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小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 ‒ 奇跡 ‒ による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ ‒ からし種の譬えとパン種の譬え ‒ が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか ‒ そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 ‒ 悪を行う者や不法を行う者 ‒ を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた ‒ そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く ‒ そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている ‒ そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ ‒ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる ‒ それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ ‒ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する ‒ その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている ‒ そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

2017年07月28日

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年7月17日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち ‒ 特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.6月30日にドイツで,7月12日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月28日

小宇佐敬二神父様の説教,2016年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,3章13-19節で十二使徒が選ばれ,6章7-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,6章17-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」‒ 何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と ‒ それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない ‒ そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書10章01-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く ‒ その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる ‒「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書6章01-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 ‒ そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる ‒ その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」‒ ,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか ‒ それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる ‒ それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 ‒ 救いの神秘 ‒ でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 ‒ さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す ‒ もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し ‒ それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける ‒ それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で mysterion, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる ‒ その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.

2017年07月02日

共同祈願,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願

LGBT Pride Month のために祈りましょう.今から48年前,1969年6月に起きた Stonewall 事件を記念するために,今月は LGBT Pride Month として祝われています.日本でも先月,Tokyo Rainbow Pride が祝われました.主よ,差別と自己否定に苦しむわたしたちが社会に対して抗議し,自身に誇りを取り戻すために祭を祝うとき,慈しみ深くわたしたちを祝福してください.わたしたち皆を,神の愛し子として,憐れみ深く,あなたの懐に受け容れてください.

主の恵みに感謝して,祈りましょう.復活節が終わった後,今月は,多くの記念日が祝われました ‒ 聖霊降臨,三位一体,キリストの聖体,イェスの御心,そして,昨日は洗礼者ヨハネの誕生.さらに,四日後には,聖ペトロと聖パウロの記念日も祝われます.主よ,それらをとおして与えられるあなたの恵みに感謝します.そして,主よ,お願いします:誰をも排除せず,すべての者を包容するあなたの愛を,聖霊の恵みとして,わたしたち皆のうえに注いでください.

同性パートナーシップのために祈りましょう.今月一日,札幌市で,政令指定都市としては全国で初めて,同性パートナーシップを公に証明する制度が開始されました.そのような制度がより多くの地方自治体に広がって行くことが,日本における同性婚の法制化に繋がって行くかもしれない,とわたしたちは期待しています.異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うとき,それは,まぎれもなく,神の愛の恵みのしるしです.無限の愛の源である主よ,世界中の同性カップルの絆を,あなたの愛で祝福してください.そして,わたしたちのカトリック教会を,全包容的なあなたの愛に従うよう,導いてください.

日本においても世界においても LGBT-phobia の犠牲になった人々のために祈りましょう.今月12日は,Florida 州 Orlando の gay club Pulse で49人の命が奪われた事件の一周忌でした.チェチェン共和国では LGBT に対する迫害が続いています.一橋大学アウティング事件の裁判も続いています.憐れみ深い主よ,LGBT-phobia の犠牲者すべての涙をあなたの優しい御手でぬぐい,あなたのみもとで皆に永遠の安らぎを与えてください.少数者を嫌悪し,排除しようとする者たちの頑なな心を,あなたの愛へ開かせてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年07月02日

「カトリック新聞」に LGBTCJ に関する記事が載りました

「カトリック新聞」2017年04月02日付の p.2 に,LGBTCJ に関する記事が掲載されました


Web 版の記事はこちらです.

本年02月19日の LGBT 特別ミサの際に行われた取材にもとづいています.

LGBTCJ の活動に関心を持ってくださった「カトリック新聞」に感謝します.また,インタヴューに応じてくださった方々に感謝します.

如何にカトリック教会が性的少数者の人々を包容し得,そして,如何に彼らがそのなかで活躍して行き得るかは,カトリック教会内の女性の立場の問題と並んで,カトリック教会にとって決定的な試金石となるでしょう.

律法の文字に拘泥する死せる教会となるか,それとも,神の愛と息吹によって生きる教会となるか,それがかかわっています.

2017年04月14日

日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版の出版

日本カトリック司教団のメッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版が出版されました.

幸田和生司教様を始め,御尽力くださいました関係者すべての方々に,御礼を申し上げたいと思います.

LGBT については,27段でこう述べられています:

「イエスはどんな人をも排除しませんでした.教会もこのイエスの姿勢に倣って歩もうとしています.性的指向のいかんにかかわらず,すべての人の尊厳が大切にされ,敬意をもって受け入れられるよう望みます.同性愛やバイセクシャル,トランスジエンダーの人たちに対して,教会はこれまで厳しい目を向けてきました.しかし今では,そうした人たちも,尊敬と思いやりをもって迎えられるべきであり,差別や暴力を受けることのないよう細心の注意を払っていくべきだと考えます.例外なく,すべての人が人生における神の望みを理解し実現するための必要な助けを得られるよう,教会は敬意をもってその人たちに同伴しなければなりません.結婚についての従来の教えを保持しつつも,性的指向の多様性に配慮する努力を続けていきます.」

注において,『カトリック教会のカテキズム』2358段と Amoris laetitia no. 250 への言及が為されています.

日本カトリック司教団が,主の全包容的な愛にもとづいて,性的少数者に関して明確な包容的メッセージを発してくださったことに,感謝したいと思います.

カトリック信者のなかには,今もなお,『カテキズム』の教えに反して,LGBT 差別の言動を続けている人々がいます.すべてのカトリック教会からそのような差別をなくして行くことを今回の司教団メッセージが可能にするよう,期待したいと思います.

同性婚については,カトリック教会内に修復困難な分裂を生ぜしめるかもしれない敏感な問題であり,教皇 Francesco も慎重な態度を崩していないので,日本司教団にも教皇以上のことを期待することはできない,と承知しています.

しかし,神の御前にあらゆる人間は皆平等であるのですから,誰の結婚も,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,神の愛の徴としての真摯な愛にもとづくものであれば,秘跡であるはずです.わたしたちは今後も,カトリック教会が同性婚を異性婚と同等に扱うようになるよう,求め続けて行きたいと思います.

また,教皇 Francesco は,2016年6月,「カトリック教会は同性愛者に謝罪すべきだ」とおっしゃいました.しかし,日本司教団のメッセージからは,LGBT に対する差別の長い歴史に関する教会の謝罪の気持ちを読み取れません.何らかの機会に是非,明確な謝罪表明をお願いしたいと思います.

なお,用語の問題をひとつ指摘しておきたいと思います.「性的指向」のもとに transgender のことまでが語られていますが,現在,一般的には「性同一性」は「性的指向」とは区別されています.この点についても,若干の訂正または補足が必要だと思います.

2017年04月14日

同性婚法制化は若者の自殺を減らす

同性婚法制化は若者の自殺を減らす

すばらしい統計学的研究が発表されました.それによると,同性婚の法制化は若者の自殺を減らす効果を明確に有しています.公衆衛生の観点からは大変評価される結果です.さっそく一般誌でも報道されています.

アメリカの小児科の学会誌に昨日付で発表されたその研究においては,アメリカ合衆国の1999年から2015年までの Youth Risk Behavior Surveillance System(若者の危険行動の監視システム)の統計にもとづき,同性婚法制化が若者の自殺未遂ケースの数にどう影響したかが統計学的に分析されました.

周知のとおり,全米で同性婚が認められたのは,2015年6月26日に連邦最高裁が「同性婚を禁止する州法は合衆国憲法に違反している」と判断したことによってです.それまでは,同性婚を認める州と認めない州とが合衆国のなかで混在していました.同性婚が domestic partnership の形で最初に認められたのは,1992年,Washington DC においてでした.同性婚が異性婚と同等の婚姻として初めて法制化されたのは,2009年,Vermont 州においてでした.

論文のなかで表に示されているように,調査対象となった全学生の自殺未遂率は,同性婚法制化前は 8.6 % であったのに対し,同性婚法制化後は 8.0 % へ有意に低下しました.sexual minority の学生に関しては,自殺未遂率は 28.5 % から 24.5 % へ有意に低下しました.

人間の命の尊重を教えるカトリック教会が同性婚を認めないことによって若者の自殺の減少を妨げているのだとすれば,どうでしょうか?2018年の若者を主題とするシノドスに向けて,すべてのカトリック信者に真剣に受けとめていただきたい事実です.

ブログ記事へのリンク

2017年02月21日

2017年01月15日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

2017年01月15日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

新たな年を迎え,今月から,わたしたちの LGBT 特別ミサは,原則的に毎月,*** で行われ,小宇佐敬二神父様が司式してくださいます.主の恵みに感謝します.性的少数者の司牧に積極的に取り組んでくださる小宇佐神父様に感謝します.そして,寛容にもわたしたちに場所を提供してくださる *** に感謝します.わたしたちのミサが,今年もますますより多くの同胞たちに,神の愛を感ずる場を提供することができますように.

昨年6月,教皇 Francesco は,カトリック教会の歴史における LGBT 差別に関して,教会は被害者たちに謝罪し,赦しを請わねばならない,とおっしゃいました.それを受けて,オーストラリアでは,カトリックとプロテスタントが共同で,Equal Voices という名称のもとに活動を開始しようとしています.その活動の目的は,キリスト教が性的少数者を差別してきたことを謝罪し,あらゆる人々がキリストのからだにおいて相互に和解することができるよう,真に包容的な教会を作り上げて行くことです.オーストラリアにおけるこの画期的な試みが成功しますように.また,ほかの国々においても,同様に,神の愛の名においてあらゆる人々を包容する活動が教会のなかに展開されて行きますように.特に,日本において,我々も含めて,性的少数者に福音を告げる人々に,主よ,力と勇気を恵み与えてください.

今月9日は成人の日でした.今ちょうど,世田谷区では LGBT 成人式が行われており,今月から来月にかけて,あちらこちらで LGBT 成人式が行われます.それらの会合に参加する人々を,主が祝福してくださいますように.学校や職場において差別され,いじめられている LGBT の子どもたちや若者に対してわたしたちが積極的に救いの手を差し伸べることができるよう,主よ,わたしたちをお導きください.

さまざまな事情で今日,わたしたちの御ミサに与ることができない同胞たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みが,今日これなかった人々にも豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

2017年01月16日

福音館書店の月刊誌「母の友」の LGBT 特集について

『ぐりとぐら』や『魔女の宅急便』などの児童書の出版社として有名な福音館書店は,幾つかの月刊誌も出しています.そのひとつが「幼い子を持つおかあさん,おとうさんに;子どもにかかわるすべての人に」向けられた『母の友』.1953年に創刊された長寿雑誌です.その『母の友』が,2017年2月号で特集「LGBT ‒ じぶんの性をいきる!」を組みました.

本文はブログ記事でお読みください.

2017年01月09日

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

今日,12月18日は,待降節第四主日です.

今日のミサの中心点は,「この子をイエスと名づけなさい,エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです.

クリスマスの季節にわたしたちがお祝いのカードに見るマリア,ヨセフ,幼子イエスの聖家族の姿は,なじみ深いものです.でも,聖家族と呼ばれるこの家族から学び得るこれらのことがら ‒ 命の誕生,母性,父性,名づけ ‒ の深い意味を,わたしたちは十分に把握しているでしょうか?

わたしたちは,当り前のように教会用語を使って,「マリアは処女,ヨセフは名づけ親,イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれませんが,処女性とは何か,名づけ親とは何か,聖霊とは何か,と訊かれたら,何と答えましょうか?

実は,こう言うことができます:

1) ある意味で,どの親も,名づけ親であり,養父母のような面を持っている;

2) そして,どの親についても,親になって初めて,母親の処女性は深い意味を帯びてくる;

3) さらに,生まれてくる子どもは,どの子も,聖霊によって生まれる;

4) また,first name を与えられ,その名前で呼ばれるどの人間も,かけがえのない尊厳を持っており,「人間である」とか「何々人である」とか「何々の特徴を持っている」とか言うより先に,「誰々という個人だ」と言わなければならない.どの人間も,排除されたり差別されたりされるべきではない.

ヨハネパウロ 2 世が述べたように,「イェスの御降誕において,あらゆる人間の誕生の全的な意味もが啓示される」(『命の福音』1).

では,その意味を深めるために,マタイとルカの両福音書を合わせて読みましょう.マタイ 1,20-21 からはヨセフへのお告げを,ルカ 1,31 からはマリアへのお告げを,聴きましょう

ルカ福音書 1,31 では,お告げの物語が述べられています.マリアは目が覚めていたでしょうか,うたたねしながら夢を見たのでしょうか?夢だとしても,それは,真実を見つめさせる夢です.近いうちに結婚することになるマリアには,それに対する望みもあり,不安もあるかもしれません.マリアに,安心させる御使いが現われます.御使いは言います:「マリアよ,恐れることはない.あなたは,命をめぐまれる.あなたは,身ごもって,男の子を生む.その子をイエス(人を解放する方)と名づけなさい」.

マタイ福音書 1,20-21 では,ヨセフへのお告げが物語られています.夢ですが,彼を目覚めさせる夢です.ヨセフは近いうちにマリアを妻として迎える予定ですが,それに対する望みも不安もあります.御使いは彼を安心させます:「恐れずに,マリアをあなたの妻として迎え入れなさい.彼女の胎内に生じたものは,神の聖なる息吹によるものだ.彼女は,息子を生む.その子をイエスと名づけなさい.その子こそ,民を罪から救うであろうから」.

このようにルカとマタイを合わせて読むと気がつくのですが,マリアにもヨセフにも,ふたつのことが告げられます:ひとつは,あなたたちは子どもを授かる;もうひとつは,生まれる子どもは聖霊によって生まれる.

そして,マリアにもヨセフにも,子どもに名前をつける役割と使命が与えられます.

イエスという名前を選んだのは,神様です.その名は,御使いを通して伝えられます.そして,名前をつけるのは,父親と母親の役割と使命だ,と言われています.(当時は,父親が名前をつけるのが普通でした).

父親も母親も,新しい命である子どもを恵まれたら,まず名前をつけるでしょう.名前をつけるということは,つまり,その命を受け入れて育てることを約束する,ということです.

その意味で,どの父親も母親も,名づけ親であり,養父母だ,と言えるでしょう.

また,どの新しい命も,聖霊の息吹を受けて生まれます.どの子どもも,聖霊によって母親がみごもった結果,聖霊によって生まれる,と言えます.

その意味で,どの親も神とともに協働創造者である,と言えます.

生まれてくる子どもは,親から生まれると同時に,聖霊によって生まれるのです.

その子どもに,親は,名前を付ける.すなわち,その存在を受け入れる.そして,これからもそのように育て続けることを約束します.その子に,社会に,神に,約束します.

子どもがどんな状況のなかで生まれたにしても,どんな事情で親がその子に名前をつけ,その子を受け入れたにしても,そう言えます.親が正式な夫婦でも,そうでない同棲カップルや LGBT のカップルでも,子どもが体外受精や代理出産などで生まれた場合であっても,同じことが言えます.

名づけの重要さについて,もうひとつの観点から考えることができます.世に生まれてくるあらゆる被造物は,その誕生の状況が如何なるものであれ,侵すことのできない人間存在の尊厳を持っており,いかなる差別の対象にもなり得ない.

差別するということは,尊厳をないがしろにすることです.個人の名前のかわりに,レッテルを貼ることです.たとえば,あなたはスペイン人だから,こういうことはわからないでしょう;あなたは独身だから,この問題について語る資格はありません;あなたは LGBT だから,しかじかの権利はありません... そのように,レッテルを貼られ,差別されます.

しかし,その人は,単にスペイン人でしょうか? 単に独身者でしょうか? 単に LGBT でしょうか? いいえ,その人は,しかじかという固有名を持つ人です.その固有名で呼ばれるべき人です.次いで,その人はスペインで生まれ,独身であり,LGBT であり,さらにほかの多くの属性を有しています.

そのような属性以前に,人は,固有名と,固有の尊厳とを持っています.

今日の福音によって,わたしたちは支えられ,励まされます.親に感謝しましょう.どの人間にも,等しくかけがえのない尊厳がそなわっていることを自覚しましょう.そして生まれてくるすべての子どものために祈りましょう.

わたしたちは皆,聖霊によって親から生まれてきました.クリスマスの夜には,親に感謝,神に感謝,命の為に感謝して,グロリアを唱えましょう:天のいとたかきところに神に栄光!

わたしたちは,あらゆる妊娠において命を大切にし,誰も排除されない,誰も差別されない世の中を作って行きたいものです.地上に平和があるように,平和を作るように,努めたいものです.

2016年12月27日

降誕祭おめでとうございます ‒ ルカ小笠原晋也より

降誕祭おめでとうございます!

Logos の受肉,主 Jesus Christ のお誕生を祝いましょう!神の子 Jesus の御降誕は,存在の真理の自己示現です.

そして,わたしたちは皆,男も,女も,性的少数者の人々も,誰もが,神の子です.神により創造されたものとしての人間は,誰もが,ひとりの christus[聖別のために塗油された者]です.ですから,人間は,誰もが,存在の尊厳を有しています.

そのことを,わたしたちの主 Jesus Christ は,御自身の誕生を以て,証明してくださっています.神に感謝しましょう!

さて,sexual minority の人々とともに歩むわたしたち有志カトリック信者の活動 LGBTCJ にとって,2016年はとても実り多き年でした.Deo gratias !

まず,何よりも,LGBT 特別ミサ.社会的に差別されてきた人々の司牧に御理解のある神父様たちにより,今年7月から毎月一回,性的少数者限定の御ミサを立てていただけるようになりました.日本のカトリックの歴史のなかで初めてのできごとです.主の恵みに感謝します.そして,御協力くださる神父様がたに感謝します.LGBT 特別ミサは,来月からも継続されて行きます.LGBTIQ+ の人々が各人の所属する小教区の御ミサに何の気がねもなく参加することができるようになるときまで.

世界的には,先月までの12ヶ月間は慈しみの特別聖年でした.それによって教皇 Francesco は,このことを強調しました:キリスト教の根本は,律法に存するのではなく,愛に存する.誰をも排除せず,あらゆる人を包容する神の愛です.

神の律法に準拠する司牧が,律法の普遍性にこだわるあまり,例外的少数者を排斥し,差別することになるのに対して,神の愛を実践する司牧は,わたしたちひとりひとりに寄り添い,各人を個別的に導いてくれます.神の愛へ心を開く人は,誰もが救済されます.

聖パウロが強調しているとおりです : 「すなわち,愛は,律法の完成である」(Rm 13,10).

いまだに聖書の文言の断片を以て性的少数者を断罪する者たちは,このことがわかっていないのです:「イェス・キリストにおいて命を与える霊気の律法は,罪と死をもたらす律法からわたしを解放してくれた」(Rm 8,2) ; 「キリストは,わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった」(Ga 3,13).

また,4月には教皇 Francesco は,使徒的勧告 Amoris laetitia [愛の喜び]を発表し,インタヴューにおいてだけでなく,公式文書において初めて,性的少数者を積極的に包容する司牧的配慮を明確に打ち出しました.

残念ながら,教皇 Francesco は,同性カップルに結婚の秘跡を授けることを容認するところまでは踏み込みませんでした.しかし,それを以て彼が十分に liberal でないと非難することはできません.彼は,教会の分裂を招かないよう慎重であるだけです.実際,同性婚法制化をめぐっては,幾つもの国々で世論は賛否に二分され,激しい対立が起きています.ですから,律法にこだわらないでおきましょう.異性カップルであれ同性カップルであれ,ふたりの人間が誠実に互いを愛し合うとき,それは神の愛の徴です.神は,慈しみ深く,ふたりを祝福してくださいます.それこそが,本当の結婚の秘跡です.

いわゆる gender theory に対する教皇 Francesco の批判は,LGBT 活動家たちから,性的少数者の問題に関する無理解として非難されました.しかし,それも当たっていません.教皇が言いたいのは,このことです : sexuality は,神による創造の賜であって,社会学的な人為産物ではない.

議論の混乱を避けるためには,わたしたちは性別について三つの概念を区別しなければなりません.ひとつは,生物学的な sex ; ふたつめに,社会学的な gender ; そして第三に,ontological sexuation [存在論的な性別化].この第三の性別こそが,神による創造の賜です.それは,生物学にも社会学にも還元され得ません.性的少数者に関して性別を論ずるとき,とりわけ transgender の問題を論ずるときは,わたしたちは,ontological sexuation の概念に準拠しなければなりません.それは,性に関して心身二元論を超克するための唯一の道です.

先日 80 歳のお誕生日を迎えたパパ様が,これからも笑顔で元気にカトリック教会を全包容的な神の愛の完成へ導き続けることができますように!

最後に,sexuality の問題は,女性や性的少数者の人権の問題であるにとどまりません.女性と性的少数者に対する差別を克服するための社会活動と性理論によって,このことが明らかになってきました:人間が神の愛に対して心を閉ざす悪へ陥ってしまう理由は,男性中心主義 [ androcentrism, male chauvinism ] に存する.そして,男性中心主義を動機づけているのは,家父長主義 [ patriarchalism ] であり,さらにそれを動機づけているのは,phallofascism です.

性的少数者を擁護する活動は,フェミニズムとの連帯において,男性中心的な日本社会の構造を変革する可能性を追求して行きます.そして,その際,わたしたちを導いてくれるのは,神の愛です.

また,資本主義と科学技術による支配のもとで,日本社会も世界も,人間の尊厳がますますないがしろにされる方向へ向かって行きつつあります.そのような動向に対する最も有効な批判を可能にしてくれるのも,神の愛です.

喜ばしき御降誕祭と幸多き新年を皆様とともにお祈りいたします.

神の愛の恵みがますます豊かに皆様とともにありますように!

LGBTCJ 共同代表
ルカ小笠原晋也

2016年12月24日

主の御降誕おめでとうございます ‒ ペトロ宮野亨より

主の御降誕おめでとうございます!

主の御降誕に心からの感謝を捧げ,皆様と一緒にお祝いします!

わたしはこの数年,聖体拝領で,ひとつの「気持ちと心」を味わえるように,神に願い続けています.それは,御聖体の形にまでなって,わたしの中に入ってきてくださる主イエスの「気持ちと心」です.

これだけを噛みしめて味わいます.

これにより深まるわたしの中身は,「神を愛する気持ちや心もすべて神からいただいているから,神を愛せる.自分の力ではない.わたしはただの器」という実感です.

わたしは神に愛されているから,神を愛する「愛」や人を愛する「愛」を神はすべて常に下さっている,と実感しています.

では,クリスマスでは,どうでしょうか.赤ちゃんにまでなって,わたしたちに現れてくださった主イエスの「気持ちと心」は,例えばどんなでしょうか?

非暴力,無抵抗,堕胎拒否,LGBT 賛美,命そのもの... この他にも沢山あるでしょう.

わたしが最も感謝しているのは,「親が赤ちゃんに捧げる無償の愛を,三位一体の御交りは天国から見ていて,羨ましくなって,赤ちゃんになってその愛を実感したかった」という恵みです.人に愛される実感を神が感じたがっているという恵みです.

この他には,聖マリアは,わたしたちと同じ質素なありふれた女性です.特別ではない普通の人間に,神は御計画を打ち明けています.それも,聖堂の中ではなくて,マリアが家でくつろいでいるときに,神は,その日常生活のなかに来て,愛を打ち明けます.

自宅のなかに神がドアを開けて入ってくる情景は,わたしの心の扉を神が開けて,わたしの部屋に入ってきてくださる情景と一致します.

ある神父様は,「神を,生活の場や日常の些細な出来事のなかに感じないならば、それは単に神を理性で捉えているだけで、まだ命の神と出逢い触れ合っていない」と言っています.

アビラの聖テレサは「神は台所の鍋のなかにもおられる」とわたしたちに諭しています.「罪に較べて無限に偉大な神の愛を,いつも感じて,頼りましょう」と言っています.

わたしがスゴイなと感じるマリア様は,「何故,そのご計画がわたしなんですか?」と素直に本質的な質問を神にしています.神にいつも尋ねて答えや恵みをいただく信徒の姿を,わたしたちに教えてくれます.

神は,わたしが常に問いかける存在です.「何故わたしは○○○なんですか?」と問いかけます.

御復活祭前後に過越の神秘を祈るとき,わたしの問いに答えて,主はいつもメッセージをくださいます:「わたしはあなたのために死んだ.わたしに従いないなさい」と.

クリスマスのときのわたしへの答えは,「わたしはあなたのために生まれた.わたしに従いなさい」です.

三位一体の御交りとの交りを感じるクリスマスでありますよう,皆様のため,心から祈ります.

皆様に感謝をこめて,

LGBTCJ 共同代表
ペトロ宮野亨

2016年12月24日

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

アジアで最も LGBT friendly な国のひとつと言われている台湾で,同性婚法制化法案が議論され,世論は賛否半々に二分されています.

Tsai Ingwen(蔡英文)総統は,同性婚法制化に賛成する若い世代の支持を受けて2016年 1 月に選出され,5月に就任しましたが,保守派の反発を恐れて,この問題に関する態度を明確にしていません.

台湾で同性婚法制化が急に政治課題となったきっかけは,或る自殺でした.国立台湾大学のフランス文学教授 Jacques Picoux は,約40年間連れ添った同性パートナー Tseng Chingchao が癌で亡くなる際に,医療に関する意志決定にも死後の遺産相続にも関与することができず,今年10月,自殺しました.この痛ましい事件が,同性婚法制化の動きを急加速させることになりました.しかし,それに対する反発も引き起こすことになりました.

台湾でキリスト教徒の数は総人口の約 4.5 % であり,カトリックとプロテスタントが半々です.キリスト教は,少数派ではありながら,クリスチャンである政治家や知識人の存在のため,社会的影響力を持っていると言われています.

台湾のカトリック司教たちは同性婚法制化に反対の意見を表明していますが,若いカトリック信徒のなかには賛成する人々が多いようです.

わたしたちも,亡くなった Tseng Chingchao と Jacques Picoux のために祈りましょう.また,台湾の人々が神の愛のもとに対立を乗り越え,少数者の権利を尊重する全包容的な社会を築いて行けるよう祈りましょう.

ところで,同性婚法制化をめぐる社会対立の激化のなかで,我々の友人 Frank Wangさんは,12月04日付の Taipei Times にすばらしい意見記事を発表しています.是非日本の皆さんにも読んでほしいと思い,邦訳しました.翻訳を快く承諾してくれた Frank Wang さんに感謝します.

なお,Taipei Times は表題を "Catholics must accept gay marriage"[カトリック信者たちは同性婚を容認せねばならない]としていますが,これは執筆者の意図どおりではありません.Frank Wang さんが付けた原題は "In Love We Have No Fear"[愛において我々は何も恐れない]です.

Taipei Times, 2016年12月04日付記事

愛において我々は何も恐れない

執筆者 : Frank Wang(王增勇,国立政治大学ソーシャルワーク研究所副教授)

同性婚は,カトリック教会内で賛否が両極端に分かれる問題である.わたしは,この論戦に巻き込まれたカトリック教会の一世俗信徒として,「怒りのせいで愛を忘れたカトリック信者」にはなるまいと努めている.

神は,我々を皆,愛しており,誰をも遠ざけようと思ってはおられない.各人の人生は,ちょうど聖書のようである:我々は皆,神から霊気を受けている.

それは,「我々は,聖書を武器にして,真理と理性を独占しており,我々だけが人々すべてに対して審判をくだすことができる」という意味ではない.もし心が愛に満ちていないなら,言葉は虚ろに響くだけだ.したがって,重要なのは,神の命令:「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」に従って,同性婚問題を再検討することである.

神は,わたしを同性愛者として創造なさった.しかしそれは,神がわたしを他の人々より愛していないという意味ではない.それどころか,わたしが同性愛者であるということは,わたしに与えられた最大の祝福である.

わたしは,カトリック信仰のせいで同性愛者である自分を嫌悪する,ということにはならなかった;むしろ,神の無条件な愛によって,わたしは,あるがままの自分を受け入れる勇気を与えられた.

わたしも最初は自分を受け入れることができなかった.同性愛者であるせいで,大切に思っているものすべてを失ってしまうことになるのではないかと恐れていたからだ.しかし,神の愛は,恐れることはない,とわたしに教えてくださった.

同性婚問題を論ずるとき,カトリック信者は,「愛するとき,怖いものは何も無い」という根本的な論点に準拠すべきである.

多数のカトリック信者が同性婚に反対する潜在的な理由は,内在的な不安感である.社会秩序が失われてしまうのではないか,子どもたちに悪影響があるのではないか,今まで慣れ親しんできた世界がなくなってしまうのではないか,という恐れである.

しかし,信仰は我々にこう教えている:他者の苦しみに目をつぶることはできない,なぜなら,十字架上でイェスはたいへん苦しまれたから.今日,同性愛者たちが苦しんでいるのを見るとき,我々は,イェスの苦しみを思い出すべきである.少数者たちが犠牲にされるのは,「彼らは我々とは違う」という思いが不安にさせるからだ.この不安感が自身の内にあることを認めることによってのみ,我々は,神の愛を実践することができる.

教皇フランシスコは既に,同性愛者たちに対するカトリック教会の従来のふるまいについて謝罪した.

同性愛についてわたし自身が以前に感じていた不安を,ここで分かち合いたい.わたしは常々こう懸念していた:もしわたしが同性愛者なら,両親はとても悲しむだろう,特にわたしは一人息子だから.

また,こうも懸念していた:友人たちはわたしから離れて行くだろう,わたしが「不道徳」で「ふしだら」なことをしているという理由で.わたしは,そうしたいと思っても,隣人を助ける仕事に身が入らなかった.同性愛者から助けてもらいたいと思うような人は誰もいないだろうから.

そのような自己否定をしている間,わたしは,異性愛の関係を持とうと試みた.しかし,自分自身に誠実ではなかったので,当時のガールフレンドに与えることができた感動もニセモノにすぎなかった.彼女に近しくあろうとしても,わたしは躊躇してしまい,彼女にわたしのすべてを与えることができなかった.ふたりの関係は,わたしたち双方を傷つけて終わった.今に至るまでなおも,わたしはそのことを恥ずかしく感じている.

わたしは,神によって同性愛を「直して」もらおうとした.しかし,祈りにおいて,わたしは,神がわたしを受け入れてくださり,愛してくださっていると感ずることができた.ついに,わたしは,不安のうちに生き続けることをやめた.自身と他者を欺く生活は二度としない,と誓った.

もし仮に「神は異性愛夫婦の愛にしか祝福を与えない」と信じていたなら,わたしは多分,もう既に異性と結婚していただろう.しかし,わたしも妻も,性的な欲望を満たすことができず,きっと後悔と自責の念を抱き,その苦痛の重荷を相手に背負わせることで終わっていただろう.そのような不幸な結婚生活のなかで育つ子どもが,どうして健康なおとなになり得るだろうか?

教皇は最近,人々に警告した:「敵意の伝染病」に毒されることのないように,そして,憎悪をあおるレッテル貼りをしないように,と.同性婚に関する論争によって,多くのカトリック信者がやるせない気持ちになっている.分裂によって不安が撒き散らされ,対立が生み出されたからだ.互いに愛し合うかわりに,キリスト教徒たちは,憎しみにより分裂してしまっている.

わたしは,カトリックの兄弟姉妹たちに言いたい:あなたたちが今感じている不安を,わたしもかつて感じていた.しかし,同性婚を許容することによって,あなたたちは,次世代がより良く互いに愛し合うのを学ぶことを可能にするだろう.同性婚を認めても,次世代が同性愛の世代になるわけではない.

同性愛者たちは,異性愛者の世界のなかで,自分は人間だと感ずる資格が認められるだろうという希望を持つことができない:それが,同性愛者の感ずる最大の苦痛である.どうか,わたしたちが神の愛へ立ち戻れるようにしてほしい.どうか,神を手本にして,学んでほしい,誰をも遠ざけず,他者に希望を与え,同性愛者に愛を与えることを.そして,同性愛者に知らせてほしい,彼ら・彼女らの愛も神に祝福されている,ということを.

2016年12月20日

日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』改訂版に LGBT について書いてくださる Masiá 神父様へ,性的少数者の意見や要望を伝えましょう

2001年に日本カトリック司教団メッセージ:『いのちへのまなざし』が出版されました.


その内容は:

第一章:聖書からのメッセージ

第二章:揺らぐ家族
1. 夫婦について
2. 性と生殖,そして家庭
3. 親子について
4. 高齢化社会を迎えて

第三章:生と死をめぐる諸問題
1. 出生前診断と障害者
2. 自殺について
3. 安楽死について
4. 死刑について
5. 命科学の進歩と限界
6. 脳死と臓器移植
7. ヒト胚の研究利用,人間のクローン,遺伝子治療
8. 環境問題

つまり,21世紀における生命倫理の諸問題に関するカトリック教会の考え方が述べられています.この本は,カトリック系の学校で副読本としても用いられていました.

しかし,今年で出版から15年が過ぎ,内容が部分的に社会の現状から遅れたものになってしまったので,現在,改訂版の準備が進められています.

特に,初版ではまったく扱われなかった性的少数者の問題が,今度は取り上げられることになっています.その執筆は,Juan Masiá 神父様 SJ が担当なさる予定です.

Masiá 神父様が司式してくださる12月18日の LGBT 特別ミサの後の集いでは,新たな『いのちへのまなざし』に性的少数者についてどのような内容を盛り込んで欲しいかに関する皆さんの御意見や御要望を,神父様に聴いていただきたいと思っています.

御ミサにいらっしゃる方は,その場で直接,神父様にお話ください.

いらっしゃれない方は,わたしたち LGBTCJ 宛てに,お考えをお知らせください.わたしたちが神父様へお伝えします.

2016年12月13日

2016年12月の LGBT 特別ミサのお知らせ

2016年12月の第6回 LGBT 特別ミサについてお知らせします:

日時 : 12月18日(日曜日)13:30 - 14:30

場所:都内(参加申込の方にのみお知らせします)

司式 : Juan Masiá(ホァン・マシア)神父様 SJ


マシア神父様は,周知のとおり,長年,上智大学や Comillas 教皇庁立大学で,人間学や生命倫理の教授をなさってきました.

避妊や妊娠中絶に関して,保守派のように一律に律法をふりかざすのではなく,教皇 Francesco と同様,苦悩をかかえた人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添い,ともに歩んで行くことを重んじていらっしゃいます.

今は,カトリック中央協議会の「正義と平和」協議会の「死刑廃止を求める」部会の長として,死刑廃止運動に積極的に取り組んでいらっしゃいます.

性的少数者の人々の苦悩に関しても御理解のあることは,言うまでもありません.

マシア神父様が LGBTIQ+ の皆さんとともに立ててくださる御ミサに,是非お出でください.

ミサ後の集いでは,マシア神父様を囲んで,性的少数者をカトリック教会へより良く包容するために何が必要とされているかを,LGBTIQ+ の皆さんとともに考えて行きたいと思います.

また,特に,現在改訂作業が進められている司教団メッセージ冊子『いのちへのまなざし』の新版において性的少数者に関する部分をマシア神父様が執筆なさる予定ですので,この機会に是非,その内容に関する皆さんの御要望を神父様にお伝えください.

参加申込は こちら から.

2016年11月29日

教皇 Francesco による「六つの幸福」

周知のように,​2016年11月01日,Malmö の Swedenbank Stadion における​御​ミサの説教​で,​教皇 Francesco ​は「六つの幸福」​を公式化しました.「カトリック新聞」による翻訳にあまり正確でない部分もあるので,改めて御紹介します.LGBTCJ の活動も,「六つの幸福」の精神に則って続けて行きたいと思います.

Beati coloro che sopportano con fede i mali che altri infliggono loro e perdonano di cuore ;
幸いなり,他者が加えてくる苦痛に信仰を以て耐え,こころの底から赦すことのできる者らは;

beati coloro che guardano negli occhi gli scartati e gli emarginati mostrando loro vicinanza ;
幸いなり,社会から拒絶され,辺縁に追いやられている者たちの目を見つめ,彼ら彼女らに近しさを表明する者らは;

beati coloro che riconoscono Dio in ogni persona e lottano perché anche altri lo scoprano ;
幸いなり,あらゆる人のなかに神を認め,かつ,そのことをほかの人々も気づくよう努める者らは;

beati coloro che proteggono e curano la casa comune ;
幸いなり,全人類の共同の家である地球のエコロジーを守り,救う者らは;

beati coloro che rinunciano al proprio benessere per il bene degli altri ;
幸いなり,他者のために自身の安穏を断念する者らは;

beati coloro che pregano e lavorano per la piena comunione dei cristiani.
幸いなり,キリスト者たちどうしが十全に交わることができるよう,祈り,働く者らは.

Tutti costoro sono portatori della misericordia e della tenerezza di Dio, e certamente riceveranno da Lui la ricompensa meritata.
それらの者は皆,神の慈しみと優しさを担う者であり,確実に,神によってふさわしく報われる​だろう.

2016年11月29日

2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での教皇 Francesco の説教:慈しみと包容

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.God's love excludes nobody, but includes everybody.

この命題は,わたしたち LGBTCJ の旗印です.

以下に御紹介する説教において,教皇 Francesco は,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しています.性的少数者のことを直接には話題にしていませんが,包容の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化しています.

なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけますが,わたしたちは以前から「包容」と訳しています.

慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容 [ inclusion ] です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,キリストにおいて,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,キリストのからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,キリストのからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活したキリストの大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,キリストの抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.

2016年11月21日

トランスジェンダー追悼記念日

11月20日は Transgender Day of Remembrance(トランスジェンダー追悼記念日)です.

トランスジェンダー追悼記念日は,1998年に憎悪犯罪で殺害されたと推定されているアメリカのトランスジェンダー女性 Rita Hester (1963-1988) を追悼し,トランスジェンダーに対する憎悪犯罪に抗議するために,1999年に創始されました.

LGBT のなかでも,男性から女性へ性別を変更した人々は,phallofascist な男たちからの暴力の被害者となる危険性が高く,報告されているだけで2016年は現在までに世界で計26人が命を奪われています.その陰には,報告されないまま憎悪犯罪により落命した幾人もの transgender 女性がいると推定されています.

sexuality を理由とする憎悪犯罪の被害者すべてのために祈りましょう.彼ら彼女らの涙を主がぬぐってくださいますように!神の愛によって,あらゆる憎悪が全世界から一掃されますように!

2016年11月20日

教皇 Francesco は言った:司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い

教皇 Francesco は言った:司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い

2016年10月30日,James Martin 神父 SJ に対するアメリカの LGBT カトリック団体 New Ways Ministry による Bridge Building Award[架け橋賞]授賞式の際に,教皇 Francesco の元教え子 Yayo Grassi 氏(68歳)は,教皇が彼にこう言ったと証言しました:

「司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い」.

Yayo Grassi 氏は高校生時代,教職に就いていたイエズス会士 Bergoglio 神父の教え子のひとりでした.Grassi 氏が同性愛者であることを,Bergoglio 神父は当時から承知していました.ふたりの友情関係はその後もずっと続いており,2015年9月の教皇訪米の際には,教皇は,Washington DC の Vatican 大使館に Grassi 氏とその同性パートナーを迎え,個人的に会談しています.

2010年にアルゼンチンで同性婚が法制化された際,Grassi 氏は,ブエノスアイレス大司教 Bergoglio 枢機卿が修道女たち宛ての書簡のなかで同性婚を厳しく非難していると報道されているのを見て,驚きました.彼の知る Jorge Bergoglio は,そのようなことをする人ではなかったからです.そこで彼は,e-mail で,恩師に真意を問いただしました.それに対して Bergoglio 大司教は,Grassi 氏の表現によると,こう返答しました:

「わたしを信じてください.報道されているようなことをわたしは全然言っていません.わたしは,修道女たちに宛てた二通の手紙で,同性婚について何も意見表明をしないようにと彼女たちに要請しました.そこでわたしが述べた言葉を歪曲して,新聞は報道したのです」;「わたしを信じてください.司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所はありません」.

教皇 Francesco の個人的な発言に関する Grassi 氏の以上の証言は,最近の LGBT friendly な教皇の発言とも整合的であり,作り話と疑う理由はありません.

むしろ,今年5月にイタリアで同性カップルの civil union が法制化されるに至る過程で同性婚反対派により幾度か引用された「2010年に Bergoglio 大司教は同性婚を非難していた」という話の真相が,このたびの Grassi 氏の証言により明らかになりました.

2016年11月06日

わたしたちの活動の公式名称を LGBTCJ とします

わたしたちは,2015年夏の活動開始以来,LGBT カトリック・ジャパン (LGBT Catholic Japan) という名称を用いてきましたが,今月(2016年11月)からは,LGBTCJ を公式名称とすることにしました.

活動の趣旨や内容は,今までどおりです.

今後も,よろしくお願い申し上げます.

2016年11月04日

晴佐久昌英神父様の2016年10月23日の LGBT 特別ミサにおける説教

晴佐久昌英神父様の2016年10月23日の LGBT 特別ミサにおける説教

(前日,10月22日は,晴佐久神父様の59歳の誕生日でした).

(...)[わたしが]小学校1年になったときには,神父が我が家にやってきて,「もう1年生になったんだから侍者をやってもらう.ラテン語を覚えてください」.そうして,[神父が]我が家に通ってきては,[わたしは]ラテン語をたたき込まれた.「« dominus vobiscum » と言ったら,« et cum spiritu tuo » と答えるんですよ」.そう教わって,小学校1年生,ただただラテン語を覚えた.

あれはほとんど虐待というか洗脳というか... しかし,それは何と甘美な洗脳であり,何と聖なる虐待だったか.わたしは,そのおかげでカトリックの信仰をたたき込まれ,やがて神父にもなり,ミサに仕えて一生をささげたいと,そう願って今日も生きております.(...)

わたし,昨日59歳になりました.(拍手)ありがとうございます.

59年.おやじが,ぼくが神学校に入る前の年,50歳で死んだとき,自分も50歳まで生きられるだろうかと思った.

「神様,もし生きることができるとしたら,後は,父さんができなかった分まで代わりにぼくが働く」と,そう神様に約束した.おやじにもそう言った.もう死ぬ数週間前,「ぼくは来年神学校に入るから,父さんも頑張って」.

おやじはぼろぼろ泣いて,うれし涙かと思ったら,悔しいって泣いた.もうそれはわたし,すぐにわかった.息子が神父になった姿を自分はもう見ることができない,その悔しさですね.もう彼は死ぬことを知っておりました.

だから,わたしは言った.「自分が神父になったら父さんのおかげだ,父さんの分まで頑張る,約束する」と,そう申し上げた.その約束は決して揺るがすことはできない.(...)

わたしは,もう小さなころから注意欠陥障害を抱えておりましたし,おちついていることができない.いつも思ったことを好きなようにやってしまう.自制心がない.うろちょろうろちょろ遊び歩いていて,いつも叱られていた.(...)

わたしは,[或る教会付属の]聖ペトロ幼稚園の出身です.(...) 父はわたしにペトロという霊名をつけた.

教室にいない子供で,いつも先生に心配をかけておりましたが,わたしは幼稚園,楽園のように覚えております,楽しかった.先生たちが忍耐し,みんなが受け入れてくれて,それでわたしは自尊心を失うことなく,こんなふうにおっちょこちょいで失敗ばかりで,どうしようもない自分だということを知りながらも,「それでもいいんだ」という自分の信仰の原点は,そこで学びました.

みんな,わたしを受け入れてくれた.教会の人たち,特に両親.ミサの途中もおちつかないで,それでも精いっぱいじっとして,しんとした気持ちでお祈りしておりましたけれども.

悪餓鬼というんですか – 急に思い出しました – 友達と,いただいた御聖体を口の中でどれだけ溶かさずに持っていられるか,そういう競争をした.口でいただいたでしょう,舌の先に載せられたのを口の中で浮かしたままずーっと保って,ミサが終わった後,聖堂の外でせーのでみんなでべーっと出して,誰のが一番丸く残っているか.これも叱られたね,何をやっているんだ,と.

でも,楽しいこと,おもしろいこと,いっぱいあった教会.悪餓鬼でしたし,おっちょこちょいでしたし,でも,みんな受け入れてくれた.

わたしにとって教会は,どんな自分でも受け入れてもらえるという天国でありました.両親がそのような両親でしたし,教会がそのような教会でしたし.

神父になって,もう 30 年になるんですね.わたしはひたすら,「どんなあなたでも大丈夫だ,神様はあなたを愛している,神様はあなたに何も求めていない,あなたがいるだけでうれしいんだ,なぜなら神はあなたを望んで生んだからだ」と,そう福音を語り続けてまいりました.どこに行っても福音を語ってきた.

今週だって講演会,四つあったんですよ.火曜日,四谷,水曜日,竹橋,福岡市,金曜日だ.昨日土曜日は鎌倉.それぞれ切り口は違えど,どこに行ってもわたしは福音を語り続けてきた.

あなたを望んで生んだのは神だ,あなたの原点は神の内にある,あなたがどういうあなたであろうとも,何をしていようともいなくとも,あなたがどこにいようとも,いつになっても,あなたの原点は神の内にある.何も恐れることはない,あなた自身が神の喜びであり,神の親心の内に永遠なる命をいただいていて,やがてほんとうのあなたとして神の内に生まれていくんだ.ただただその神様にのみ信頼して,「こんなわたしを愛してくれている神様,ほんとうにありがとうございます,すべてをあなたに委ねます」と,そう祈って生きていく.何とすばらしい人生.

わたしはその福音をどこに行っても語り続けてまいりましたが,その原点は[子供時代の教会に]あります.カトリック教会.誰をも受け入れて,みんなが,「わたしがここにいることはすばらしい」と言える,そんなキリストの教会が,確かにありました.わたしはそこで育てられました.

父に約束したとおり,父がやりたかったこと,「我が家が教会だ」と言い続けて,みんなを集め続けて,みんなに純粋に大盤振る舞いをし続けた父.ただただもてなし続けて50歳で死んでいった父の後を継ぐのはわたしだと,そんな思いで今も教会のことをしております.

昨日,鎌倉でやった講演会は,精神障碍者のグループの講演会で,福音を語りました.

ひとりの方が,そのことがすごくうれしかったらしく,お昼のお弁当の後でわたしのところに来て,「自分は統合失調で長く苦しんできたけれども,その苦しみはほんとうに大変でしたけれども,今日この話が聞けて良かった」,そう言ってくれた.わたしは福音を語って良かったなとすごくうれしく思いました.その後でまた講話をして,午後帰る前のときに,彼は立って,みんなに証しをしました.「自分はほんとうに長い間苦しんできたけれども,病気になったおかげで信仰に出会い,洗礼を受けることができた,病気になったおかげでこの会にも加わり,今日もこの福音を聞くことができた,病気になったおかげで晴佐久神父さんに出会って,今日はほんとうに自分がどれほど幸せかということを感じた,わたしは病気になってほんとうに良かったと思います」と,そうおっしゃった.

わたしは,そのような言葉を聞けただけで,昨日ちょうど誕生日でありましたが,最高のプレゼントをもらった気持ちになりました.

永遠なる神様が,全能の神様が,すべての我が子を天地創造の始めから,どうしてもいてほしいと望んで生み,愛して育てて,今日もここに集め,こうしてわたしたちをひとつにしてくださっていること,この事実を前に,もう語る言葉もないとわたしは感動いたします.

59年前の10月22日,わたしもこの世にオギャーと生まれてまいりました.それはわたしの原点です.それは,神の望みによるという原点です.

神の望みにわたしは,何ひとつ付け加えることも,差し引くこともしたくない.このわたしが神の喜びであるという,その確信を持って,これからも福音を語り続けてまいりましょう.

目を天に上げようともせず,胸を打ちながら祈ったひとりの徴税人,その心はどれほど平和か.「神様がこのわたしを愛している,この罪人を赦してくださっている,神様がこのわたしをつくり,神様が今ここに,このわたしを生かしてくださっている.天の父よ,あなたにすべてを委ねます,どうかこの弱いわたしをあわれんでください,あなたのあわれみの中でわたしは生きてまいります」.そう祈る徴税人の心は平和です,恐れがない.信頼と希望.聖なるミサです.

わたしたちひとりひとり,自分の胸に手を当てて,「主よ,あわれみたまえ」と祈ります.でも,そのとき,神様はほんとうに喜ばれる.

「義とされて家に帰ったのはこの人だ」とイェス様はおっしゃいました.義とされる,神様の思いにかなって,神様の喜びとなり,「ああ,ほんとうにこの子を生んで良かった」と神様が思う瞬間.

「天の父よ,こんなわたしをあわれんでください,わたしはあなたの子供です,あなたにすべてを委ねます」と,そう祈るとき,神様は喜ばれる.

聖なるミサにおいてわたしたちが最も為すべきことは,今ここで神がこのわたしを喜びとしてくださっていると信じて,安らぐことです.

皆さんもいろいろな思いを抱えておられるでしょうが,病気になって良かった,障害を抱えて良かった,罪人で良かった,こんなわたしで良かった,あんな失敗をして良かった,みんなから責められてほんとうに良かった – なぜなら,あなたのみもとで「主よ,あわれみたまえ」と祈れるから.「天の父よ,このわたしを – 感謝します」と,そう祈ります.

2016年10月29日

SpiritDay – 性的少数者である子どもたちに対するいじめをやめさせるために

SpiritDay – 性的少数者である子どもたちに対するいじめをやめさせるために

思春期は誰にとっても多かれ少なかれ人生の苦悩の時期ですが,特に性的少数者にとっては,思春期に sexuality の問題がよりいっそう深刻になります.transgender の人々は,思春期よりずっと前から,言葉を話し始める満 1, 2 歳の幼児期から,自身の生物学的性別とは異なる性別を生きていることによる違和感に悩まされますが,やはり二次性徴が身体に現れてくる思春期に違和感はさらに強まります.

そして,性的少数者のうち少なからぬ人々が,学校などにおける偏見といじめに苦しめられます.その問題は,今年の 1 月に NHK の或る番組でも取り上げられました.そこで紹介されている2014年に行われた或る調査の結果は次のとおりです:


深刻に受けとめるべき調査結果です.

全体主義的な傾向の強い日本社会は特に,何らかの意味で少数者である人々に対してあらゆる状況で排除的であり,性的少数者にとっても非常に生きづらい社会です.

USA では,1970年代以来,さまざまな LGBT 人権擁護運動が展開されています.

特に,1985年に設立された GLAAD(Gay and Lesbian Alliance Agaist Defamation の頭文字であったが,今は団体の正式名称)という NPO は,2010年以来,毎年10月の第三木曜日を SpiritDay と名づけて,性的少数者である子どもたちに対する学校などにおけるいじめをやめさせるためのキャンペーンを行っています.

今年は,10月20日がその SpiritDay です.日本でも是非広げて行きたい運動です.Spirit Day という表現は,そのままでは日本語に訳しにくいので,何か良い名称を考える必要があるでしょうが.

現在,日本の政治は右傾化しつつあると言われていますが,日本社会の全体主義的な体質は,戦前は言うに及ばず,1945年以降も一貫しており,何ら改善されていません.そのような日本人の心性を変えて行くための第一歩は,何らかの意味で少数者である人々すべての存在の尊厳を尊重することです.

わたしたち LGBTCJ としては,特に,カトリック信仰を標榜する初等中等教育の学校における性的少数者いじめの問題が解消されるよう,積極的に活動して行きたいと思います.

神の愛において

ルカ小笠原晋也


付録:教皇 Francesco が2016年4月に発表した使徒的勧告 Amoris laetitia(愛の喜び)の第250段落:

主イェスは,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主イェスの態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て – 「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム 2358 段落)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.

2016年10月19日

聖霊に対する冒瀆は赦されない – 兄弟を傷つけておきながら,謝罪も和解も拒み続ける或る人物について

聖霊に対する冒瀆は赦されない – 兄弟を傷つけておきながら,謝罪も和解も拒み続ける或る人物について

『カトリック教会のカテキズム』 1864 段落において,マタイ福音書 12,31 におけるイェス様の言葉の引用とともに,こう述べられています:

「あらゆる罪や冒瀆は赦される.しかし,聖霊に対する冒瀆は赦されない」(Mt 12,31). 神の慈しみは無限である.しかし,神の慈しみを悔悛によって受け入れることを敢えて拒むなら,それは,自身の罪の赦しと聖霊が差し出す救済とを拒むことである.さような頑なさは,臨終の不悔悛と永遠の滅びへ至り得る.

つまり,「聖霊に対する冒瀆」とは,神の愛の恵みを拒むことです.そしてそれは,隣人愛をないがしろにすることを包含しています.

なぜなら,「わたしは神を愛していると言いながらも兄弟を憎む者は,嘘言者である.実際,目に見えている自身の兄弟を愛さない者は,目に見えない神を愛することはできない」(1 Jn 4,20-21) からであり,かつ,「イェスはキリストであると信ずる者は,神から生まれたのであり,そして,生んでくださった神を愛する者は誰しも,神から生まれた[ほかの]者をも愛する」(ibid., 5,1) からです.神を愛することと隣人愛とは相互に等価的です.

ですから,イェス様はわたしたちにこう勧めています (Mt 5,23-24) :

かくして,祭壇に献げものをしに行くときに,兄弟とあなたとが何ごとかで対立していることを思い出したなら,献げものを祭壇の前に放置して,まずは兄弟と和解しに行きなさい.次いで,捧げものをしに戻って来なさい.

もし和解を拒むなら? イェス様は譬えを用いて次のように答えています (Mt 22,11-13) :

王は,息子の婚宴に招かれた人々を見るためにやってくると,礼服を着ていない者に気づいた.王は彼に言った:「我が友よ,どうして礼服を着ずに来たのだね?」 その者は黙ったままであった.そこで王は仕える者たちに言った:「その者を,手足を縛って,外の暗闇へ放り出せ: そこで泣いて歯ぎしりするしかあるまい」.

実際,『カトリック教会のカテキズム』 1861 段落でもこう述べられています:

愛がそうであるのと同様に,大罪も,人間の自由のひとつの根源的な可能性である.大罪は,愛の喪失と,聖なるものとする恵み – すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] – の剥奪とをもたらす.悔悛と神の赦しとによって贖われなければ,大罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを惹起する.我々の自由は,取り返しのつかない決定的な選択を成す能力を有しているのである.

そして,『カテキズム』 1415段落ではこう規定されています:

聖体拝領においてキリストのからだを受けたい者は,恵みの状態 [ status gratiae ] にあるのでなければならない.大罪を犯したことを意識している者は,あらかじめ悔悛の秘跡において赦しを受けていなければ,感謝の祭儀に与ってはならない.

つまり,隣人愛をないがしろにしながら和解しようとしない者は,恵みの状態を剥奪されているのですから,御ミサに与ることはできません.

さて,去る 7月17日,第一回 LGBT 特別ミサの後に行われた分かち合いの集いにおいて,或る人物が同席の兄弟のひとりを心ない言葉でひどく傷つけました.その場にいたほかの者たち皆が,その事件の証人となるでしょう.

傷つけられた人は,口論することなく,すぐさまその場から立ち去りました.LGBT カトリック・ジャパンの共同代表のひとり,宮野亨氏が会場の玄関口で彼に必死で謝り,そして,わたしの妻が最寄りの駅まで彼に付き添いました.

ところが,その人を傷つけた心ない人物は,何の反省の色も謝罪の態度も示しませんでした.

司会役をしていたわたしは,集いの雰囲気をそれ以上悪化させないために,その場で彼を戒めることはせず,数日後に,誠意を以て謝罪と和解の態度を被害者に対して示すよう彼に勧告しました.しかし,彼は応じようとしませんでした.

問題の人物は,この幾年来,ほかの幾つものグループにおいて同様のトラブルを起こしてきており,その都度,何の謝罪も和解もしようとしないので,それらのグループすべてから排除処分を受けてきています.そのなかには,或るプロテスタント共同体も含まれます.

本年 4月,Tokyo Rainbow Pride 2016 の数週間前,問題の人物は, LGBT カトリック・ジャパンの Facebook ページに,そのプロテスタント共同体を主宰する牧師に対する攻撃的な言葉を書き込みました.わたしは彼にキリスト者にとっての和解の重要性を指摘し,その牧師との和解を勧めました.すると彼は,わたしの勧めを拒否したばかりか,わたしに対する逆恨みの言辞を LGBT カトリック・ジャパンの Facebook ページに書き込み始めました.結局彼は,Tokyo Rainbow Pride の LGBT カトリック・ジャパンの出店にも姿を現しませんでした.

LGBT 特別ミサは,保守的な人々により妨害されることのないよう,非公開となっており,参加希望者は必ず事前の申込をするよう公示してありました.ところが,問題の人物は,幾人かの知人とともに,7月17日のミサに,申込無しでやってきました.いずれも顔見知りではあったので,わたしも宮野亨氏も彼ら・彼女らを拒絶せず,むしろ歓迎の態度を示しました.ところが,その結果が上述の事態です.我々の彼ら・彼女らに対する受容的な対応のせいで,初めて出会った兄弟のひとりがひどく傷つけられることになってしまいました.

この心ない人物は以前,「今までにも幾つものグループをつぶしてきた」と豪語していました.彼が悪意を以て LGBT カトリック・ジャパンの活動に対しても嫌がらせをしようとていたのかを彼に直接確認することは,敢えてしていません.

いずれにせよ彼は,兄弟愛をないがしろにして,何の反省の意も示そうとしません.つまり,敢えてみづから神の愛の恵みを拒絶し,聖霊を冒瀆しています.そのような者は,上に見たように,「悔悛と神の赦しとによって贖われなければ」,神の愛の宴に参加することはできません.したがって,LGBT カトリック・ジャパンとしても,この心ない人物の参加を今後は断らざるを得ないと判断しました.

8月28日の特別ミサに,問題の人物は事前に参加を申し込みませんでしたが,前回と同様,申込無しにやってきて,入場を強要する可能性が危惧されました.主催者側には男手は宮野亨氏とわたししかおらず,ふたりとも御ミサの侍者や進行役をするため,もしトラブルが起きても対処しようがありません.

そこで,彼が会場に無理やり入ってくることのないよう,警備会社に依頼して警備員二名を派遣してもらいました.彼が実力行使をしようとしても,警備員が二人で通せんぼうをすれば大丈夫でしょうから.また,彼が後から「からだが触れた」等の言いがかりを我々につけてくる事態を未然に防ぐためでもあります.

警備員を二名派遣するよう依頼したのに対し,その二人がまだ警備の仕事の初心者であり,上司が彼らに同伴したため,結果的に三名の警備員が会場の建物の出入り口を守ることになりました.いずれにせよ,彼らには私服姿で来てもらっていたので,そうと言われなければ警備員とはわからなかったはずです.

警備員として派遣される人々は,職務に必要な専門的訓練を事前に受けており,問題の人物がふるうかもしれない暴力に対して有効かつ合法的に対応するすべを心得ています.警備員の方が彼に対して積極的に違法な暴力をふるうことはあり得ません.

いずれにせよ,問題の人物は 8月28日の特別ミサ会場にみづから姿を現すことはありませんでした.しかし,彼の知人のひとりがやってきました.その人物は,事前の参加申込をしていませんでしたが,顔見知りではあったので,わたしは,ミサに参加するようその人物をその場で招待しました.しかし,その人物は会場内に入ろうとせず,立ち去りました.その後も,ミサ後の集いが終わるまで,会場内でも会場外でも何のトラブルもありませんでした.主に感謝します.

我々は,特別ミサを企画する側として,参加者の方々を不快なトラブルから守るために,今後も可能な限りの対策を取って行きたいと思います.

また,我々は,傷つけられた方のために祈るとともに,その方を傷つけた者が神の愛の恵みに気づき,悔悛するよう,祈り続けています.

ルカ小笠原晋也

2016年10月14日

LGBT 特別ミサのお知らせ: 第四回,2016年10月23日

LGBTIQ+ の人々のために特別に立てていただく御ミサの第四回が,10月23日(日曜日)16時から都内で行われます.

今回司式してくださるのは,晴佐久昌英神父様です.今,日本で最もカリスマ的な(その語の本来の意味において,つまり,聖霊の恵みを受けた)神父様のおひとりです.晴佐久昌英神父様が LGBTIQ+ であるあなたのために神の愛の福音を宣言してくださいます.お楽しみに!

御ミサ終了後,参加者の皆さんが各人,晴佐久昌英神父様と歓談することができるよう,ソフトドリンクなどを用意する予定でいます.

参加可能なのは,御自身 LGBTIQ+ である方々のみです.普段,小教区教会の通常の御ミサに参加しづらいと感じている方も,気がねなく聖体拝領や祝福にお与りください.

カトリックの洗礼を受けている必要はありません.カトリック信徒の方は勿論のこと,カトリック以外に正教会,聖公会,プロテスタントの方でも,あるいは,キリスト教信仰に関心をお持ちの未受洗の方でも,御自身 LGBTIQ+ であり,かつ,神の愛の恵みに与りたいとお望みである方は,参加可能です.

ただし,世話役として,LGBT カトリック・ジャパン共同代表,ルカ小笠原晋也とペトロ宮野亨,ならびに両人の配偶者など,幾人かの ally がお手伝いのために参加いたします.

また,性的少数者である家族メンバーのことで御相談のある方の参加も,事情によってはお受けすることもあります.

参加なさりたい方は,事前に e-mail : lgbtcj@gmail.com へお申し込みください.

お名前は,匿名でも結構です.使用なさる e-mail address も,必ずしも普段お使いのものではなく,Gmail などに ad hoc に作った account のものでも構いません.その方が匿名性が高まります.ただし,LGBT カトリック・ジャパン (lgbtcj@gmail.com) からの御案内を受信できるようにしてください.

e-mail をお使いでない方は,電話でお申し込みください.申込先は:

090-1650-2207(ルカ小笠原晋也),または

080-1307-3910(ペトロ宮野亨).

その際,お名前をお尋ねしますが,本名でなくても結構です.会場でお申し込みくださった方かどうかを確認させていただくためだけのものです.

ミサ後の集いでも,匿名のままでも結構です.

参加をお申し込みくださった方々には,御ミサが行われる場所をお伝えします.都内の山手線内です.

御ミサ会場となるお御堂には 15:30 からお入りいただけます.
お申し込みをお待ちしております.

2016年10月12日

10月11日は カミングアウトの日

1988年以来,毎年10月11日は,カミングアウトの日 (National Coming Out Day) です.

日本社会は,基本的に,異質なものに対して自身を閉ざし,自身の内が均質であることを要請します.そして,その際に基準となるのは,男性中心の heteronormative[異性愛を社会規範とする]な価値観です.

何らかの意味で少数者である人々(性的少数者のみならず,障碍者,宗教的少数者,政治的少数者,異邦人,等々)にとって日本社会が生きづらいところであるのは,そのためです.

少数者だけではありません.男性より多数者であるはずの女性もが,女性であるというだけの理由で,差別され,軽んじられ,嫌がらせや性的暴力に絶えずさらされています.

そのようなことすべての原因は,上に述べたように,異性愛を規範とする男性優位の日本社会の構造です.多様性の実現を妨げているのは,それです.

あなたが何らかの意味で少数者であること,女性であることは,確かに,あなたの個人的な事実です.しかし,個人的なことは政治的なことです (the personal is political).

なぜなら,人間は共同体のなかで生きているからです.共同体を構成するのは,ひとりひとりの個人です. ひとりをないがしろにして平気でいる共同体は,健全ではありません.そのような社会は,1945年以前の日本やドイツと同様に,全体主義に病んでいます.

個人的なことは政治的なことです.あなたがひとりで悩み,苦しんでいるなら,その苦悩を共同体構成員は皆,分かち合うべきです.

カミングアウトは,そのための第一歩です.

(以下は,ブログ記事をお読みください.)

2016年10月12日

LGBT カトリック ジャパン の日本語正式名称を「LGBT カトリック信者の集い」とします

2016年10月04日,LGBT カトリック ジャパン の共同代表,ルカ小笠原晋也とペトロ宮野亨は,小宇佐敬二神父様にお会いして,発足後一年間の活動をふりかえり,今後の活動について相談しました.

我々が LGBT カトリック ジャパン の活動を始めたきっかけは,Facebook に開設されている幾つかのキリスト教関係グループのなかの憎悪言説に驚かされたことです.カトリックのグループも,プロテスタントのグループも,双方が混ざっているグループも種々ありますが,おしなべてそれらのグループでは LGBT に対する誤解と偏見と憎悪に満ちた投稿が常に頻繁に見うけられました.

我々は,カトリック信徒として,普遍的な神の愛にもとづき,誤解や偏見に対しては,現在の医学的,心理学的常識による説明をし,憎悪に対してはその根拠の非正当性を指摘しました.しかし,そのようなことを幾度くりかえしても,LGBT に対する憎悪言説はやみませんでした.

そこで,Facebook のような限られた世界で LGBT 擁護を試み続けても無駄であると判断し,我々は,カトリック信徒として,我々に可能な限りでもっと現実的に有効な社会活動を LGBTIQ+ の人々のために始めることにしました.それが LGBT カトリック ジャパン です.

昨年夏の発足にあたり,ルカ小笠原晋也が信徒として所属するカトリック本郷教会でときどき主日の御ミサを立ててくださっていた「東京カリタスの家」常任理事,小宇佐敬二神父様に相談にのっていただきました.本郷教会は,信徒会館内の部屋を「東京カリタスの家」の放課後デイサービス「カリタス翼」に提供しています.

また,東京大司教区の補佐司教である幸田和生司教様にも我々の活動の趣旨を御説明し,賛同していただきました.

まずは Facebook と Blog での言論活動から始めました.

5月 8日には Tokyo Rainbow Pride 2016 に参加し,パレードに加わり,出店も出しました.その際,既に長年 LGBT のためにプロテスタント司牧活動をしている三・一教会平良愛香牧師さんと新宿コミュニティ教会中村吉基牧師さんを始め,幾人もの LGBTIQ+ の人々と出会うことができました.

7月からは,ペトロ宮野亨がカトリック教会内に持つ広い人間関係をたどって出会うことのできた LGBT friendly な神父様たち,小教区教会,修道院などの御協力のもとに,都内で LGBT 特別ミサが始められました.仲間内の秘密会合ではなく,社会に開かれた LGBT カトリック司牧の可能性の端緒として,日本のキリスト教の歴史のなかで初めての試みです.今後も月に一回,継続して行く予定です.

9月には,LGBT とカトリック教義に関してこの一年間に学んだことのまとめとして,「LGBT とカトリック教義」を発表しました.世界のカトリック教会の一部でいまだに続く LGBT 差別の動きをカトリック信者として批判する際に参考にしていただけると思います.

昨日,小宇佐敬二神父様は,我々のお願いに応じて,LGBT カトリック ジャパン の指導司祭となることをお引き受けくださいました.2017年01月からは,原則的に毎月第三日曜日,14時から,小宇佐神父様の司式により LGBT 特別ミサを立てていただくことになりました.

また,小宇佐神父様は,LGBT カトリック ジャパン の日本語正式名称を「LGBT カトリック信者の集い」とするよう助言してくださいました.

したがって,「LGBT カトリック ジャパン」は通称としてのみ用い続けることにします.また,英語の名称は LGBT Catholic Japan, 略称は LGBTCJ とします.

また,小宇佐神父様は,幾つかの自助グループにかかわった御経験にもとづき,ミサ後の分かち合いの集いのやり方をもっと工夫するよう助言してくださいました.今後,参加者の方々と相談しながら考えて行きたいと思います.

歴史的にキリスト教は,聖書の文言の一部にもとづき,同性愛を断罪してきました.しかし,「LGBT とカトリック教義」で指摘したように,改めて仔細に検討するなら,そのような聖書解釈は無根拠であることがわかります.

世界では,法のもとでの平等の理念にもとづき,同性婚を法制化する国々がふえて行きつつあります.

カトリック教会でも,その頂点である教皇 Francesco は,全包容的な神の愛にもとづき,LGBT 司牧に積極的な姿勢を打ち出しています.つい先日,10月02日にも,記者会見のなかで教皇は,「カトリック教会は LGBT の人々に寄り添うべきです.イェス様なら今,当然,そうしているでしょう」と述べました.

日本でも,2020年に東京オリンピックを控えて,LGBT 差別を禁止するオリンピック憲章を尊重すべく,LGBT 差別禁止法案が国会で討論されようとしています.また,幾人かの LGBT 人権活動家の努力によって,LGBT への関心は一般の人々のなかでも高まりつつあります.

しかし,日本のカトリック教会のなかではいまだに司祭や信徒の大多数は LGBT について無関心であるように見うけられます.

1979年にノーベル平和賞を受賞したコルカタの聖テレサは,1986年のノーベル平和賞受賞者 Elie Wiesel の言葉を好んで引用しました:「愛の反対は憎しみではなく,無関心です」.

LGBT カトリック信者の集い(LGBT カトリック ジャパン)が日本のカトリック教会のなかの LGBT に対する無関心を解消して行くことに少しでも貢献することができるよう,共にお祈りください.

2016年10月12日

教皇 Francesco : LGBTIQ+ の人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添おう

10月02日,二泊三日で Georgia と Azerbaijan を訪問し終えて,Baku から Roma へ帰る途中の機内で,教皇 Francesco は,同行ジャーナリストたちの質問に答えつつ,LGBT について語りました(National Catholic Reporter 記事La Croix 記事).

特に注目すべきことに,教皇は初めて,transgenderism をそのものとして話題にしました.

教皇は昨年,或るスペイン人の transgender 男性(女性の身体を以て生まれたが,性別適合手術を受け,戸籍上の性も男性に変更し,今は女性と結婚している)を彼の妻と共に会見のために Vatican に迎えました.その男性は,地元の司教から委任を受けて,教会の活動を積極的に担っています.小教区の司祭も,彼に寄り添っています.

性的少数者の問題は,律法の観点から十把一絡げに扱われるべきではありません.ひとりひとりについて,慈しみを以て,その人を在るがままに受け入れ,その人に寄り添い,その人が主へもっと近づくことができるよう手助けしなければならない.なぜなら,それこそ Jesus がすることだからだ,と教皇は強調します.

Jesus は,LGBT の人々に対して「あっちへ行け」とは決して言いません.Jesus は,誰にでも寄り添ってくださいます.

同じように教皇自身も,実際,司祭として,司教として,LGBT の人々に寄り添ってきました.そして,教皇となった今もそうしています.

それに対して,社会学的な gender theory については,教皇は,使徒的勧告 Amoris laetitia でも展開している批判を繰り返しました.

教皇が gender theory を批判する理由は,それが,神による創造である sexuality を社会学的な人為産物へ還元してしまう,ということに存します.

ですから,LGBT activists が教皇の gender theory 批判を非難するいわれは本当は無いはずです.というのも,もし仮に sexuality が単純に社会学的に規定されているだけなら,いわゆる認知療法のようなしろものによって同性愛も性同一性障害も「治療,矯正」することができるはずだ,ということになってしまいます.しかし,実際にはそんなことはありません.

では,なぜ教皇を非難する LGBT activists がいるのか?それは,彼ら・彼女らが,神による創造としての sexuality の真理を即座に単純に生物学的な性別の事実と同じものと見なしてしまうからです.

ところが,sexuality の真理は生物学的なものではありません.それは,存在論的なものです.

わたしたちは,sexuality について考えるとき,三つのものを区別しなければなりません:ひとつめは生物学的な性 (biological sexes), ふたつめは社会学的な gender (sociological genders), そして第三に存在論的な性別化 (ontological sexuation).

それらを混同するとき,見当違いの議論が生じることになります.

2016年10月12日

USA での研究は警告する: LGBT 差別を続ければ,カトリック教会の信徒は減り続けるだろう

USA の NPO, the Public Religion Research Institute (PRRI) が2016年9月22日付で発表した報告書 Exodus : Why Americans are Leaving Religion and Why They’re Unlikely to Come Back によると,USA の最大の「宗派」は「所属宗派無し」である:全人口の 25 %, 18-29歳の人口のほぼ 40 % が「無し」と答えている.

「所属宗派無し」の人々のうち,なぜ所属宗派が無いのかとの問いに対して,29 % の人々は,教会や教派が LGBT 問題に関して否定的なメッセージを発するから,と答えている.

その傾向は,特に,もとカトリックであった人々において顕著である.もとカトリックであった人々のうちで,教会から離れた理由として,「司祭による児童の性虐待」を挙げる人も 32 % であり,少なくないが,他方,「LGBT に対する教会の否定的な態度」を挙げる人はより多く,39 % である.

カトリック教会のリーダーたちは,LGBTIQ+ の人々の存在を肯定し,彼ら・彼女らを教会に歓迎するメッセージを,より積極的に発するべきであり,かつ,実際に,親 LGBT の司牧方針と司牧実践とを以て,それらメッセージを裏打ちすべきである.さもなければ,信徒人口の減少は加速され,教会の建物は将来からっぽになるだろう.

2016年10月12日

2016年09月25日,第三回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年09月25日,予定どおり第三回 LGBT 特別ミサが行われました.その恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった関谷義樹神父様 SDB に感謝します.

関谷神父様の説教は,直接に LGBT に関するものではありませんでした.しかし,そこには,LGBTIQ+ の人々の存在を無視しようとする聖職者と一般信徒,ならびに,さまざまな理由で他者へこころを開くことが困難な LGBTIQ+ の人々,双方への明確なメッセージが込められています: 神の愛へこころを開きましょう.そうすれば,おのづと隣人へこころを開くこともできるようになります.

以下は,関谷神父様の説教の要約です:

御ミサは,記念です.主イェス・キリストが,わたしたちを愛するがゆえに,わたしたちを死と無と罪から贖い出すために,御自身をいけにえとして捧げてくださったことへ感謝を以て思いをはせる記念です.

「金持ちとラザロの譬え」(ルカ福音書 16,19-31)は,贅沢を戒める単純な教訓ではありません.

死後,アブラハムの隣に運ばれたラザロと,冥府で苦しむ金持ちとの間は,大きな裂口で隔てられています.この隔絶は,しかし,彼らが生きているうちから既にありました.金持ちはラザロに目もくれず,ラザロの方も金持ちに何も言いませんでした.既に彼らは目に見えない壁で互いに隔てられていたかのようでした.

確かに,ラザロが何も言わなくても,神は彼を憐れんで,天の御国へ彼を迎え入れてくださいます.しかし,もし仮にラザロが思い切って金持ちに施しを求めていたなら,金持ちもラザロに気づき,彼の求めに応じたかもしれません.そして,その行為のおかげで冥府に行かずに済んだかもしれません.もし仮にラザロが生前にそう考えることができていたなら,彼は,隣人愛のゆえに,金持ちにむかって「食べものをください,あなたの救済のために」と言うことができたかもしれません.(この部分は関谷神父様がそのままの形でおっしゃったことではありませんが,神父様のお話にもとづいて小笠原が補足しました).

わたしたちは,自身の内に,あるいは,気の合う仲間どうしの内に,閉じこもってしまいがちです.その方が気楽だと感ずるからです.確かに,他者へ近づき,手を差し伸べても,ときには拒否され,ときには攻撃さえされるかもしれません.

しかし,隣人愛は,壁を越えて橋を架けることに存します.

最大の架け橋は,神が御自身と人間との間に架けてくださった橋です.

愛は,身を低めることを可能にします.神は,わたしたちが神を識らなくても,わたしたちを愛してくださり,身を低め,人間との距離をどんどん小さくし,ついには御自身が人間となりました.イェス・キリストです.

神がそうしてくださったのは,人間たちを憐れんだからです.

神は人間を創造してくださいましたが,人間たちは神に背きました.神から目をそらせてしまいました.しかし神は,だからといって,「では勝手にしていなさい,わたしはもう知らない」とは言いませんでした.神は,人間たちを慈しみ,憐れんでくださいました.

隣人愛の実行にも,憐れみがかかわっています.「金持ちとラザロ」の譬えと同様にルカ福音書だけに伝えられているイェスの譬えのひとつが「良きサマリア人」の譬えです.強盗に襲われて半死の状態で横たわる人を無視して,祭司とレビ人は通り過ぎました.しかし,当時イスラエルの民から差別され,社会の辺縁へ追いやられていたサマリア人のひとりは,その男のところに来て,その男を見て,憐れみを覚え,そして彼に近づき,救いの手を差し伸べます.

この「憐れみを覚える」という動詞は,ギリシャ語で splanchnizein です.spleen は脾臓,splanchna は内臓,はらわたです.はらわたが締めつけられるように,胸が締めつけられるように,腹の底から,心の底から感ぜられる憐れみの気持ち.この splanchnizein という動詞は,聖書のほかの箇所では,神が人間を憐れむときにだけ用いられています.

しかし,隣人愛も,神が人間を愛し,憐れんでくださるのと同じように,他者を愛し,憐れむことです.そして,それによって,他者との間に橋を架け,互いに愛し合うことです.

隣人愛にもとづいて,わたしたちも,互いに対して自身を開き,手を差し伸べ合いましょう.


御ミサの後は,分かち合いの集いが開かれました.

関谷義樹神父様は,ドン・ボスコ社発行の月間『カトリック生活』の編集長を務めています.その雑誌で LGBT をテーマとして取り上げるとすれば,どのような記事が望まれるか,と御質問したところ,LGBT を擁護する立場からの記事が欲しい,という御意見が述べられました.

カトリック教会が伝統的に同性愛行為を断罪してきたせいで,同性愛者たちはいまだに強い有罪感にさいなまれており,カトリック教会から拒絶されていると感じています.カトリック教会はそのことに責任を感じ,和解の態度を示すべきです.

LGBTIQ+ の人々を擁護する LGBT 神学の議論が,日本のカトリック教会のなかでも望まれます.

ルカ小笠原晋也

2016年09月27日

Facebook group「カトリック LGBT の交わり」の開設

或る友人が意図せずに「LGBT カトリック・ジャパンにいいねをした人々のグループ」を Facebook 上に作ってくださいました.LGBT カトリック・ジャパンはそれを引き取って,その名称を「カトリック LGBT の交わり」 [ Communion of Catholic LGBTs ] に改め,プライバシー設定を「秘密グループ」にしました.

「カトリック LGBT の交わり」は,カトリック信徒である LGBTIQ+ の人々,カトリックに関心を持つ LGBTIQ+ の人々,および,カトリック信徒である LGBT allies とカトリックに関心を持つ LGBT allies のための communion [交わり,分かち合い]のグループです.

プライバシー設定は「秘密グループ」にしてありますので,メンバーの方々は気がねなく投稿してください.ただし,どなたの発言も口外しないようお願いします.

メンバーとして参加を御希望の方は,LGBT カトリック・ジャパンに御連絡ください.

2016年09月13日

同性愛とは,ある人が在るがままに在るということだ

同性愛とは,ある人が在るがままに在るということだ

フランスでは,公の場で聖書の homophobic な一節を引用すると,有罪となる.

フランスの保守派政治家,もと下院議員,Sarkozy 政権下で「住居と都市」問題担当大臣を務めたことのある Christine Boutin[クリスティーヌ・ブタン]は,2014年4月,或る季刊雑誌のインタヴューで,「同性愛者を断罪したことは一度もない」[ je n’ai jamais condamné un homosexuel ] とことわりつつも,旧約聖書レビ記の「男が女と寝るように男と寝るのは,忌まわしいことだ」にならって,「同性愛は忌まわしいことだ」[ l’homosexualité est une abomination ] と述べた.

この発言のゆえに彼女は,2015年12月,「性的指向を理由に憎悪をあおった」罪で,5000ユーロ(約60万円)の罰金を科せられた.

今月7日,控訴審の法廷には,彼女自身は姿を見せず,弁護士のみが出廷した.

三つの LGBT 団体で構成された原告側の弁護士のひとりは,法廷でこう述べた:「同性愛は忌まわしいことだという言葉を元共和国大臣の口から聞くのは,ショッキングなことです.なぜなら,同性愛とは行動でも選択でもありません.同性愛は,ある人が在るがままに在るということです.[被告の発言は]想像を絶する暴力です.そのような発言は,同性愛を嫌悪し,断罪せねばならないという確信を人々の心のなかに強めることになります」.

原告側のもうひとりの弁護士は,こう述べた:「キリスト教徒は自身の同性愛を自由に生きることができます.同性愛者は,自身の信仰を自由に生きることができます.それはまったく忌まわしいことではありません」.

控訴審判決は11月2日に下される.

2016年09月09日

Fruits in Suits : What and who ?

今月03日付の朝日新聞記事でこう報道されている : Fruits in Suits Tokyo (FinS Tokyo) という LGBT 人権擁護団体が,稲田朋美防衛大臣に,「LGBT をめぐる政府と与党の政策を推進した」との理由で,Japan Pride Award なる賞を贈呈した.

black joke かと思ったが,賞を贈った側は至って本気であるらしい.

ともあれ,Fruits in Suits in Tokyo とは如何なる活動なのか?同名の Facebook group のページの記事によると... (以下は blog 記事をお読みください.)

2016年09月06日

2016年9月の LGBT 特別ミサの御案内

2016年 9月の LGBT 特別ミサの御案内

LGBTIQ+ の人々だけのために特別に立てていただく御ミサの第三回が,9月25日(日曜日)13:30 から約一時間,都内で行われます.

普段,小教区教会の通常の御ミサに参加しづらいと感じている方も,気がねなく聖体拝領や祝福にお与りください.

今回司式してくださるのは,サレジオ修道会の出版部門ドン・ボスコ社代表,月刊「カトリック生活」誌編集長の関谷義樹神父様 SDB です.

御ミサ終了後,よろしければ,分かち合いの集いにも御参加ください.1 - 2時間の予定です.参加は任意です.

御ミサ会場となるお御堂には13時からお入りいただけます.

参加可能なのは,神の愛の恵みを求めており,御自身 LGBTIQ+ である方々のみです.

カトリックの洗礼を受けている必要はありません.カトリック信徒の方は勿論のこと,カトリック以外に正教会,聖公会,プロテスタントの方でも,あるいは,キリスト教信仰に関心をお持ちの未受洗の方でも,御自身 LGBT+ であり,かつ,神の愛の恵みに与りたいとお望みである方は,参加可能です.

参加なさりたい方は,CONTACT US のページに表示されている連絡先へ事前にお申し込みください.

参加をお申し込みくださった方々には,御ミサが行われる場所をお伝えします.都内の山手線内です.

なお,会場使用献金ならびにミサ司式献金を,それぞれ500円以上(計1000円以上)お願いいたします.

お申し込みをお待ちしております.

2016年09月01日

晴佐久昌英神父様は LGBT friendly

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晴佐久昌英神父様は LGBT friendly : 神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する

ペトロ晴佐久昌英神父様(左)と ルカ小笠原晋也(右)

本年4月から浅草教会と上野教会の主任司祭を兼任していらっしゃる晴佐久昌英神父様は,今,日本で最もカリスマ的な神父様のひとりです.彼の熱のこもった御ミサは,お御堂にいっぱいの信徒を引きつけます.

2016年7月3日,LGBT+ の人々のカトリック司牧の問題について質問したところ,以前から彼のまわりには LGBT+ の人々が自然に集まってくる,とのこと.どこに来ればイェス様による救いと出会うことができるか,噂をたよりに遠方からでもやってくるようです.晴佐久神父様は,今までにも多くの LGBT+ の人々に洗礼を授けてきました.

Transsexual の人々が必要とする SRS[性別修正手術]についても,それが当人の救いのためになるなら容認されるべきだ,とのお考えです.実際,既に幾人かの transsexual の人々の transition に寄り添い,洗礼を授けました.

入門講座や講演に引っ張りだこでとてもお忙しい晴佐久神父様ですが,時間の都合が合えば LGBT+ 特別ミサの司式も是非引き受けたい,とおっしゃってくださいました.

2016年07月04日

カトリック教会と transsexualism

カトリック教会における transsexualism に関連する問題の一例
– 洗礼で代父となることを許されなかった transsexual 男性のケース

カトリック教会は,同性愛(狭義)に関しては既にさまざまな公式文書を出しているが,transgender(広義:異性服装の人々や,性別未分化ないし不確定の人々をも含む)ならびに transsexualism(狭義 : SRS [ sex reassignment surgery ] の必要性を有する – または SRS 施術後の – 人々)の問題一般に関して何らかの公式見解を発表したことはいまだに無い.

以下に紹介するのは,教皇庁が transsexualism にかかわる或る個別問題について正式な見解を表明した数少ない(唯一かどうかは不明)ケースのひとつである.

2015年7月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,21歳の transsexual 男性 Alexander Salinas が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.

この問題は LGBT+ 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は,司教の許可が出たというデマも流れた.

そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,2015年9月1日付の司教声明のなかで発表された.

以下に,その司教声明全文の翻訳を参考資料として提示し,さらに若干の予備的な批判的考察を加える:

或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:

洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること(カトリック教会のカテキズム,1255段).それらのことすべてのために,教会法は – なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである(教会法典 874条 1項および 3項を参照).必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.

わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:

「この問題について,わたし[教理省長官 Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている(教会法典 874条 1項および 3項)という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」

実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋 – それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedikt XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011年9月22日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇 Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理 – それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度 [ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si’, n.155).

以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.

教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理 – を否定することはできない.

ここで,とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,transsexualism の問題に関するものではなく,いわゆる gender theory に対する批判である.教理省長官は,恣意的な解釈のもとに,SRS 不容認の根拠として教皇を不当に引用している.教皇 Francesco が transsexualism および SRS の問題に関して主題的に論じたことは一度も無い.

transgender の問題は,つまるところ,神からの賜としての « la verdad del propio sexo »[自身の性別の真理]とは何か?の問いに収斂する.

それは,当然,単に解剖学的,生理学的な身体の次元のもの,つまり,聖パウロの言う soma psychicon[生物的身体]の次元のものではあり得ず,而して,神による創造の神秘として,soma pneumaticon[霊気的身体]の次元のものである.

transgender の問題は性別の生物学的現象と神に創造された真理との解離に存するとすれば,尊重さるべきは,当然,後者である.

2016年06月30日

教皇 Francesco : 教会は,同性愛者たちに赦しを請わねばならない

2016年6月26日,アルメニアからローマに帰る飛行機のなかで行われた記者会見で,教皇 Francesco は「教会は,同性愛者たちに赦しを請わねばならない」と述べました.当該部分の邦訳を提示します.

Cindy Wooden (Catholic News Service) :
ありがとうございます,教皇様.2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は同性愛者差別についてゲイ・コミュニティにお詫びしなければならない,と言いました[2016年6月23日,Trinity College Dublin で The Loyola Institute が The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco :
教皇としての最初の旅行[2013年7月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』 [ nº 2358 ] が言っていることです:同性愛者たちを差別してはならない;彼ら・彼女らを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼ら・彼女らに付き添わねばならない.

断罪され得ること – イデオロギー的な理由によってではなく,言うなれば,政治的行動の理由によって –,それは,他者に対してやや侵害的にすぎる或る種の出来事です.しかし,そのような類のことは,同性愛の問題とは無関係です.

問題がそのような事情を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は何者でしょうか? 我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.

他方で,幾つかの国や文化のなかには,同性愛の問題について異なる心性を有する伝統があります.

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきたゲイの人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家庭の人々には入居できる家もなかったのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります.

赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください!

それは,我々が忘却している言葉です.

今,わたしは牧者として説教していますが,まことには,[慈しみ深い]父ではなく,[厳しい]主人であるような司祭であったこと,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭であったことが,たくさんありました.

しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.

逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.

しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,とイェスが言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが... お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.

(なお,blog 記事には原文も掲載されています.)

2016年06月28日

The International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia

5月17日は the International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia でした.

簡潔な日本語に訳すことはできそうにありません.LGBT 嫌悪に反対する国際記念日,反 LGBT に対抗する国際記念日,反反 LGBT 国際記念日,反 LGBT 差別国際記念日....

ともあれ,何を記念しているのかと言うと,1990年に WHO の国際疾病分類のリストから「同性愛」の項目を削除することが決定された日を記念しています.つまり,同性愛を病気扱いするのをやめることが国際的に正式に決定された日です.

同性愛は,治療さるべき疾患ではありません.同性愛者は,異性愛者と同等の「権利」を有しています.結婚の「権利」も,養子を取る「権利」も,ミサに与る「権利」も,信徒として洗礼してもらう「権利」も.

しかし,「権利」は法学用語です.法律ないし律法の次元においては,人々は,悪しき相対主義や,律法中心主義,教義絶対主義に陥ってしまいがちです.

ですから「権利」ではなく「尊厳」と言いましょう.あらゆる人間は,神に創られた者として,同じ存在尊厳を有しています.

言い換えると,わたしたちは皆,等しく神に愛されています.

God's love excludes nobody, but includes everybody.
神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する.

これが,神の愛の根本原理です.この原理に反することを主張している者は大概,律法中心主義や教義絶対主義に陥っています.

Credo in unum Deum.
我れは唯一の神を信ずる.

それは如何なることか?「神がひとつの存在事象として宇宙のどこかに存在すると思い込む」では全然ありません.そうではなく,「わたしは神の愛に対して自身を開きます」ということです.

神の愛に自身を開くとき,男も女も,straight も gay も,trans も cis も,differentiated も undifferentiated も,あらゆる差異は無効になります.

全世界からあらゆる差別がなくなりますように! Amen !

2016年05月19日

稲田朋美氏の口車に乗せられてはならない

朝日新聞 web 版 2016年5月7日17時55分付の記事は,Tokyo Rainbow Pride 2016 を「視察」した稲田朋美氏の記者団に対する発言をこう伝えている:

「今まで、自民党が LGBT の問題に取り組むと言ったら、なんかこう場違いな感じを受けたが、私はこれは歴史観とか思想信条とかそういうことではなく、人権の問題で多様性の問題なので、政権与党の自民党がしっかりと取り組んで、LGBT の方々の理解を促進していって、一つ一つの課題を解決していくことが重要だと思っている。

「息子が大学生の時、親しい友人が当事者だったこともあり、LGBT の方々の問題にもしっかり取り組まなければいけないと思った。私は色んな人たちが自分らしく生きられる社会をつくりたいと思っている。(これまでの自身の主張と矛盾しているとの批判があるが)私自身は男らしさとか女らしさということを言ったことは今まで一度もないし、男は男らしく女は女らしくすべきだというふうには思っていないし、自分自身もそんなふうにして育ってきていないので、自分としては全く矛盾はない。

「(自民党内では)えっと思う人が反対だったり、すごくリベラルかなと思っていた人が LGBT の問題には全然理解がなかったりする。今まで自分を支援してくれたたくさんの人から、なぜ稲田さんがそんなことを言うのか分からないと言われることもある。

「でも、私は LGBT の問題に取り組んで、その理解を広めることが、実は一億総活躍社会そのものだと思っている。誤解をされている方にも、しっかり説明していきたい。」


しかし,稲田朋美氏の甘言にたぶらかされることはできない.彼女は,日本会議のメンバーとして,最も家父長主義的な考えの持ちぬしのひとりである.彼女の本音は,東京新聞2016年4月29日付のこの記事に端的に表現されている:


同性婚は論外? – 自民党の LGBT 方針の愚

自民党の「性的指向・性自認に関する特命委員会」(委員長:古屋圭司元国家公安委員長)が,性的少数者 (LGBT) に関する基本方針をまとめた.LGBTへの理解の促進に向けた議員立法を目指すが,同性カップルを結婚に相当する関係と認める同性パートナーシップ制度の導入はおろか,差別禁止規定や罰則も盛り込まれていない.研究者からは,「文書そのものに矛盾や認識不足がある」と批判の声が上がっている.(三沢典丈)

制度を直さぬままに「カムアウト不要社会」

2016年4月27日に公表された基出本方針は,「考え方」と「政府への要望」からなる.「考え方」は,社会が性的指向と性自認の多様性を受容するよう国民の理解を促し,LGBT 当事者が「カムアウト(表明)する必要のない社会」を目標に掲げる.「要望」は,教育や雇用の現場で当事者へのいじめや差別があった場合,啓発や指導を求める.

渋谷区は昨年四月,全国初の同性パートナーシップ条例を施行したが,基本方針は「慎重な検討が必要」と否定的だ.欧米各国で認められつつある同性婚については,古屋圭司氏がブログで「憲法24条に規定される両性の合意に基づいてのみ婚姻が成立するということが基本」と述べて一蹴したとおり,最初から蚊帳の外だった.

LGBT をめぐっては,旧民主党が昨年12月,雇用現場での LGBT 差別禁止を義務化し,勧告に従わない企業を公表するとともに,パートナーシップ制度も施行後に検討するとした法案骨子をまとめた.現在,与党を含む超党派の議員連盟が内容を詰めている.

他方,自民党は,2012年発表の改憲草案で,婚姻関係を定めた24条に家族の重要性を説く一文を第一項に挿入し,個人の生き方よりも過去の家父長制的な家族観を尊重する姿勢を打ち出した.今回の基本方針は,古屋圭司氏ら保守派が超党派の動きをけん制する狙いもあるようだ.

当事者を救済する前に,「意図せぬ加害者」を懸念

渋谷区の同性カップル証明交付第一号となった増原裕子さんは,「自民党が LGBT の問題解決に前向きな姿勢を見せたことは評価したい」としつつも,「今,偏見などで苦しむ当事者はたくさんいる.差別禁止の法整備に踏み込まなかったのは物足りない」と残念がる.

渋谷区と同等の取り組みは,他の自治体でも始まっている.東京都世田谷区は,条例ではなく,首長の権限で策定できる要綱に基づき,同性パートナーシップ宣誓書の交付制度を昨年11月にスタート.世田谷方式は,三重県伊賀市が既に取り入れたほか,兵庫県宝塚市や那覇市も検討している.

増原さんは,「自治体の取り組みが自民党を動かしたと思うが,今回の基本方針は LGBT をマイルドに理解していこうという内容で,どこまで実効性があるのか」と疑問視する.

東京大大学院の清水晶子准教授(ジェンダー研究)は,基本方針の「考え方」に厳しい視線を注ぐ:

「性的指向や性自認をカムアウトする必要のない社会は,誰にカムアウトするかしないかが個人の選択に任されることを大前提とする.だが,現行の戸籍や住民票の性別記載,性別変更の要件などは,この前提に反している.にもかかわらず,『考え方』には『現行の法制度を尊重する』と書かれ,変更するつもりがない.カムアウトの必要をなくすには,婚姻や家族の制度を抜本的に見直さなければならないのに,矛盾している」.

加えて,「LGBT への理解が進んでいない現状の中,差別禁止が先行すれば,かえって意図せぬ加害者が生じる」という一文を,清水晶子准教授は問題視する:

「差別は,加害者が意図するか否かにかかわらず起こる.今,偏見や差別による被害者が目の前にいるのに,その救済より前に,加害者が出ることを懸念するのは,国際的な差別撤廃運動の方向性にも逆行する.自民党の差別問題に対する認識不足が露呈されており,信じ難い論理だ」.


今や日本会議の表の顔にほかならない自民党に性的差別の問題の解決を望むことは,「百年河清を俟つ」に等しい.性的差別を解消するには,日本会議の存立を可能にする日本の家父長主義そのものを無効化することを目ざす必要がある.さもなければ,女性と LGBT とに対する性的差別の根本的な解決は不可能である.

2016年05月08日

主の御降誕おめでとうございます

Joyeux Noël ! 主の御降誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.

主イェス・キリストは,神の御意志への絶対的な忠実さにおいて,あらゆる人間のお手本です.そして,主がわたしたちに残したメッセージは,皆さん御存じのように,これです:

「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いを愛しなさい」 (Jn 13,34).

主は,誰も差別しません.神の愛は,誰も排除しません.

2015年は,わたし,ルカ小笠原晋也にとって,とても有意義な年でした.この LGBT カトリック・ジャパンの活動をペトロ宮野亨さんと共に始めることができたからです.

わたしたちが今こうして pro-LGBT Catholic activist であり得るのは,皮肉にも,LGBT の人々を断罪し,排除するカトリック信徒たち幾人かのおかげです. 彼らは,カトリックの名のもとに,主の愛の教えに反する言辞を弄している:たとえ彼らが多数ではないとしても,この現実を見過ごすことは,わたしたちには不可能でした.

幸い,東京カリタスの家の常任理事をなさっている小宇佐敬二神父様をはじめ,わたしがこの問題に関して相談することのできた神父様たちは皆,教皇 Francesco と同様,律法中心主義ではなく,キリスト中心主義にもとづいて,如何なる差別にも如何なる排除にも反対し,どのような sexuality の人をも教会に迎え入れたい,という御意見を表明してくださいました.

Internet で目にとまった LGBT に関するさまざまな記事を読むうちに,最も重要な key word に気づきました : inclusive. その派生語は inclusiveness, inclusivity です.

inclusion は,当然ながら,exclusion[排除]や discrimination[差別]の反意語です.しかし,排除や差別の反意語として日本語で日常的に使われている簡潔な表現はありません.そこで,include を「包容する」と訳したいと思います.

「包容」こそ,神の愛をその全的な包容力において差ししるす語として,キリスト教の key word となるべきです.神の愛は,あらゆる者を包容します.誰をも差別せず,誰をも排除しません.

さて,sexism[性差別]という表現は,通常,男が女性を差別することを指します.しかし,sexuality[性本能]にもとづく差別をすべて「性差別」と呼ぶとすれば,LGBT の人々に対する差別も性差別です.

「性本能」という表現に生物学主義の臭いを感ずる人がいるとすれば,ひとこと注釈を付しておかねばなりません:言語に住まう存在としての人間における性本能は,性染色体によって生物学的に一義的に規定されるものではありません.わたしの専門である精神分析の観点から性本能が如何に規定され得るかをここで詳論することはできませんが,ひとくちで言うなら,性本能は人間の在り方(つまり,生き方)の根本にかかわる実存的な問題です.キリスト教の観点において言うなら,ひとりの人間が性本能を如何に生きるかは,創造主たる神の賜です.

ともあれ,性差別に対する闘いにおいて,フェミニストと LGBT activist は連帯することができます.

ところで,性差別の構造を作り出しているものは何か? わたしはそれを male totalitarianism[男全体主義,男性全体主義]と名づけたいと思います.

heterosexual な男たちは,自分たちを「ノーマルな人間」と規定し,ひとつの全体を形成しています.そして,その集合に属さない者をすべて差別します.男全体主義は,性差別のみならず,障碍者差別や人種差別など,あらゆる差別の元凶です.そして,政治的な全体主義の根本構造でもあります.

フェミニストと LGBT activist の共通の敵は,男全体主義です.そして,男全体主義は,神の全包容的な愛に対する抵抗として,キリスト教にとっても克服されるべき悪です.

今や全体主義的社会となってしまった日本において,わたしたちは,「包容」をスローガンとして,神の愛を伝え続けて行きましょう.あらゆる差別をなくすために.

2015年12月29日

虹色の慈しみのイェス様

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イェス様は1931年2月22日,聖ファウスティーナ (1905-1938) に現れ,神の慈しみのイコンを作成するよう指示なさいました.

聖ファウスティーナは日記にこう記しています:

「ある晩,わたしは自分の小部屋のなかで,イェス様を見ました.イェス様は,白いチュニカを着て,一方の手を挙げて祝福し,他方の手は御自分の服の胸のところに触れていました.チュニカの前開きから二本の光線が出ていました.一方は赤色,他方は青白い色でした.(...) イェス様はおっしゃいました:『あなたの見たとおりの絵を描きなさい.そして,そこにこう書き込みなさい:イェス様,わたしはあなたにおすがりします.』」

イェス様を信頼し,イェス様にすがりたいと思う LGBTIQ+ の人々のために,もとの絵の二本の光線(それは,十字架上でイェス様の胸が槍で刺し貫かれたときに傷口から流れ出た血と水を象徴しています)を LGBT の象徴である六色に修正してみました.虹の慈しみのイェス様です:

 

皆さん,どうぞ,このイコンを広めてください.

2015年08月18日