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酒井陽介神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2020年01月26日

酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日

今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です :「ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ」.

この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました.

前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました.

もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と?

「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です.

それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました.

そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです.

イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.

神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.

実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.

そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.

考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.

ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.

わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.

では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?

神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.

わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.

その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.

イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.

ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.

もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.

この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.

この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.

その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.

今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.

12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.

確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.

わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.

その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.

イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.

主は皆さんとともに.

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)

第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a)
第二朗読:第2テサロニケ書簡 (3,07-12)
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿* が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年)

第一朗読:出エジプト 17,08-13
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え)

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12).

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします.

祈っていて,ふたつのことに気づきました.

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです.

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません.

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません.

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います.

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです.

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです.

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います.


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居 や カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :

 

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)

第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.

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