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鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

王たるキリスト の祝日

「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ 18.33b-37)

“King” と聞いて,皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。マーティン・ルーサー・キング牧師を思いうかべる人から「バーガー・キング」を思いうかべる人まで,いろいろかもしれません。わたしは,短距離走者の Ben Johnson や、ボクシングの井上尚弥、あるいは矢沢永吉をイメージしてしまいます。とはいっても,私の中で King of Rock 'n' Roll 忌野清志郎は別格です。

或るパパ様は「王」を「他のどんな者よりも秀でていて」、すべてのもの、とくに人のこころを見とおして語りかけて、またその語りかけがこころの真実にまでたっする力をもっていることで「人のこころを統べる者」だと言われたようです (cf. Annum Sacrum, Leo XIII, 1899, n.7). もちろんパパ様が言われる王はイエス・キリストただ一人のはずですが、人のこころに語りかけ、その言葉によって人の意志を何か大切なものに向けさせるのが王なら、それは部分的にはミュージシャンたちの役目でもある気がします。また少なくとも福音のなかのピラトには、権力と恐怖による「支配」は理解できても、この意味での「王」には思いいたれなかったようです。

もうすこし政治的な意味で現代で「王」とは誰でしょうか。EU が求心力を失いかけている状態では、どんな人物であるかを別にすれば、合衆国大統領と中国共産党総書記は現代の「この世の王」たちであるように見えます。この二つの国の統治制度は,日本のそれよりも、聖書が語る「国」の理論に近いように見える部分があります。どちらの国でもトップが変わると、それに合わせてたくさんの職員か制度が変わり、社会とそこに住んでいる人たちの生活も一変するからです。「統治者 / 王 (basileus)」が変わればその「統治 / 国 (basileia)」が変わるのは当然です。「統治」はその統治にあらわされた「統治者」の姿でもあります。

ともかく,わたしたちの「王」、わたしたちのこころと社会を統べる「王」が大統領でも、総書記でも内閣総理大臣でもなく、人のこころの痛みと願い、苦痛とよろこびを知り、そのすべてを自分の身に負いながら、人を癒し、なぐさめ、弟子たちを導いた方であるのはありがたいことです。

ところで,この祭日の制定を思うとき、わたしはそれをただありがたい祝いだと片づけることができません。教皇がこの祭日を宣言したのは、第一次世界大戦後、急ぎ設立された国際連盟が早々に無力化され、各国がふたたび自国の権益拡大にむけてわれ先に駆けだしたころです。王はただ一人、すべての存在を愛し、支える王だけであることを,教皇は何としてでも訴えたかったことでしょう (cf. Quas primas, Pius XI, 1925).

しかし,それ以上に,わたしにとっては「王たるキリスト」という言葉は、それにつづく期間にたくさんの人の口から叫ばれた "Viva Christo Rey !" という声と結ばれています。わたしの所属する修道会はスペインに一つの起源をもち、またそのためたくさんの会員が中米、南米などで働いています。たくさんのスペイン人の神父様がたにとってスペイン内戦 (1936-39) の記憶はあまりに苛烈なものです。たくさんの司祭は夜、連行されて,平原のなかの谷の底で射殺されました(或る神父さんは,その数は 6,000人くらいだろうと話していました)。そしてその何十倍の人たちが、戦場で、あるいは対立側の人間と見なされることでただ、逮捕され殺されてゆきました。そのなかで教会の人間はこの言葉 "Viva Christo Rey !" を叫んで銃殺されてゆきました。

もちろんこの内戦はフランコ派と共和派の戦いであり、またその後ろにいた独伊連合とソビエト・社会主義派の戦いであって,その一方に肩入れすることもできませんが、そこで射殺されようとするとき、"Viva Christo Rey !" — たとえば「王はキリスト(ただ一人)!」あるいは「キリストよ、永遠に!」とでも訳したらいいのでしょうか — と叫んだ人たちのこころには、その対立をこえて,愛によるキリストの統治、キリストの国への希求があったに違いないと思いたい気持ちを抑えられません。

「わたしの国はこの世には属していない」とイエスは言います。わたしたちにとっても同じだと思います。私たちの祖国は神の国一つ、私たちの法はイエスの言葉、私たちの王はキリストただ一人、それがいちばんしあわせな生き方だと思います。

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年09月30日

2018年09月30日(年間第26主日,B 年)の LGBTQ+ みんなのミサにおける鈴木伸国神父様の説教

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は...」(マルコ 9.38-43, 45, 47-48)

福音書の言葉のなかで今日の箇所ほど、罪に対して苛烈な言葉が向けられる箇所はありません。手を「切り捨ててしまいなさい」、足も「切り捨ててしまいなさい」、目は「えぐり出してしまいなさい」。それだけを聞いて、自分の業の深さを思えば、福音の言葉とはいえ罪への恐れよりも、ただその光景の恐ろしさに心を囚えられてしまいそうです。怖がりな私なら、宗教説話にあるような地獄での折檻の情景さえ連想してしまいます。

しかもこのマルコの箇所では、マタイと違い具体的にどんな罪を避ければいいかを一々説明さえしてくれません。怒りと暴言(マタイ 5.21- )はどうなんでしょう。情欲や姦淫 (5.27-, 31- ), 嘘や復讐 (33-, 38- ) はどうなんでしょうか。それは放っておいてもいいというんでしょうか。そんなことはないでしょうが、マルコは罪から遠ざかるために、もっと大事なことを言っているような気がします。

今日の箇所のなかでマルコが避けるべきこととして指摘するのはただ一つ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」こと。それだけです。決して怒りや嘘、情欲やセクシャリティなどがそれだけで罪として指摘されてはいません。

私たちがただ罪に目を留めようとすれば、その目に罪は益々大きなものになり、その恐れは私たちの心を押しつぶしてしまいます。あるいは罪を隠して、自分を罪のない者のように見せ、また自分でもそう思い込もうとするかもしれません。

そうならないようにマルコはとても簡単な道を示してくれます。それが「これらの小さい者たち」に目を留め、自分の目で見つめることです。ただ一般的に弱者のことを思えというのではなありません。マルコもマタイ (18.6) も「これらの」小さな者たちと、具体的に示唆しています。彼らを傷つけてはいけない、躓かせてはいけない、彼らを保護し、養え。そして「一杯の水」を差し出せる機会があればよろこんでしなさい、そうマルコは勧めているようです。

マルコはこれに少しだけ加えて、嫉妬と妬みからは遠ざかるように勧めていいるように思いますが(「やめさせてはならない」マルコ 9.39)、それに続くイエスの言葉は穏やかなもので、少しユーモラスでさえあります。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。そう読んで見ると、マルコの言葉は「罪を恐れよ」というより、「罪を恐れるあまり、心が暗くなり怖じけることをこそ恐れよ」といういう呼び掛けのようにも聞こえます。

それを思うにつけ、今年 8 月から 9 月にかけて報告された、教会のあまりにたくさんの不祥事は、聞くのにさえあまりに酷でした *。

二つ気を付けるべきだと感じます。一つはマルコが勧めるように、罪を避けようとしてただ罪にだけ目を留めるなら、人は情欲に捕らわれれば盲目になってしまうことがあるということです。目の前にいる子どもたちが「これらの小さい者たち」であることも分からなくなってしまいます。もう一つは、人間のセクシュアリティをただ抑圧するだけではいけないということです。人がただ暴力でこれほどの罪を犯すことはないように思います。知恵も良心も豊かにもちえたはずの、たくさんの人々がそれでもこんなことをしてしまうと思えば、性の力というのはやはり大きなものなのだとも思います。人と人を心身ともに結び合わせる賜物であるはずの、人間のセクシュアリティが本当にその役目を果たしてくれるためには、それをとても大事に、そして丁寧に見つめ、相応しく養ってあげることがどうしても必要なのだろうということです。

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* : 8月31日、ペンシルベニアの裁判所は 300 名以上の神父が 1000 人以上の子供の虐待に関わったと報告しました。9月12日、ドイツの新聞社は国内で 1946 年から 2014 年までの虐待の被害者は 3,700 人に及ぶと報じました。18日、ブルックリン教区は 4 人の被害者の方々との和解に約 30 億円を支払うことになったとの報道がありました。21日にはケララ(インド)の司教がシスターへの数年にわたる性的暴行の疑いで逮捕されました。そして教会内のことではありませんが、今アメリカの最高裁判事候補の過去の性的暴行が告発されています。

鈴木伸国神父様の説教,2017年09月24日,LGBT 特別ミサにて

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様 SJ の説教

二つのものの間に揺れる心

パウロは,第二朗読では二つのことの間で揺れ動いています。生きようか死のうかと悩んでいます。

〔わたしは〕二つのことの間で板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと... だが他方では、肉にとどまる方が...(フィリピ書簡 1,23)

わたしたちが生きてゆくことは,悩みを生きてゆくことでもあります。周囲の力に押し流されながら、それでもわずかに効く舵にしがみついて、いのちを自分のもとにとりもどそうともがいているようなものです。でも,ここでパウロは「諦めようか、でも苦しいけど生きようか」と苦しみと苦しみを天秤にかけているのではありません。また,「死んでしまおうか、それとも可能性を信じてみようか」と、苦しみと、希望のなかの恐れを比べているのでもありません。彼は、不思議なことですが、「今すぐにキリストに会おうか、それとも今ここにいる人たちのために何かできることがあるだろうか」と思案しています。彼は,二つの自分の願いや望みのあいだに立って、自分がどちらに召されているかを感じ取ろうとしています。彼は、神とともにある者に「万事が益となるように共に働く」(ローマ 8,28)ことを経験しているようです。

公平な賃金?

さて,今日の福音も不思議な物語です(「ぶどう園の労働者」マタイ20,1-16)。

このぶどう農園は収穫期なのでしょう、農園の主人は働き手を探しています。とても忙しいのでしょう、もう夜明けには出かけ,手配をし、働き手を農園に送り出します。仕事も続いている朝九時ころ、この主人は、作業監督のあいまの休憩でしょうか、広場のあたりを通りかかります。すると,何人かの男たちが見るからに手持ち無沙汰なようすでたむろしているのを見かけます。ご主人は声をかけます。「わたしの農園に行きなさい、払うから。」

このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。

ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。

でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。

わたしたちの思い

しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。

神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。

主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。

そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。

では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。

でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。

そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると... 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。

共同祈願,2017年09月24日,LGBT 特別ミサ

2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,先日,無事に退院し,現在,ペトロの家で療養生活をおくっています.あわれみ深い主よ,日本で初めて LGBTQ カトリックの司牧に取り組んだあなたのしもべ,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,あなたの愛で彼を癒してください.

全世界の性的少数者のために祈りましょう.今年の前半カナダで行われた調査によると,カナダの全人口のなかで LGBTQ が占める割合は 13 % でした.全人類の約1割は LGBTQ である,と言って良いと思います.にもかかわらず,日本において,わたしたちの人権は十分な法的保護を受けておらず,また,性的指向や性同一性を理由とする差別やいじめや迫害は世界の至るところで続いています.正義の神である主よ,あらゆる LGBTQ が安心できるよう,慈しみ深いあなたのふところへ皆を受け入れてください.何らかの差別を被る少数者すべてのためにカトリック教会があなたの愛を実践し,社会正義の実現に貢献することができるよう,全教役者と全信者を導いてください.

Australia では現在,同性婚法制化の可否を問う国民投票が行われており,結果は11月15日に発表されます.世界中の同性カップルのために祈りましょう.愛の神である主よ,如何なる分け隔ても無く,あらゆる者にあなたの限り無い愛を注いでくださることに,感謝します.愛し合うカップルすべてを慈しみ深く祝福してください.いつの日かカトリック教会が同性婚を認めるよう,あなたのしもべたちを導いてください.

日本の LGBTQ 政治家たちのために祈りましょう.transgender であることを公にしている保坂いづみさんが,先日,根室市の市議選で当選しました.わたしたちも,心からの祝福を保坂さんに送りましょう.小さき者すべてを御心にとめてくださる主よ,今年7月に誕生した LGBT 自治体議員連盟のメンバーたちを祝福してください.性的少数者であることを公にしている政治家たちが日本社会の差別的な構造を変えて行くことができるよう,慈しみ深く見守ってください.

長谷川博史さんと HIV 感染者すべてのために祈りましょう.東京新聞は,昨日,長谷川博史さんの人生と活動を紹介する記事を掲載しました.長谷川博史さんは,勇敢にも,日本でいちはやく HIV 感染者の当事者団体 JaNP+ を組織し,今も懸命に啓発活動を続けています.あわれみ深い主よ,HIV 感染者すべてにあなたの愛の恵みを注いでください.同胞のために惜しみなく奉仕する長谷川博史さんを,あなたのカトリック教会のしもべたちと同様に祝福し,あなたのふところへ受け入れてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

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