぶどう園の労働者」マタイ20,1-16)。

このぶどう農園は収穫期なのでしょう、農園の主人は働き手を探しています。とても忙しいのでしょう、もう夜明けには出かけ,手配をし、働き手を農園に送り出します。仕事も続いている朝九時ころ、この主人は、作業監督のあいまの休憩でしょうか、広場のあたりを通りかかります。すると,何人かの男たちが見るからに手持ち無沙汰なようすでたむろしているのを見かけます。ご主人は声をかけます。「わたしの農園に行きなさい、払うから。」

このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。

ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。

でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。

わたしたちの思い

しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。

神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。

主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。

そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。

では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。

でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。

そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると... 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。

共同祈願,2017年09月24日,LGBT 特別ミサ

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,先日,無事に退院し,現在,ペトロの家で療養生活をおくっています.あわれみ深い主よ,日本で初めて LGBTQ カトリックの司牧に取り組んだあなたのしもべ,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,あなたの愛で彼を癒してください.

全世界の性的少数者のために祈りましょう.今年の前半カナダで行われた調査によると,カナダの全人口のなかで LGBTQ が占める割合は 13 % でした.全人類の約1割は LGBTQ である,と言って良いと思います.にもかかわらず,日本において,わたしたちの人権は十分な法的保護を受けておらず,また,性的指向や性同一性を理由とする差別やいじめや迫害は世界の至るところで続いています.正義の神である主よ,あらゆる LGBTQ が安心できるよう,慈しみ深いあなたのふところへ皆を受け入れてください.何らかの差別を被る少数者すべてのためにカトリック教会があなたの愛を実践し,社会正義の実現に貢献することができるよう,全教役者と全信者を導いてください.

Australia では現在,同性婚法制化の可否を問う国民投票が行われており,結果は11月15日に発表されます.世界中の同性カップルのために祈りましょう.愛の神である主よ,如何なる分け隔ても無く,あらゆる者にあなたの限り無い愛を注いでくださることに,感謝します.愛し合うカップルすべてを慈しみ深く祝福してください.いつの日かカトリック教会が同性婚を認めるよう,あなたのしもべたちを導いてください.

日本の LGBTQ 政治家たちのために祈りましょう.transgender であることを公にしている保坂いづみさんが,先日,根室市の市議選で当選しました.わたしたちも,心からの祝福を保坂さんに送りましょう.小さき者すべてを御心にとめてくださる主よ,今年7月に誕生した LGBT 自治体議員連盟のメンバーたちを祝福してください.性的少数者であることを公にしている政治家たちが日本社会の差別的な構造を変えて行くことができるよう,慈しみ深く見守ってください.

長谷川博史さんと HIV 感染者すべてのために祈りましょう.東京新聞は,昨日,長谷川博史さんの人生と活動を紹介する記事を掲載しました.長谷川博史さんは,勇敢にも,日本でいちはやく HIV 感染者の当事者団体 JaNP+ を組織し,今も懸命に啓発活動を続けています.あわれみ深い主よ,HIV 感染者すべてにあなたの愛の恵みを注いでください.同胞のために惜しみなく奉仕する長谷川博史さんを,あなたのカトリック教会のしもべたちと同様に祝福し,あなたのふところへ受け入れてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

聖書のことばには,たとえその一節についてではあってもたくさんの解釈や説教が歴史のなかで積み重ねられていて,そこに何か新しいことが見つけられることはなかなか難しいはずです.でも不思議なことにわたしには読むたびごとに違った趣を示してくれるもので,いつも新しい発見や着想を与えてくれます.

カナンの女(マタイ 15,21-18)

今日の個所はイエスが異邦の地に旅をしたときの話しです.ティルスとシドンはガリラヤ湖からは 40 - 50 km ほどの地中海岸沿いの港町で,現在のレバノンにあたる地域にありました.そこである女性がイエスに自分の娘の病を癒してくれるように願い,断られながらも根気強く願いつづけ,最後には聞き入れられたというお話しです.新共同訳には「カナンの女の信仰」という小見出しが付けられています.

この箇所をよむとき,信じれば「桑の木」や「山」も動くという物語(マタイ17,19f ; ルカ17,6)のように,信じることの不思議さを感じることがありますし,「裁判官とやもめ」(ルカ 18,1-8)のように根気強く願い,また祈りつづけることの意味を考えさせられることもあります.自分のことではなく,自分の娘を思う母の強さと愛情にこころが留まることもあります.でも今日はわたしにはまったく別の情景が浮かびました.

わたしに特別な印象を与えてくれたのは「主よ,ごもっともです.しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というカナンの女性の言葉です.たいへん失敬な言い方になるかもしれませんが,この句がわたしには,少し,いえ,かなり慣れなれしそうな話し方で,たとえばこんな響きをもって聞こえてきました:

もちろんです.もちろんですとも,イエス様.本来ならあなたが異邦人に親しくしてくださるなんてことはないはずです.でもイエス様,さっきテーブルのうえのパンを,お足元の子犬たちに分けてあげていらっしゃるとき,イエス様,とってもおやさしいお顔でしたわ.ほんとに,遠くから拝見しただけもちょっと涙ぐんじゃうくらいの,おやさしい微笑みでらっしゃいました.ねぇイエス様,神様のお恵みはあなたのなかであふれるほどです.ねぇ,イエス様.

そうですねぇ.少し違いますけれど,ミュージカル映画 Sister Act[邦題:天使にラブソングを](1992) のなかの Deloris (Whoopi Goldberg) か,歌謡グループ Perfume の歌「ねぇ」のような印象でしょうか.自分でも何だか分かりませんが,わたしのなかにそんな情景がひろがり,わたしは一遍にこのカナンの女性のファンになりました.(聖句にもとづく観想的な祈りというのは不思議なもので,それがどんな意味なのかは分からないままにまずイメージが与えられます.)

信頼

わたしが新しさを感じたのは多分,(丁度「聖書と典礼」の冊子の扉絵のように)へりくだって腰をまげて,あるいはひざまずいてイエスに恵みを請い願う女性という,わたしが持っていたそれまでのイメージが,イエスととても親しい人たちと同じ立場にある人と変わらない親しさで,あるいは自分の友人が困っている自分を助けないなどとはちっとも思わずに,何の疑いもなくイエスに向かって助けを求める手を差しだすような,そんな一人の女性のイメージへと転換したからだと思います.

心象としてその展開を描いてみれば以下のようなものです.この女性は自分を遠ざけようとしているイエスにむかって,自分が彼にとって大切な存在である,あるいはなりうることを疑わずに,逆に近づいて行きました.近づいて,そして少しも恐れたり,不安に飲まれることなく,イエスの前にとどまり,イエスに無関係なものではないだけではなく,ごく短い対話を通じてでも,親しく言葉と愛情を交わし合える存在であることを示しました.そしてイエスの眼差しのなかで彼女はもはや異邦人としてではなく,自分にとってかけがえのない友人たちの一人に実際に変貌します.そのとき「イスラエルの失われた子ら」であるか否かという区別と障壁がイエスの中で消え,それにせき止められていた恵みは,イエスの承認の言葉とともに,この女性のうえに,そしてその娘へと流れだしてゆく.

新共同訳でイエスの承認の言葉は「あなたの信仰 (πίστις, pistis) はりっぱだ」と訳されていますが,わたしはここでは「あなたの信頼はりっぱだ」と理解したいと思います.「あなたはわたしを信頼し,わたしがあなたを友として受け入れることを疑うことなくわたしに近づき,わたしのこころの情景を変えてくれた.あなたの信頼があなたをわたしの友とし,わたしをあなたの友としてくれた」.そんな印象でしょうか.

たぶんこのようなわたしの心象の背景にあるのは,1960 - 1970年代にかけての学生運動やフェミニズム運動に自分を賭してきた人たちの姿だと思います.彼らはそれまで個人のなかに押し込められてきた悩みや苦悩を,公共的な場に提示し,それを願いとしてではなく,自明,あたりまえのこととして実践しました.でもそれを「運動」などと,とりたてて言わなくてもいいのかもしれません.誰かの苦しみはたいていはある事象を苦しみとして感じさせる社会構造と表裏のものであるはずのもので,自分の中だけから作られた悲しみなどというものはどこにも無いはずだからです.たしかに “the private is political (or public)”(個人的なことは政治的なこと)だからです.

それにしてもこの女性は「つよい」と思います.自分の娘と自分の苦しみを,隠されるべき負の負い目としてではなく,友人でもないが友人になってくれるだろう人のもとに,引け目や恥の意識をのりこえて差し出しているからです.このときこの女性は,多くの解釈のように,腰を曲げて,自分が悪いものででもあるかのように,懇願することもできたでしょう.しかしそれでは,人と人を分かつ区別と障壁は,別種のものに変えられることはあっても取り払われてしまうことはなかったでしょう.

人のこころの機微

もう一つこの女性の姿でわたしをひきつけるものがあります.このカナンの女性のかしこさです.かしこさと言っても,頭がいいとか博識だというのではありません.彼女は人の心のどこのボタンをどの順番で押せばいいのかを心得ているように感じたからです.

そもそもイエスの態度はなかなかのものです.彼の最初の反応は「何もお答えにならなかった」,つまりまったくの無視です.つぎに弟子たちから急かされたときの反応は ‒ 自分は「失われた羊のところにしか遣わされていない」‒ 拒否です.しかも出自の違いを盾にした拒絶です.そして詰寄ってくる女性に ‒ 今の文脈なら明らかに相応しくない incorrect な言い方になりますが ‒「犬」という言葉をかけます.自分の母親に向かって「そこの女性」と呼びかける人だとしても,あんまりだと感じます.

ではカナンの女性の側はどうだったでしょうか.彼女は初めは「叫んで」いました.そして弟子たちがイエスに取り次いでいるのを遠くから覗い,今度は叫ぶことなく,しかし「ひれ伏して」イエスに懇願します.この女性はしたたかに人の機微を伺って願うものへと近づいてゆきます.そしてイエスから侮蔑的な言葉とともに最終的な拒絶を投げかけられたときには ‒ これは飛び切りなのですが ‒,その侮蔑のことばをそっくり受け取って,主人と食卓,パンと犬からなる,同じ情景のなかに,まったく別の,逆の含意をもった物語りをつくり,しかも相手がきっと受け取るだろう文脈を添えて返しています(「ごもっともです.しかし,小犬も...」).彼女は,願うものを得るために,機智を見せるだけでなく,人の心もうけとっています.苦労を知っている人の知恵のようにも思えますし,(意識的な技巧ではないかもしれませんが結果からすれば)外交官なみのたしなみのようにも思えますが,わたしには神を信じる人の巧まざる愛情と知恵の現れのように感じられました.

その結果,イエスはあっさりと考えを変えます.ほぼ180度です.「あなたは正しい.ぼくが間違っている.それがはっきりと分かる.ああ,婦人よ,あなたの信頼は神に嘉(よみ)されている.恵みはあなたのものだ」と言っているような気がします.自分の側にある壁をのりこえて,また裏切られることもあらかじめ受け入れながら,人を信頼すること,人が笑顔を交わし合えることを信じられること.たしかにこの女性が自分を神に愛されるものにしたのだと思います.

いったいわたしのこんなイメージがお説教に相応しいのかどうか分かりませんが,少なくとも私はこの女性のファンになりましたし,皆さんも少しファンになっていただけたとしたら,それで十分な気がいたします.

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

小宇佐敬二神父様と鈴木伸国神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,御病気のため暫く療養に専念なさることになりました.あわれみ深い主よ,あなたのしもべ,わたしたちの牧者,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,彼を癒してください.そして,寛大な主よ,彼に代わる牧者として鈴木伸国神父をわたしたちに与えてくださったことを感謝します.あなたの愛の恵みを特別に注ぎ,鈴木神父を祝福してください.

LGBTQ inclusion に積極的に取り組む教役者たちのために祈りましょう.アメリカの Newark の司教 Joseph Tobin 枢機卿に続いて,世界のあちらこちらでカトリック教会が LGBTQ の人々を歓迎し,包容する姿勢を公にあらわしています.Scotland の Glasgow の Paul Morton 神父は Facebook でこう告知しました:「わたしたちの教会は,性的少数者を歓迎します.神の愛から排除されている人は,ひとりもいません.神の家には誰もが歓迎されます」.また,Brazil の Cruz 司教は,説教でこう説きました:「性的少数者であることは,個人の選択によるのでも精神疾患によるのでもないのだから,神の賜以外のものではあり得ません.人種差別と同じく,sexuality による差別は克服されねばなりません」.日本でも,晴佐久昌英神父様は,キリスト教徒の心に根深く残る原理主義的な傾向を批判し,神の愛の全包容性と救済の普遍性を説いています.そして,彼が主任司祭を務める教会は LGBTQ の人々をいつでも歓迎する,と断言しています.慈しみ深い主よ,あなたの愛をあまねく実現するよう努めるあなたのしもべたちを祝福してください.あなたの福音を世界中に宣べ伝えようとする彼らの声に耳を塞ぐ者たちの心を優しく開いてください.

ブラジルの LGBTQ 人権活動家 Toni Reis と彼の家族のために祈りましょう.Toni Reis と彼の夫 David Harrad の同性婚カップルは,あきらめずに求め続けた結果,養子三人を迎えることができ,さらに,子どもたちに洗礼を授けてもらうこともできました.そして,子どもたちの洗礼について Papa Francesco の祝福の言葉を伝える手紙を Vatican から受け取りました.命を与えてくださる主よ,あなたは,実の親により育てられずにいた子どもたちに同性婚カップルを親として与え,あなたの愛の聖霊で彼らに新たな命を与えました.Toni と David と彼らの子どもたちを改めて祝福してください.世界中の同性カップルとその子どもたちにも,あなたの愛の恵みを与え,皆を祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

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