LGBT とカトリック教義


LGBT とカトリック教義
– 性的少数者がカトリック教会によりよく包容され得るために

ルカ小笠原晋也(カトリック本郷教会所属信徒)
精神分析家,東京ラカン塾主宰
LGBT 人権擁護活動家,LGBTCJ 共同代表


要旨:カトリック教会の基礎は,神の愛である.神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する.本論文においては,この全包容的な神の愛の観点から,カトリック教会の性的少数者に対する伝統的な偏見に対する批判を展開する.また,sexuality の概念について,ラカン派精神分析にもとづく議論を若干紹介する .


目次

0. 序

I. LGBT に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

I-1. 同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

I-2. transgenderism に関するカトリック教会の見解

II. 教皇 Francesco の同性愛者司牧の新たな姿勢

III. LGBT に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点

III-1. 今 homosexuality と呼ばれているもの

III-2. 同性愛と聖書 – 聖書において同性愛は禁止も断罪もされていない
III-2-1. 旧約聖書における男性間性行為の問題
III-2-2. 新約聖書における同性間性行為の問題

III-3. 同性愛行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

III-4. 男女両性の「相互補完性」の神話

III-5. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題

IV. sexuality とは何か?

V. 結び



「そも,あなたたちは皆,信仰によって,Christ Jesus において,神の子である.そも,Christ において洗礼を授かった[Christ のなかへ浸された,つまり,神の愛のなかへ浸された]あなたたちは皆,Christ を身にまとった.もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,奴隷も自由人も無く,男も女も無い.そも,あなたたちは皆,Christ Jesus において一者である」(聖パウロ: Ga 3,26-28



0. 序

人間の sexuality[性本能]について,「神は,人間を御自身の似姿に創造なさった.神の似姿に人間を創造なさった.男と女として人間を創造なさった」,そして,男と女は「ひとつの肉になる」ように愛し合う,と聖書には記されてはいても,「男とは何か?」と「女とは何か?」の神学的な本質規定は明示されていないし,愛し合うのがひとりの男とひとりの女とでなければならないことの神学的に必然的な理由も述べられてはいない.単純に,人間存在に関する素朴な性別二元論と,素朴な道徳規範としての異性愛が,無反省的に想定されているだけである.

しかるに,sexuality の現実はそのような素朴さには還元され得ず,而して,sexual minority[性的少数者]が現存する – lesbian[女性同性愛者],gay[男性同性愛者],bisexual[男女いづれをも性愛パートナーとし得る者],asexual[性愛パートナーを持つ必要性を特に感じない者],transgender[存在論的性別と生物学的性別とが解離している者],狭義の queer[gender identity が流動的な者,gender identity が男女いづれとも特定され得ない者,gender identity が男女のいづれでもない者,gender identity を持たない者,等々],intersex[何らかの先天的な原因により,身体の性分化が非定型的な者],等々.

現在,lesbian, gay, bisexual, transgender の頭文字から成る LGBT という語は,sexual minority の同義語として,一般に広く用いられている.あるいはまた,queer や intersex などの gender identity に関する多様な variation等をも含めることを明示するために,LGBT+ などの表記が用いられることもある.

本論文においては,« transgender » を « beyond the gender binarism »[性別二元論の彼方]と取ることによって,最も簡潔な « LGBT » という表記を,queer や intersex などの多様な可能的 variations すべてをも含む広義において,sexual minority 全体を指す語として用いる.

なお,ここで論ずる LGBT には,pedophilia に属する同性愛者は含まないものとする.pedophilia は,もっぱら思春期に達していない年齢の小児を性欲対象とする性倒錯の一種である.pedophile たちが性本能を行為化すれば,それは,反人道的な強姦とならざるを得ない.そのような病理学的ケースを,ここで論ずる LGBT と同様に擁護することは,当然ながら不可能である.




I. LGBT に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

I-1. 同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢は,『カトリック教会のカテキズム』2357段に要約されている:

同性愛とは,もっぱら – または,おもに – 自身と同じ性別の者に対して性的に惹かれる男どうしの – または女どうしの – 関繋を指す.それは,さまざまな時代や文化をとおして非常に多様な形態を取る.それが心的に如何に発生するかは,大部分,未解明のままである.同性愛行為を重大な堕落として提示している聖書に基づいて,伝統は常にこう表明してきた:「同性愛行為は,内在的に乱れたものである」.同性愛行為は,自然の法則に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.

それに続いて,2358段では,こう述べられている:

無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.この性向は,客観的に乱れたものであり,彼ら・彼女らの大多数にとって試練となっている.彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼ら・彼女らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼ら・彼女らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.

この機会に指摘しておくと,『カトリック教会のカテキズム』フランス語版の2358段に記されている « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle »[彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない]という文は,日本語版においては訳し落とされている.この文は「同性愛は嗜好の問題だ」というよくある誤解を正すものとして非常に重要であるので,この脱落の事実は広く知らされるべきである.

ともあれ,同性愛に関するそれらふたつの段落を読む者が受ける印象は,こうでしかあり得ないだろう:如何に2358段において同性愛者の受容が勧められていても,その効果は2357段の取りつく島も無い同性愛断罪によって全く打ち消されてしまっており,その結果,同性愛者はカトリック教会のなかに救いを見出すことはできないと感じざるを得ない.


I-2. transgenderism に関するカトリック教会の見解

他方,transgenderism そのものに関しては,カトリック教会は,それを主題として一般的な判断を公式に表明したことはいまだかつて一度も無い.

transgenderism のうちでも特に問題となるであろうのは,性別適合のための医学的処置(外科手術かつ/または性ホルモン療法)を必要とする transsexualism であろう(それに対して,transgender の人々のなかには,身体的性別変更の必要性をさほど感じない者もいる).なぜなら,保守的な立場の者は「性別適合の医学的処置は神により与えられた身体を不当に損なうことだ」と考えるからである.

一般的判断ではなく,ひとつの個別例に関する判断は,既に公式に為されている.詳しく見てみよう.

2015年7月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,当時21歳だった transsexual 男性 Alexander Salinas(つまり,彼は,生物学的には女性である身体を持って生まれてきたが,存在論的には男性であり,性別適合手術を受けて,身体においても男性となった)が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.

この問題は LGBT 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は「司教の許可が出た」というデマも流れた.

そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,2015年9月1日付の司教声明のなかで発表された.

その司教声明全文の翻訳は次のとおり:


或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:

洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること(『カトリック教会のカテキズム』1255段).それらのことすべてのために,教会法は – なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである(教会法典 874条 1項および 3項を参照).必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.

わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:

「この問題について,わたし[教理省長官 Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理[引用者による強調]にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている(教会法典 874条 1項および 3項)という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」

実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋 – それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedikt XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011年9月22日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇 Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理 – それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度 [ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si’, nº 155).

以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.

教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理 – を否定することはできない.


とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,transsexualism に関するものではなく,いわゆる gender theory に対する批判である.教理省長官は,恣意的な解釈のもとに,性別適合手術の不容認の根拠として教皇を不当に引用している.教皇 Francesco が transsexualism や性別適合手術の問題に関して公式に主題的に論じたことは,今までのところ一度も無い.

ともあれ,上に紹介した一個別例に関しては,教皇庁教理省は,transsexualism において必要とされる性別適合手術は「自身の性別の真理」[ la verdad del propio sexo ] に反するものであり,カトリック教義の観点からは容認され得ない,と公式に判断した.

その結果,何が起きたか? 当の Alexander Salinas 氏のカトリック教会からの離反である.当然であろう.カトリック教会は彼の「性別の真理」を認めようとしないのであるから.




II. 教皇 Francesco の同性愛者司牧の新たな姿勢

2013年3月13日に選出された教皇 Francesco は,同性婚に関しては,カトリック教会内に修復困難な分裂を生じさせぬよう,それを公認することは慎重に避けている (cf. Amoris laetitia nº 251) ものの, LGBT の人々のための司牧について,就任当初以来,より包容的な姿勢を積極的に打ち出している.

以下に,教皇 Francesco の LGBT に関する発言を幾つか紹介する.

まず彼は,2013年7月28日,Rio de Janeiro 訪問からの帰途の機上記者会見で,同性愛について質問した記者への答えのなかで,こう言った:


Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla ?

或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?


それに続いて,『カトリック教会のカテキズム』2358段 を記憶で部分的に引用しつつ,彼はこう言った:同性愛のゆえに差別することがあってはならない.同性愛者たちを社会に迎え入れねばならない.

以上の発言を取り上げ直しつつ,教皇は,2013年8月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica によるインタヴューのなかでこう述べている:


Se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...)

Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : « Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ? » Bisogna sempre considerare la persona. Qui entriamo nel mistero dell’uomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia.

もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない.(...)

或るとき,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない – 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない.


このように,教皇 Francesco は,『カトリック教会のカテキズム』の2357段落から2358段落へ,アクセントを明瞭に移動させている.

ただそれだけのことで,しかし,彼は,世界中の LGBT の人々に救いの希望をもたらすことに成功した.

彼のそのような司牧的配慮を支えているのは,ときとして無慈悲であり得る律法中心主義を戒めつつ,人間ひとりひとりに寄り添ってくださる神の愛と慈しみを教義の中心に措定するキリスト中心主義である.

2016年4月に発表された使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]250段落において,教皇 Francesco はこう述べている:


主 Jesus は,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主 Jesus の態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て –「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム 2358段)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.


そこにおいては,上に引用したインタヴューで述べられていたことが,教皇の公式文書のなかで改めて明言されている.

また,2016年6月26日,アルメニア訪問からの帰途,機上記者会見において,教皇は「教会は同性愛者たちに赦しを請わねばならない」とまで述べている.その部分を引用すると:


Cindy Wooden (Catholic News Service) :

ありがとうございます,教皇様.2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は同性愛者差別について gay community にお詫びしなければならない,と言いました[2016年6月23日,Trinity College Dublin で The Loyola Institute が « The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? » のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件[2016年6月12日に起きたフロリダ州 Orlando の gay nightclub Pulse における多人数殺傷事件]の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco :

教皇としての最初の旅行[2013年7月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』 [ nº 2358 ] が言っていることです:同性愛者たちを差別してはならない;彼ら・彼女らを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼ら・彼女らに付き添わねばならない.

断罪され得ること – イデオロギー的な理由によってではなく,言うなれば,政治的行動の理由によって –,それは,他者に対してやや侵害的にすぎる或る種の出来事です.しかし,そのような類のことは,同性愛の問題とは無関係です.

問題がそのような事情を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は何者でしょうか? 我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.

他方で,幾つかの国や文化のなかには,同性愛の問題について異なる心性を有する伝統があります.

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきた gay の人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家族の家を訪れてはならないとされていたのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります.

赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください!

それは,我々が忘却している言葉です.

今,わたしは牧者として説教していますが,まことには,[慈しみ深い]父ではなく,[厳しい]主人であるような司祭であったこと,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭であったことが,たくさんありました.

しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.

逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.

しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,とイェスが言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが... お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.


以上に紹介したように,教皇 Francesco は,彼の包容的な司牧的配慮のもとに,カトリック教会内で伝統的であった律法中心主義的な同性愛断罪を否定しないままに放棄し,代わって,いかなる差別をも廃し,あらゆる者を神の愛と慈しみにおいて受容するキリスト中心主義的な姿勢を前面に打ち出している.

それによって教皇は,世界中の LGBT の人々に,神による救いの希望をもたらすことに成功した.

そのような教皇の姿勢は,あらゆるカトリック信者にとって見習うべき手本となるものであろう.

また,教皇 Francesco は,2016年10月02日,Baku から Roma への帰途の機上記者会見で,transgender について初めて言及しつつ,こう述べた:


わたしの人生において,司祭として,司教として,そして教皇としても,わたしは,同性愛者たちに寄り添ってきました.彼ら彼女らが主に近づくことができるようにしてきました.そうできない人々もいましたが,わたしは寄り添いました.誰も見捨てませんでした.

Jesus が彼ら彼女らに寄り添うように,彼ら彼女らに寄り添わねばなりません.彼ら彼女らのような状況にある人が Jesus の御前にやってきたら,Jesus は「同性愛者は立ち去れ」とは決して言わないでしょう.(...)

昨年,或るスペイン人男性 [ Diego Neria Lejárraga ] から手紙を受け取りました.彼は,自身の子ども時代と思春期のことをわたしに物語ってくれました.彼は,女の子でした.しかし,身体的には女の子なのに,自身を男の子と感じていたので,とても苦しみました.(...) [性別適合の]手術を受けて,スペインの或る町の公務員になりました.彼は,司教に会いに行きました.その司教は,彼に寄り添いました.良い司教です.それから彼は,戸籍上の性別も変え,結婚しました.そして,わたしに手紙を書きました.妻も一緒にお会いくだされば慰められます,と.そこで,わたしは彼と彼女に会いました[教皇は,住居としている Casa Santa Marta で,2015年1月24日,非公開に彼らと接見した].ふたりは喜びました.(...)

人生は人生です.物事は起きるがままに受け取るべきです.(...)

[LGBT の人々]ひとりひとりを迎え入れ,寄り添い,その人をよく見て,分析し,総合します.今日,Jesus ならそうなさるでしょう.(...)

事は,道徳の問題であり,人間的な問題です.問題は,解決可能なように解決されねばなりませんが,常に神の慈しみを以て,真理を以て,解決されるべきです.(...) 常に開かれた心を以て.


教皇 Francesco の発言の紹介のしめくくりに,2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での彼の説教:「慈しみと包容」を引用しよう.確かに,そこにおいて教皇は,LGBT に特に言及はしていないが,しかし,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しており,« God’s love excludes nobody, but includes everybody »[神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する]という我々のスローガンを最も良く説明してくれている.包容 [ inclusion ] の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化している.なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけるが,「包容」の方がはるかに適切な訳語であろう.


慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,Christ において,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,Christ のからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,Christ のからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活した Christ の大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,Christ の抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.




III. LGBT に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点


I で見たようなカトリック教会による同性愛の断罪と性別適合医療処置の不容認の姿勢は,当然ながら,結果的に,LGBT の人々をカトリック教会から排除することにならざるを得ない.そのような事態は,あらゆる者を包容する神の愛に適っているだろうか? 我々はそうは思わない.

伝統的なカトリック教義に含まれる幾つかの問題点が指摘される:

1) 聖書において断罪されている同性間性行為は,実は,homosexuality の行為ではなく,同性「愛」の行為でもない;

2) 「同性愛行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,男女のカップルが愛し合うのと同様に同性愛者のカップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している;

3) 神により結ばれた男と女は「ただひとつの肉に成る」という観念に含まれる男女両性の complementarity[相互補完性]は,実際には,ひとつの神話的思念にすぎない;

4) transgenderism において問われている「自身の性別の真理」は,単に生物学的なものではなく,而して,本当の意味で神に与えられたもの,つまり,存在論的な gender identity である.


III-1. 今 homosexuality と呼ばれているもの

今 homosexuality と呼ばれているものも,homosexuality という語そのものも,聖書や神学の語彙には属していない.

Homosexualität という語は,19世紀後半にドイツ語において,Heterosexualität との対において新造された.そして,Homosexualität は,ドイツとオーストリアで臨床医および大学教授として仕事した精神科医 Richard von Krafft-Ebing (1840-1902) により,彼の1886年初版の著書 Psychopathia sexualis において,性倒錯 – つまり,性的な欲望の病理学的諸形態 – のひとつとして,精神病理学と司法医学の観点から初めて詳細に研究された.

そこにおいて Krafft-Ebing は,homosexuality は生得的なものであり,それについて当人の責任を問うことはできない以上,homosexual acts を刑法的に断罪することは公正ではない,と主張した.同性愛行為を処罰する国々が少なくなかった当時,それは初の脱刑事罰化の提唱であった.

先進国の大部分は,1980-1990年代に同性愛行為を脱刑事罰化した.しかし,おもにアジアとアフリカに位置する約70の国々では,いまだに同性愛行為を刑法的に断罪している.

精神医学の領域では,1970年代に homosexuality の脱病理化が実現された.同性愛はひとつの精神疾患とは見なされ得ない:なぜなら,同性愛は,そのものとしては,「必ず主観的な苦悩を惹起し,または,有効な社会的機能性の全般的障害を伴う」(cf. DSM-III) ことはないからである.

以上のような脱刑事罰化と脱病理化のもとに,今,我々が homosexuality と呼ぶところのものは,このような事態である:すなわち,同性の者たちの間で,一方が他方に,または相互的に,性愛的に惹かれ,かくして,もし好条件に恵まれれば – つまり,其のもとに異性カップルが永続的な絆を形成し得るところの諸条件と同様の諸条件に恵まれれば –,当該の二人は,永続する誠実なカップルを形成し,共に生きることになる.

今,我々が homosexuality という名称のもとに理解しているのは – そして,もしその語を「同性愛」と邦訳するなら,同性愛という名称のもとに理解しているのは –,そのような事態である.


III-2. 同性愛と聖書 – 聖書において同性愛は禁止も断罪もされていない

III-2-1. 旧約聖書における男性間性行為の問題

現代社会において homosexuality ないし同性愛と呼ばれているものが同性カップルの真摯かつ誠実な愛情関係であるとすれば,旧約聖書の幾つかの箇所において言及されている男どうしの性行為は,homosexuality の行為でも同性愛の行為でもない.

まず,「ソドムの罪」として創世記 19,1-29 に示唆されているのは,実際には,或る heterosexual の男が他の男に対して為す性的暴力である.その目的は,暴力的支配であったり,攻撃や傷害や破壊であったり,侮辱であったりするであろう.いずれにせよ,通常の意味での性的な欲望がかかわっているのではなく,また,現代社会における gay どうしの優しい愛情に満ちた人間的関係が問題とされているのでもない.

次に,レビ記 18,22 および 20,13 において禁止されていることは,「聖性の律法」の文脈において読解されるなら,heterosexual の男が,性的衝動に駆られて,女に対して姦淫や強姦を犯すのと同様に,男に対して – なぜなら,対象となる女が手近に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して – 姦淫や強姦を犯すことである.そこにおいても,かかわっているのは,gay どうしが真摯かつ誠実に愛し合うことではない.

そのほか,申命記 23,18 や列王記上巻 14,24 には,カナン地域の土着の神 Baal の崇拝との関連において,豊饒祈願儀式として神聖売買春が行われており,そのような売春を行う者のなかには男も女もいたことが示唆されている.申命記では,イスラエルの民のなかには神聖売春を行う娼婦も男娼も存在してはならず,また,神聖売春により得られたものを主への献げ物としてはならない,と述べられている.神聖売買春の禁止は,当然ながら,主以外の神々の崇拝の禁止に包含されている.ともあれ,そのような状況における男どうしの性行為も,現代社会における gay どうしの性愛関繋とはまったく異質のものである.


III-2-2. 新約聖書における同性間性行為の問題

新約聖書に収録されている書簡のなかで聖パウロが言及している同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである.

ローマ書簡 1,17 において「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,同書 1,18-32 において,その逆の場合,つまり,「神を信じず,偶像を崇拝することにおいて,義ならざる」者たちについて論ずる.

そのような者たちは「神の怒り」を受け,神は,彼らを「彼らのこころの欲望において」「不浄」と「恥辱の熱情」へ引き渡す.それによって,彼らおよび彼らの一族(または家族)の女たちは「自然に反して」同性相手と性関繋を持つことになる.

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,22 と 20,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

そも,「不正義」や「不浄」は,「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示している.そして,そのように禁を犯す者は,そもそも,神を信じておらず,偶像崇拝に陥っている.

であればこそ,II において見たように,教皇 Francesco はこう断言することができる : « se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla »[もし或る同性愛者が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない].

むしろ,たとえ異性間の性行為であろうとも,神を信じないことにおいて義ならざる偶像崇拝者たちが衝動のままに為すものであれば,それは,断罪さるべき姦淫行為にほかならない.

そのほか,第一コリント書簡 6,9第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳においては pédéraste, 日本語訳においては「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語原文で用いられている語は arsenokoites である.それは,文字どおりには「男と性交する男」である.

フランス語の pédéraste の語源であるギリシャ語単語が差し徴しているのは,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,ギリシア的な paiderastia としての同性愛でも現代社会における gay どうしの同性愛でもなく,而して,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

以上のとおり,改めてよく読み直すなら,聖書のなかには,旧約においても新約においても,現代社会において同性愛と呼ばれているものに対する禁止も断罪も見出されはしない.

つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.


III-3. 同性愛行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

「同性愛行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,男女のカップルが愛し合うのと同様に同性愛者のカップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している.

「同性愛行為は,生殖を目的としない快楽追求にすぎない」という偏見は,実際には,「同性愛行為においては生殖は不可能であるがゆえに,同性愛行為は快楽追求にすぎない」という思念に基づいている.

確かに,同性どうしの性関係は生物学的な意味における生殖活動を包含し得ない.しかし,だからと言って,それが単なる快楽追求であるということにはならない.

実際,教皇 Francesco は Amoris laetitia nº 125 において Gaudium et spes を引用しつつこう述べている:


さらに,結婚は,熱情に固有の音調を含む友情であるが,常により堅固かつ強固な絆となるよう絶えず方向づけられている.そも,「結婚が制度化されているのは,生殖のみを目指してではなく」,而して,相互的な愛が「その廉直さにおいて表現され,進歩し,花開く」ためである (Gaudium et spes, nº 50). ひとりの男とひとりの女との間のこの特別な友情は,ひとつの全包含的性格 – それは,夫婦の絆においてのみ見出される – を有するようになる.まさに全包含的であるがゆえに,その絆は,第三者を容れないものでもあり,互いに忠実でもあり,生殖へ開かれてもいる.ふたりは,相互的敬意において,すべてを – sexuality をも – 分かち合う.そのことを第二 Vatican 公会議はこう言って表現した:「そのような愛は,人間的なものと神的なものとを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く.それは,優しさの感情と所作によって顕わされる.そして,それは,夫婦生活全体に浸透する」(Gaudium et spes, nº 49).


そのような相互的自己贈与としての相互的愛は,異性どうしのカップルにおいてだけでなく,同性どうしのカップルにおいても勿論可能である.そのことは,既に同性婚が法制化されている諸国において,あまたの実例によって証明されている.

また,カトリック信徒にとって,procreation[生殖]は単に生物学的意味において子孫を作ることではない.より本質的なのは,次世代へ信仰を伝達することである.procreation は,新たな信徒を生み出すことを包含しており,むしろそのことこそが procreation において肝腎なことである.

だとすれば,同性カップルが養子を取り,その子を愛情と信仰を以て育て,その子に神の愛を伝えることができれば,それは,生物学的生殖に勝るとも劣らない procreation である,と言うことができるだろう.

実際,同性婚が法制化されており,同性カップルが養子を取ることも認められている諸国においては,同性カップルの子どもたちは,異性カップルの子どもたちと同様に,幸福に育っている.むしろ,望まずに子どもができてしまった異性カップルの子どもより,心から子どもが欲しくて養子を取った同性カップルの子どもの方が,より健康的で幸福である,という報告もある :


III-4. 男女両性の「相互補完性」の神話

『カトリック教会のカテキズム』372段には,こう述べられている:


男と女は「互いのために」造られている.神は,男と女を「半人前」の「不完全」なものとして造ったわけではない.神は,男と女を personarum communio[人と人との交わり]のために創造した.その交わりにおいては,一方は他方の「助け」であり得る.なぜなら,男と女は,同時に,人として平等 [ aequales ] であり,かつ,男女として相互補完的である [ sese mutuo complent ] からだ.結婚において,神は男と女を結び合わせる – 男と女が「ただひとつの肉」と成って (Gn 2,24), 人間生命を[子孫へ]伝え得るように : « Crescite et multiplicamini et replete terram » (Gn 1,28). 人間生命を子孫へ伝えることにおいて,男と女は,配偶者および親として,無類のしかたで創造主の御業に協力する.


同様に,1986年10月1日付で教皇庁教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(現名誉教皇 Benedikt XVI)の名において発表された『同性愛者に対する司牧に関するカトリック教会司教への書簡』[ Epistula ad Universos Catholicae Ecclesiae Episcopos de Pastrorali Personarum Homosexualium Cura ] (略称 Homosexualitatis problema) の nº 6 には,こう述べられている:


創世記に包含れている創造の神学こそが,同性愛が措定する諸問題の適切な理解のための根本的な観点を提供してくれる.神は,無限なる知恵と全能なる愛とにおいて,万物を,神の善意の反映として,現存へ呼び出す.神は,御自身の写しや似たものになるよう,人間を男と女として創造する.したがって,人間は,神の被造物のうちで,男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] をとおして創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映するよう呼ばれている被造物である.この任務を,人間は,夫婦が相互に自己贈与することによって生命を[子孫へ]伝えることにおいて神と協力するとき,無類のしかたで果たす.


つまり,「ただひとつの肉と成る」ことを可能にする「男女両性の相互補完性」は,申命記 6,4 において「聴け,イスラエル!」の呼びかけに続いて「我れらの神,主は,一なる主である」と公式化される神の単一性を反映するもの,と思念されている.

ところで,「男女両性の相互補完性」とは,より正確に考察してみるなら,如何なるものか? 男女それぞれの性器の解剖学と生理学が,男女が「ただひとつの肉と成る」ことを保証しているのか? そのような男女の「性器的」相互補完性の思念は,「ただひとつの肉と成る」ことの神学的な理解としては,あまりに素朴であり,粗雑であろう.

この「男女両性の性器的な相互補完性」という「常識」的で「普遍」的な思念が実は単なる神話にすぎない – Freud が著書『トーテムとタブー』で提示した Urvater[源初の父]の神話と同様にまったくの作り話にすぎない – ということは,ラカン派精神分析家である筆者にとっては,一目瞭然である.Lacan の一見逆説的なこの公式にもとづいて:「性関係は無い」[ il n’y a pas de rapport sexuel ].

医学や心理学を含む世の臆見においては,こう思念されている:性本能 [ sexualité, Sexualität ないし pulsion sexuelle, Sexualtrieb ] の発達がその完成段階としての性器的成熟に至ると,異性間の性器的な性交の行為において,性本能の十全な満足が成就される.それ以前の未成熟な段階においては,性本能は,前性器的な部分客体(たとえば,口唇にとっての乳房とその等価物,肛門にとっての糞便とその等価物,等々)において,あるいは,自慰行為において,不完全で不十分な満足をしか得ることができない.

性本能の満足のことを,Lacan は「悦」[ jouissance ] と呼んでいる.その用語によれば,未成熟な前性器的段階における満足は「剰余悦」[ plus-de-jouir ] と呼ばれ,成熟した性器段階における満足は「性器的悦,性器悦」[ jouissance génitale ] ないし「性的な悦,性悦」[ jouissance sexuelle ] と呼ばれる.

「性関係は無い」とは,性器悦は不可能である,ということである.

なぜ性器悦は不可能であるのか?それは,それを可能にするかもしれない性器 phallus は,実際には,不可能であり,存在事象の領域には欠如しているからである.

常識的な思念において「性的」な満足と見なされているものは,不可能な性悦の代わりに,さまざまな前性器的ないし非性器的な客体において得られる剰余悦にすぎない.

男が持ち得る関繋は,悦が固着した諸客体との関繋のみである.それら客体は,本質的に fetish であり,女の存在との直接的に統一的な交わりに入ることを妨げる.

他方,女は,自身をそのような fetish にし,本来的な自己ではない fetish としてのみ男の欲望と関繋し得る.もし女が fetish としての自身を廃することを敢行するなら,彼女は,アビラの聖テレサのごとく神秘的な解脱状態に陥るが,しかし,そのような場合,彼女のパートナーは,もはや人間としての男ではなく,神そのものである.

精神分析の臨床的な作業は,悦の非性器的な固着を解消することに存する.しかし,そのような作業の結果として,男女両性の間の性器的な交わりが可能になるわけではない.

精神分析の経験においては,古代にエジプトやギリシャで行われていた秘儀におけるように phallus の仮象が啓示されるのではなく,むしろ,phallus の欠如 – Freud が「去勢」と呼んでいた欠如 – の穴こそが顕わとなる.それが,Lacan が公式「性関係は無い」を以て指し示す穴である.

その穴は,不安 – Freud が「去勢不安」と呼んでいたもの – を惹起する.症状は,その不安をごまかすために穴を剰余悦で埋め合わせることに存する.精神分析治療は,逆に,穴を新たな剰余悦で埋め合わせるのではなく,口を開いた穴が惹起する不安に耐えることを可能にする.

「性関係は無い」の穴のゆえに「男女両性の性器的な相互補完性」は不可能であるのだから,男と女との関繋を特権化することは正当化され得ない.ふたりの人間の性器的な相互補完性は,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,同じように不可能である.

我々は,むしろ,こう指摘することができるだろう:神の「内的な単一性を反映」し得るのは,男女の「性器的」相互補完性ではなく,而して,Gaudium et spes の49節で説かれているような愛の絆である.

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に,誠実に,情熱的に愛し合うとき,「その愛を,主は,主の恵みと主の愛を特別に賜ることによって,癒し,完成し,高めてくださる.そのような愛は,人間的な愛と神的な愛とを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く」(Gaudium et Spes, nº 49).

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間がそのように愛し合うとき,それこそは優れて,一なる神の愛の徴である.


III-5. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題

transgenderism という人間的事実は,「自身の性別の真理」とは何のか?という問いを,我々皆に突きつける.

transgender の人々は,典型的には,言語の世界に住み始めるやいなや,つまり,満 1, 2 歳のころから,解剖学的・生理学的性別とは異なる側の性別の人間として存在し,生きる.

例えば,男の子の身体に生まれてきても,女の子向けの服装やオモチャを「本能的に」選び取る.あるいは,杉山文野氏は自伝『ダブルハッピネス』(講談社文庫,2009年)において,「ものごころついてからずっと,気持ちは“僕”なのに,からだは女だった.以来,僕はずっと,女体の着ぐるみを身に着けているかのような感覚のまま,人生を過ごしてきた」と証言している.

ところで,こう問うてみよう : transgenderism は,生物学的性別と心理学的性別との解離へ還元され得るか?言い換えると,transgender 問題は,いわゆる心身二元論の展望において適切に思考され得るか?

否.逆に,もし然りと答えるなら,conversion therapy と呼ばれる一種の認知療法を正当化することになるだろう.そこにおいては,自身の性別の認知(いわゆる性自認)と生物学的事実との解離を解消するためには,「自身の性別の真理」である身体的性別に合致するよう,誤った認知を矯正すればよいのだ,と思念されている.

ついでに指摘すれば,「性自認」という表現そのものが,自身の性別の真理は身体的性別の側に存するという想定を既に暗に受け入れており,conversion therapy の余地を残してしまっている.

conversion therapy は,治療的に無効であるばかりか,患者を自殺へ至らせさえするがゆえに,容認され難いものだ,ということをここで強調しておこう.

話を戻して,transgenderism という人間的事実により措定される本質的な問題を適切に思考するために,心身二元論を超克して,こう定式化しよう:transgenderism は,存在事象的な性別 [ ontic sex ] と存在論的な性本能 [ ontological sexuality ] との存在論的な解離に存し,その解離においては,存在事象的に男性である者が存在論的には女性であり,存在事象的に女性である者が存在論的には男性である,という事態が成立する.

そして,「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的な性別の側にではなく,而して,存在論的な性本能の側にである.

そのような存在論的観点から,我々は,人間存在に関する同様の解離を聖パウロが第一コリント書簡 15,42-44 で論じているのに気づく:


死者の復活についても同様である.朽ち果てるものとして種蒔かれても,朽ちることなきものとして復活する.卑しいものとして種蒔かれても,栄光において復活する.弱きものとして種蒔かれても,力に満ちて復活する.soma psychikon[生物的身体]として種蒔かれても,soma pneumatikon[霊気的身体]として復活する.soma psychikon があれば,soma pneumatikon もある.


一方に存在事象的性別と存在論的性本能との区別があり,他方に soma psychikon と soma pneumatikon との対置がある.それらふたつの対立は,合同である.

かくして,我々はこう言うことができるだろう:「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的性別ないし soma psychikon の側にではなく,而して,存在論的性本能ないし soma pneumatikon の側にである.

なぜなら,神の創造の真理が存するのは,死すべき生物の soma psychikon の側にではなく,永遠の命において我々が生きるところの soma pneumatikon の側にであるから.

性別の真理は,単に解剖学的・生理学的性別のものではなく,而して,存在論的な性別のものである.そして,後者こそが,本当の意味で神に与えられたものである.

かくして,transgender の人々のための医学的性別適合処置は,神によって創造された身体を不当に損なう冒瀆的な人為ではなく,むしろ,神の創造の真理を尊重することである.なぜなら,それは,存在事象的な soma psychikon を存在論的な soma pneumatikon に合致させようとすることであるから.

transsexual の人々は,持って生まれた性別の身体に非常に強い違和感を覚えており,そのため,欝状態に陥ったり,自傷行為を繰り返したり,自殺してしまうことすらある.性別適合手術は,彼ら・彼女らの精神的な救いとなる限りにおいて,容認されるべきである.その不容認は,彼ら・彼女らに対する非常に不寛容にして残酷な態度であり,非人道的との批判を免れ得ないだろう.

教皇 Francesco が同性愛者について言ったように,こう言うことができるだろう:或る人が transgender であり,主を求めており,善意の人であるなら,彼ないし彼女を医学的性別適合処置のゆえに断罪する我々はいったい何者か?




IV. sexuality とは何か?

最後に,sexuality に関して論ずるために前提的に必要とされることがらについて,可能な限りで論じておきたい.

sexuality に関しては,ふたつの側面が区別される:

ひとつは,Freud の用語で言うなら,object choice[対象選択].

おおざっぱに説明するなら,対象選択においてかかわるのは,「性的な関心が何に向けられるか?」の問題である.昨今,一般的に「性的指向」[ sexual orientation ] という表現が用いられているが,精神分析家としては「対象選択」という用語を再び登用したい.

「選択」と言っても,それは,我々が意志的ないし意図的に選択するわけではない.選択するのは,言うなれば,性本能である.我々のうちに見出されながらも,我々自身にあらざる何ものかとしての性本能が,選択する.

性本能は,ある対象を選択する.そこにおいて満足の可能性を見出すために.

その対象は,ひとりの人間であることもあるし,そうではない何ものか – たとえば fetish – であることもある.

LGBT との関連で言えば,対象として選ばれる相手は,もっぱら異性である;もっぱら同性である;どちらでもあり得る;そもそも性的対象選択が起こらない,等々の variations があり得る.

それら多様な選択に論理必然性は無い.もっぱら個人の生活史上の偶然的条件により選択は規定される.

第二に,いわゆる sexual identity[性同一性]. そこには,さらに,三つの側面が区別される:

1) 生物学的性別 (biological sex) : 性染色体によって決定される身体的性別.しかし,何らかの先天的条件による非定型例が幾種類もあり得る;

2) 社会学的ジェンダー (sociological gender) : 歴史的,文化的,民族学的,等々の後天的な諸条件により規定される性別.或る個人に対して,その人が何らかの意味で所属している集団が其の遂行を要請してくるところの性別役割.あくまで人為産物である;

3) 存在論的性別 (ontological sexuation) : 先ほど transgenderism との関連において論じた「自身の性別の真理」がかかわるところの存在論的な「男で在る」または「女で在る」.ただし,単純な男女二元論ではない.「女で在る」は,実際には,「男に在らず」という否定的な規定性であって,そこには「男で在る」以外のあらゆる性的多様性が包含される.

先ほども指摘したように,transgenderism との関連でよく言われるようなしかたで生物学的な性別と心理学的な性別とを区別するだけでは不十分である.transgender の人が,身体的には男であっても「わたしは女である」と感じ,あるいは身体的には女であっても「わたしは男である」と感ずるとすれば,その性別感覚は,単なる錯覚や認知錯誤ではあり得ない.そうではなく,それは存在論的性別に準拠した感覚である.身体的性別とは異なる性別の「真理」,存在論的な「男で在る」ないし「女で在る」という事実にもとづく感覚である.

また,社会学においては,生物学的性別と社会学的 gender との区別しか考慮されていない.教皇 Francesco は,社会学的な gender theory を批判しているが,それは,gender theory においては性別は gender という人為産物へ還元されてしまうからである.教皇が言いたいのは,性別は神の創造であって,人為産物ではない,ということである.先にも指摘したとおり,生物学的性別ではなく,存在論的性別こそが,神の創造した性別である.

さように,存在論的性別が考慮されないことによって,さまざまな無用な混乱と対立が生じている.

さて,この小冊子のなかで存在論的性別について詳論するのは困難であるが,できる限りで Lacan の性別についての議論を紹介してみよう.

精神分析の基礎を成す存在論は,いわゆる実体論的存在論 [ ontologie substantialiste ] でも本質論的存在論 [ ontologie essentialiste ] でもなく,而して,否定存在論 [ ontologie apophatique ] である.そして,その存在論は,topologique に展開される.

以上のことを,Lacan は,Heidegger から学び取っている.

否定存在論においては,存在 [ Sein ] は,ひとつの実体でも本有でもない.実体や本有(本質)は,存在事象 [ Seiendes ] の側のものである.

しかるに,否定存在論においてかかわる存在は,存在論的差異によって,存在事象から本源的に分離されつつ結合されている.

topologique に言えば,存在の在処 [ die Ortschaft des Seins, la localité de l’être ] は,存在事象の場処 [ die Ort des Seienden, le lieu de l’étant ] に対して ek-sistent, ex-sistent[解脱実存的]である.

topologie がかかわるのは,存在をひとつの場として思考するからである.存在は,実体や本有ではない.存在事象ではない.かと言って,単なる無ではない.存在は,それ自体としては空(から)であるひとつの空間,ひとつの場であり,その場は,存在事象が位置する場から,存在論的差異によって分離されつつ結合されている.

そのような在処としての存在が,否定存在論においてかかわる存在である.

否定存在論における存在は,神の存在であり,かつ,人間の存在である.神と人間は,存在において交わりあっている.あるいは,人間は,本来的に,自身の Dasein[現場存在]において,神の存在を匿う.

さて,神に性別は無い.『カトリック教会のカテキズム』370段において述べられているように,神は,たとえ Jesus によって「父なる神」と呼ばれてはいても,純粋霊気であって,性別は無い.

言い換えると,神は純粋存在である,すなわち,そのものとしては空(から)の解脱実存的在処である.

しかし,神は「父なる神」と呼ばれる.つまり,存在の在処に phallus が解脱実存する.解脱実存的な父の phallus である.

男女の性別は,父の phallus との関係によって規定される.

父の phallus の代理となる phallus に与りつつ存在することによって規定される集合に属することが,存在論的な意味における「男で在る」である.

それに対して,自身に対して他者である側に父の phallus が位置づけられる構造において存在することが,存在論的な意味における「女で在る」である.

ただし,上にも述べたように,「女で在る」は,あくまで「男で在る」に対する否定的規定性であって,そこには,「男で在る」以外のあらゆる可能的多様性が含まれている.

また,改めて強調するなら,存在論的性別は,生物学的性別とはまったく別の次元のことである.生物学的な女性が存在論的には男性であることもあり得,生物学的な男性が存在論的には男性ではないこともあり得る.

以上のように規定される存在論的性別が,性的対象選択の様態を規定する.

性的対象選択において,「女で在る」者は欲望の客体となり,「男で在る」者はその客体を欲望する主体となる.その存在論的構造においても,解脱実存的な父の phallus は「男で在る」者の側に位置している.

「男で在る」者は,欲望として,客体における剰余悦に支配される位置にあり,客体に依存し続ける.つまり,剰余悦から脱することはできない.

それに対して,「女で在る」者は,欲望の客体として,欲望としての主体に対して支配的な座に位置する.そして,客体として自身を捧げ,滅ぼさせることにより,剰余悦を越えて,不可能な性悦へ近づこうとする.

Lacan はさまざまな記号や図を用いるのだが,ここではそれらを持ち出すことは控え,以上の説明にとどめておく.




V. 結び

以上,我々は,sexual minority の実存の実事性が提起する諸問題に関して,カトリック教会の伝統的な見解を改めて検討した.

キリスト教の最も根本的なよりどころは,神の律法ではなく,而して,神の愛である:神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する [ God’s love excludes nobody, but includes everybody ].

この全包容的な神の愛に寄って立つとき,sexual minority に対するカトリック教会の伝統的な姿勢は神の愛に適うものとは思われない.よって,幾つかの批判的な議論を我々は展開した.

教皇 Francesco は,LGBT に対する従来の断罪を放棄し,神の慈しみにおいて sexual minority を包容する姿勢を前面に打ち出している.そのような良き司牧者を我々に与えてくださったことを,我々は主に感謝する.

ただ,教皇 Francesco のもとでも,すべてが解決したわけではない.『カトリック教会のカテキズム』のなかの同性愛断罪の文言は削除されておらず,transgender を代父母の役から排除した Vatican の決定は取り消されてはいない.同性カップルは結婚の秘跡を授かることはできず,公に同性愛者である者は司祭に叙階され得ない.

神の全包容的な愛が世において実現されるよう,我々は可能な限り努力し,そして,祈り続けたい.


2017年5月

ルカ小笠原晋也


2016年08月18日(初稿)
2016年09月07日(第二改訂稿)
2017年05月01日(第三改定稿)