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鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

聖書のことばには,たとえその一節についてではあってもたくさんの解釈や説教が歴史のなかで積み重ねられていて,そこに何か新しいことが見つけられることはなかなか難しいはずです.でも不思議なことにわたしには読むたびごとに違った趣を示してくれるもので,いつも新しい発見や着想を与えてくれます.

カナンの女(マタイ 15,21-18)

今日の個所はイエスが異邦の地に旅をしたときの話しです.ティルスとシドンはガリラヤ湖からは 40 - 50 km ほどの地中海岸沿いの港町で,現在のレバノンにあたる地域にありました.そこである女性がイエスに自分の娘の病を癒してくれるように願い,断られながらも根気強く願いつづけ,最後には聞き入れられたというお話しです.新共同訳には「カナンの女の信仰」という小見出しが付けられています.

この箇所をよむとき,信じれば「桑の木」や「山」も動くという物語(マタイ17,19f ; ルカ17,6)のように,信じることの不思議さを感じることがありますし,「裁判官とやもめ」(ルカ 18,1-8)のように根気強く願い,また祈りつづけることの意味を考えさせられることもあります.自分のことではなく,自分の娘を思う母の強さと愛情にこころが留まることもあります.でも今日はわたしにはまったく別の情景が浮かびました.

わたしに特別な印象を与えてくれたのは「主よ,ごもっともです.しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というカナンの女性の言葉です.たいへん失敬な言い方になるかもしれませんが,この句がわたしには,少し,いえ,かなり慣れなれしそうな話し方で,たとえばこんな響きをもって聞こえてきました:

もちろんです.もちろんですとも,イエス様.本来ならあなたが異邦人に親しくしてくださるなんてことはないはずです.でもイエス様,さっきテーブルのうえのパンを,お足元の子犬たちに分けてあげていらっしゃるとき,イエス様,とってもおやさしいお顔でしたわ.ほんとに,遠くから拝見しただけもちょっと涙ぐんじゃうくらいの,おやさしい微笑みでらっしゃいました.ねぇイエス様,神様のお恵みはあなたのなかであふれるほどです.ねぇ,イエス様.

そうですねぇ.少し違いますけれど,ミュージカル映画 Sister Act[邦題:天使にラブソングを](1992) のなかの Deloris (Whoopi Goldberg) か,歌謡グループ Perfume の歌「ねぇ」のような印象でしょうか.自分でも何だか分かりませんが,わたしのなかにそんな情景がひろがり,わたしは一遍にこのカナンの女性のファンになりました.(聖句にもとづく観想的な祈りというのは不思議なもので,それがどんな意味なのかは分からないままにまずイメージが与えられます.)

信頼

わたしが新しさを感じたのは多分,(丁度「聖書と典礼」の冊子の扉絵のように)へりくだって腰をまげて,あるいはひざまずいてイエスに恵みを請い願う女性という,わたしが持っていたそれまでのイメージが,イエスととても親しい人たちと同じ立場にある人と変わらない親しさで,あるいは自分の友人が困っている自分を助けないなどとはちっとも思わずに,何の疑いもなくイエスに向かって助けを求める手を差しだすような,そんな一人の女性のイメージへと転換したからだと思います.

心象としてその展開を描いてみれば以下のようなものです.この女性は自分を遠ざけようとしているイエスにむかって,自分が彼にとって大切な存在である,あるいはなりうることを疑わずに,逆に近づいて行きました.近づいて,そして少しも恐れたり,不安に飲まれることなく,イエスの前にとどまり,イエスに無関係なものではないだけではなく,ごく短い対話を通じてでも,親しく言葉と愛情を交わし合える存在であることを示しました.そしてイエスの眼差しのなかで彼女はもはや異邦人としてではなく,自分にとってかけがえのない友人たちの一人に実際に変貌します.そのとき「イスラエルの失われた子ら」であるか否かという区別と障壁がイエスの中で消え,それにせき止められていた恵みは,イエスの承認の言葉とともに,この女性のうえに,そしてその娘へと流れだしてゆく.

新共同訳でイエスの承認の言葉は「あなたの信仰 (πίστις, pistis) はりっぱだ」と訳されていますが,わたしはここでは「あなたの信頼はりっぱだ」と理解したいと思います.「あなたはわたしを信頼し,わたしがあなたを友として受け入れることを疑うことなくわたしに近づき,わたしのこころの情景を変えてくれた.あなたの信頼があなたをわたしの友とし,わたしをあなたの友としてくれた」.そんな印象でしょうか.

たぶんこのようなわたしの心象の背景にあるのは,1960 - 1970年代にかけての学生運動やフェミニズム運動に自分を賭してきた人たちの姿だと思います.彼らはそれまで個人のなかに押し込められてきた悩みや苦悩を,公共的な場に提示し,それを願いとしてではなく,自明,あたりまえのこととして実践しました.でもそれを「運動」などと,とりたてて言わなくてもいいのかもしれません.誰かの苦しみはたいていはある事象を苦しみとして感じさせる社会構造と表裏のものであるはずのもので,自分の中だけから作られた悲しみなどというものはどこにも無いはずだからです.たしかに “the private is political (or public)”(個人的なことは政治的なこと)だからです.

それにしてもこの女性は「つよい」と思います.自分の娘と自分の苦しみを,隠されるべき負の負い目としてではなく,友人でもないが友人になってくれるだろう人のもとに,引け目や恥の意識をのりこえて差し出しているからです.このときこの女性は,多くの解釈のように,腰を曲げて,自分が悪いものででもあるかのように,懇願することもできたでしょう.しかしそれでは,人と人を分かつ区別と障壁は,別種のものに変えられることはあっても取り払われてしまうことはなかったでしょう.

人のこころの機微

もう一つこの女性の姿でわたしをひきつけるものがあります.このカナンの女性のかしこさです.かしこさと言っても,頭がいいとか博識だというのではありません.彼女は人の心のどこのボタンをどの順番で押せばいいのかを心得ているように感じたからです.

そもそもイエスの態度はなかなかのものです.彼の最初の反応は「何もお答えにならなかった」,つまりまったくの無視です.つぎに弟子たちから急かされたときの反応は ‒ 自分は「失われた羊のところにしか遣わされていない」‒ 拒否です.しかも出自の違いを盾にした拒絶です.そして詰寄ってくる女性に ‒ 今の文脈なら明らかに相応しくない incorrect な言い方になりますが ‒「犬」という言葉をかけます.自分の母親に向かって「そこの女性」と呼びかける人だとしても,あんまりだと感じます.

ではカナンの女性の側はどうだったでしょうか.彼女は初めは「叫んで」いました.そして弟子たちがイエスに取り次いでいるのを遠くから覗い,今度は叫ぶことなく,しかし「ひれ伏して」イエスに懇願します.この女性はしたたかに人の機微を伺って願うものへと近づいてゆきます.そしてイエスから侮蔑的な言葉とともに最終的な拒絶を投げかけられたときには ‒ これは飛び切りなのですが ‒,その侮蔑のことばをそっくり受け取って,主人と食卓,パンと犬からなる,同じ情景のなかに,まったく別の,逆の含意をもった物語りをつくり,しかも相手がきっと受け取るだろう文脈を添えて返しています(「ごもっともです.しかし,小犬も...」).彼女は,願うものを得るために,機智を見せるだけでなく,人の心もうけとっています.苦労を知っている人の知恵のようにも思えますし,(意識的な技巧ではないかもしれませんが結果からすれば)外交官なみのたしなみのようにも思えますが,わたしには神を信じる人の巧まざる愛情と知恵の現れのように感じられました.

その結果,イエスはあっさりと考えを変えます.ほぼ180度です.「あなたは正しい.ぼくが間違っている.それがはっきりと分かる.ああ,婦人よ,あなたの信頼は神に嘉(よみ)されている.恵みはあなたのものだ」と言っているような気がします.自分の側にある壁をのりこえて,また裏切られることもあらかじめ受け入れながら,人を信頼すること,人が笑顔を交わし合えることを信じられること.たしかにこの女性が自分を神に愛されるものにしたのだと思います.

いったいわたしのこんなイメージがお説教に相応しいのかどうか分かりませんが,少なくとも私はこの女性のファンになりましたし,皆さんも少しファンになっていただけたとしたら,それで十分な気がいたします.

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ

小宇佐敬二神父様と鈴木伸国神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,御病気のため暫く療養に専念なさることになりました.あわれみ深い主よ,あなたのしもべ,わたしたちの牧者,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,彼を癒してください.そして,寛大な主よ,彼に代わる牧者として鈴木伸国神父をわたしたちに与えてくださったことを感謝します.あなたの愛の恵みを特別に注ぎ,鈴木神父を祝福してください.

LGBTQ inclusion に積極的に取り組む教役者たちのために祈りましょう.アメリカの Newark の司教 Joseph Tobin 枢機卿に続いて,世界のあちらこちらでカトリック教会が LGBTQ の人々を歓迎し,包容する姿勢を公にあらわしています.Scotland の Glasgow の Paul Morton 神父は Facebook でこう告知しました:「わたしたちの教会は,性的少数者を歓迎します.神の愛から排除されている人は,ひとりもいません.神の家には誰もが歓迎されます」.また,Brazil の Cruz 司教は,説教でこう説きました:「性的少数者であることは,個人の選択によるのでも精神疾患によるのでもないのだから,神の賜以外のものではあり得ません.人種差別と同じく,sexuality による差別は克服されねばなりません」.日本でも,晴佐久昌英神父様は,キリスト教徒の心に根深く残る原理主義的な傾向を批判し,神の愛の全包容性と救済の普遍性を説いています.そして,彼が主任司祭を務める教会は LGBTQ の人々をいつでも歓迎する,と断言しています.慈しみ深い主よ,あなたの愛をあまねく実現するよう努めるあなたのしもべたちを祝福してください.あなたの福音を世界中に宣べ伝えようとする彼らの声に耳を塞ぐ者たちの心を優しく開いてください.

ブラジルの LGBTQ 人権活動家 Toni Reis と彼の家族のために祈りましょう.Toni Reis と彼の夫 David Harrad の同性婚カップルは,あきらめずに求め続けた結果,養子三人を迎えることができ,さらに,子どもたちに洗礼を授けてもらうこともできました.そして,子どもたちの洗礼について Papa Francesco の祝福の言葉を伝える手紙を Vatican から受け取りました.命を与えてくださる主よ,あなたは,実の親により育てられずにいた子どもたちに同性婚カップルを親として与え,あなたの愛の聖霊で彼らに新たな命を与えました.Toni と David と彼らの子どもたちを改めて祝福してください.世界中の同性カップルとその子どもたちにも,あなたの愛の恵みを与え,皆を祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 ‒ 奇跡 ‒ による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ ‒ からし種の譬えとパン種の譬え ‒ が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか ‒ そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 ‒ 悪を行う者や不法を行う者 ‒ を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた ‒ そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く ‒ そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている ‒ そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ ‒ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる ‒ それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ ‒ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する ‒ その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている ‒ そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年7月17日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち ‒ 特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.6月30日にドイツで,7月12日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

小宇佐敬二神父様の説教,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,3章13-19節で十二使徒が選ばれ,6章7-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,6章17-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」‒ 何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と ‒ それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない ‒ そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書10章01-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く ‒ その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる ‒「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書6章01-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 ‒ そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる ‒ その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」‒ ,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか ‒ それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる ‒ それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 ‒ 救いの神秘 ‒ でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 ‒ さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す ‒ もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し ‒ それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける ‒ それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で mysterion, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる ‒ その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.

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